バルセロナから80kmほど南に走ったところにタラゴ ーナの町がある。紀元前3世紀にローマ人によって築か れたタラゴーナは当時タラーコと呼ばれており、100万 もの人口を持つイベリア半島最大の都市として栄えた。 タラゴーナの町から地中海を見下ろす高台にあるのが 円形競技場(写真①)である。1世紀に建造され、当時 は猛獣と剣闘士の壮絶な闘いなどが見世物にされたとい われている。しかし収容人数1万人以上の巨大な競技場 も現在は美しい地中海を背景に平和な様子である。 大都会であるバルセロナとは異なり、町の中は静かで 穏やかな空気が漂っている。現在主要都市の中心部では 伝統的なシエスタの習慣が見られなくなってきているが、 ここタラゴーナではまだその様子を感じることができる。 町の住人は日中家の中で過ごしており、見かけるのは観 光客だけのようである(写真③)。
町の中にはローマ時代の名残だけでなく、ローマの神 殿の跡、12世紀に造られたカテドラルも残っている。ロ マネスクやゴシック、バロック様式などが混在し、回廊
タラゴーナでもっとも大きな目玉は町のはずれ4km ほどのところにある、スペインで二番目の規模をほこる ローマ時代の水道橋である(写真②)。タラゴーナはロ ーマ時代にとても大きな都市であったにもかかわらず、 生活の生命線である水源が町から離れていたことが悩み の種であった。しかし当時のローマの土木技術は驚くほ ど進んでおり、水道橋を造って近くの川の水を町まで引 くことができた。この水道橋は最も高いところで27mあ り、全長217mである。幅はちょうど人が通れるくらい はあり、現在でも橋の端から端まで渡ることができる(写 真⑤)。この橋は均整のとれた美しさもさることながら 18世紀まで実際に市民に水を提供していたのが驚きであ る。この橋の異名は「悪魔の橋」である。悪魔の橋とい うのはスペインのいたるところにある名称で、悪魔にと りつかれたかのように川の氾濫のたびに橋が流されたこ とからそう呼ばれたらしい。しかしこのタラゴーナの水 道橋は、ある娘と賭けをして勝った悪魔が一晩で造った という伝説からきているようである。
(熊本県立宇土高等学校 坂井美由紀) ●
① ● ③ ●④
● ②
写・真・募・集
ローマ時代からの町 タラゴーナ
● ⑤
1 ヘゲモニー国家アメリカと国際秩序
前回まではイギリスのヘゲモニーとアジア世界と の関係性を論じてきた。最終回は、20世紀後半から のアメリカ合衆国のヘゲモニーと東アジア世界との 関連を考察する。
2009年にオバマ民主党政権が誕生するまでのほぼ 8年間、現代のアメリカ合衆国を「アメリカ帝国」 (American Empire)と捉える論調が支配的であっ
た。この間、学術書、一般書をふくめて内外で200 冊をかるく超えるアメリカ帝国論が出版され、マス コミや論壇を賑わせたことは記憶に新しい。これら の本は、大半が政治経済学、国際関係論の専門家[た とえば、藤原帰一『デモクラシーの帝国』岩波新書、 2002年]やジャーナリストにより書かれたもので、 歴史家が書いたものは非常に少ない。ブッシュ Jr.政権の単独行動主義、国際世論を無視したアフ ガン戦争・イラク戦争の強行とそれを支える圧倒的 な軍事力、従来の内政不干渉原則に代わる予防的干 渉・レジーム転換論など、一方的に自国が望む政策 を強要した現実を、帝国的現象ととらえたもので、 現代アメリカを「史上最強の帝国」と呼ぶ研究もあ らわれた。ところが、オバマ政権の誕生と前後して、 アメリカ帝国論は急激に影を潜め、忘れ去られたか のような有様である。昨年のリーマン・ショックに 端を発したグローバル恐慌、財政・経常収支の「双 子の赤字」の急増、イラク・アフガン両戦争での軍 事的行き詰まりは、「アメリカ帝国」の限界を露呈 することになった。
もともと、現代のアメリカを「帝国」と捉える理 解自体に無理があったといえる。国際世論を無視し たブッシュ政権であっても、戦争に踏み切るには国 連決議による正当化が必要であったし、英・日・東
欧諸国の「有志同盟」による国際的支援や共同派兵 を求めた。完全な帝国的単独行動主義は不可能であ り、国際社会から一定の制約を受けていた。そうし た現代アメリカの政策は、国際ルールの形成で指導 的役割を演じるヘゲモニー国家と考えることで明確 に理解できるであろう。前回まで論じてきたように、 圧倒的な軍事力、経済力、さらに文化的影響力を兼 ね備えて、国際社会に対して、自由貿易制度、基軸 通貨(米ドル)、国際法、交通・通信手段(インター ネット・衛星通信・国際航空網)、安全保障などの 「国際公共財」(international public goods)を提供
し、グローバル・スタンダードと呼ばれる「ゲーム のルール」を形成してきたヘゲモニー国家として、 20世紀後半以降のアメリカは国際秩序を形成・維持 してきたのである。
2 冷戦体制と脱植民地化―「脱植民地化の 帝国主義」
第二次世界大戦後の現代史を考察する場合、(1) ヘゲモニーの移行―「パクス・ブリタニカ」から「パ クス・アメリカーナ」へ、(2)冷戦体制の構築・変 容・崩壊、(3)非ヨーロッパ世界における脱植民 地化(decolonization)の進展、以上三つの観点と その交錯を指摘できる。
一般的に戦後アメリカのヘゲモニーは、経済面で はブレトン=ウッズ体制(IMF・世界銀行・GATT) のもとで、世界的規模での自由貿易体制の再構築と 基軸通貨米ドルの世界循環を実現した。軍事外交面 では、核戦力の独占、NATOに代表される軍事同盟・ 国際機構の構築、国際政治面では国連本部のニュー ヨークへの誘致などを通して形成されたとされる。 だが、戦後のアジア世界では冷戦と脱植民地化の過 程で、先行したヘゲモニー国家であるイギリス(=
関係史の視点から近現代史をとらえなおす―アジアを事例に 3
アメリカのヘゲモニーと東アジア世界
構造的権力*1)も一定の影響力を行使した。この
点は、1940年末までに南アジアや東南アジア島嶼地 域で実現した政治的独立(脱植民地化)が、英領マ ラヤ(後のマレーシア、シンガポール)では1957年 まで実現できなかった事実に反映された。
1949年10月の中華人民共和国の成立と翌50年6月 の朝鮮戦争勃発以来、アメリカはアジアの非共産圏 諸国に対する政策を転換して、それら非共産主義諸 国への軍事・経済援助に乗り出した。東南アジア地 域に向けたポイント・フォー計画*2がその典型で
あった。だが、冷戦体制のもとでアメリカの東アジ アにおける世界戦略の焦点は、海外貿易を通じた日 本経済の復興と「アジアの工場」(the Workshop of Asia)としての日本の経済的地位の回復に向けられ た。この過程においてアメリカ政府は、東アジアに おける共産主義の拡張を封じ込めるために軍事ケイ ンズ主義を採用した。こうしたアメリカの政策転換、 冷戦体制の構築は狭義の東アジア地域においては50 年代前半に進み、日米安全保障条約など二国間条約 網の構築を通じて、ヘゲモニー国家アメリカの突出 した影響力が見られた。
日本の経済復興は、英領マラヤやビルマ・パキス タンのような東南アジア・南アジアのスターリング 圏諸国に対して大きな恩恵を与えた。すなわち、こ れらアジアのスターリング圏諸国にとって、日本が ビルマ産米・パキスタン産原棉・マラヤ産鉄鉱石な どの第一次産品を購入したことにより、それら諸国 の主要輸出品に不可欠の輸出市場が確保された。同 時に、第一次産品の対米輸出を通じて蓄積された米 ドルは、ロンドンで共同管理されて、イギリス本国 の経済復興に大きく寄与した。また、東南アジア・ 南アジア諸国に対する日本の消費財輸出、とくに綿 製品の輸出は、非ドル決済が可能な製品供給源であ り、これらアジア諸地域の貧困な現地住民に対して 安価な生活必需品を確保するという住民福祉政策の
