第 2 章 長野市の歴史的風致形成の背景
1 歴史的風致の舞台としての自然
(1)地勢
長野市は、本州の中央部長野県の北部に位置し、上信越高原国立公園の飯縄山、戸隠山、 黒姫山(信濃町) 等の北信五岳を背景に、 面積は834.85 k㎡、 広さは東西36.5km、 南北 41.7 km、 市 域 の 最 高 地 点 は 高 妻 山 頂 の2,353m、 最 も 低 い の は 豊 野 町 浅 野 地 区 の327.4 mとなっている。市域での標高差は、実に2,025.6mもある。そのうち標高600m以下の 土 地 が 約60 %( 県 平
均11.5 %) を 占 め て い る。 平 坦 部 に は、1 級 河 川 で あ る 千 曲 川、 犀 川 の 二 大 河 川 が 流 下 し、 長 野 盆 地 を 形 成している。
明 治30年(1897) に 市 制 を 施 行 し て 県 庁 の あ る 県 内 初 の 市 と な っ た。 こ の と き の市域の面積は9k
㎡、 人 口 は3万 人 に 過 ぎ な か っ た。 そ の 後、大正12年(1923)、 昭 和29年(1954) の 編 入 合 併、 昭 和41年
(1966) の 大 合 併、 平 成 17 年(2005)、 平 成22年(2010) の 編 入 合 併 を 経 て 人 口 約
39万人の長野市となった。
(2)地形
①地形概観
長野市の地形は大きく区分すると、中心にある長野盆地とその西側の西部山地、東側の 東部山地の3地域に分けられる。西部山地山麓線には、聖川扇状地、犀川扇状地、裾花川 扇状地、浅川扇状地の4つの扇状地が南から北へと並んでいる。東部山地の地形は西部山 地に比べて急峻な壮年期の地形で、その山脚は盆地に向かって半島状に突き出し、千曲川 の氾濫原や支流の扇状地下に没している。
長野市の位置
長野市域の地形概観 S=1/300,000
盆地西縁部では、裾花凝灰岩から構成される急斜面からなる山地と盆地の平坦地との境 界に極めて明瞭な断層が直線的に連続する。弘化4年(1847)に発生した善光寺地震(マ グニチュード7.4) は、 この盆地西縁部の活断層が動き発生した大規模な内陸直下型地震 であった。
東西山地帯に囲まれた低地が長野盆地であり、第4紀中ごろに形成された盆地で、大部 分 が 沈 降 し た 盆 地 域 に 千 曲 川・ 犀 川 の 洪 水 時 の 氾 濫 原 堆 積 物 や 周 辺 山 地 か ら 流 下 す る 扇 状 地 堆 積 物 な ど に よ っ て 肥 沃 な 沖 積 地 が 形 成 さ れ て い る。 千 曲 川 の 下 流 域 に 形 成 さ れ た 中 央 高 地 を 代 表 す る 広 大 な 盆 地 で、 最 大 幅10km、 南 西 か ら 北 東 に 長 軸 を も つ 狭 長 な 盆 地
裾花川
浅川
楠川
犀川
千曲川 土尻川
川小
聖川 高妻山
飯縄山 戸隠山
荒倉山
裾 奥
渓 花
谷
長野盆地
東部山地 西部山地
で、 面 積 は300 k㎡ あ る。 標 高 は330m か ら 360m で、 高 度 差 が30 m と き わ め て 低 平 な 盆 地 と な っ て い る。 長 さ は 千 曲 市 の 粟 佐 橋 か ら 中 野 市 の 立 ケ 花 ま で の 30kmで あ る。 傾 斜 地 の 多 い 長 野 県 に あ っ て、 長 野 盆 地 は、1,000分 の 3 度 未 満 の 平 坦 地 の 割 合 が 高 い こ と が 特 徴 となっている。
戸 隠 地 区 は、 長 野 市 中 心 市 街 地 か ら は 北 西 部に位置し、標高2,000 m を 超 え る 戸 隠 山 や 荒 倉 山、 飯 縄 山 に 三 方 を
囲まれた標高1,000mを超える高原地帯である。約400万年前の浅い海の地層から、貝な ど の 化 石( シ ナ ノ ホ タ テ、 シ ガ ラ ミ サ ル ボ ウ 等 ) が 豊 富 に 産 出 す る。 平 成17年(2005) に長野市に編入合併し、現在に至っている。
鬼無里地区は、長野市の西部、戸隠地区のさらに西側に位置し、長野市中心部から西へ 約20kmほど裾花川を遡り、裾花峡(裾花渓谷)を抜けると谷が開け、鬼無里盆地となる。 この盆地を中心に広がる中山間地であり、川沿いの沖積地と河岸段丘の平地、大部分の 面積を占める山地とで構成される。日本書紀には、天武
天皇(7世紀後半)の信濃への遷都計画が記されており、 そ れ が 鬼 無 里 の 地 で あ り、 現 在 あ る 東
ひがしきょう
京、 西
にしきょう
京 な ど の 地 名 は、 そ の 時 の 遷 都 に 由 来 し て い る と い う 遷 都 伝 説 がある。
鬼無里地域には約1,000万年から約200万年前に堆積 した様々な地層が広がっており、奥裾花渓谷ではこれら の地層が南北方向でV字状に曲げられた「褶曲構造」や、 傾いた地層が広大な面をなして階段状になっている「ケ ス タ 地 形 」、「 ハ チ ノ ス 状 風 化 岩 」 な ど が み ら れ、 雄 大 な渓谷美をつくり上げている。
こ う し た 長 野 盆 地 や 周 辺 の 山 地、 千 曲 川 や 犀 川 が 形
長野盆地の東西模式断面
シナノホタテ シガラミサルボウ
ハチノス状風化岩
づくった地形がこの地域に住んだ人々が現在まで歴史を織りなす舞台となった。
②千曲川
千 曲 川 は 山 梨( 甲 斐 )・ 埼 玉( 武 蔵 )・ 長 野( 信 濃 )3 県 の 県( 国 ) 境 で あ る 南 佐 久 郡 川 上 村 甲
こ ぶ しが た け
武 信 ケ 岳( 標 高2,475m)、金
きんぽうさん
峰山(2,599 m ) の コ メ ツ ガ、 シ ラ ビ ソ の 針 葉 樹 林 の 北 斜 面 を 源 と す る。 多 く の 支 流 を 樹 枝 状 に 合 流 し な が ら、 新 潟 県 境 の 下 水 内 郡 栄 村 ま で 213.5km、 標高差では2,000m を 流 れ 下 る 日 本 有 数 の 大 河 である。
千 曲 市 の 杭 瀬 下 地 点 で ほ ぼ90度 流 れ を 変 え、 蛇 行 し な が ら 盆 地 を 流 れ る。 こ の 千 曲 川 へ 西 か ら 聖 川、 犀 川、
浅川、東からは蛭川、保科川が合流する。 蛭 川 は 松 代 の 街 を の せ る 扇 状 地、 保 科 川 は 若 穂 川 田 を の せ る 扇 状 地 を 形 成 し て い る。 千 曲 川 は 犀 川 扇 状 地 の 押 し 出 し に よ っ て、 盆 地 中 央 か ら 南 東 側 に 押 し や ら れ、 長 野 盆 地 東 部 山 地 と 西 部 山 地 と の 間 に 縦 谷 を 造 っ て 流 れ る。 さ ら に、 千 曲 川 は 犀 川 の 合 流 点 か ら 北 流 す る に し た が い、 西 方 か ら 流 れ 込 む 川 が
ないのに対して、東方から流入する百々川、松川などの堆積作用が強まるため、流路を盆 地中央から西寄りに移している。
千曲市の杭瀬下で大きく流れを変えた千曲川は、1,000分の1度と河床勾配も緩やかに なり、左岸側に長大な自然堤防を形成し、弥生時代以降現在に至るまで居住域となり、山 際までの後背湿地も弥生時代から現在まで水田域となっており、農耕集落の原風景をつく り出している。
千曲川(長野市と千曲市の境) 主要な河川
裾花川
浅川
楠川
犀川
千曲川 土尻川
川小
聖川
百々川 松川 花 裾
川
千曲川
保科川 蛭川
千曲市
須坂市 小布施町 飯綱町
信濃町 小谷村
白馬村
小川村
大町市
上田市
③犀川
千 曲 川 の 最 大 の 支 流 で あ る 犀 川 は、 北 ア ル プ ス 槍 ヶ 岳( 標 高3,180m) か ら 流 れ 出 る 梓 川 と 高 瀬 川 が 合 流 し て、 長 野 市 若 穂 の 落 合 橋 ま で お よ そ100km、 標高差2,800mを流れ下る。犀川は、横 谷 と し て 西 部 山 地 を 削 り、 犀 口( 篠 ノ 井 小 松 原 ) で 長 野 盆 地 に 出 て、 そ の 堆 積 物 で 川 中 島 の 扇 状 地 を 形 成 し、 そ の ま ま 真 東 に 流 れ て 大 豆 島 と 若 穂 綿 内 地 籍 で 千 曲 川 に 合 流 す る。 犀 川 に 合 流 す る 裾 花 川 は 裾 花 川 扇
