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帝国書院 | 高校の先生のページ 高等学校 世界史のしおり 2006年 10月号

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 広域的な交流・統合−その解体−再統合という サイクルで世界史をとらえるこころみの第2回は、 3、4世紀から解体に向かった世界帝国・地域世 界とそれらの間の交流が、隋唐帝国やイスラーム 世界を中心として大規模に復興し、それがまた分 裂・再編されてゆくプロセスを、12世紀ごろまで 追いかけてゆく。『タペストリー』12〜23ページ の大きな地図を広げながらお読みいただきたい。

中央ユーラシアと隋唐帝国

 第1回で述べたように、古代に世界各地で成立 した帝国や文明はどれも、高度な普遍性をもつ一 方で粗雑・未熟なものだった。3、4世紀以後の 世界史は、古代の栄光が失われた「暗黒の中世」 などではなく、より緻密で各地の実情に合った統 合を求める、前向きの模索の過程(しばしば辺境 の新勢力が新時代を開く「辺境革命」のかたちを とった)と見ることができる。たとえば、この時 代の破壊の元凶のように見られがちな中央ユーラ シア世界では、柔然が可汗号を用い、突厥が独自 の文字を創始するような革新があいついだ。  遊牧国家の強化とはちがった、中央ユーラシア 発のもうひとつの実験は、「侵入」「帰順」のいず れにせよ、中華帝国に「参入」することであった。 北魏〜隋唐の支配集団が鮮卑系であったことはよ く知られているが、そこに突厥、ソグド、唐末以 後の沙陀などさまざまな中央ユーラシア系の集団 が参入してきた具体的な様子が、近年発見された 大量の墓誌などからつぎつぎと明らかにされてい る。左右のシンメトリーを重んじる都城プランや 官制(最初のアイディアの多くはインド起源かも しれない)だけでなく、律令制を核とする整った 制度への美意識は、中央ユーラシア系など外部の 影響抜きには理解しにくいだろう。

 一方で南朝は、さまざまな南方民族を巻き込み ながら、積極的な江南開発や南海貿易という別の 実験を進めており、そこに華北と違った文化が花 開いた。後代に多くの影響を残した隋唐世界帝国 の整った制度と華やかな文明は、漢民族だけのも のでは決してなく、多くの民族が協力し、中央ユ ーラシア系の軍事力と商業ネットワーク、整った 国家体制、そして南方の文化と農業生産力など多 様な要素を総合して作り上げたものだった。  これらの点で隋唐帝国は、秦漢帝国と「同じ中 国」ではない。「国外」での突厥や吐蕃とのゆる やかだが多面的な結びつきも、漢と匈奴の関係以 上に深いものだった。隋唐でできた、中央ユーラ シアを不可分の構成要素とする多元的な連合帝国 としての「大きな中華」の流れは、遼・金をはさ んで元さらに清へと続く。漢民族だけの「小さな 中華」は中国史の本流ではない。だから、力の落 ちた唐宮廷がウイグルや沙陀の助けを仰ぐような ことは、別に恥辱ではない。「大きな中華」にお ける遊牧民やオアシス民を、文化的に劣った侵入 者であったために長期的には漢化されてゆくなど と理解するのは、漢民族中心の国民国家が一貫し て存在したという立場からの偏見にすぎない。

イスラーム世界とムスリム=ネットワーク  隋唐帝国が成立に向かう6世紀、ユーラシア西 方では、ササン朝ペルシアとビザンツ帝国がそれ ぞれ、交易・交流のネットワークを東方に伸張さ せていた(タペストリー 12〜13ページ)。ユーラ シアの東西どちらも、形のうえでは1、2世紀ま での世界帝国の継承者によって再統合され、それ らが一時的には活発な東西交渉を再開した。しか し、アラビア半島発の「辺境革命」ととらえられ るイスラームの成立、またそれに先行したゲルマ