実行にとって重要であった。他方で、日本にとって も、アジアのスターリング圏諸国からの食料・原料 輸入は、ドル不足のもとで第一次産品輸入先を多角 化するために不可欠であった。したがって、アジア のスターリング圏諸国と戦後日本の経済復興は、モ ノの取引、貿易レヴェルで互いに相互補完的であっ た。以上のように、スターリング圏が東アジア諸国 の経済発展あるいは回復を支援する役割を果たした という意味において、1950年代の東アジア国際経済 秩序は、前回述べた戦前の1930年代の国際秩序と類 似し共通する側面を有していた[渡辺昭一編『帝国 の終焉とアメリカ』山川出版社、2006年]。 結果的に、英領マラヤの脱植民地化では、新旧二 つのヘゲモニー国家である英米両国の利害の一致が 見られた。冷戦体制のもとで、穏健なナショナリズ ム勢力を育成して彼らに政治権力を「移譲」(trans-fer of power)するが、独立後も一定の影響力を保 持する戦略が採用された。英米を代表する帝国史家 R.ロビンソンとR.ルイスは、この脱植民地化におけ る英米両国の協力を「脱植民地化の帝国主義」(im-perialism of decolonization)と捉えている。最初に 述べた三つの観点を統合する、英米の学界における ユニークな見方である。
3 東アジアの経済的再興と世界史の再考
だが、急速な勢いでグローバル化が進む21世紀に おいて、私たちは新たな世界史の転換を経験しつつ ある。東アジアの経済的勃興にともなう世界システ ムの再編がそれである。その原動力は、中国の経済 的躍進と国際的プレゼンスの拡大、米中両国による 「G 2」化現象の出現であるが、私たちは考察の射程 を少し広げて、歴史的な考察を加える必要があるだ ろう。その背景には、二度の石油危機にともなう世 界経済の構造変動、70年代末〜 80年代に本格化し た広義の「東アジア」地域、アジア太平洋地域の経 済発展、いわゆる「東アジアの奇跡」(East Asian Miracle)がある。
「東アジアの奇跡」という概念自体は、世界銀行 が1993年に創出した造語であり、冷戦後のアメリカ を中心としたグローバル化の優等生として発展する *1 ヘゲモニーの移行局面で、軍事・安全保障面では弱体
化したが、金融面での経済的影響力を中心にして、依然とし て隠然たる国際的影響力を行使する先行ヘゲモニー国家を意 味する。詳しくは、拙著『イギリス帝国とアジア国際秩序』(名 古屋大学出版会、2003 年)を参照。
東アジア地域を称揚するタームである[世界銀行『東 アジアの奇跡―経済成長と政府の役割』東洋経済新 報社、1994年]。当時は、アジアNIEs諸国(韓国・ 台湾・香港・シンガポール・インドネシア・タイ・ マレーシア)と日本の高い経済成長が分析対象と なったが、その後、1979年からは改革開放政策導入 後の中国、1991年の経済自由化政策導入後のインド が、この開放的な経済空間に新たに参入することで、 東アジアの経済発展は一層加速化されて現在に至っ ている。現時点で、アジア太平洋地域(アメリカ太 平洋岸を含む)は、世界のGDPの約半分を占め、 域内貿易の度合いを高めながら、グローバル恐慌か らの回復をめざす世界経済の牽引車の役割を担って いる。こうしたダイナミックな東アジア地域の「経 済的再興」(economic resurgence)の世界史的な意 義を、歴史研究者は十分に評価していないのではな いだろうか。
では、なぜ1980年代からの東アジアの経済的再興 が可能になったのか。この点では、杉原薫の議論が 傾聴に値する[杉原薫『アジア太平洋経済圏の興隆』 大阪大学出版会、2003年]。杉原によれば、「冷戦体 制が貿易の秩序を保証し、逆に東アジアの成長が自 由主義圏の優位のシンボルとなるとともにアメリカ の軍事産業への特化を促した、という意味で、相互 規定的な補完関係を形成していたのである」。東ア ジアの経済発展は、冷戦体制の形成と同時に展開し
た「同じコインの表裏」の関係にあった。日本の戦 後経済復興、それに引き続いた高度経済成長の実現 と東アジア諸地域の「雁行的発展」は、アメリカが ヘゲモニーを維持するうえでも不可欠であった。日 本(民生部門中心の資源節約型工業化)―アメリカ (資本・エネルギー集約型工業化と金融サーヴィス ス部門への特化)間だけでなく、日本と近隣の東ア ジア諸国(労働集約型工業化)との間でも、緊密な 経済連鎖が形成されたのである。
ここで強調しておきたいのは、東アジア諸国・地 域の主体的な対応である。確かに、東アジアの経済 発展にとって、冷戦体制のもとでのアメリカの軍事・ 経済援助や日本の戦後賠償も重要であったが、それ 以上に「全過程の原動力はやはり中国や東南アジア 自身の工業化への意欲であり、日本の復興への意思 であり、政治的変動をくぐりぬけてそれらの諸国が 世界市場で展開した激しい「アジア間競争」であっ た」[杉原、前掲書、p.20]。「脱植民地化の帝国主義」 を積極的に利用して、工業化と経済発展をめざした アジア側の強い意思と、それを支えた人材・ノウハ ウの存在や地域間ネットワーク(アジア間貿易)の 形成・発展が、現代における東アジアの経済的再興 を根底で支えているのである。
東アジアの経済的再興とともに、世界システムの 重心は、大西洋経済圏からアメリカ合衆国の太平洋 岸やインドを含めたアジア太平洋経済圏に大きくシ フトした。2008年のグ ローバル恐慌は、その 趨勢をさらに加速化し ている。私たちは、こ うした大変動を十分に 認識したうえで、新た な世界史像を構築して いく人類史的な課題に 直面しているのであ る。
日本
大韓民国 台湾
香港
フィリピン インドネシア
シンガポール マレーシア
タイ ミャンマー
カンボジア ラオス
ヴェトナム
ブルネイ・ ダルサラーム
1028 659 583 7 783 55 414 20 17 858 11 417 1250 16 572 375 881 769 2133 4211 1446 8 193 205 11 25 459
60年代 経済成長開始 経済成長
の連鎖
アジアNIEs
60年代後半 経済成長開始
ASEAN
70年代後半 経済成長開始
中華人民共和国
改革開放政策 80年代後半 経済成長開始
インド
90年代後半 経済成長開始
179
1588
各国の輸出額
(数字の単位は億ドル)
各国における 日本の進出企業
(数字の単位は企業数) (2001年現在) 1997年
1970年
日本と 東アジア海域
A S E A N N I E s 日 本
中 国
イ ン ド
変 動 相 場 制 移 行 ヴ ェ ト ナ ム 戦 争
石 油 危 機 ア ジ ア 金 融 危 機 プ ラ ザ 合 意
2000 1990 1980 1970 1960年
輸入代替工業化政策 外資導入・輸出志向工業化政策 工業化成功と工業製品輸出の急成長 海外投資と投資先の工業製品の輸入急増
東 西 冷 戦
物を通して見る世界史