状 地、 そ の 北 部 の 浅 川 は 浅 川 扇 状 地 を形成している。 犀 川 は 標 高362 m の 犀 口 か ら 東 方 に 直 線 状 に 流 下 し、 盆 地 東 端 の 千 曲 川 合 流 部( 若 穂 綿 内 ) の 標 高 は338m で、 この勾配は1,000 分 の2.6度 で 千 曲
川に比べるとはるかに急勾配となっている。このため、犀川は犀口から網状に広がって流 れも速く、砂礫を堆積しながら扇状地を形成した。犀川の網状流路により、微小な起伏が 傾斜方向に放射状に配列し、微低地は旧河道、微高地は中州や自然堤防であり、微低地は 水 田 や 水 路( 堰 )、 微 高 地 は 集 落・ 畑・ 果 樹 園 に 利 用 さ れ、 地 形 と 生 活 環 境 が 密 接 に 結 び ついている。
(3)気候
長野市は、長野盆地のほぼ中央部とその周囲の山地を占め、気候としては犀川をはさん で、北部は日本海側、南部は太平洋側の影響を受けやすく、気候上の地域差が大きい。また、 四方を山に囲まれているため大陸内部によく似た、いわゆる内陸的な気候を示し、寒暖の 差が大きく、降水量は少ない。しかし、冬の降雪量は比較的多く、平年値(昭和56年(1981)
〜平成22年(2010) の統計値) は170.1cmで、 同じ内陸性気候である松本市の82.8cmの 約2倍に達している。
長野盆地の微地形(網状流路) 千曲川と犀川の合流部
○気温
内陸性気候の特徴の一つは、気温の年較差(月平均気温の最暖月と最寒月の差)や日較 差(日最高気温と日最低気温の年平均の差)が大きいことである。
右 の 表 か ら も 分 か る よ う に、 長 野 市 な ど 内 陸 部 の 気 温 の 年 較 差 や 日 較 差 は、 静 岡 市 な ど 沿 岸 部 と 比 べ て2℃から3℃かそれ以上も大きい。また、内陸部と 沿 岸 部 の 気 温 日 較 差 の 年 変 化 の グ ラ フ か ら み る と、 長 野 や 松 本 の 変 化 の 傾 向 は、 静 岡 な ど 太 平 洋 気 候 の 年 変 化 型 で は な く て、 金 沢 な ど 日 本 海 岸 気 候 の 年 変 化型を示している。
○降水量
降 水 量 が 少 な く て 湿 度 が 低 い こ と も 内 陸 性 気 候 の 特 徴 で あ る。 長 野 市 の 年 平均降水量は932.7mm(昭和56年(1981)
~平成22年(2010)の統計値)で1,000mm 未 満 と な っ て い る。 日 本 で 年 降 水 量 が 1,000mm未 満 の と こ ろ は、 北 海 道 東 北 部 と 長 野 県 内 の 長 野 盆 地 か ら 上 田・ 佐 久 盆 地 に か け て の 平 坦 部 で あ っ て、 こ の 2 つ の 区 域 は 日 本 列 島 で 降 水 量 の 最 も 少 な い 地 域 で あ る。 長 野 市 域 の 降 水 量 は、 平 坦 部 で は1,000mm未 満 で あ る が、 周 囲 の 山 地 で は 年 平 均1,200か ら 1,500mmであり、地域差は大きい。
内陸部と沿岸の気候の比較
内陸部と沿岸部の気温日較差の年変化 長野市の月別平均気温
長野市の月別平均降水量
○湿度
沿 岸 部 と 内 陸 部 の3都 市 に お け る 月 平 均 湿 度 の 年 変 化 を 現 し た グ ラ フ が 右 の 図 で あ る。 金 沢 と 静 岡 は 共 に 沿 岸 部 の 都 市 で あ る が、 冬 の 日 本 海 側 の 多 湿 に 対 し て 太 平 洋 側 で は 著 し い 乾 燥 状 態 に な っ て い る。 長 野 市 の 冬 の 湿 度 が 高 い の は、 日 本 海 に 近 い こ と よ り も む し ろ 海 抜 が 高 く、 内 陸 特 有 の 冷 え 込 み で 気 温 が 低 い た め で あ り、 水 蒸 気 の 絶 対 量 で み る と 日 本 海 沿岸の地方よりはるかに少なくなっている。夏の湿
度は両沿岸部ともきわめて高いが、それと比べて長野市はかなり低く、内陸の特性が雨期 の湿度の差にもよく現れている。
○霧の発生
気 象 現 象 の 中 で 長 野 盆 地 で は 霧 の 発 生 が 多 く、 年 間 発 生 日 数11日( 昭 和56年(1981)
~平成22年(2010)の平均値『理科年表』)のうちほぼ半数は秋に集中している。内陸に ある長野では比較的大気が安定する秋には、地面や山腹の放射冷却による冷たい空気が盆 地にたまって発生する放射霧(盆地霧)が多い。千曲川や犀川沿いでは、暖かな川面に冷 たい空気が触れてできる蒸気霧(川霧)の発生も加わるので、霧の日数が多くなる。霧に ま つ わ る 話 で は、 川 中 島 の 第4回 の 戦 い( 永 禄4年(1561)) の 中 で、9月10日( 現 行 暦 10月28日) 放射霧と蒸気霧が濃く立ちこめる未明をねらっての上杉勢の奇襲作戦が『甲 陽軍鑑』に記されている。
○多様性を示す長野の気候
長野市における気温の日較差や湿度の年変化型では、日本海岸気候のタイプとなる。し かし、月別(または旬別)降水量の年変化や降水割合などからみると、太平洋岸気候のタ イプとなる。長野市の気候といっても長野盆地の平坦地と山間地、犀川をはさんで北部と 南部では、かなり違った様相を示している。総合すると、太平洋岸気候区の中の内陸気候 区分に属するといえる。しかし、犀川より北では冬など日本海側の影響がよく現れ、日本 海側気候と太平洋岸気候を複合した中間的な気候とみることができる。
中部地方における湿度の年変化
2 社会環境
(1)人口
長野県の県庁所在地である長野市は、平成25年(2013)1月1日時点の人口が386,938 人 と な っ て い る。 近 年 の 町 村 合 併 に よ っ て 市 域 が 大 き く 広 が る も の の、 人 口 に つ い て は、 合併町村がそれぞれ数千人規模ということもあってそれほど大きな変動はなく推移してい る。近年の長野市における町村合併の経緯は、平成17年(2005)1月に、豊野町、戸隠村、 鬼無里村、大岡村と合併し、平成22年(2010)1月には、信州新町、中条村と合併した。 長 野 市 の 人 口 の ピ ー ク は、 合 併 前 の 平 成12年(2000) で、 国 勢 調 査 に よ れ ば387,911人 に な っ て い る。 し か し、 こ の と き 既 に、 平 成17年(2005) に 合 併 し た 戸 隠、 鬼 無 里、 大 岡 等 で 人 口 減 少 が 続 い て い た た め、 平 成17年(2005) の 国 勢 調 査 で は、 人 口 が386,572 人となり、初めて総人口が減少に転じた。その後、平成22年(2010)1月の合併を経て、 人口383,334人となるも、 平成25年(2013) 1月では、 平成17年(2005) の国勢調査時 とほぼ同じ人口となっている。今後も総人口が徐々に減少していくとともに、長野市内の 各地域をみたときに、旧合併町村を含めた周辺地域の人口減少と、その受け皿となる長野 市街地への人口流入が続いていくものと想定される。
長野市の人口推移
資料:平成 17 年までは総務省「国勢調査」結果。平成 22 年以降は、長野市企画課の統計。
※平成 17 年の人口は、平成 17 年合併町村を含む。
※平成 22 年の人口は、平成 22 年合併町村を含む
(2)産業
