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2014年2月1日号 6~7ページ (特集)高田開府400年 「1614年」 広報上越 上越市ホームページ

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(1)

高田城の成り立ちや松平忠輝公の

秘話は、ロマンに包まれている。

今こそ、その扉を開くとき。

2014 2・1 広報      2014 2・1 広報

      その笛の名は、乃可勢(野風)。

     織田信長から豊臣秀吉、そして徳川家康へと、時 の天下人の間でバトンのように伝えられた竪笛です。  竪笛は、室町時代中期に中国から伝わった竹の節が一つで 一節切とも呼ばれた昔の楽器で、この乃可勢(野風)には最初 の持ち主である信長の家紋が入っています。家康は、死期に 際して忠輝の母・茶阿局を介し、勘当した息子・忠輝に父の 形見としてこの笛を与えています。

 忠輝は家康の真心を感じ、この笛を終生身から離さず、大 切にしたと言われています。

 乃可勢(野風)は、忠輝の菩提寺である諏訪市の貞松院に保 存されており、10月4日㊏から総合博物館で開催する特別 展で公開予定で

す。

 天下人の象徴 である名品を託 した家康と、受 け取った忠輝。 この笛は、二人 の親子の真情を どのように奏で るのでしょうか。

忠輝の巻  天下人の笛

悲 運 の 姫 ・ 五 郎 八 姫

 忠輝の正室・五郎八姫は、1594年(文禄3)、伊達政宗の長女として生まれました。徳川家康の政略により、わずか6歳で忠輝との婚約が交わされ、1606年(慶長

11)12

月、忠輝

15歳、五郎八姫

か書歌和ら道頃い幼 やたを道茶、 敷輝の忠。ですまげ挙を屋婚結式 13歳江、時の戸

は カ 4 か ず わ の 期 工 城 築 田 高 月

 1613年(慶長

長慶年(4161  とる目的もあったえ考られています。 銀渡で産出した金輸の送路を確保す 田これは加賀の前家のけん制や、佐 輝。たしまし配を忠の子息、し視重 で北国街道の要衝るもあ上越地域を 、陸北のは康家 道入出り口にあり、 す。 を越後に新しい城を築くこと決めま 川徳)、家康は18

19)、3月

の濃信 りた「天下普請あ」で、北陸、東北、 事れわ行てしと業の幕は事工のこ府 始築城の本格的なま城が高ります。田 日、15 に日1はに な堀とするのど大工事 れ川の流関をえて外変 掘内堀の 削のほか、 揮をとりました。 な指頭陣ら自、りと者 任責が宗政達伊・主城 父郎八姫の仙である台 は 工事の・忠妻五輝 。たし 業命令で作りにあたま が名大幕府の13

瞬事に間くは 工、み進 てす言われ。いま 働力投入がとたれさも 10万の人労 な田藩の巨大が城郭現れました高。 がた原と呼ばれいて高田の土地に、 落菩、し在散がれ集なかずわでま提 わずのそか4カ月突貫工事により、 に同年7月5日終はほぼ。了します

天 守 閣 も 石 垣 も な い 城

 まだ新しい福島城を廃し、高田に築城を急いだのは、豊臣家との最終決戦に備え、家康が打った盤石の布石だったとも考えられています。 当初の築城計画では、石垣で天守台が造られる予定でしたが、実際は石垣は構築されずに土塁だけとなり、天守閣も造られませんでした。 近く大坂冬の陣が想定されたため、工事を急いだことなどがその理由と考えられます。 天守閣に代わり、本丸の西南隅に建てられた櫓が、以降、高田城のシンボル的な存在となりました。

初 代 城 主 ・ 松 平 忠 輝

 忠輝は、1592年(天正

長慶年(0161  茶側室・局阿です。 千の康家は母。代辰名幼。たしまは 戸し康の6男とでて江城川生まれ家 )、徳20

かず )、忠輝は、わ15

てさ訪高島城移へれ、同所におい は その後、忠輝高飛騨の山から諏 す。 、領地を没収されれ伊に配流さま勢 忠近などを理由にを輝改易。忠輝は タ接のへンシのキや参遅ので陣リ夏 し、、かし のそ府2年後幕は大坂 初代主、し廃城入とてります。し 後 高田城の完成忠、輝は福島城を 主で福島城歳となります。19