現代のローマ市の屈指の観光名所のひとつ、ト レヴィの泉。このバロックの泉の歴史は、古代ロ ーマ時代にさかのぼる。ローマの東方21kmの地 点から水をひくウィルゴ水道の終点に豪華な泉が 建設されたのが、トレヴィの泉の遠い祖先なので ある。古代都市ローマは、上水の供給に莫大な投 資をし、そうして得た水を贅沢に消費する社会だ った。ここでは水道に焦点を絞って、古代ローマ の上水供給を紹介したい。
水道の規模
ローマ市に水を供給していた水道は、現在11本 が知られている。水源はおもに町の東および北西 に位置しており、水源からローマまでの導管の長 さは、平均で45.6km、最大で91kmもあった。こ れら11本の水道が、1日あたり約113万㎥の水を帝 国の首都に供給したと考えられている。これを単 純に現代日本にあてはめると、約360万人の生活 用水をまかなうことのできる供給量である。今か ら2000年前の一都市の供給量としては、驚くべき 規模といってよいだろう。
水道の構造
ローマの水道というと、壮大なアーチ構造をも つ水道橋を連想しがちだが(スペインのセゴビア やフランスのポン・デュ・ガールが有名)、実際 の水道は、地形や建設当時の技術力に応じてさま ざまな形態をとっていた。大部分を占めていたの は、地面および地下(深さはおよそ0.5 〜1m) に敷設された水路である。水路は天井を覆った縦 長の楕円形をしており、大きさは横が約1m弱、 高さは1.5 〜 2.5mほどだった。水路の点検・整備 のために、区間ごとにマンホールやシャフトが設 けられ、また水路の内部は、水勢を確保するため にセメントでなめらかに仕上げられた。水路が首 都の近郊に至ると、丘の多いローマ市内への供給
を可能とするために、アーチ構造で水路を支える アーケードが建設された。ぎりぎりまで水面を高 く保つための工夫である。ローマに到着した上水 は調整池に集められたが、不純物を取り除くため に沈殿槽が設置された例もある(図を参照)。そ の後、地中浅くに埋設された鉛管を通じて町の各 地区に配分された(鉛管を地中に埋めることによ って、上水の盗難を防止できた)。鉛の人体への 毒性を強調するあまり、鉛管による上水の供給が ローマ帝国の滅亡をまねいたとする説があるが、 水に含まれるミネラル分が管内に付着して水と鉛 管が直接ふれるのを一定程度防いだと考えられる ので、鉛管の使用と帝国の滅亡との関連は、近年 疑問視されている。
水道の目的
以上のようにローマの水道は、現代人をも驚か す技術水準と供給能力を誇っているが、供給され た上水の使用方法には、現代人の感覚とは違った きわめてローマ的な特徴が見て取れる。上水の使 用は、権力者が優先権をもっていた。ローマ帝政 期のある記録によると、供給された水のうち、6 分の1は皇帝が使い、3分の1は個人宅に分配さ れ、残りが公共目的(公共水槽や公共浴場など) に使用された。皇帝は見世物として巨大なプール で模擬海戦を開催し、水を無限に使える力を都市 民に見せつけた。さらに、私邸に水を引くことが できたのは、皇帝と懇意にしていた人物に限られ たので、個人宅用の水供給にも皇帝の権力が及ん でいたといえる。庶民は水をえるために、近くの 公共水槽まで足を運ばなければならなかった。ロ ーマの水道は、いかに高度な技術に支えられてい たとはいえ、誰でも自宅に水道をもてる社会をめ ざすものではなかったのである。
古代ローマの水道
チューリヒ大学ポスドク研究員 藤井 崇
沈殿槽のしくみ(地上に設置)
出典:A.T.Hodge, Roman Aqueducts and Water Supply, 1992, London, p.124
アグリッパ 浴場
ウィルゴ 水道
排水路 (定期的に開放
20世紀第三・四半世紀、つまり第二次世界大戦 から1970年代までのイギリスは、北欧諸国と並ん で、「福祉国家」の典型とされた。「ゆりかごから 墓場まで」を合い言葉に、社会保障制度がつぎつ ぎと強化されたからである。
「福祉」か、「自己責任」か
イギリスが「福祉国家」の典型とされた戦後数 十年、様々な社会保障制度が整えられていった。 その際、つねに前提とされたのは、戦争中の1942 年に提出された労働党系貴族ウィリアム=ベヴァ リッジ卿による、著名な「ベヴァリッジ報告」で あった。
歴史的にいえば、国家が関与したイギリスの社 会保障制度は、1601年に制定された旧救貧法に始 まり、1834年の新救貧法が、20世紀初頭まで続い たことになる。しかし、いわゆる重商主義時代を カヴァーした前者が、教区共同体を主体として、 貧民救済の色彩が濃く、その末期には、安すぎる 賃金の補填の意味さえもったのに対して、新救貧 法は、自由主義時代の「自己責任」論を反映して
苛酷で、生活保護費的な「院外救貧」―救貧院
に収容しない人びとへの給付―を認めなかった。
しかし、新興のドイツが、帝国主義と社会主義 を組み合わせた社会帝国主義を展開すると、イギ リスでも、自由党を中心に福祉推進の動きが高ま り、1906年、70歳以上の高齢者に、一律に支給す る老齢年金法が成立し、1911年には、国民保険法 が成立した。後者は国民健康保険と失業保険から なっており、世界的に社会保険のひな形となった。
「ベヴァリッジ報告」
1929年、アメリカで大恐慌が始まると、イギリ スでも失業者があふれ、抜本的な福祉政策の策定
が望まれた。そのための前提として、挙国一致内 閣の首相となったチャーチルの要請により作成さ れたのが、上記の「ベヴァリッジ報告」であった。 しかし、むろん、その趣旨が生かされたのは、ア トリー労働党内閣が成立し、戦争が終結したのち のことであった。
「ベヴァリッジ報告」は、第一次世界大戦前の 制度を修正して、健康保険と失業保険、老齢年金 などについて、全国民を等しく対象とするよう求 めており、戦後の政策は、この方向で展開した。 こうして、1946年には、国民保険法などが制定 され、「ゆりかごから墓場まで」が、労働党の選 挙スローガンとなったのである。こうしてイギリ
スは、「福祉国家」への道を突き進むことになった。
サッチャー主義とその批判
しかし、残念ながら戦後、とくに1950年代末以 降のイギリス経済は、他の欧米諸国に比較して、 相対的低落傾向にあった。福祉の向上は、膨大な 財政赤字をもたらし、ポンドの価値は低下した。 ストも頻発して、1970年代のイギリス経済は「イ ギリス病」とよばれるほどになった。イギリスは なぜ衰退したのか、という「衰退論争」が大盛況 となったが、「充実した福祉」は、強い労組とと もに、最大の病根の一つとされた。たとえば、充 実した失業保険は、イギリス人労働者の勤労意欲 を低下させ、ドイツや日本との対比で、その生産 性を著しく劣ったものにしたといわれたのである。 そうなると、資金不足の国民健康保険(NHS)は、 1970年代には、ほとんど機能しなくなった。余裕 のある人びとは、私的な保険に入り、保険外診療 を受けるようになっていったのである。
かくて、1979年、かのマーガレット=サッチャ ーが政権の座につくと、「貧困は自己責任」とい う「新救貧法」の精神への逆戻りがみられた。全 国民一律の福祉という「ベヴァリッジ報告」の精 神は否定されるようになったのである。
21世紀にはいると、さすがに、このような新自 由主義には、強い批判がうまれている。
「ゆりかごから墓場まで」
―「ベヴァリッジ報告」のゆくえ(1)はじめに