本市の第二次産業としては、食料品、出版・印刷、電子デバイス・情報通信機器関連な どを中心に発展を続けてきたが、国際的な競争力が求められる今日、製造拠点の統廃合や 海外シフトなどが進み、第二次産業から第三次産業へと産業構造が徐々に変化しつつある。 また、第一次産業については、全体的な構成比は1%に満たないものの、従業者数を少し ずつ伸ばしている状況であり、農業分野においては、長野市の土地特性である千曲川沿岸 の肥沃な平坦地から標高1,000mの高冷地に至る広大な耕地を生かした、バラエティーに 富んだ農産物を生産している。とりわけ、りんご、桃をはじめとした果物は、生産量も多く、 全国の消費者から愛されるブランドとなっている。また、本市において消費量が多い大豆・ 小麦・そばなどは、これまで地域に根付いた食材として親しまれてきたことから、奨励作 物に指定して生産の拡大を図っている。
現在では、地域の特性や高い技術力を知的財産と結びつけ、新たな成長産業創出へと積 極的に挑戦していくため、産・学・行(産:企業(産業界)、学:大学等の学術研究機関、 行:行政機関)の連携にも力を入れている。
長野市の産業分類別従業者数の推移
(3)観光
善光寺とその門前町は、古くから信仰の中心として全国の人々に親しまれ、周辺に広が る宿坊・仲見世などが観光の中心として賑わいをみせている。とりわけ、数え年で7年に 一度ごと開催される善光寺御開帳の年は、例年に比べて飛躍的に観光客が増加する。 また、真田十万石の城下町である松代は、当時の面影を残した歴史的建造物が数多く点 在 し て い る。 こ れ ら 地 域 の 観 光 資 源 を、 住 民 自 ら が 守 り 育 て よ う と、「 エ コ ー ル・ ド・ ま つ し ろ 」( 松 代 の 文 化 財 を 活 用 し た 生 涯 学 習 プ ロ ジ ェ ク ト ) が 取 り 組 ま れ、 訪 れ る 観 光 客 をもてなしている。
さらに、戸隠・鬼無里をはじめとした地域は、豊かな自然環境の中に、古くから伝わる 様々な歴史・文化・芸能があり、秘められた観光資源が残されている。
観光地利用客の推移
(4)交通
長野市は、明治4年(1871)以来、長野県の県庁所在地として発展を遂げ、官庁、金融 機関、事業所などの都市機能の集積に伴い、活発な人的交流と情報が集中する中核都市と して発展してきた。
本 市 と 他 地 域 を 結 ぶ 交 通 機 能 は、 善 光 寺 門 前 に 位 置 す る 長 野 市 の 中 心 市 街 地 を 中 心 に、 道路と鉄道が整備されている。まず、道路については、長野市から名古屋市へ延びている 国道19号と、群馬県高崎市と新潟県上越市を結ぶ国道18号が交わる交通の結節点となっ ている。また、市内南部松代地域には、東西に上信越自動車道が走っており、長野I.Cと 市 街 地 は、 国 道18号 と 主 要 県 道 に よ っ て 接 続 さ れ て い る。 次 に、 鉄 道 に つ い て は、 平 成 9年(1997)10月にJR東京駅からJR長野駅間において長野新幹線(正式名称:北陸新幹線) が 開 通 し、 首 都 圏 か ら 訪 れ る 観 光 客 の 利 便 性 が 向 上 し た。 さ ら に 長 野 新 幹 線 が 平 成27年
(2015) 3 月 に 金 沢 駅 ま で 延 伸 し た こ と で、 北 陸 方 面 か ら の 観 光 客 の 利 便 性 が 向 上 し、 名 称 も 北 陸 新 幹 線( 長 野 経 由 ) に 改 め ら れ た。JR長 野 駅 の 在 来 線 と し て は、 長 野 県 飯 山 市 に繋がるJR飯山線、長野県松本市に繋がるJR篠ノ井線、長野県北佐久郡軽井沢町に繋が るしなの鉄道しなの鉄道線、新潟県上越市に繋がるしなの鉄道北しなの線があり、長野市 と 長 野 県 下 高 井 郡
山 ノ 内 町 を 結 ぶ 長 野 電 鉄 長 野 線 が あ る。 な お、 長 野 市 南 部 の 松 代・ 若 穂 地 域 に は、 長 野 県 須 坂 市 と 長 野 県 千 曲 市 を 結 ぶ 長 野 電 鉄 屋 代 線 が 通 っ て いたが、平成24年
(2012)3 月 31 日 に 廃 線 と な り、 代 替 バ ス の 運 行 に 切 り替わっている。
長野市の交通
戸隠 鬼無里
松代
北陸新幹線(長野経由) JR 線
国道 高速道路 善光寺
私鉄 長野電鉄長野線
しなの鉄道北しなの線 JR飯山線
JR篠ノ井線
R18
R18
R18
R19 R19
R19
上信越自動車道
長野道 上信越自動車道
(名古屋市)至松本市
至上田市
(高崎市)
至湯田中駅 至上越市
長野 I.C 更埴 I.C
須坂長野東 I.C 信州中野 I.C
しなの鉄道しなの鉄道線
須坂市
千曲市 飯綱町 信濃町 新潟県妙高市
小谷村
白馬村
小川村
小布施町
3 歴史の変遷
(1)長野盆地の黎明
長 野 市 域 に お け る 歴 史 の 舞 台 へ の 第 一 歩 は、 飯 綱 高 原 に あ る 上 ケ 屋 遺 跡 で、 今 か ら 約2万 年 前 の 後 期 旧 石 器 時 代 に 遡 る。 上 ケ 屋 遺 跡 の 人 々 は、 半 径 十 数 キ ロ メ ー ト ル を 日 常 生 活 の 領 域 と し て、 そ の 中 を 周 回 し て い た と 考 え ら れ、 飯 綱 高 原 は 湖 沼 の 周 辺 に 集 ま る 動 物 た ち と、 そ れ を 追 っ て き た 人 々 が 生 活 の 舞 台とした場所であった。
12,000年 前 に 最 終 氷 期 が 終 わ る と、
落 葉 広 葉 樹 が 繁 茂 す る 湿 潤 な モ ン ス ー ン 気 候 に 自 然 環 境 は変わり、豊かな森を舞台に縄文時代の狩猟採集の文化が 展開する。戸隠地区の荷取洞窟からは、最古の縄文草創期 の土器等が出土している。
千 曲 川 河 岸 の 地 下 4mか ら は 縄 文 時 代 前 期 の 集 落 が 発 見 されており、縄文人が山間地から長野盆地の中州や自然堤 防、扇状地に進出したことが確認されている。
弥 生 時 代 に な る と、 千 曲 川 の 自 然 堤 防 上 に 集 落、 後 背 湿 地 を 水 田 と す る 稲 作 農 耕 が 始 ま る。 稲 作 農 耕 の 開 始 に よ り 社 会 の 仕 組 み そ の も の が 大 き く 変 わ り、 ム ラ 同 士 の 抗 争 も 生 ま れ、 ム ラ の ま わ り に 大 き な 溝 を 巡 ら し た 環 濠 集 落 が 出 現 し た( 千 曲 川 右 岸 の 自 然 堤 防 上 の 松 原 遺 跡 )。 水
みのちましますいちげん
内 坐 一 元 神 社 遺 跡 で は、 環 濠 か ら 彩 色 を 施 し た 盾 が 出 土している。弥生時代後期には、千曲川流域にベンガラを 塗って焼成した「赤い土器」が分布する地域色の強い「赤 い土器のクニ」文化圏が形成された。弥生時代も終わりに なると、ムラ長
おさ
の墓が築造され、鉄製武器などが副葬され ることから、武力を背景にした階層や当時の緊張関係を窺 うことができる。
(2)長野盆地の首長層と政治的社会
古墳時代の前半期には、大和政権との繋がりを示す大型の前方後円墳(川柳将軍塚古墳 や和田東山古墳等)が累代的に築造され、地域を治める「王」が存在し、広域の緩やかな 地 域 的 政 治 圏 が 形 成 さ れ た と み ら れ る。 古 墳 時 代 中 期 後 半 代 に な る と、 前 方 後 円 墳 の 築
飯綱高原(飯縄山と大座法師池)
水内坐一元神社遺跡の盾
(復元模型)
造 は 停 止 し、 こ れ と 入 れ 替 わ る か の よ う に 積 石 塚 古 墳 の 築 造 が み ら れ る よ う に な る。 大 室 古 墳 群 で は、 約500基 の 古 墳 の う ち80%が 積 石 塚 古 墳 で あ り、 全 国 的 に も 特 異 な 合 掌 形 石 室 が 集 中 し て 構 築 さ れ るなど、地域色が顕在化する。