92

歳で亡くなるまで

。すまいて でから高い文化人たあっと考えられ 遺品の諏る 々訪に残茶釜など、数 。たし 過間を年ごしま58

しなみ、聡明で美しい女性であったと伝えられています。 7年後、姫は江戸を出発、忠輝のいる福島城に入り、翌年完成した高田城でようやく新婚生活を始めます。 ところが、2年後、忠輝が幕府から改易を命じられ、離縁を余儀なくされたことから傷心の五郎八姫は実家の仙台に引き取られます。 その後、生涯独身を通しました。

五郎八姫の巻  姫の一途な想い

   「おそらく忠輝公と一緒にいた時期は、姫の生涯の中   で一番幸せな時間だったのでしょう」と仙台市で五郎八 姫を顕彰する「伊達政宗公姫「五郎八」倶楽部」の澤口隆雄さん は推測します。五郎八姫の残した和歌や手紙からは、豊かな 教養とともに、離れた誰かへの想いがしのばれるそうです。  忠輝と別れた時、姫はまだ20代前半でした。

 五郎八娘のことを心配する父・政宗が再婚を持ちかけても かたくなに拒んだのは、キリスト教を信仰していた影響とい う説のほか、忠輝公を 一途に慕っていたため とも考えられています。  2年という短い月日 でしたが、二人が仲睦 まじく一緒に暮らせた 思い出の地・高田で、 今年7月、五郎八姫の お輿入れの儀が再現さ れます。400年の時を 越えて実現する二人の 再会を皆さんで祝福し

ましょう。 ↑松平忠輝画像(模写)

 (総合博物館所蔵)

 

の か ぜ

ひ と よ ぎ り

ていしょういん

こし

(2)

高田城の成り立ちや松平忠輝公の

秘話は、ロマンに包まれている。

今こそ、その扉を開くとき。

2014 2・1 広報      2014 2・1 広報

      その笛の名は、乃可勢(野風)。

     織田信長から豊臣秀吉、そして徳川家康へと、時 の天下人の間でバトンのように伝えられた竪笛です。  竪笛は、室町時代中期に中国から伝わった竹の節が一つで 一節切とも呼ばれた昔の楽器で、この乃可勢(野風)には最初 の持ち主である信長の家紋が入っています。家康は、死期に 際して忠輝の母・茶阿局を介し、勘当した息子・忠輝に父の 形見としてこの笛を与えています。

 忠輝は家康の真心を感じ、この笛を終生身から離さず、大 切にしたと言われています。

 乃可勢(野風)は、忠輝の菩提寺である諏訪市の貞松院に保 存されており、10月4日㊏から総合博物館で開催する特別 展で公開予定で

す。

 天下人の象徴 である名品を託 した家康と、受 け取った忠輝。 この笛は、二人 の親子の真情を どのように奏で るのでしょうか。

忠輝の巻  天下人の笛

悲 運 の 姫 ・ 五 郎 八 姫

 忠輝の正室・五郎八姫は、1594年(文禄3)、伊達政宗の長女として生まれました。徳川家康の政略により、わずか6歳で忠輝との婚約が交わされ、1606年(慶長

)1211

月、忠輝

15歳、五郎八姫

か書歌和ら道頃い幼 やたを道茶、 敷輝の忠。ですまげ挙を屋婚結式 13歳江、時の戸

は カ 4 か ず わ の 期 工 城 築 田 高 月

 1613年(慶長

長慶年(4161  とる目的もあったえ考られています。 銀渡で産出した金輸の送路を確保す 田これは加賀の前家のけん制や、佐 輝。たしまし配を忠の子息、し視重 で北国街道の要衝るもあ上越地域を 、陸北のは康家 道入出り口にあり、 す。 を越後に新しい城を築くこと決めま 川徳)、家康は18