今回は「世界史Aで戦後史をどう教えるか」の 試案である。第二次世界大戦が終了した1945年よ り65年。しかも2009年は冷戦終結からちょうど20 年目であった。これだけ年月が経っているのだか ら、世界史の授業で戦後史を教えなければならな いのは当然である。しかし教える以上、教員の中 で戦後とはどういう時代で、どのような特徴があ る時代なのかが総括されていなければならない。 そしてそれらを踏まえて授業を展開しなければ、 話としては面白いが、総花的・網羅的になってし まい、授業が終わった後で生徒たちに戦後史の全 体像をイメージさせることができない。そうなる と当然ながら生徒たちが今生きている「現在」の 位置を把握できず、将来を展望することもできな くなる。さらに、今の高校生たちはベルリンの壁 崩壊・冷戦終結・ソ連消滅以降に生まれてきてお り、国際政治の大きな事件で頭に残っている最初 の映像が同時多発テロ(9・11事件)ということ が多い。つまり、我々教員にとっての「同時代史」 と生徒たちのそれとがあまりにも異なっているの である。授業でこれは知っているだろうと教員が 話すことのほとんどが、生徒たちには初めての(= 知らない)知識・情報であることを認識して私た ちは授業に臨まなければならない。
このような中で、世界史Aにおいて数時間(拙 稿では6時間)で戦後史を教えることは、はっき りいってキツい。たとえば戦後史の総括。多くの 歴史学者や国際政治学者が戦後のそれなりの総 括・定義づけ(=戦後とは〜という時代)を行っ ているが、全体像の総括をあまり見かけない。し かも、使用している言葉や内容が高校生にとって は抽象的で理解することが難しい。従って、我々 教員が授業で戦後史を教える際にまずやらなけれ
ばならないことは、自分なりの戦後史の総括であ る。つまり、先行研究を踏まえつつも、自分なり の「戦後とは〜という時代である」という総括を 行う。そして、それを生徒たちが理解できるよう、 目の前の生徒をイメージしつつ授業の構成・内 容・導入・展開を考えることが必要となる。
(2)私なりの戦後史の総括と授業構成
戦後史で一番大きな転換点はベルリンの壁が崩 壊し、冷戦が終結した1989年であることに異論は ないだろう。そこで戦後史を教える場合、1945〜 1989年と、1989年以降に分けて教えるのがよい。 まず1945〜1989年は冷戦の時代である。46年の「鉄 のカーテン」演説、翌年のトルーマン=ドクトリ ンの発表に始まり、89年のベルリンの壁崩壊後の マルタ会談まで続いた冷戦は、米ソの軍事的(二 極)対立という側面と自由主義・資本主義市場経 済と社会主義計画経済(=マルクス・レーニン主 義)のイデオロギーの対立という側面があった。 そしてこの冷戦の時代は、近代世界システム論で いうアメリカの覇権の時代とも重なる。その際、 ベトナム戦争の敗北(=覇権国家の軍事的敗北と 膨大な軍事費が経済を逼迫させる)とドル=ショ ック(=戦後の国際経済のレジームであったブレ トン=ウッズ体制の崩壊)がターニングポイント になる。
冷戦と並ぶこの時期のもう1つの潮流が脱植民 地化=「国民国家」の建設である。この動きは 1940年代後半に東アジア・南アジアで始まり、 1950年代には西アジア・北アフリカへ、そして 1960年の「アフリカの年」に見られるように1960 年代にはサハラ以南のアフリカに及んだ。そして この脱植民地化の潮流を象徴するのが、1955年に 開催されたバンドン会議と1961年に開催された第 1回非同盟諸国首脳会議である。またこの時代は
世界史
A
授業案戦 後 史
国際政治における主体(アクター)は国際連合(以 下、国連と記す)などの国際機関を除けば、ほと んどの場合(主権)国家であった。
次に1989年以降について。この時代をよくポス ト冷戦の時代、覇権後の時代という。間違っては いないだろうが、その中身を説明しなければ総 括・定義づけとしては不十分であろう。国際政治 学者の田中明彦氏はこの時代を「新・危機の20年」 と名づけ、この時代にアメリカ一極主義と市場原 理主義が登場し退場した、と説明している(『ポ スト・クライシスの時代』)。これを参考にすれ ば、この20年は政治的にはアメリカが一極主義を めざすも失敗し、多極に向かう時代、社会的・経 済的にはインターネットに代表される(アメリカ 発の)グローバル化が進行し、それと表裏一体に なった市場原理主義が広がった時代(当然それら には光と影があり、それらの存在・進行に対して イスラーム勢力など反発する勢力が登場した時代 でもある)と総括することができる。さらにこの 時代の主体として、多国籍企業・地域組織(地域 統合)・国際機関・NGO・「テロリスト」など非 国家主体が登場し、大きなプレゼンスを発揮しつ つあるのもこの時代の特徴であり、これらが多極 化の要因にもなっている。また1945〜1989年まで が脱植民地化=「国民国家」建設の時代であった のに対し、この時代は共同幻想である「国民国家」 に揺らぎが見えた時代であり、「国民国家」以外 に自己のアイデンティティを求める動きが起こっ た。EUなどの地域組織の成立や多発する地域紛 争などがその例である。
以上、戦後史の総括について私見を記してみた。 まだまだ整理されていない面が多々あるが、この 総括を踏まえての戦後史の6時間の授業構成並び に目標を提示したい。
《単元》戦後史(6時間)
1時間目:戦後史の枠組みと大きな流れ 2時間目:冷戦の展開Ⅰ
3時間目:冷戦の展開Ⅱ 4時間目:脱植民地化
5時間目:1989年以降の時代Ⅰ
6時間目:1989年以降の時代Ⅱと日本の進路
《単元目標》
①戦後を1945〜1989年、1989年以降に分け、それ ぞれの時期の特徴を説明することで、戦後史の 枠組みと大きな流れを把握させる。
②1945〜1989年の大きな潮流の1つである冷戦 (世界)の変遷(冷戦構造の成立[1940年代後 半〜1950年代半ば]→「雪どけ」[1950年代半 ば〜1950年代末]→冷戦再燃?→緊張緩和[1960 年代]→多極化[1968〜1973年]→「新冷戦」 →冷戦終結[1970年代半ば〜1989年])を理解 させ、冷戦とは何であったのか、どうして冷戦 は終わったのか、どうして第三次世界大戦が起 きなかったのか等について把握並びに思考させ る。
③冷戦期の脱植民地化の動き並びにその新たに独 立した国々が戦後の国際政治において果たした 役割について理解させる。さらに独立後経済的 に成功=発展した国とそれに失敗した国を比較 し、その理由について考察させる。
④1989年以降の世界について、アメリカの一極主 義と多極化、グローバル化、市場原理主義、非 国家主体などをキーワードにして理解させ、今 自分たちが生きている「現在」の位置を歴史的 に把握させる。そしてそれを踏まえて、今後の 日本、そして地球の進むべき道について考察さ せる。
(3)指導経過
今までの二つの拙論(『世界史のしおり』4月号、 10月号掲載)では、それぞれ2時間の授業すべて の指導経過を記したが、ここでは授業時間の多さ、 並びに誌面的な制約のため、6時間の授業のうち、 3時間(1時間目、4時間目、5時間目)の導入 例をそれぞれ1つずつ提示する。
まず1時間目<戦後史の枠組みと大きな流れ> の導入について。