古 墳 を 築 造 す る 背 景 に あ っ た 集 落 と し て は、 千 曲 川 の 自 然 堤 防 上 に あ る 篠 ノ 井 遺 跡 群( 古 墳 時 代 中 期 ~ 後 期 )、 榎 田 遺 跡( 古 墳 時 代 後 期 ) や 浅 川 扇 状 地 の 本 村 東 沖 遺 跡( 古 墳 時 代 中 期 ) な ど の 中 核 的 集 落 と 周 辺 の 小 規 模 集 落 と い う 構 造 化 が 一層進む。
古墳時代中期後半代以降の変化は、「東 山 道 」 の 整 備 に よ る 陸 上 交 通 路 の 重 要 性 の 増 大 や 馬 匹 生 産 の 展 開 等 の 社 会 背 景、 さ ら に は 国 造 制・ 部 民 制・ 屯 倉 等 の 中 央 政 権 の 政 策 に よ り、 千 曲 川 中 流 域 を 中 心 と す る 緩 や か な 政 治 圏・ 地 域 圏 で あ っ た
「シナノのクニ」が「科野」・「信濃」へと至
る過程を反映している。さらに、律令制下で誕生した「科野」・「信濃」は、その後、現在 に至るまでほとんど領域変化がなく、古墳時代に形づくられた地域的政治圏がそのまま根 底に継承されるという特筆すべき地域的特性を有している。
平安時代の『延喜式』によれば、信濃国は10郡から成り立っていた。長野盆地は更級・ 水 内・ 高 井・ 埴 科 の 4 郡 で 構 成 さ れ、29の 郷 が あ っ た と 記 さ れ て い る。 信 濃 の 中 で 人 口 の集中する地域が更級郡であり、4郡の中でも中心的な郡であった。
(3)中世への胎動
承 和8年(841) の 地 震、 仁 和4年(888) の 仁 和 の 大 洪 水 な ど8・9世 紀 の 文 献 に は 幾 度となく天候不順や自然災害が起こったことが書き留められ、近年の発掘調査でもその痕 跡が確認されている。平安時代の9世紀には信濃各地の農村で耕地の荒廃や百姓の没落が 進み、それまで村々をまとめてきた郡司は伝統的な権威のみで支配を続けることができな くなり、富裕者、新興有力者が台頭する。そうした有力者の郡政の請け負いが政府の政策 としても推し進められた。8世紀後半から9世紀初め頃に長野盆地で進められた条里水田 の再開発などは、こうした郡司や新興有力者層を国
こくが
衙が組織して進めた事業であったので はないかと考えられている。南宮遺跡(篠ノ井東福寺)は、当時勢力を持ちつつあった有
和田東山 3 号墳竪穴式石室(若穂保科)
大室 168 号墳(合掌形石室)(松代町)
力者を中心とする集落であった。
飛 鳥・ 奈 良 時 代 に 国 家 的 性 格 を 持 つ 信 仰 と し て は じ ま っ た 観 音 信 仰 は、 平 安 時 代 に な る と 貴 族 層 に も 受 容 さ れ、 観 音 信 仰 を 基 盤 に し た 霊 場 が 形 成 さ れ た。 清 水 寺( 松 代 町 西 条 )、 観音寺(信更町)、正覚院(安茂里)、地蔵院(若 槻)のほか観龍寺(千曲市)、智識寺(千曲市) な ど に は 平 安 時 代 の 観 音 像 が 残 り、 長 野 盆 地 で も 平 安 時 代 に 観 音 霊 場 が 形 成 さ れ た こ と が 窺える。
10世紀後半以降、末法思想が広まるにつれ、観音信仰の地に経塚が造られるようになる。 平安時代の信仰が山への信仰を基盤にしており、北信濃における観音信仰や末法思想の広 がりの中から善光寺や戸隠の信仰が生まれた。
北信濃の古代観音像・経塚及び社寺分布図(長野市立博物館 2003 より)
平安時代集落の南宮遺跡調査(篠ノ井東福寺)
(4)善光寺門前町の成立と発展
末法思想の広がりとともに、鎌倉幕府の善光寺保護政策により、治承3年(1179)に焼 失した善光寺の再建が行われる。また、全国各地で有力御家人を檀那とした新善光寺を建 立したり、善光寺仏を模造することがブームになり、鎌倉時代後期には全国各地に新善光 寺が勧請され、善光寺信仰は全国に広がった。全国から善光寺への参詣人が増加するに伴っ て参詣路も発達した。『一遍聖絵』(正安元年(1299))、『遊行上人絵伝』(徳治2年(1307) ま で に 制 作 ) は、 文 永 年 間 に 再 建 さ れ た 善 光 寺 や 門 前 の 賑 わ い を 伝 え て い る。 応 永7年
(1400)には「善光寺の南大門および裾花川の高畠に履子を打つ所なし」(『大塔物語』)と 門前の賑わいが記されている。
門前の住人は、大工・仏師・絵師・遊女・琵琶法師・絵解き法師など善光寺如来に直接 結縁し世俗を脱した人々で、農村とは異なった町の世界が善光寺門前に展開していた。室 町時代には、善光寺信仰と戸隠・飯縄信仰がセットになり、多くの参詣者を集めた。
(5)松代城と城下町
戦国時代以降、北信濃は領地争奪の場となる。甲斐の武田信玄(晴信)は、北信濃攻略 の 前 進 基 地 と し て 松 代 城( 海 津 城 ) を 築 き、 村 上 氏 な ど 国 人 領 主 は 上 杉 謙 信( 長 尾 景 虎 ) に救援を求めた。武田と上杉による「川中島の合戦」は、複数回にわたるが、永禄4年(1561) の合戦では、両軍合わせて少なくとも1,000人以上の戦死者が出たと推察される。川中島 の合戦については、当時の確実な史料は少ないが、江戸時代以降、戦記物や浮世絵など多 くの物語や絵図に記される。その内容には虚構や誇張も多く史実とは言い難いが、川中島 の合戦に対する強い関心が庶民層に広く浸透していたことを窺わせる。
松代城には、武田氏の滅亡後は織田方の森長可が入り、織田氏の滅亡後は上杉方の村上、 上条、須田、その後は豊臣方の田丸と短期間にめまぐるしく城主が代わった。この間、松 代城主の政治的権限は強まり、北信四郡(高井・水内・更級・埴科)の中核としての機能 が高まった。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、松代城には森長可の弟の森忠政が入 り、二の丸・三の丸の整備が行われた。元和8年(1622)に真田信之が上田から移封され て以降、明治の廃城までの約250年間、松代城は真田氏の居城となる。
初代松代藩主信之の頃はまだ財政的に余裕があったが、江戸幕府からの厳しい課役に加 え、度重なる災害によって財政は困窮を極めた。享保2年(1717)の火災では、城を全焼 し、その再建のために幕府より1万両を借入れている。
文政6年(1823)に松代藩の8代藩主として真田幸貫が家督を相続すると、武術や学問 の奨励や新たな殖産興業政策が展開される。松平定信の次男であり、真田家に養子として 迎えられた幸貫は、藩の軍備を増強し、佐久間象山や村上英俊などの洋学知識を有する人 材育成に力を入れ、文武学校の建設を進めた。また、養蚕・製糸業に対する本格的な保護 政策も進められた。
(6)善光寺信仰の広がり
善光寺は雷火や火災で何度も焼失し、寛文6年(1666)に如来堂(本堂)の仮堂が建て られたが傷みが進み、元禄5年(1692)から本格的な本堂再建計画が始まる。再建費用を 賄うため、江戸・京都・大坂で出開帳を催し、どこでも大変な盛況であった。工事は、門 前 町 か ら 類 焼 し な い よ う に 本 堂 を 北 へ 移 す こ と と し、 新 敷 地 を 造 成 し た。 し か し、 元 禄 13年(1700)に町家から類焼し、建築中の本堂も集積した用材も灰燼に帰した。
これまで善光寺が自力で進めてきた再建を危ぶんだ幕府は、自ら介入する形で再建を行 い、 元 禄14年(1701) か ら 宝 永3年(1706) ま で の6カ 年 間、 日 本 全 国 を 回 る 回 国 開 帳 に踏み切り再建費用を集めた。工事は急ピッチで進み、宝永4年(1707)に落成した。 全国津々浦々の庶民にまで善光寺信仰が浸透したのは、各地で人々が熱狂的に群参した 元禄・宝永の回国開帳を契機としてであった。以後、善光寺参りの男女が増大し、特に女 性の多いことは善光寺参りの大きな特色である。東西南北から信濃へ入る道はすべて善光 寺道となり、路傍に善光寺を指し示す道標が建てられた。