連載ゼミナール グローバル・ヒストリー 第2回

隋唐・イスラームの統合から国風文化の時代へ

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ン人の移動は、旧帝国への参入・再編ではすまな い根本的な構図の変化を、ユーラシア西方にもた らした。7世紀にユーラシアの東西に並び立った イスラーム世界と中華世界のあいだでは、8世紀 になると、タラス河畔の戦いのような衝突をとも ないながらも、海陸のムスリム商人を主役とする、 かつてない大規模な東西交流が実現した(タペス トリー 16ページの「イドリーシーの地図」「ネッ トワーク・ナビゲーター」なども参考になる)。  イスラーム世界というと「常人には理解しがた い厳格な規範」のイメージがつきまとう。これは、 隋唐の律令制に均田制のような「整いすぎて維持 できない」部分があるのと似ている。「地域の現 実に合わない古代文明」を克服する努力の末にこ うした現実離れが生じる点では、「歴史は繰り返 す」のだ。が、イスラームをムハンマドの時代か ら現代まで同じものと考えるのはとんでもない誤 りである。現実に合わせる努力の結果、ゆるやか な大枠としての律令制が長期に(日本では16世紀 まで)生きつづけたのと同様、イスラームが今日 でも生命力をもっているのは、地域や時代の現実 に合わせた改変を重ねてきたからである。それは、 ペルシア人、トルコ人、ベルベル人、モンゴル人、 インド人などさまざまな人々が(多くの非ムスリ ムを含めて)、自発的にせよ強制的にせよそこに

参入し、イスラームとイスラーム世界を豊かにし てきたということでもある。

 イスラームには都市的・商業的性格が濃厚であ ること、そのためオリエントにもとから見られた 多くの民族や宗教の共存、交通・商業ネットワー クの発達などの特徴が、イスラーム世界でも非常 に整ったかたちで発揮されたことは、現在ではよ く知られている。しかしそれゆえに、地域世界と して「イスラーム世界」を理解することは簡単で ない。「イスラーム国家」はユダヤ教徒やキリス ト教徒をほとんど不可欠な存在とし(単に「存在 を許した」のではない)、近世までの中東では、 ムスリムが圧倒的多数でもなかった。見方によっ ては、「イスラーム世界」は近代以前には存在し なかったことになる。いっぽうインドやアフリカ、 東南アジアの「イスラーム王朝」や、支配者はム スリムではないがムスリム商人ネットワークが経 済を動かしているインド洋・東南アジア海域・南 中国の港市社会を含めれば、「イスラーム世界」

は限りなく広がる。第1回でも述べたように、「文

化圏」とちがって「地域世界」はそもそも複眼的・ 流動的な概念だが、「南アジア」「東南アジア」な ど地理的な区切りがほぼ明白な地域世界とくらべ

ると、「イスラーム世界」は悩ましい区分である(と

いって「中東世界」では特徴がわかりにくい)。

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国風文化の時代

 隋唐帝国やイスラームに代表される国家や文明 システムの発達、交易・交流ネットワークの拡大 などは、3、4世紀以前の古代文明・古代帝国と くらべてはるかに広い範囲に影響をおよぼした。  ユーラシア東方では、現在の中国東北部から朝 鮮半島、日本列島、雲南省などに、それぞれ小中 華型の国家が成立する。これらは、高度の普遍性 をもつが膨張主義的で押しつけがましい隋唐帝国 に対抗して、「上からの近代化」を強行する「開 発独裁」型の国家と理解できる。同時代の東南ア ジアでは、林邑(チャンパー)や真臘、ドヴァー ラヴァティー、ピューやシュリーヴィジャヤ、シ ャイレーンドラなど、インド文明の導入による国 家建設がさかんだった。隋の林邑出兵のような政 治圧力と、対中朝貢関係の拡大に対抗するために 「インド化」が急がれたように見える。いっぽう アルプス以北のヨーロッパでは、キリスト教と結 びつきながらフランク族やノルマン人の諸国家が 発展してゆく。

 十字軍のような例外はあるものの、大文明の周 辺で成立したこれらの国々には、遊牧国家のよう に「中心」に対して大規模な進出を行う力はなか った。しかし「中心」の文明と帝国から発する、 抗しがたい魅力と圧力を感じずにはいられない。 そこから、これらの国々に共通する、「中心」に 対するコンプレックスと対抗意識、あこがれと反 発がごっちゃになった意識が生まれる。地中海世 界ともイスラーム世界ともちがった西ヨーロッパ 世界は、明らかに自分より進んでいるイスラーム 世界(およびビザンツ)に対する、コンプレック スとの格闘のなかから生まれたといえるだろう。 近現代の欧米におけるイスラームへの偏見(オリ エンタリズム)の執念深さは、こうしたヨーロッ パの「出生の秘密」抜きには理解できない。「中 国よりも中国らしい」律令社会建設に狂奔しなが ら、遣唐使が朝貢使節であることを隠そうとする 日本人を突き動かしていたのも、同様の中国コン プレックスだった。