『明解世界史図説 エスカリエ』(以下、資料集 と記す)を調べた生徒から1989年という答えはす ぐに返ってくる。そして翌月のマルタ会談での冷 戦終結という答えも出てくる。そこで次に「冷戦 って何?」と尋ねる。冷戦は中学校でも習ってい るので、何人かに当てれば、第二次世界大戦後、 アメリカを中心とする西側陣営とソ連を中心とす る東側陣営が対立したこと、という答えは出てく る。次に、資料集の索引に載っている「ベルリン」 で始まる戦後の用語を挙げさせる。ここで出てく るのは、ベルリン封鎖(1948年)とベルリンの壁 (建設1961年、崩壊1989年)の2つである。それ ぞれについて簡単に説明し、米ソが軍事的に対立 する冷戦が1989年まで続いたこと、アメリカを中 心とした西側陣営は資本主義市場経済を採り、東 側陣営は社会主義計画経済を採っていたこと、そ して1991年には一方の当事者のソ連が消滅したこ となどを話して、以下の板書を行う。
①戦後史はベルリンの壁が崩壊し冷戦が終結し た1989年以前と以後に分けられる。
②1945〜1989年の歴史の大きな潮流=冷戦 ③冷戦には米ソの軍事的対立の側面と資本主義
市場経済・自由主義VS社会主義計画経済・ マルクス=レーニン主義のイデオロギーの対 立の側面があった
その後、冷戦の変遷を教えるわけであるが、そ の際、人物(例:ケネディ、ゲバラ)を中心に授 業の一部を構成したり、音や映像、そしてモノ (例:ベルリンの壁の破片)を教室に持ち込むな
どの工夫が必要となる。
次に4時間目<脱植民地化>の導入について。
【国連の加盟国数の推移】 以下の数字はある国 際機関の加盟数の推移です。その機関の名称を 答えよう。
1945年 1955年 1970年 2008年末 51か国 76か国 127か国 192か国
生徒が多くの国際機関を知らないことと、51と いう数字などから、国連という答えはわりと返っ てきやすい。さらに資料集p.171②のように、地 域ごとに各年の加盟国の数字が出ているグラフを 見せる。
そして、1945年から1955年の変化、1955年から 1970年の変化についてわかることを質問する。す ると、1945年から1955年に国連の加盟国が増えた のはアジア(9→21)であり、1955年から1970年 にかけて一気に加盟国が増えたのがアフリカ(5 →42)である、という答えが返ってくる。そこで、 戦後のもう一つの大きな潮流として脱植民地化が あることにふれ、以下の板書をして説明を行う。 1945〜1989年の潮流② 脱植民地化
1940年代後半:東アジア・南アジア 1950年代:西アジア・北アフリカ 1960年代:サハラ以南のアフリカ ←1960年の「アフリカの年」 以下、いくつかの国について説明を加える。そ の国を選ぶ基準は、地域的な分布を配慮しつつも、 戦後の大きな事件に「関わった」国、第三勢力の 中で大きな役割を果たした国、経済的に成功して いる国と失敗している国、戦後地域紛争・内戦が 起きていた国などである。たとえば、韓国・ベト
「エスカリエ」 p.172 ④ 東 西 分 断 の 象 徴 「ベルリンの壁」の建
設
があって、それが壊された、ということだよね。 その年を資料集で調べてみよう。そしてこの壁 崩壊の翌月に何があったか調べてみよう。
「エスカリエ」 p.180 ②壁をこわす市民
ナム・インド・イラン・ガーナ・ルワンダなどが よいだろう。インドではイギリス植民地からの分 離独立、ネルー(と周恩来)の平和五原則とバン
ドン会議(資料集p.174④⑤)、ネルー王朝*、ヒ
ンドゥー至上主義、BRICsなどについて説明 する。ガーナとルワンダは地図で位置を確認した のち、ガーナではエンクルマと第1回非同盟諸国 首脳会議(資料集p.174⑥)、ルワンダでは(ベル ギーの)植民地支配が原因となったルワンダ内戦 (資料集p.187⑩)と現在数多く存在する「破綻国 家」について説明する。そしてこの授業の最後に、 同じように政治的独立を果たしたにもかかわら ず、なぜ現在経済的に成功=発展した国とそれに 失敗した国が生まれたのか、歴史的な視点から考 察させたい。
最後に、5時間目<1989年以降の時代Ⅰ>の導 入について。
【1989年以降のアメリカの戦争】
1991年 a 戦争
安保理決議678=「武力行使容認決議」による 多国籍軍で戦う
2003年 b 戦争
安保理=武力行使は時期尚早
イギリス軍の支援をうけたアメリカ軍中心で戦う
a b に入る言葉を答えよう
資料集(の年表)などを参考に、すぐa=湾岸、 b=イラクという答えが返ってくる。次に、2つ の戦争と国連との関係、そして投入された軍隊の 構成について質問する。ここでもすぐに、湾岸戦 争は国連の支持のもと多国籍軍が構成・投入され、
アメリカはその一員として参加して行われた戦争 だが、イラク戦争は国連の支持を得ないでアメリ カが実質上単独で行った戦争である、という答え が出てくる。そこで以下の説明を行う。1989年以 降のアメリカは、最初は各国との協調主義を採っ ていたが、9・11事件以降は単独行動主義(ユニ ラテラリズム)を採るようになった。しかしそれ も失敗に終わり、2009年1月に就任したオバマ大 統領が各国との協調姿勢、国連を今までより重視 する姿勢を表明している。つまり、1989年以降の 20年間は、唯一の超大国となったアメリカが国際 協調主義から単独行動主義に方向転換したが、再 び国際協調主義に戻ろうとしている時代であっ た、ということができる。このことは経済面でも 同様である。1989年以降、唯一残った経済体制で ある市場経済が「暴走」し、アメリカ発の市場経 済原理主義が世界を席巻したが、昨年のリーマ ン・ショックに端を発する「世界同時不況」によ り先進各国は市場経済原理主義を「捨て」、その 解決に向け多くの国・地域組織・国際機関が協力 するようになっている。換言すれば、冷戦終結後、 一極(単極)をめざすかに見えた世界が多極の世 界になっていく過程がこの20年間であった、とい えるだろう。
(4)おわりに
世界史Aのみならず歴史教育において、現代史 (=戦後史)の授業は是非とも行わなければなら ない。それまでの授業は現代史の授業を行うため にあるといっても過言ではない。しかし、授業時 間が足りず現代史の授業ができない、やっても駆 け足で終わる、何を教えたらいいかわからない、 網羅的になってしまう、などの悩みが多いのも事 実である。この拙稿は、多くの先生方と同様の悩 みを抱えつつ、試行錯誤の末に生まれた授業実践 (例)である。まだまだ不十分な点が多々あるか とは思うが、戦後の授業を行う際の叩き台として いただき、かつご意見ご批判等いただければ幸い である。
「エスカリエ」 p.186 湾岸戦争④炎上するクウェート の油田と米軍の装甲車
はじめに
「長い19世紀」と「短い20世紀」という言葉が ある。イギリスの歴史家エリック=ホブズボーム が定義した言葉とされる。第一次世界大戦の過程 で成立したソヴィエト連邦の成立と1991年の崩壊 はそのまま20世紀の歴史の裏写しといってよい。 筆者も、1917年のロシア革命から、戦間期─第二 次世界大戦─冷戦─「雪どけ」─キューバ危機─ ペレストロイカ─ソ連崩壊と言葉をつないでいけ ばそのまま20世紀が語れてしまうと思う。しかし、 現在の「エスカリエ」を使う、とくに進学をめざ さない生徒たちには、ある世代以上のこうした教 員側の「思い入れ」は通じない、という現状があ る。すでに20代の教員にとっても、ソ連崩壊は物 心ついた頃の記憶の中の出来事である。生徒に限 られた時間で何を語り、考えてもらうのか、を吟 味しなければならない。生徒たちが将来TVや映 画で20世紀を振り返る番組を見る際、社会主義が めざした理想と現実の乖離がなぜ起きたのか、を 知らなければおそらく作り手の意図は全く伝わら ないからである。ポスターや写真・映画というメ ディアを効果的に使ったのが社会主義政権であっ た。これらを追体験するような授業展開が必要で はないだろうか。