江戸時代後期になると、出開帳の完了、堂舎修復の完成、常念仏日数の区切りなどを機 に、 居 開 帳 は 江 戸 時 代 に15回 行 わ れ、 回 を 重 ね る ご と に 盛 況 と な っ た。 三 寺 中 の 院 坊 は 信者を宿泊させ、本堂・諸道順拝や本堂のお籠もり、御印文頂戴などの世話をするととも に、 全 国 各 地 に 善 光 寺 講 を 組 織 し た。 明 和 年 間(1764~1772) 頃 に は、 諸 国 の 檀 那 場 を 郡単位で院坊に割り振る持
もちごおりせい
郡制が定まった。
(7)戸隠神社と戸隠信仰
善光寺と同じく、県内外へ広く浸透していった信仰に戸隠神社の信仰がある。現在の戸 隠神社は、奥社、中社、宝光社、九頭龍社、火之御子社の五社からなるものの、このよう に神社を中心とした形に整えられたのは明治維新以降であり、江戸時代までは、戸隠山顕 光寺を中心とした信仰が主であった。戸隠の歴史は古く、最も古い記録の『阿
あさばしょう
娑縛抄』に よ れ ば、 戸 隠 寺( 現 在 の 戸 隠 神 社 を 指 す ) が、 嘉 祥 2 年(849) 頃 に 学 門 行 者 に よ っ て 開 山されたとあり、また、『吾妻鏡』には、天台宗末寺としての顕光寺の名がある。そして、 こ の 戸 隠 山 顕 光 寺 が 徐 々 に 発 展 し て 整 え ら れ た、 本 院( 奥 院 )、 中 院、 宝 光 院 か ら な る 天 台宗寺院が、江戸時代までの信仰の中心であった。さらに、戸隠は、そこに古くから農業 神として庶民の信仰を集めていた九頭龍権現に代表される神道が一体化したため、多くの 修験僧が修行に訪れる神仏混淆の聖地としても栄えていた。そして、慶長以来続いてきた 天台宗の僧は、明治維新の廃仏毀釈によって還俗して神職となり、神社に奉仕する形となっ て今に至っている。また、戸隠神社には、江戸時代以前から、多くの参拝者が信濃国内外 から訪れていたために、四方八方から戸隠へ通じる信仰の道が延びている。とりわけ、善 光寺から戸隠に通じる表参道は、双方を参拝する参詣者が通るために、最も多くの人々が 往来した信仰の道であった。
(8)北国街道と交通運輸 江 戸 時 代 の 主 要 街 道 は、 江 戸 日 本 橋 を 起 点 と す る 五 街 道 と そ れ に 次 ぐ 脇 街 道 が あ り、 長 野 市 域 に は 脇 街 道 の 一 つ 北 国 街 道( 北 国 往 還 ) が 通 っ て い た。 北 国 街 道 は、 江 戸 か ら 来 る と 中 山 道 追 分 宿( 軽 井 沢 町 ) で 分 岐 し、 小 諸、 上 田、 坂 木( 坂 城 町 ) の 各 宿 を 通 り、 矢 代 宿( 千 曲 市 ) を 過 ぎ て 二 つ に 分 か れ る。 一 つ は 矢 代 の 渡 し で 千 曲 川 を 渡 り、 丹 波 島 宿 か ら 市 村 の 渡 し で 犀 川 を 越 え 善 光 寺 宿 か ら 牟 礼 宿( 飯 綱 町 ) に 至 る ル ー ト、 も う 一 つ は 松 代 城 下 を 通 り、 福 島 宿( 須 坂 市 ) 北 の 布 野 の 渡 し で 千 曲 川 を 渡 り 長 沼 宿 か ら 牟 礼 宿 に 向 か う ル ー ト で あ っ た。 後 者 が 戦 国 時 代 か ら 江 戸 時 代 初 期 の 主 要 道 で、 上 杉 景 勝 が 川 中 島 平 に 進 出 す る た め に 整
備した軍事目的の強い道であり、長沼城と松代城を結んでいた。
慶 長16年(1611) に 北 国 街 道 の 宿 駅 の 設 定 が 行 わ れ た と き、 松 代 道 と と も に 善 光 寺 道 の道筋も公認され、次第に繁栄する善光寺町を通る街道が主となっていった。松代道は主 に 犀 川 の 洪 水 に よ る 舟 留 め の 時 に 迂 回 路 と し て 利 用 さ れ た の で、「 雨 降 り 街 道 」 と も 呼 ば れた。
北 国 街 道 は、 善 光 寺 や 戸 隠 へ 参 詣 す る「 信 仰 の 道 」、 佐 渡 で 産 出 し た 金・ 銀 を 江 戸 や 駿 府 に 送 る た め の「 佐 渡 金 山 の 道 」、 加 賀 藩 前 田 家 や 松 代 藩 真 田 家 な ど の「 参 勤 交 代 の 道 」 として用いられた。
18世 紀 以 降、 木 綿 や 菜 種 に 代 表 さ れ る 商 品 作 物 の 生 産 が 増 大 す る に つ れ、 手 馬・ 中 馬 江戸時代における北信濃の街道
善光寺宿(『善光寺道名所図会』)
などによる輸送が行われ、商品流通が活発になっていった。
江戸時代の物流を陸上交通とともに担ったのが河川による舟運であった。人や牛馬とは 比較にならないほど1回で大量・安価に物資を運ぶことができるため、大河川では通船が 往来した。千曲川通船は、寛政2年(1790)に許可を得た西大滝村(飯山市)の太左衛門 が 西 大 滝 か ら 福 島 宿 ま で、 文 化14年(1817) に は 松 代 藩 が 通 船 営 業 に 乗 り 出 し、 松 代 か ら 福 島 宿 ま で、 天 保12年(1841) に は 善 光 寺 後 町 の 商 人 厚 連 が 丹 波 島 か ら 西 大 滝 ま で 運 航した。
犀川通船は、天保3年(1832)に筑摩郡白板村(松本市)の折井儀右衛門らが新橋(松 本市)から新町村(長野市信州新町)まで運航を始めた。
(9)山間地交通の要路鬼無里 鬼
き な さ
無里は、長野市の北西部、戸隠地区の西部に位置し、犀川の支流裾花川上流域の鬼無 里盆地を中心に広がる中山間地の地区であり、川沿いの沖積地と河岸段丘の平地、大部分 の面積を占める山地とで構成される。標高は670mから1,562m(一
い ち や さ ん
夜山)にあたる。こ の鬼無里盆地の中央に町
まち
の集落があり、行政経済の中心地である。
近 世 か ら 近 代 に か け て、 麻 の 栽 培 が 盛 ん に 行 わ れ、 副 業 と し て 畳 糸 の 製 造 が 行 わ れ た。 麻は農家経済の大半を担っていた主要な産業であった。
鬼無里地区は、遷都伝説、鬼
きじょもみじ
女紅葉伝説や木曽義仲に因む伝承を残し、遷都伝説に因む 東
ひがしきょう
京 、 西
にしきょう
京 と い っ た 集 落 が あ る。 地 区 内 に は 奥 裾 花 渓 谷( 県 名 勝 ) や ミ ズ バ シ ョ ウ の 大 群落がある。平成17年(2005)に長野市に編入合併し、現在に至っている。
江戸時代の鬼無里は、松代往来、戸隠往来、安曇往来、高府往来、早川道などが町や西 京などを分岐点として各地へ通じていた。
松代往来は、町から瀬戸を通り、東方に向かい、戸隠・七
なにあい
二会を経由して途中安茂里で 犀川を舟で渡り、さらに千曲川を舟で渡って松代まで約8里であった。
戸隠往来は、主として戸隠山参拝と食糧補給と物産移出に重要な街道であり、町から小 川に沿って、高橋・大望峠を通って宝光社に至る道が主要な往来であった。
安曇往来は、町から祖山、十二平、大久保、西京、落合、柄山峠を越えて、糸魚川街道 と合流する。西京で分岐して府成、田之頭、押切、嶺方峠(白沢峠)を越えて、糸魚川街 道へ通じる最短ルートもあった。
高府往来は、町から大洞峠を越え、小川村の日本記、高山寺、成就を経て、大町街道に 合した。
西京から北に土倉、小佐出、奥裾花を経由して越後の北陸街道梶屋敷宿へ通じる早川道 は、西京から南へは十二平から分岐南下して、法地・埋牧・馬曲等を経由して落合で大町 街道に通じていた。
高府往来、早川道が南下して合流する大町街道は、長野から大町方面に通じる道であり、 長 野 か ら は 大 町 街 道、 大 町 方 面 か ら は 善 光 寺 街 道 と 呼 ば れ る。 長 野 か ら は 裾 花 川 を 渡 り、
江戸時代の主なる往来(『信越古道』信越古道会 2010 を改編してリライト)
▲ 荒倉山
▲ 砂鉢山
▲ 一夜山
▲ 虫倉山
▲ 飯縄山
▲ 高戸谷山
▲ 小沢峰
▲ 八方山
▲ 物見山
▲ 東山
▲ 蕎麦粒山
町
市野瀬
高橋
瀬戸 十二平
西京 落合
岩下 土倉 小佐出
府成 田之頭
南浦 持京 押切