 これらの諸国にとって幸運だったのは、9世紀 以降、「大きい中華」や「イスラーム帝国」が解 体に向かい、「中心」からの政治的・軍事的圧力 が大幅に減少したことだ(タペストリー 18〜23 ページ)。解体の原因は、上でも述べたように隋 唐帝国やイスラームがもっていた「整いすぎた」 部分が機能しなくなり、整ってはいなくても現実 的な仕組みが、地域ごとに模索されるようになっ たことにあった。またバグダードや長安周辺での 環境破壊の深刻化、エジプトや江南など他の地域 での農業開発や貿易の発展による経済的中心の移 動といった要因も、考慮せねばならない。いずれ にせよ「周辺諸国」は、必要不可欠な「中心」と の貿易や文化交流を維持しながら、「上からの近 代化」によって強行導入した政治・文化などの諸 システムを、自分に合うようにじっくり再編・改 造する余裕をえた。「国風文化の時代」は、日本 だけの現象ではない。この時代がなければ、これ らの「周辺諸国」が世界史の主役におどりでる近 世以降の事態がおこりえたかどうか、きわめて疑 わしい。

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イスラームの「大征服」

 イスラームは7世紀のアラビア半島で誕生した あと、半島からあふれ出るように東西に広がった。 わずか1世紀ほどの間に、東は中央アジア、西は ヨーロッパのイベリア半島にまで達した。この「大 征服」は版図の広がりと征服の速度において、世 界史的な大事件である。ローマ帝国をも上回る版 図は空前の規模であり、その後もこれを上回る征 服事業は、13世紀のモンゴルの大征服までなかっ た。

 7〜8世紀における大征服の担い手はアラブ人 たちであったから、それに着目すれば「アラブの 大征服」であろうし、イスラームによってこそこ の事業が成立したと考えれば「イスラームの大征 服」と呼ぶべきであろう。実際、これによってイ スラーム帝国の基礎が作られ、またイスラーム帝 国の成立によって、イスラーム世界も確立された。  大征服の時代とは、正統カリフ時代からウマイ ヤ朝を経て、アッバース朝初期までの時期にあた る。結果論から言えば、大征服によってイスラー ム世界の「中核地域」ができあがり、世界宗教と してのイスラームが確立した。しかし、イスラー ムは征服をめざして誕生したわけではないし、な ぜ、大征服にいたったのかは、実はそれほど簡単 には答えられない。

どのようにして「大征服」が始まったのか

 ヨーロッパでは、「イスラームが剣によって広 がった」と長らく信じられていた。イスラームは 「右手に剣、左手にコーラン」の宗教であり、そ うであるならば、大征服が生じたのもイスラーム

という宗教の本質に起因することになる。しかし、 この見方は前近代のヨーロッパのキリスト教的な 偏見を反映したものとして、現代の歴史研究では 否定されている。史実に照らしても、イスラーム 王朝が宗教を強制した痕跡はないし、征服軍は征 服地の住民にイスラームへの改宗を勧めるより、 宗教的な自治と引き換えに人頭税の貢納を求めた。 実際、ウマイヤ朝はイスラーム王朝とされるもの の、その住民の大半はキリスト教徒とゾロアスタ ー教徒であった。

 どのようにして大征服が始まったかを検証する と、政治的・軍事的な要素が強い。イスラーム軍 が自分たちの宗教を広めようとして信仰心に燃え て「ジハード」に赴いた、というイメージは的外 れである。ちなみに、「ジハード」は「聖戦」と 訳されることが多いが、これも誤解の元である。 ジハードの語義は「奮闘努力」であり、宗教的に 言えば「自己犠牲を伴う奮闘努力」となる。マッ カ(メッカ)時代はムハンマドたちは迫害される マイノリティであり、当時のジハードには戦闘の 意味は全くなかった。心の中の悪と戦うことや、 社会的公正のために努力する、ということが意味 されていた。

 マディーナにイスラーム国家が作られてからは、 その防衛や軍事的な側面もジハードに加わった。 これを「剣のジハード」という。しかし、ウマイ ヤ朝を初めとして、後の諸王朝はこの「剣のジハ ード」を国家の戦争の意味で用いるようになった。 十字軍が「聖戦」であるというような意味で、イ スラームのジハードを聖戦と訳するのは語弊が大 きすぎると思う。