エスカリエp.158 〜 159「ロシア革命」の展開 の仕方としては、革命が大きく3つの段階に分か れることを年表で確認する必要があるだろう。年 表<カタカナの細かい知識は省いてよい>→プチ 「悲劇のロシア皇帝一家」の説明→「ロシア革命 における革命と反革命の争い」の地図での確認と 「シベリア出兵」→ more 「レーニン死後の後継者 争い」でスターリン・トロツキーの対立と「消さ れた写真」と展開し、最後にポイントチェックを
しよう。農業集団化と経済政策については、1930 年代のファシズムと関連させて取り扱うことも可 能であろう。
「先生、赤い旗は何で赤いのさ?」
以前何人もの生徒に受けた質問である。彼らは 小学校時代、国旗覚えなどをやらされ、ソ連は「赤 い旗」と覚えているが、どういう意味かは知らな いようである。一番納得がいくのは「革命の過程 で流された血」を意味し、ここから日本では社会 主義自体を「アカ」とカタカナで表記したりする、 というものである。ハンマーは工場労働者の、鎌 は農業労働者のシンボルである。左上の☆は五芒 星と呼ばれ、古くはオリエント時代から洋の東西 を問わず使われてきた。ソ連国旗における☆は五 大陸の労働者を示すものとされている。
時 代 の 扉 ② の 像 は、 1937年のパリ万国博覧会 において、ボリス=イオ ファンという建築家が設 計したソ連館の上に飾ら れた、この彫刻だけで高 さ25mという巨大なモニ ュメントである。作者は ムーヒナという女性彫刻 家で、彫刻家ブールデル の下で勉強した経歴を持 つ人物である。当時はこ うした巨大なモニュメントが「社会主義リアリズ ム」(芸術は社会主義の称賛と国民の教化のため にあるという考え方といってよいであろう)を示 す有効なプロパガンダとされた。したがってこの 「農民とコルホーズの女性」と題する彫刻は、ソ 連の国旗にしたがい鎌とハンマーをそれぞれ手に 「明解世界史図説 エスカリエ」活用例
ロシア革命
北海道札幌北高等学校 吉嶺茂樹
持っている。
ニコライ2世と家族の肖像
中学校の教科書には「大津事件」の記載がある。 しかしこの事件で重傷を負った皇太子ニコライが ニコライ2世と同一人物であることがつながって いない生徒が多い。こうした中学時代の知識をた どりながらロシア革命史に近づくことも考えられ る。当時の日本の新聞は復刻版が出版されている ので活用できる(付言すると、新聞教材は記事の 切り抜きよりも一面をそのまま印刷配付すること を勧める。下段の広告などから生徒にとっても時 代の雰囲気が読めることが多いからである)。大 津事件の際、ニコライ皇太子は、シベリア鉄道起 工式に列席する旅の途中であった。
ニコライ2世はロマノフ朝最後の王で二月革命 の後に退位。妻はイギリス・ヴィクトリア女王の 孫であり、第一次世界大戦開戦時のイギリス国王 ジョージ5世は従兄弟にあたる。家族の肖像の中 の末娘がアニメ映画にも取り上げられたアナスタ シアである。この家族は、最終的に2007年の発掘 とDNA鑑定の結果、ボリシェヴィキ政権による 全員の処刑が確認された。右上の肖像、ラスプー チンは「○○のラスプーチン」という表現で嫌悪 される人物であるが、その実像は謎が多い。ニコ ライの皇太子アレクセイは血友病であった。その 治療=内出血を止めるのに、ラスプーチンは「悪 魔的な力」を発揮した、とされる。そのことから 王族、とくに皇后アレクサンドラに重用され政界 へ影響力をもった。その暗躍を排除すべく皇帝の 縁戚ユスボフ公らにより殺害されたが、その死に あたっても謎が多い。300年続いたロマノフ王朝 を滅亡に導いた一人ともいえよう。
シベリア出兵の「原因」とは?
シベリア出兵は、「米騒動」の原因として中学 校の教科書にも記載がある。高校世界史の中では 教科書や参考書でも「チェコ・スロヴァキア軍の 救援」を「口実」に出兵したとされる。しかし、 なぜこれが原因となったのか、についての説明が ない。ここでは簡単にその経緯についてふれてお きたい。
オーストリアは多民族国家であった。国内には ハンガリー人、ポーランド人、チェコ人、スロヴ ァキア人などの多くの「少数民族」を抱えていた。 オーストリアは、この「少数民族」の中でハンガ リー人にのみ特権を与え、残りの少数民族の支配 をも「ハンガリー人」に行わせる、という形をと った。このためハンガリー人のみに与えられた特 権的地位に対し反発を抱く民族が少なくなかった。 第一次世界大戦にあたり、オーストリアはドイ ツとともに同盟国としてフランス・ロシアと二方 向で戦った。西部戦線と東部戦線である。この東 部戦線において、オーストリア=ハンガリー帝国 は「チェコ人・スロヴァキア人」からなる軍をそ の前線に派遣した。しかし、彼らは帝国への反発 から、敵であるロシア帝国軍に「意図的に」寝返 り、一部にはロシア軍に混じってオーストリアと 戦う者もいたという。
その後、ロシア革命勃発の後、1918年5月、ボ リシェヴィキ政権に対してチェコ軍団が叛乱を起 こす。これに対しボリシェヴィキ政権が追討軍を 派遣したため、日・米・英・仏の四か国が「救援」 のため協定を結んでシベリアへ出兵する、という 事態になるのである。1918年8月のことである。 その後日本のみがシベリアへの勢力拡大を狙って
エスカリエ p.158 ⑤ ニコライ2世とその家族 ラスプーチン
長期の出兵を続けたが、ニコライフスク(尼港; エスカリエp.159の地図参照)事件の敗北などに より撤兵した。北海道小樽市には、この尼港事件 で亡くなった殉難者の供養塔がある。小樽がシベ リアへの拠点港だったためである。
最後に、シベリア出兵に関して、この地に非常 に短期間存在した「極東共和国」(1920 〜 22)に ふれておきたい。この国は、シベリア出兵に対す る緩衝国家として、レーニンにより設置が認めら れた国家である。発足したばかりのボリシェヴィ キ政権は、日本のシベリア派遣軍と、ロシア帝国 の白軍を追って進軍してきた赤軍とが直接対峙= 交戦することを避ける必要があった。このため双 方の中間地帯に設立されたのがクラスノシチョコ フを首班とする極東共和国である。この国は、日 本がシベリア撤兵した結果その存在意義を失い、 ソヴィエト政権に併合された。
レーニン・トロツキー・スターリン
「消されたトロツキー」の写真⑨は、アラン・ ジョベール『歴史写真のトリック/政治権力と情
報操作』(朝日新聞社:絶版)に詳細な説明がある。
この写真は演説するレーニンと、演説の順番を待 つトロツキーおよびカーメネフの写真といわれて いる。
レーニンは「レナ川の人」の意を持つペンネー ム。トロツキーはレーニンの右腕で、赤軍を指揮 して人気が高かった。レーニンの死後スターリン との権力闘争が開始される。トロツキーは世界革 命論を唱え、スターリンに敗れ国外追放処分を受 け、その後世界中を転々としながらスターリンに 対する批判を行い著述活動を行う。トロツキーは、 最後はメキシコにわたり、スターリンの送った刺 客によってピッケルで頭蓋骨を破壊されて死んだ。