19)、3月

の濃信 りた「天下普請あ」で、北陸、東北、 事れわ行てしと業の幕は事工のこ府 始築城の本格的なま城が高ります。田 日、15 に日1はに な堀とするのど大工事 れ川の流関をえて外変 掘内堀の 削のほか、 揮をとりました。 な指頭陣ら自、りと者 任責が宗政達伊・主城 父郎八姫の仙である台 は 工事の・忠妻五輝 。たし 業命令で作りにあたま が名大幕府の13

瞬事に間くは 工、み進 てす言われ。いま 働力投入がとたれさも 10万の人労 な田藩の巨大が城郭現れました高。 がた原と呼ばれいて高田の土地に、 落菩、し在散がれ集なかずわでま提 わずのそか4カ月突貫工事により、 に同年7月5日終はほぼ。了します

天 守 閣 も 石 垣 も な い 城

 まだ新しい福島城を廃し、高田に築城を急いだのは、豊臣家との最終決戦に備え、家康が打った盤石の布石だったとも考えられています。 当初の築城計画では、石垣で天守台が造られる予定でしたが、実際は石垣は構築されずに土塁だけとなり、天守閣も造られませんでした。 近く大坂冬の陣が想定されたため、工事を急いだことなどがその理由と考えられます。 天守閣に代わり、本丸の西南隅に建てられた櫓が、以降、高田城のシンボル的な存在となりました。

初 代 城 主 ・ 松 平 忠 輝

 忠輝は、1592年(天正

長慶年(0161  茶側室・局阿です。 千の康家は母。代辰名幼。たしまは 戸し康の6男とでて江城川生まれ家 )、徳20

かず )、忠輝は、わ15

てさ訪高島城移へれ、同所におい は その後、忠輝高飛騨の山から諏 す。 、領地を没収されれ伊に配流さま勢 忠近などを理由にを輝改易。忠輝は タ接のへンシのキや参遅ので陣リ夏 し、、かし のそ府2年後幕は大坂 初代主、し廃城入とてります。し 後 高田城の完成忠、輝は福島城を 主で福島城歳となります。19

92

歳で亡くなるまで

。すまいて でから高い文化人たあっと考えられ 遺品の諏る 々訪に残茶釜など、数 。たし 過間を年ごしま58

しなみ、聡明で美しい女性であったと伝えられています。 7年後、姫は江戸を出発、忠輝のいる福島城に入り、翌年完成した高田城でようやく新婚生活を始めます。 ところが、2年後、忠輝が幕府から改易を命じられ、離縁を余儀なくされたことから傷心の五郎八姫は実家の仙台に引き取られます。 その後、生涯独身を通しました。

五郎八姫の巻  姫の一途な想い

   「おそらく忠輝公と一緒にいた時期は、姫の生涯の中   で一番幸せな時間だったのでしょう」と仙台市で五郎八 姫を顕彰する「伊達政宗公姫「五郎八」倶楽部」の澤口隆雄さん は推測します。五郎八姫の残した和歌や手紙からは、豊かな 教養とともに、離れた誰かへの想いがしのばれるそうです。  忠輝と別れた時、姫はまだ20代前半でした。

 五郎八娘のことを心配する父・政宗が再婚を持ちかけても かたくなに拒んだのは、キリスト教を信仰していた影響とい う説のほか、忠輝公を 一途に慕っていたため とも考えられています。  2年という短い月日 でしたが、二人が仲睦 まじく一緒に暮らせた 思い出の地・高田で、 今年7月、五郎八姫の お輿入れの儀が再現さ れます。400年の時を 越えて実現する二人の 再会を皆さんで祝福し

ましょう。 ↑松平忠輝画像(模写)

 (総合博物館所蔵)

 

の か ぜ

ひ と よ ぎ り

ていしょういん

こし

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