 実のところ、ムハンマドが没した直後のマディ ーナ政府には、それほど領土的野心を持っていな かった。というよりも、内部からの危機があり、

京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科教授 小 杉 泰

連載:イスラームはどう変わってきたか? ムハンマドからホメイニまで

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それどころではなかった。ムハンマドの生前は服 属していたアラビア半島の諸部族がイスラームか ら離反したり、あるいは形式的に服属していただ けの部族が反乱するなど、マディーナ政権はただ ちに崩壊の危機に直面したのである。第1代正統 カリフとなったアブー・バクルは、2年を費やし て半島内の再統一に成功した。それによって、よ うやく、アラビア半島の新生国家は生き延びたの である。

 ところが、第1回でも触れたように、当時の西 アジア・地中海地域は東のササン朝ペルシア、西 のビザンツ帝国という2大帝国によって支配され ており、アラビア半島に誕生した新生国家は帝国 にとって脅威と考えられた。脅威は「小さい芽の うちに摘むべし」というのは、大帝国の側の反応 としては当然であろう。イスラーム国家の側でも 独立の覇気はあったから、属国として生き残る方 途はなかった。そもそも、属国になりたくても、 2大帝国が対立する状況ではどちらの属国になっ ても反対側から攻撃される運命にあった。アブー= バクルが悲壮な決意をして北方の戦線に兵を送っ たのは、そのような状況下であった。

 ところが、大帝国に対して、イスラーム軍は善 戦した。となると、帝国の側では、本腰を入れて これを迎え撃つことになる。アブー=バクルの治 世は短く、第2代カリフ・ウマルが彼を継いだ。 ここで大きな政策転換があった。アブー=バクルは、 ムハンマドの没後に反乱した部族たちを恭順後も 信頼せず、彼らの参戦を認めなかった。それに対 して、ウマルはこれらの諸部族も戦闘に加わるこ とを許した。先頃まであった内部対立を外部の敵 に向ける優れた政策というべきであろう。この政 策転換は、新参の諸部族にも(勝利の際に)戦利 品の分与にあずからせ、征服者としての地位をも 与えるものとなった。戦いは連鎖的に続くものと なり、大きな兵力の動員が必要となったが、彼ら の動員によって、2大帝国との戦いに必要な兵員 が確保されることになった。

 このあたりを見ると、大征服とは、当時の国際 関係に起因する軍事的な対立の連鎖であり、結果

としてイスラーム軍が勝利を続けたために、大き な版図がころがりこんだ、と言えそうである。ビ ザンツ帝国の当時の政治状況やビザンツ軍の戦 略・戦術を詳細に検討した研究者の一人は「ビザ ンツ側の敗北は必然的なものではなかった」と結 論づけている。当然と言えば当然であろう。いか なる戦いにも、あらかじめ決まった必然的な結末 はない。イスラーム軍にしても、常勝だったわけ ではない。ただ、敗戦もあったが、イスラーム軍 はよく組織され、注意深く戦略を練り、優れた戦 術を駆使していた。

 そこには新興国家として、生存を賭けた注意深 さという側面もあろう。また、2大帝国は長年互 いに争い、疲弊していた面もあったし、アラビア 半島から来た「装備もみすぼらしい軍隊」に対し て帝国軍としての慢心もあったかもしれない。結 果として、イスラーム軍はササン朝ペルシアを滅 ぼし、ビザンツ帝国の版図の半分を奪うことにな った。その領域は現在に至るまでイスラーム地域 となった。中東から北アフリカにかけてはイスラ ーム化のみならずアラブ化も進み、今日のアラブ 諸国に至っている。このように、正統カリフ時代 からウマイヤ朝時代の大征服によって、今日のイ ラン、アラブ諸国、トルコから中央アジアにかけ ての地域がイスラーム時代を迎えたのであった。

イスラームという新しい統治原理

 しかし、ウマイヤ朝は、急速に発展した大きな 版図を支配するために、支配者層のアラブ的紐帯 を重んじた。たとえイスラームに改宗しても、非 アラブ人は「二級市民」の扱いを受けていた。つ まり、実態を見れば「アラブ王朝」であった。ま だ、イスラーム帝国になっていない過渡期と言え る。それに対して、749年に成立したアッバース 朝は、民族・言語を超えたイスラームを原理とす る体制を確立し、厳密な意味での「イスラーム帝 国」となった。