スターリン(鋼鉄の意)はグルジア生まれ。民 族問題の専門家として頭角を現すが、ロシア人で はなく少数民族出身の彼が、ソ連において少数民 族の強制移住や大粛清を行ったことは歴史の皮肉 であろう。レーニンはその死の直前、彼を「粗暴 である」と評して権力から遠ざけようとしたが、 レーニン自身脳溢血の発作を起こし、スターリン が後継として全権を握ることとなった。一国革命 論の立場に立ち、党内のライバルを次々と粛清、 独裁体制を成立させた。その体制を維持していく ためにも上意下達の官僚システムが必要とされ、 その硬直性故にソ連社会は停滞した。80年代、ブ レジネフ政権後半期に至り、その停滞は覆いがた く、ついにゴルバチョフというリーダーを生んだ。 1985年に書記長についたゴルバチョフは、ペレス トロイカ(「再建」などの意)を開始するが、80 年代後半の東欧民主化の動きにも適切な対応がで きず、彼の進める改革に対し「ソ連国家崩壊を食 い止める」、という一点のみの協力で行われた91 年8月の保守派クーデタが失敗。同年12月にはソ 連邦を構成していた共和国が連邦離脱を宣言しソ 連は崩壊した。革命から74年後のことである。
おわりに
ロシア革命を授業で取り上げる際には、以上略 述したソ連崩壊までを概略でよいので取り上げる 必要がある。生徒たちが20世紀史を大きく理解す るためである。筆者が生活する北海道には、北方 領土からの引揚者の家族を持つ生徒がいる。隣国 に対して複雑な感情を持つ者も少なくない。北海 道の生徒にとり、ロシアは近くて遠い隣人である。 しかし巨大な隣人をどう考えるのか、という問題 は別に北海道の生徒だけの問題ではない。筆者の 経験でも、ロシアを理解するうえで有効であった のは、現代社会や地理教員などとのティーム=テ ィーチングであった。「労働者の政権」として発 足したソヴィエト政権がなぜ官僚主義に陥り崩壊 したのか、をぜひ生徒とともに考えてみたい。
*北海道大学スラブ研究センターのHPはこのテーマに関 する教材の宝庫である。http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/
はじめに
「イスラーム原理主義」・「イスラームテロ組織」 などの言葉をいまだに報道で耳にする。多くの生 徒が持っているイスラームに対するネガティブな イメージに、これらの用語を使用した報道等が大 きな影響を与えていることは推測できる。本題に 入る前に「イスラーム原理主義」について整理し たい。原理主義は、もともとアメリカ合衆国のプ ロテスタントの一派をさす「ファンダメンタリズ ム」の訳語である。この言葉自体は自称ではなく、 反抗的で時代錯誤的な神学を含意する蔑称である。 キリスト教の一派をさし示す蔑称を、教義におい て一致しないイスラームに対して適用させ、明確 な定義がないまま流布してしまっている。そして、
「開明的」「近代」社会に対立する「武装過激派」「テ
ロリスト」「頑固固陋な保守主義」のイスラーム 教徒の行動を理解する言葉となっている。
このため生徒たちは、『タペストリー』* p.278
の図版「近現代のイスラームの動向」の様々な運 動を一括して「原理主義」という枠組みで理解し、 それぞれの歴史的経緯や相違などを無視しかねな いのである。さらに、「原理主義」というラベル を貼ることによって、様々な対象をステレオタイ プに還元させ、弾圧すべき単一の敵として認識し てしまう。
このような偏見や誤解を克服し、生徒の公正な 認識形成に果たす世界史授業の役割と責任は大き
い。ここでは、「イスラーム原理主義」と重なる部
分が多い「イスラーム復興運動」について、『タペ
ストリー』を使った授業展開例を取り上げてみる。
1 西洋の衝撃の到来〜伝統的価値の動揺と見直し
18世紀になるとイスラーム世界に対する西欧の 脅威は大きなものとなってくる。イギリスの軍隊 と戦争したスーダンのマフディー運動や、イラン のタバコ=ボイコット運動など、生徒におさえさ せたい項目は多い。その中で、「ワッハーブ運動」 と「固き絆」がどのように、現代の復興運動とつ ながるかを理解させる。
(1)ワッハーブ運動
「ワッハーブ派」は、外部からつけたラベルで、 自称は「ムワッヒドゥーン」であり、12 〜 13世 紀にマラケシュを中心に栄えたムワッヒド朝と同 じ名称である。ムワッヒド朝の創始者イブン=ト ゥマールトも、ムラービト朝のウラマーの見解を 一神教に反すると攻撃した。この例でわかるよう に、「西洋の衝撃」以前にも一神論をめぐる改革 運動はあり、ワッハーブ運動も預言者ムハンマド すら特権視しない徹底した一神教を追求したもの で、西洋への対抗としてでてきたものとはいえな い。そこで、イスラームの内部的改革運動として のワッハーブ運動と、現在のイスラーム復興運動 と共通している点を生徒に説明する必要がある。 ワッハーブ運動の創始者であるイブン=アブド ゥル=ワッハーブは、13 〜 14世紀のスンナ派四正 統法学派の一つであるハンバル派法学者のイブン =タイミーヤの思想に大きな影響を受けた。オス マン帝国の公式法学派であるハナフィー派では、
タペストリー授業実践例
イスラーム復興運動をどうとらえるか
近代化とグローバル化のはざまで
横浜市立東高等学校 智 野 豊 彦
法学的問題は論じつくされたという説が主流にな り、イスラーム世界に広く受け入れられていた。 換言すれば、流動する現実に対して、伝統墨守的 な保守的態度が広まっていたのである。それに対 して、ハンバル派は、古典的な法学者のテキスト よりもクルアーンとハディースという原典に立ち 返ってシャリーアを再解釈する「革新的」な姿勢 を持っていた。すなわち、ワッハーブ派は、徹底 的な一神教を追求し、初期イスラーム共同体を理 想化するサラフ志向を持つことによって、伝統墨 守にとどまらず、新たなイスラーム解釈に寛容な 姿勢をもつのである。
(2)『固き絆』〜印刷物とイスラーム復興運動 伝統的なイスラー
ム教育は、教師と直 接対話する形で学習 を続けていた。各地 の著名なウラマーを 求めて旅を重ねる例 は、イスラーム=ネッ トワークなどで取り 上げるところであろ う。
しかし、活版印刷 技術の導入によって、 印刷物によるイスラ ーム知識の浸透が拡
大するようになった。その代表例が、アフガーニ ーとムハンマド=アブドゥフの『固き絆』である。 この刊行と配布は、イスラームの運動に、印刷物 が本格的に導入され国際的に多大な影響力を持つ 契機になった。
師との面会のために旅を行う必要もなく、また 数量的に限定された写本ではなく、大量出版物に よってイスラームに関する情報に容易にアクセス できるのである。換言すれば、正統的・伝統的イ スラーム教育を受けなくても、宗教書を読破する ことによって、独自のそしてときには過激なイス ラーム解釈を行いやすくなった。さらに出版物を 通してそれを伝達することによって一定数のムス
リムの支持を受ける。このような出版物を媒介と した新しい事態を生徒には理解させたい。
2 近代国家建設
〜世俗政権からの弾圧と過激思想のめばえ
20世紀になるとイスラーム世界の大半は植民地 になり、また西欧の進出を食い止めることができ なくなった。さらにカリフ制も廃止され、イスラ ーム世界も、「近代」や西欧的価値に従属もしく は無視することができなくなった。世俗主義や民 族主義などの西洋的な「近代的なもの」からの影 響のうえに改革が行われるようになった。ここで は、イスラームの下に大衆を組織したムスリム同 胞団の指導者たちが、近代的・西欧的な素養を持 つ高学歴者であることを生徒におさえさせたい。 ワッハーブ運動は、急進的で革新的とはいえ、 シャリーアを学んだウラマーを指導者として、伝 統的イスラームの用語を用いて組織された。これ に対して、ムスリム同胞団の創始者ハサン=バン ナーは、国民国家形成に役割を果たす師範学校の 出身者である。またバンナー暗殺後の指導者にな ったハサン=フダイビーも近代法を学んだ法律家 であった。彼らは、シャリーアなど伝統的なイス ラームを学んだウラマーではなく、西洋的な素養 をもつ近代的人物である。民衆を大量動員したム スリム同胞団であるが、その中核となったメンバ ーは、高学歴・官僚・専門職などで、西洋近代的 な価値観や生活様式にある程度共感を示すエフェ ンディと呼ばれる社会階層が多くの割合を占めて いる。『固き絆』でとりあげたムハンマド=アブド ゥフは、近代西洋知識を身につけたウラマーとし て、これの中間的存在として生徒に位置づけさせ てもよいだろう。