桐山
長崎入
法地 埋牧 日本記
瀬戸川 芋之沢 成就
馬曲 上野
高府 下市場
大野 中条
落合
日影 千見
青具
大久保 東京
大望峠 至戸隠宝光社
至糸魚川街道
至糸魚川街道
至糸魚川街道
柳沢峠 柄山峠
嶺方峠(白沢峠)
0 3km
至松代
至七二会、長野市街 至北陸街道梶屋敷宿
至大町
至奥裾花渓谷
荒倉神社 金刀比羅神社 鬼無里神社
松巌寺
虫倉神社 松原神社
白髯神社 正福寺
三島神社
加茂神社 春日神社
瀬戸川神社
沢之宮
皇大神社
法蔵寺
神明宮
古山神社 小川神社
明松寺 武部八幡社金剛寺
高山寺 文珠堂朝日神社
戸隠往来
(善光寺街道大町街道) 府 高
来 往
早川道
曇 安 来 往
松代往来 川早
道
大町街道
(善光寺街道)
長野市
小川村
白馬村
小谷村
犀川沿いを西に進み、七二会地区から土尻川沿いに中条、高府、千見を経由して大町に至 る上水内郡、北安曇郡の山中を東西に走る道筋である。
これらの道を通して、麻、畳糸、鬼無里紙等が移出され、塩・米・酒・魚等を移入する な ど 人 と 物 資 が 行 き 交 っ た。 鬼 無 里 は、 村 内 外 の 商 人 の 交 易 の 場 と し て、 近 郷 で は 例 の な い「 九 斎 市 」(1ヶ 月 に9回 開 か れ た 定 期 市 ) が 開 か れ た。 市 は 今 の 町 区 に お い て 天 和 3年(1683) に 開 設 が 許 可 さ れ、 当 初 は 六 斎 市(1ヶ 月 に6回 開 か れ た 定 期 市 ) で あ っ た が、安永9年(1780)には「九斎市」になった。市日は1・2・8の日であり、取引された 商品の大半は麻であった。現在でも町区で7月 15 日から 1 週間執り行われている祇園祭は、 九斎市の名残であり、市の神や津島午頭天王に奉納する祭屋台が伝承されている。古老の 言い伝えによると「町から小鬼無里まで峯山づたいの古道に、仮設店舗がたくさん明かり を灯して賑やかだった」という。
松代往来、戸隠往来、早川道などの道は、北国街道や脇街道の公街道的性格に対し、庶 民が開いた生活の道であった。信州では、江戸時代中期になると貨幣経済が発達して、商 品作物の生産が盛んになり、物資と人の移動のために山間部にも新たな道が次々と開削さ れた。これらの道は、民間の商品輸送のための道であり、戸隠や善光寺へ詣でる道でもあっ た。
戸隠往来などの道は山越えの踏み分け道であったが、長野と鬼無里を結ぶ裾花渓谷沿い の道は両岸が険しいために中々開けず、天保の頃から道の工事に手がつけられ、弘化・嘉 永 の 頃 に は 一 通 り 開 通 し た よ う で あ る。 白 馬 と 長 野 を 結 ぶ 道 路 は、 改 修 を 重 ね て 明 治21 年(1888) に 柄 山 峠 を 越 え、 旧 北 城 村 森 上 に 至 る 道 路 が 竣 工 と な っ た。 そ の 後、 明 治32 年(1899) に は 柳 沢 峠 経 由、 昭 和14年(1939) に は さ ら に 嶺 方 峠( 白 沢 峠 ) 経 由 と 路 線 が変更され、現在のような道路になったのは、昭和40年代である。
(10)長野の近代化
幕末期の長野市域は、松代藩領と椎谷・飯山・上田・須坂の各藩領、幕府領、塩崎地行所、 善 光 寺 領 な ど が あ り、 入 り 組 ん だ 支 配 と な っ て い た。 慶 応4年(1868)1月 の 鳥 羽・ 伏 見 の 戦 い か ら は じ ま っ た 戊 辰 戦 争 は、 北 信 濃 で は 飯 山 戦 争 等 を 経 て、 明 治4年(1871)7月 に 廃 藩 置 県 が 断 行 さ れ る。 松 代 藩 は 松 代 県 と な り、11月 の 府 県 制3府72県 の 再 編 制 に よ る 東 北 信6郡 を 管 轄 す る 長 野 県 に 編 入 さ れ る。 さ ら に、 明 治9年(1876)8月 に は 筑 摩 県 の中南信4郡を合わせて、旧信濃国10郡が長野県となる。
善 光 寺 の あ る 長 野 村 に は、 明 治 維 新 と と も に 明 治4年(1871)6月 に 県 庁(西 方 寺) が 置 か れ て、 県 都 と な り、 市 街 の 近 代 化 が 急 速 に 進 め ら れ た。 明 治22年(1889) の 町 村 制 で長野町は地方自治体となり、明治30年(1897)には市制を施行して長野市となった。 明治21年(1888)の直江津線長野駅の開業、明治26年(1893)の高崎・直江津間鉄道 全通、明治35年(1902)の篠ノ井線(篠ノ井・塩尻間)の開通と明治44年(1911)の中 央 線 全 通 に よ っ て、 善 光 寺 と 県 庁、 長 野 駅 周 辺 の 幹 線 沿 い は 近 代 的 市 街 地 が 形 成 さ れ た。
鉄 道 の 開 通 に よ り 貨 物 輸 送 量 が 急 速 な 増 加 と な り、 商 品 流 通 が 活 発 化し、商工業を発展させた。 大 正12年(1923)7月 に、 近 隣 の 三 輪 村・ 芹 田 村・ 吉 田 町・ 古 牧 村 の1町3村 が 編 入 合 併 し て 市 域 を広めた。これは大正8年(1919) 4月 に 制 定 さ れ た「 都 市 計 画 法 」 に よ る 都 市 計 画 に 基 づ く も の で、 昭 和2年(1927) に は 安 茂 里・ 大 豆 島 の2村 を 加 え て 都 市 計 画 区 域 を 設 定 し た。 実 施 計 画 の 作 成 に 当 た り、 こ れ ま で の 仏 都 中 心 か ら 遊 覧 都 市 中 心 へ と 基 本 方 針 を 位 置 付 け、 商 工 業 地 域 を 設 定 す る 案 を 作 成
し、昭和5年(1930)6月に事業は認可となった。
大規模敷地を要する官庁、文教施設は市街地縁辺部に設置され、市街地(特に現在の中 央通り、善光寺への参道)との連絡道路が建設されることで新しい町が生まれ、近世まで の 善 光 寺 へ の 参 道
( 南 北 軸 ) が 明 治 以 後 に お い て も 都 市 軸 を 強 く 既 定 し て 市街地が拡大した。 千 曲 川 の 右 岸 で ある河東地域 の 人々は、鉄道線から は ず れ て 生 活 や 地 域 の 発 展 の 上 で 大 き な 不 安 と 焦 り を 感じていたが、大正 11年(1922)に 河 東鉄道の屋代・須坂 間、大正15年(1926) に権堂・須坂間、昭 和3年(1928)には 長 野 駅 ま で 開 通 し
長野駅開業時の長野停車場(左側の平屋)
(扇屋引札の一部/長野市立博物館/明治時代中期)
松代大本営関係施設(『松代大本営 歴史の証言』より)
た。昭和4年(1929)秋に発生した世界的大恐慌により、糸価・繭の価格が暴落し、養蚕 農家に深刻な影響をもたらした。農家の窮状を救済するため、市による公共工事や県によ る不況対策が実施されたが、蚕糸業は急速に衰退をたどった。経済的危機に遭遇した蚕糸 業の打開のために、国策である満州移民政策が進められた。長野県の満州移民への取り組 みは、昭和11年(1936)には具体化し、昭和20年(1945)までに長野市からも入植して いる。
昭 和12年(1937)7月 に 日 本 と 中 国 は 戦 争 状 態 に 突 入 し、 防 護 団、 婦 人 会・ 青 年 団・ 警 防 団 な ど が 結 成 さ れ、 勤 労 動 員 が 行 わ れ た。 昭 和16年(1941)8月、 太 平 洋 戦 争 が 勃 発すると極度に物資が不足し、戦時下の耐乏生活を余儀なくされ、市民生活は悪化の一途 を た ど っ た。 太 平 洋 戦 争 の 末 期、 昭 和19年(1944)11月 に は、 松 代 町 の 象 山、 舞 鶴 山、 皆 神 山 な ど に 大 本 営 と そ の 関 連 施 設 の 地 下 壕 掘 削 工 事 が 軍 部 に よ り 行 わ れ、 昭 和20年