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いたであろう。しかし、当時は、アラビア半島に 住むアラブ人ばかりが信徒であったから、まだ現 実レベルで真に多民族的なイスラームが成立して いたわけではない。その一方、大征服後のウマイ ヤ朝はアラブ人優先策を取ったから、多民族的な 現実は存在したが、イスラーム的な原理は後退し ていた。両者を合体させ、イスラームという新し い統治原理を貫徹したのが、アッバース朝だった のである。

 それは単に宗教的な原理というにとどまらなか った。アッバース朝は、ウマイヤ朝の版図を継承 すると同時に、東西貿易ネットワークを大きく発 展させた。アッバース朝によって、初めて東アジ アから地中海に至るまでの広大な地域が恒常的な 交易ネットワークで結ばれたことを系統的に研究 したのは家島彦一氏である。氏の2冊の労作(『イ スラム世界の成立と国際商業——国際商業ネット ワークの変動を中心に』1991年、『海域から見た 歴史——インド洋と地中海を結ぶ交流史』2006年) は、緻密な史料研究と広範な現地調査によって大 きな「海域世界」の成立を実証している。  アッバース朝は、ササン朝ペルシアの交易圏で あったインド洋の海域と、ビザンツ帝国の交易圏 であった地中海の海域を統合し、東西を結びつけ る大きな交易ネットワークを成立せしめたのであ った。遠くの物産を大量に効率的に運ぶ方法は船 による海上ルートであり、正確な季節風の知識と 航海術によって、新しい交易ネットワークが繁栄 することになった。

 アッバース朝第2代カリフとなったマンスール は、この王朝の基礎を築いた人物であるが、その 最大の功績は首都バグダードの建設であろう。チ グリス川河畔に立てられた新都は「平安の都」と 呼ばれ、766年に完成した。当初は直径2.35kmの 円形都城で、三重の城壁に守られ、内円は直径 1.8kmの広場で、その中心に「黄金門宮」と呼ば れる王宮および中央モスクがあったという。都城 の周辺には街区が発展し、やがて人口150万人と 推計される世界最大の都市となった。

 東西の要衝に位置するこの都は、世界貿易ネッ

トワークの結節点として、繁栄を極めたという。 アッバース朝の最盛期は10世紀半ば頃までである が、残念ながら、史料から読み取れる往時の栄華 は、1258年にモンゴル軍によってアッバース朝も ろともバグダードが灰燼に帰したたため、史跡と してはほとんど残っていない。とはいえ、アッバ ース朝が残した歴史的な影響はさまざまな形で確 認することができる。

最初のグローバル化−イスラーム法

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1.はじめに

 1989年の冷戦終結、1991年の湾岸戦争、同年12 月のソ連崩壊など、国際情勢は大きく変化した。 また、2001年9月には 9 .11同時多発テロが発生し、 アメリカは対テロ戦争を主張、アフガニスタンの タリバーン政権打倒、対イラク戦争や北朝鮮問題 など、平和とはほど遠い出来事が起こっている。  こうしたなかでとくにイスラーム世界、イスラ ーム教への関心が高まっているが、果たして高校 生たちがどれほどイスラームのことを理解してい るのだろうかと問うと、いささか心許なく思って しまう。未来の社会を担う子どもたちにとっては、 現在の状況を理解するために、現代の国際社会の キーワードとしてのイスラームに興味関心を抱き、 正確な知識を持って現代の状況や出来事の意味を 考えられる力が重要となるだろう。

 さて、私の世界史の授業は基本的に授業プリン ト(手書き)と『最新世界史図説タペストリー』 で進めている。プリント学習といっても単に空欄 に重要語句を記入するのではなく、概念図や地図 を取り入れ、整理して学習できるように工夫して いる。場合によっては色鉛筆等で地図に色塗りを させたり、概念図や地図そのものを書かせたりす る活動を取り入れている。また、適宜大型の写真 図版(山川出版社)を生徒に示している。大型写 真図版は、歴史の一コマを生徒に印象づけるため に適しており、ときには大型の写真を生徒に回し 見をさせて興味関心を高められるし、あるいは、 単純に生徒の顔を教師の方に向けさせる効果もあ るので、重宝している。『タペストリー』は「ヒス トリーシアター」が効果的と考えている。基本的 に、資料集は写真や説明、地図や年表の多さを売 りにしている。もちろん、これは高校生の学習を