3 「近代化」への不信と反発 〜下からのイスラーム改革
第1次中東戦争をまじめに戦わなかったアラブ 諸国の君主に対して、民族主義による革命が起こ され、第2次中東戦争の政治的勝利を勝ち得た。 しかし、1967年の第3次中東戦争で大敗し、ナセ
ルに代表されるようなアラブ民族主義の権威は失 墜した。この危機的状況がイスラーム覚醒を生じ させたといわれるほどの転機であったことをまず おさえさせる。また、この頃から、政治的闘争だ けではなく、顎鬚を生やす男性や女性のヴェール 着用など、イスラーム的と解釈される行動が顕在 化してくる。ただし、ステレオタイプの誤解を植 えつけることに終わらぬよう、ヴェールの形態や 着用理由は様々であることを教師側は補足しなけ ればならない。
ヒジュラ暦1400年直前の1979年は、イラン革命 や聖モスク占拠事件が起き、戦闘的なイスラーム 復興を印象づけた年
である。とくに、こ の写真のように、黒 いターバンと伝統的 長衣を身に着けた指 導者の存在は、イス ラーム復興の時代錯 誤的なイメージを強
化した。しかし、革命の背景にパフレヴィー朝の 人権を犠牲にした近代化政策があったことを理解 させなくてはいけない。また時代錯誤的なイメー ジのホメイニが、ラジオをかたわらに置いて国際 ニュースに気を配る今日的なリーダーであったこ とも補足が必要であろう。
4 グローバル化への疑念
〜精神のよりどころとしての信仰覚醒
東西冷戦終結と湾岸戦争は、イスラームの政治 的運動の位置づけを変化させた。アフガニスタン でソ連と戦っていたオサマ=ビン=ラーディンやム ジャーヒディーンと、これに対して援助していた アメリカとの関係は悪化する。さらに、湾岸戦争 以後のメッカ・メディナの両聖地を有するサウジ アラビアへのアメリカの軍事的プレゼンスは、イ スラームへの無理解から摩擦を増加させていく。 湾岸戦争の敵であるサダム=フセインを強大化さ せたのも、アメリカであったことにもふれたい。 イラク戦争でアメリカと戦ったアルカイダとタ
ーリバーンであるが、その違いを生徒に理解させ る必要がある。アルカイダのオサマ=ビン=ラーデ ィンは商学部、アイマン=ザワーヒリは医学部を 卒業している。彼らは、イスラームという伝統を 積極的に持ち出す世俗的教育を受けた近代主義者 といえる。これに対してターリバーンは、もとは パキスタンの
アフガニスタ ン難民のキャ ンプで成立し たものである。 難民の孤児た ちは、家庭で のイスラーム 教育もなく、
高等教育を受けた者と違い、マドラサで学んだ以 外の知識をもっていない。つまり、難民キャンプ で学んだイスラームだけを身につけ、自己の思想 を相対化する機会を持たない。これは、アフリカ などの少年兵と共通するものであり、難民問題と いうグローバル化の負の帰結の一つとして生徒に 提示したい。
おわりに
近代化が進めば世俗化が進み、生活における宗 教色は薄くなり、政治に宗教が介入することは固 く禁じられていく。それに対して、イスラーム世 界では歴史の流れに逆行した「原理主義者」がい る。このような、単一的な近代史観の囚われから、 生徒を自由にしなければいけない。近代化は様々 な要素から構成されている複合的な現象である。 複合されているものを分析し、理解することは決 して容易ではない。イスラームを突出させた「文 明の対立」的な諸事象の説明は、わかりやすい。 しかし、ワンフレーズでわかる世界観ではなく、 わからないものはわからないとして探求し続ける ことこそが、人間の尊厳であり喜びであることを、 授業を通して生徒に提示していきたい。
おもな参考文献
『イスラーム主義とは何か』大塚和夫 岩波新書 2004年
『タペストリー』p.36
絵画資料を読み解くための展開方法
三・一独立運動のレリーフ
(ソウル パゴダ公園)
香川県立三木高等学校 万野年紀
1.三・一独立運動
日本統治下の1919年3月1日、京城(現・ソウ ル)のパゴダ公園(現・タプコル公園)に集結し た学生が「独立万歳」を叫んでデモを開始した。 この後5月頃まで、デモ、ストライキ、あるいは 駐在所を襲撃するなど、朝鮮全域で反日独立運動 は盛り上がりをみせた。これに対し、日本の朝鮮 総督府は武力によって運動を弾圧するが、やがて、 統治方法は武断政治から文化政治(懐柔のため武 力統制を緩和し民族同化政策をとる)へと転換さ れることになる。憲兵警察制度の廃止や、集会・ 言論・出版の一定の範囲での許可などである。広 範囲な多数の民衆が参加した運動の成果とみるこ とができる(巧妙な政策転換ともいえる)。 レリーフの中央に描かれる柳寛順(ユ・グァン スン)は、運動に参加し逮捕・起訴され、獄中で 死去した梨花学堂学生であり、「朝鮮のジャンヌ= ダルク」と呼ばれている。
その約1か月前の2月8日、第一次世界大戦後 の民族自決主義の広まりと期待の中、東京の朝鮮 人留学生が独立宣言書を作成した(二・八宣言)。 このことを知った朝鮮の宗教指導者たち33名は、 来る3月3日に予定されていた国王高宗の葬儀直 前の3月1日に、パゴダ公園で独立宣言文を読み 上げることを計画する。高宗は反日の行動をとっ ていたため日本の圧力で退位させられ、悲劇の国 王として国民から敬愛されており、葬儀に向けて 多くの人々が京城に集まっていた。当日、計画し た宗教指導者たちは混乱を避けるとしてそこに現 れなかったが、集まっていた学生らによってデモ 行進が始まったのである。
2.近代の朝鮮と日本の関係
鎖国政策を堅持する朝鮮に圧力をかけ開国させ たのは日本であった。当時の朝鮮は、国王高宗の
父、大院君と王妃閔妃の対立で混乱しており、そ こに宗主国の清、そしてロシアと日本が触手を伸 ばしていた。1876年の日朝修好条規締結後、親清 派と親日派の抗争のなか、1894年に朝鮮支配をめ ぐる日清戦争がおこる。そして日本の勝利によっ て、次はロシアと日本の争いへと移る。1904年に 始まった日露戦争中に第1次日韓協約(日本政府 派遣顧問の採用)、日露戦争直後に第2次日韓協 約(日本政府による外交権掌握)、そしてハーグ 密使事件直後の1907年7月には第3次日韓協約 (日本政府の内政監督権掌握、韓国軍解散)が締 結される。それにともない反日義兵闘争が各地で 起こされるが、1910年には韓国併合条約によって 植民地化が完成する。しかし、三・一独立運動で の大衆運動のエネルギーは、朝鮮総督府による武 断政治を文化政治へと転換させることになる。こ
うした流れについては、「明解新世界史A 新訂版」
(以下、教科書)p.133 〜 135、p.162と、「タペス トリー *」p.216を参照して展開したい。その後、 日本における軍国主義の進展と大陸進出そして国 際的孤立化の中で、朝鮮での皇民化政策がさらに 推し進められるが、このことについては、教科書 p.171、「タペストリー」p.243を参照。
3.絵画資料を読み解くためのポイント