(1945)8月 の 日 本 の 敗 戦 に よ り、 未 完 成 で 中 止 さ れ た。8月13日 に は、 ア メ リ カ 軍 に よ る空襲があり、長野市内各地で死亡者の発生や家屋焼失など大きな被害を受けた。
(11)戦後の長野
昭 和20年(1945) の 敗 戦 以 降、 物 資 不 足・ イ ン フ レ・ 人 口 増 等 の 社 会 的 状 況 の 変 化 が 現出するとともに、義務教育六三制の実施、新制高等学校への移行、信州大学の発足や市 町村消防、自治体警察、公民館設置、生活改善、保健福祉などの体制整備が行われた。し か し な が ら、 自 治 体 財 政 の 窮 迫 か ら 更 級 郡 篠 ノ 井 町 周 辺(昭 和25年(1950)7月)、 埴 科 郡松代町周辺(昭和26年(1951)4月)では、合併が行われた。さらに、昭和28年(1953) 9月には「町村合併促進法」が公布され、上水内郡・更級郡・埴科郡のほとんどの町村で 合 併 が 進 め ら れ た。 昭 和31年(1956)6月 に は「 新 市 町 村 建 設 促 進 法 」 が 公 布 さ れ、 昭 和34年(1959)4月 に 上 高 井 郡 で は 若 穂 町、5月 に は 篠 ノ 井 町 と 塩 崎 村 の 合 併 に よ る 篠 ノ 井 市 が 設 置 さ れ た。 昭 和41年(1966)3月 に は「市 町 村 合 併 特 例 法」 が 施 行 さ れ る と、 昭和41年(1966)10月に2市3町3村(長野市・篠ノ井市・松代町・川中島町・若穂町・ 更北村・信更村・七二会村)の大合併が成立した。
昭和30年代から40年代の高度経済成長期には、中心市街地での百貨店の開業、物流基 地 の 整 備( 青 果 水 産 物 市 場 団 地、 長 野 卸 セ ン タ ー な ど )、 工 場 誘 致 や 工 場 団 地 の 設 置 に 力 が注がれた。好景気による都市部の商工業化の進行は、農山村からの大量の賃金労働者を 都市へ集めることになり、第2種兼業農家の増加、第1次産業人口の低下をもたらし、農 山村の過疎化を招いた。
自 然 災 害 で は、 昭 和40年(1965) か ら 松 代 群 発 地 震 が 発 生 し、 有 感 を 加 え た 地 震 総 回 数は64万8,000回を数え、昭和44年(1969)には終息状態に至った。風水害では、台風 に よ る 犀 川 や 千 曲 川、 そ の 支 流 の 堤 防 決 壊 な ど で 農 地 や 家 屋 の 被 害 を 度 々 受 け た。 昭 和 60年(1985)の「地附山地すべり災害」では、26人の犠牲者と多くの住宅被害を出した。 昭和40年代の後半から、「まちづくり」という言葉が盛んに使われるようになり、市民
参 加 に よ る 祭 り、 歩 行 者 天 国、 野 外 彫 刻 の 設 置 な ど 心 の 豊 か さ や 地 域 の 活 性 化 を 目 指 し た まちづくり運動が動き出した。昭和50年代に 入 る と、 大 が か り な 都 市 基 盤 整 備 事 業 や 土 地 区 画 整 理 事 業 が 相 次 い で 実 施 さ れ、 市 街 地 や 郊 外 で の ま ち な み 景 観 や 交 通・ 商 業 事 情 は 大 きく様変わりした。
一方、農村部では、昭和30年代半ばから農 業 人 口 の 減 少 や 高 齢 化 が 進 み、 村 お こ し の 必 要 が 叫 ば れ、 地 域 活 性 化 の た め の 産 直 交 流、 特 産 品 栽 培、 農 産 物 の オ ー ナ ー 制 度 な ど 様 々 な試みが行われた。
昭和40年代からの自動車の普及に伴い、中 心 市 街 地 の 空 洞 化 は 急 激 に 進 み、 大 型 店 の 多 く は 郊 外 に 新 設 さ れ る よ う に な る。 マ イ カ ー 時 代 に な る と、 自 動 車 道 の 早 期 着 工 の 要 請 が 強 ま り、 昭 和56年(1981)3月 に は、 中 央 自 動車道の諏訪ルートが完成したため、長野線の 早 期 開 通 が 待 た れ る こ と に な っ た。 昭 和 61年(1986) か ら、 高 速 道 用 地 の 松 代 町 松原遺跡、若穂川田条里遺跡などの緊急発 掘 調 査 が 始 ま り、 平 成5年(1993)3月 に 長 野 自 動 車 道・ 上 信 越 自 動 車 道( 豊 科I.C
(現:安曇野I.C)から須坂長野東インター ま で ) が 開 通 し た。 平 成8年(1996)11 月には、更埴ジャンクションから藤岡イン ターまでが開通した。
平 成3年(1991)6月15日 に 第18回 オ リ ン ピ ッ ク 冬 季 競 技 大 会( 平 成10年
(1998))の開催都市が長野市に決定したこ と で、 新 幹 線 の 早 期 実 現 が 不 可 欠 と な り、 平 成9年(1997)10月 に 長 野 新 幹 線 が 開 業 し た。 平 成10年(1998)2月、20世 紀 最 後 の 冬 季 オ リ ン ピ ッ ク 競 技 大 会 が16日 間 に わ た っ て 長 野 市 を 中 心 と す る5市 町 村 を 会 場 に 開 催 さ れ た。3月 に は パ ラ リ ン
地附山地すべり災害(昭和 60 年(1985))
世界はひとつ-平和への願いを込めた長野 冬季オリンピック開会式(『公式報告書』より)
ピック冬季競技大会が 10 日間にわたって開催された。平成 17 年(2005)2 月から 3 月には、 第8回スペシャルオリンピックス冬季世界大会が開催された。
オリンピック後の長野市では、オリンピック競技施設の充実、大都市圏との時間的短縮 により、国際会議観光都市として、様々なコンベンションが誘致・開催されている。 平成元年(1989)12月の国の「地域中核都市」構想を踏まえて、長野市は平成11年(1999) 4月 に 中 核 市 に 移 行 し た。 ま た、 国 が 打 ち 出 し た「 平 成 の 市 町 村 合 併 」 に 際 し、 平 成17 年(2005)1月 に1町3村( 豊 野 町・ 戸 隠 村・ 鬼 無 里 村・ 大 岡 村 )、 平 成22年(2010)1 月に1町1村(信州新町・中条村)の編入合併を行い、現在に至っている。
現在の長野市域と市町村合併の経緯 鬼無里
戸隠
中条
信州新町
大岡
信更 七二会
篠ノ井
松代
若穂 川中島 更北
芋井
浅川
豊野 古里長沼 若槻
小田切 安茂里
朝陽柳原 大豆島 芹田
古牧 三輪吉田
明治30年4月1日市制施行時の長野市
(現:第1地区~第5地区)
大正 12 年 7 月 1 日合併(1 町 3 村編入) 昭和 29 年 4 月 1 日合併(10 村編入)
昭和 41 年 10 月 16 日合併(2 市 3 町 3 村合併) 平成 17 年 1 月 1 日合併(1 町 3 村編入) 平成 22 年 1 月 1 日合併(1 町 1 村編入) 明治 30 年 4 月 1 日市制施行当時の市域
(12)長野市の歴史に関わる主な人物 真
さ な だ の ぶ ゆ き
田信之 永禄9年(1566)~万治元年(1658) 武士・松代藩初代藩主 真田昌幸の長男として永禄9年(1566) に生まれた。 父と共
に 上 信 両 国 に 出 陣 し、 真 田 の 武 功 を 誇 っ た。 慶 長5年(1600) の関ヶ原の戦いにおいて、父昌幸、弟信繁(幸村)と袂を分けて、 徳川方につき、 家名を残すことに成功した。 以後、 慶長5年に 上田城主、 元和8年(1622) に松代城主となり、 真田十万石の 基礎を築いた。
墓 は 松 代 町 長 国 寺 と 隠 居 所 で あ っ た 松 代 町 柴 大 鋒 寺 に あ り、 松代藩の藩祖として、松代町西条白鳥神社に武靖大明神として 祀られている。
塚
つ か だ た い ほ う
