科学史レジュメ
自己統制的な慣習
大西琢朗
∗2018
年
1
月
6
日
1
自己統制的な慣習
ネッツは、ギリシャ数学の証明のうちに「自己統制的な慣習(self-regulating conventionality)」の存在を見てとる。さらに、これは、ギリシャ数学だけでな
く、一般にどのような専門家集団にも当てはまることだとする。
ある話し手の集団がおり、共通の主題によって統合された一群のテクスト が彼らによって生み出されている、と想像してみよう。主題の共通性のた めに、それらのテクストを形成する認知的な力はある一定の統一性をもっ ている。それゆえ、テクストの総体のなかには、ある特徴的なパターンが 現れることだろう。ここでもう一つ仮定を付け加えよう。彼ら話し手たち は、テクストによく精通しているとする。つまり、それを表立って、明確 に言葉にして自ら認識しているかどうかは別として、彼らはそのパターン に気づいている、とする。これは、彼らがそうしたパターンを操作できる ということを意味する。それは、そのパターンから意味のある仕方で外れ てみることによってかもしれないし、そうではなく、パターンに忠実であ り続けようとすることによってかもしれない。ともかくも、さいしょは自 然の力の産物でしかなかったものが、そのような操作を受けることによっ て、それらを原材料とする意味のある道具へ、つまり慣習へと変容する。 「専門家」ということで、テクストに深く精通している話し手のことを意 味することにしよう。上で論じたことは、次のような主張へと翻訳でき る。すなわち、どのような専門家集団においても、必然的に、上で描写し
たような慣習が出現するだろう。そうした慣習は、専門化のプロセス、す なわちテクストに精通する過程の自然な結果として、自動的に伝達され る。そして、専門家集団とその外部の境界は、ますます明確なものとなっ ていくだろう。というのは、そのテクスト群のもつ意味が完全にあらわに なるのは、専門家、すなわちその集団のメンバーに対してのみだからであ る。これが、自己統制的な慣習(self-regulating conventionality)のプロ
セスである。(Netz, 1999, 2.1.4)
• ある主題についてのテクストの書き方には、人間の認知の限界や傾向によ り、どうしてもある一定のパターンが出来てくる(「自然の力の産物」)。
• 次第に、盲目的にそのパターンに従うのではなく、そのパターンを自覚 し、利用しようとする人々が出てくる。
– 例:「あえて」パターンから外れることで、その箇所を印象づける。 – ただし、そのような印象づけが成功するには、そのパターンは「常に
ではないが、ふつうは」守られなければならない。
⇒
盲目的な「パターン」から意識的な「慣習」への変容• 自己統制的:「自然とそうしてしまう」からでもなく「外的な理由によっ て決まっている」からでもなく、その慣習に従いそれを守ることが、研究 の進展と伝達を容易にする。
2
語の国勢調査
ギリシャ数学のテクストのひとつの特異性は、使われる語の種類の少なさに現 れる。ネッツは「語の国勢調査」を行なって、いくつかの数学書とアリストテレ スの哲学書『形而上学』とを比較している。ここでは数学書のうち、アポロニウ スの『円錐曲線論』を中心に見る(Netz, 1999, 3.2.1)。
■アポロニウス(BC262–190頃) 小アジアのペルガに生まれ、アレキサンドリ
アで活躍する。円錐曲線とは、円錐を平面で切断したときにできる断面の曲線の 総称。円錐曲線である「楕円」、「放物線」、「双曲線」という名称はアポロニウス に由来すると言われている。
『円錐曲線論』I.15と『形而上学』Λ巻(の最初の783語トークン)の比較は次 のとおり。
『円錐曲線論』 『形而上学』 語トークン(文字含む) 783 783
語タイプ(文字含まず) 74 200
語タイプ(文字含む) 142 200
孤語(文字含まず) 19 100
孤語(文字含む) 52 100
冠詞(トークン) 213 118
前置詞(トークン) 107 48
• 文字とは「直線 AB」の「AB」などのこと。
• 語タイプとは語の種類のこと。語トークンとは、個々の具体的な語の出 現。たとえば上の表では、「文字」という語タイプに属する語トークンが
5回出現している。
• 孤語(hapax legomena)は対象テクストの中で1回しか出現していない 語のこと。
■特徴1 : 使われる語の種類が少ない
•『形而上学』の語タイプが200あるのに対して、『円錐曲線論』で使われる 語タイプは(文字を含めたとしても)それよりもかなり少ない。
• 孤語も著しく少ない。つまり、同じ語を何回も使っているということ。
■特徴2 : 冠詞と前置詞
•『円錐曲線論』で多いのは冠詞と前置詞。とくに冠詞の使用法は特徴的。 • 例 : ´η υπ´ o` των˜ ABΓ
=
直訳すると ‘the by the ABΓ’。意味は ‘The<
angle contained>
by the<
lines>
ABΓ’。• 語トークンのかなり大きな割合が、冠詞・前置詞・文字で構成された短い 句。ユークリッドのDataでは19,000 語のうち半数がそのような句で占
められている。
3
一概念一語の原則
もう一つの特徴は、同義語・同音異義語の使用例の少なさである。ここでは主 に同義語について見る(Netz, 1999, 3.2.2)。
■語の淘汰 次のような同義語のペアのリストを考える。
g¯onia / gl¯ochis(角) gramm¯e / kan¯on(直線) kentron / meson(中心) kuklos / strongulos(円)
.. .
これらのペアのいずれも、ギリシャ数学形成期のテクストには出現するが、その 後の発展を通じて生き残ったのは左側の語だけである(数学以外の文脈では変わ
らず使用される)。
わたしの理論はシンプルである。語彙の数は少なく、それらは一概念一語 の原則で働いている。そのような環境が成立してしまえば、その語彙の ユーザーは、その語彙を全体として容易に把握できるだろうし、一概念一 語の原則とともに動くことで、意味の構造を想定するようになるだろう。 これが自己統制的な慣習である。(Netz, 1999, 3.2.3)
■例外: 2階の言語 同義語が生き残るのは、「角」や「直線」のように数学的対
象を直接表わす1 階の言語ではなく、それらに`つ` い`て述べる` 2階の言語におい
てである。
ait¯ema / hupolambanon(公準) analuein / luein(解くこと) axi¯oma / koinon ennoion(公理)
deiknumi / apodeiknumi(証明すること) ..
.
ここには明らかな使い分けが見てとれる。数学を「やる」ときには少ない語彙と 「一概念一語の原則」で論じるが、それがどのような意味をもつかなどについて
語るときには、文章の書き方は数学をやるときとは別のモードになる。
文献
Netz, R. (1999).The Shaping of Deduction in Greek Mathematics: A Study in Cognitive History: Cambridge University Press.