田大峯 延享2年(1745)~天保3年(1832) 医師・儒学者 善 光 寺 桜 小 路( 現 長 野 市 桜 枝 町 ) の 医 者 で、 室 鳩 巣 の 門 人 で も あ っ た 塚 田 善 助( 旭 嶺 ) の 子。 母 千 賀 子 は 松 代 藩 士 矢 島 氏 の 娘。 名 は 虎、 字 は 叔 貔、 通 称 は 多 門。 は じ め 父 に つ い て 学び、16 歳で江戸に出て苦学し、漢学塾を開く。寛政2年(1790) の寛政異学の禁のとき、これに反対し、市川鶴鳴・山本北山・ 亀田鵬斎・泉豊洲とともに五鬼と称される。文化8年(1811)、 尾 張 藩 儒、 の ち 藩 校 明 倫 堂 の 督 学 と な り、88歳 で 没 す る ま で 教 壇 に 立 っ た。 長 兄 の 明 は 松 代 藩 士 の 家 を 継 ぎ、 次 兄 道 有 は 医 者 と し て 一 茶 の『 父 の 終 焉 日 記 』 に も 名 が 見 え る。 末 弟 の
慈 延 は、 比 叡 山 の 僧 と な り、 隠 居 後 京 都 に 住 ん で 歌 人 と し て 名 を な し、 澄 月、 小 沢 蘆 庵、 伴蒿蹊とともに、平安和歌四天王と称された。
茂
もろなにまる
呂何丸 宝暦11年(1761)~天保8年(1837) 俳人・俳学者 吉 田 村 北 本 町( 現 長 野 市 吉 田 3 丁 目 ) に 小 沢 治 郎 右 衛 門 の 長 男 と し て 生 ま れ、 青 年 時 代 は 書 画 を 愛 し、 江 戸・ 京 都・ 大 坂 を 往 来 し、 古 書 画 の 売 買 を 業 と し て い た。 寛 政4年(1792) に俳諧の仲間入りをし、享和2年(1802)に重病を患い、剃髪 し て「 何 丸 」 と 名 を 改 め る。 文 政2年(1819)江 戸 に 出 て 蔵 前 の 札 差 中 村 抱 義 の 知 遇 を 受 け、 俳 諧 宗 匠 と し て 立 つ。 松 尾 芭 蕉 の 研 究 で 知 ら れ、 芭 蕉 七 部 集 注 釈 事 業 に 取 り 組 み、『 七 部 集 大鏡』や『芭蕉翁句解参考』を著している。文政7年(1824)、
京都二条家から「俳諧奉行職御代官」に任じられている。名は一元、通称治郎右衛門、別 号に古連、漁村、月院社がある。
峯
みねむらはくさい
村白斎 安永元年(1772)~嘉永4年(1851) 俳人
水 内 郡 石 村( 現 長 野 市 豊 野 町 石 ) の 豪 農 峯 村 藤 兵 衛 の 長 男 と し て 生 ま れ、 幼 名 は 清 蔵、 後に仙蔵といった。早くから俳諧に親しみ、善光寺町の戸谷猿左に学び、茂呂何丸、小林 一茶らと交遊した。また石村長秀院の発明和尚に漢学を学び、南画も能くした。「俳句手帳」・
「花の俤」などの発句集があり、俳文集として『四景楼之辞』などがある。別号は、古扇、 古仙、古僊、寒岳園。後に白斎と称した。寺子屋「寒岳園」を営み、これを庵号とした。
鎌
かんばらとうざん
原桐山 安永3年(1774)~嘉永5年(1852) 朱子学者・故実家 松 代 藩 の 家 老・ 鎌 原 重 義 の 三 男 と し て 生 ま れ た。 名 は 重 賢、 のち8代真田幸貫から一字を賜り貫忠、号を子恕と改める。 桐山は、岡野石城、佐藤一斎に儒学を学び、長国寺住職・千 丈 実 巌 に 詩 文 を 学 ん だ。 射 術、 馬 術、 卜 伝 流 槍 術、 長 沼 流 兵 学、 小 笠 原 流 礼 法、 点 茶 な ど 諸 芸 を 極 め た。 門 人 に 山 寺 常 山、 佐 久 間 象 山、 長 谷 川 昭 道 ら が あ っ た。 詩 作、 文 章 も た し な み、 そ の 蔵 書 は1万 冊 に の ぼ っ た と さ れ る。 著 作 に『 朝 陽 館 漫 筆 』 150巻余。『隠居放言』14巻、『大東鈴家智嚢』などがある。没
後門人等によって松代・東条に碑が建てられ、碑文は佐藤一斎が記している。
真
さ な だ ゆ き つ ら
田幸貫 寛政3年(1791)~嘉永5年(1852) 武士・松代藩8代藩主 信 濃 守。 号 は 遂 翁、 一 誠 斎。 陸 奥 白 河 藩 主 松 平 定 信 の 二 男
で、真田幸専の養子となり、文政6年(1823)家督を継ぎ、10 万 石 を 領 す る。 藩 政 改 革 を 実 施 し、 特 に 富 国 強 兵 策 を 採 用 し、 藩士佐久間象山を抜擢して、洋学や西洋砲術の研究、洋式大砲、 鉄砲の鋳造、殖産興業などを推進した。天保12年(1841)、幕 府老中に登用され、海防掛として、諸侯に海岸防御のために大 砲を鋳造することなどを命じる。弘化4年(1847)の善光寺大 地 震 で は、 幕 府 よ り1万 両 を 拝 借 し た。 嘉 永5年(1852)、 藩 校文武学校の建築準備に着手後、62歳で没した。
寺
てらしまそうはん
島宗伴 寛政6年(1794)~明治17年(1884) 和算家 上 水 内 郡 鬼 無 里 村( 現 長 野 市 鬼 無 里 ) に 生 ま れ、 は じ め 宮 城 流 和 算 の 叔 父 寺 島 半 右 衛 門 陳 玄 に つ い て 学 び、 文 化13年
(1816) に 免 状 を 得 る。 そ の 後 松 代 藩 士 町 田 源 左 衛 門 正 記 に つ い て 最 上 流 和 算 を 学 び、 文 政10年(1827) に 免 状 を 取 得。 鬼 無 里 を 中 心 に 信 濃 を 遊 歴 し、 門 弟 衆 に は 信 濃 か ら 越 後 に か け て1,100人 を 越 え る 門 弟 の 名 が 記 さ れ て い る。 和 算 以 外 に も 家 相、 規 矩 術、 そ ろ ば ん、 折 形、 挿 花 も 教 授 し た。 鬼 無 里 松 巌 寺 に 奉 納 算 額 が 残 さ れ て い る。『 算 法 続 浅 問 答 』、『 算 法 隔日記全二十巻』などがある。通称は数右衛門、号は北明。
岩
いわしたさだあき
下貞融 享和元年(1801)~慶応3年(1867) 国学者
善 光 寺 大 門 町( 現 長 野 市 大 門 町 ) の 素 封 家 岩 下 貞 諒 の 長 男 と し て 生 ま れ る。 文 政2年
(1819)、名古屋へ行き、塚田大峯に師事する。また京都で頼山陽に詩文を、江戸で清水浜 臣に国学を修め、和漢の学に通じ、詩歌書画を能くした。善光寺大勧進別当に仕える寺侍 で、和歌・詩文・国学関係の出版物のほか善光寺についての初の研究書『善光寺史略』、『善 光寺別当伝略』などを著した。雅楽を奏する楽人でもあった。近世善光寺町を代表する学 者で、本姓は滋野、通称は多門、号は桜園、菅山。名は「さだみち」とも言う。
青
あ お き せ っ け い
木雪卿 文化元年(1804)~明治34年(1901) 武士・絵師
現在の長野市松代町岩野に生まれる。通称八重八、号を雪卿とした。川中島の更級雄斎 に絵を学んだとされる。松代城の障壁画を描き、多くの肖像画を描いたと伝えられる。 弘化4年(1847)に起こった善光寺地震後の被災地を、8代藩主真田幸貫の巡行どおり に描いた『感応公丁未震災後封内巡視図』は、被災地を写実的に描いた彼の代表作であり、 災害史の重要な記録である。パノラマ写真のような眺望図や、実景を尊重する極めて写実 的な表現は、写真の影響を想像させるような、新しい表現が見られる。
山
やまでらじょうざん
寺常山 文化4年(1807)~明治11年(1878) 武士・儒学者 通 称 は 源 太 夫、 号 を 常 山 と い っ た。 松 代 藩160石 取 り の 武 士 の 家 に 生 ま れ、 藩 の 監 察、 普 請 奉 行 を 経 て、 江 戸 で 兵 学、 経 学 な ど を 学 び、 佐 藤 一 斎 や 中 村 敬 宇 ら と 親 交 を 深 め た。8代 藩 主 真 田 幸 貫 が 老 中となると、藩士に兵学を講じ、9代幸教の代には側役頭取を兼ねた。 ま た、 寺 社 奉 行 や 郡 奉 行 を 勤 め た。 明 治 維 新 後 は、 明 治 政 府 の 招 き を 固 辞 し て 松 代 に 留 ま り、 晩 年 は 長 野 に 塾 を 開 い て 門 人 の 教 育 に あ た っ た。 屋 敷 地 は 山 寺 常 山 邸 と し て 松 代 町 竹 山 町 に 現 存 し、 庭 園 が 登録記念物(名勝地)に登録されている。