援助するためには必要なことである。しかし、『タ

ペストリー』は、あえて記載する情報量を削って でも、生徒に『考えることができる』工夫がして あるのが魅力である。

 私自身がプリントを使用しての授業を行おうと 思ったときに、それが語句だけの記入にならない ように注意したのは、歴史を学ぶとは何なのだろ うと常々思っていたからである。「歴史は暗記科 目ではない、歴史の流れを学んでいくことだ」と よくいわれる。確かにそうだと思うが、一方にお いて、暗記科目という特徴は消せない。今まで私 が生徒のときに受けてきた歴史の授業を振り返り、 どんな授業のときが楽しかったか想起すると、や はり語句を暗記しているときではなかった。私の 場合、暗記だけに終始する授業や語句の説明だけ で終わる授業、「なぜそうなったか?」や歴史の 大きな流れが全く見えない授業のときには、退屈 でつまらないと感じてきた。

 私自身、あれこれ考えたうえで、「なるほどそ うなのか」と思った授業が楽しかったし、それは 現在の生徒だって同じだろうと思う。受験に向け ての授業や限られた単位数で進度を遅らせること が許されない状況で、いつでもゆっくりと考えさ せる授業を行うことは難しい。しかし、少なくと も教師自身が生徒に考える場面を設定しようとし ない限り、生徒は歴史を学ぶ楽しさを味わうこと ができないのではないかと思う。限られた時間の 中で考えさせる資料を提供している点が『タペス トリー』の魅力であると私は考えている。

 次に、『タペストリー』を活用して、イスラームの

拡大についての授業案を提示してみたいと思う。

2.イスラームへの興味関心を持たせるために

 本校は女子校であり、とくに世界史への関心が 高い…ということはなく、実際に世界史を受験科 目として3年生まで選択する生徒は非常に少ない。

イスラームの拡大

群馬県立館林女子高等学校 大 塚 貴 弘

スト

リー

(8)

世界への興味関心・知識理解という点においては、 男子より女子の方が苦手にしているのではないだ ろうか。そうしたなかで、全員が必修する2年生に おいて、世界史への興味関心を持てる授業とはど ういうものなのかを模索している日々である。  イスラームを学ぶにあたって、まず『タペスト リー』p.108 のヒストリーシアターの〈よみとき〉 に着目させる。 

 私はこの地図を授業プリントにも記載しておき、 導入として、生徒には地図に着色させることから 始める。<よみとき>の内容を発問し、生徒に考 えさせる。ヒント等を示し、生徒がビザンツ帝国 とササン朝の対立によって交易路が遮断されてい ること、交易の迂回路としてアラビア半島のルー

トが活用され、アラブ人商人が活躍したことに気 づくことができるようにする。次に、ムハンマド という人物に焦点を当てる。彼の出生や人柄、結婚 などを端的に説明し、そのなかで預言者として自

覚していくストーリーを話していく。そして、『タ

ペストリー』p.109を活用して、イスラーム教の信 仰のあり方や戒律などを解説したりすると生徒は 興味関心を持って学習できるようだ。

 次に、正統カリフ時代からウマイヤ朝の成立を

説明する。『タペストリー』p108 ③と④を手がかり

に、とくにスンナ派とシーア派の成立とその対立 について、現在のイラク情勢などのニュースにつ いて発問し、両派の対立が現代の大きな問題とし て続いていることに気づかせるようにしている。

 『タペストリー』p.16〜17 の世界全図を活用 しつつ、アッバース朝の成立や拡大、その特徴に ついて説明する。また、バグダード・長安・平安 京を比較して、同時代にこの三つの都が繁栄して いたことを理解させ、p.16 のネットワークナビ ゲーターから、当時の世界の地域的な結びつきを グローバルな視点から捉えられるように解説する。  さらに、イスラーム世界の生活様式やその文化 をp.111 を参照させて説明していく。イスラーム

「タペストリー」p.108 よみときの地図

「タペストリー」p.109

「タペストリー」p.108 ③ ④

「タペストリー」p.16 ネットワークナビゲーター

コンスタンティノープル

ビザンツ帝国

ビザンツ帝国

ササン朝ペルシア

ササン朝ペルシア

スミルナ アンティオキア スミルナ アンティオキア 地中海ダマスクス

イェルサレム アレクサンドリア

ネジド メディナ (ヤスリブ)

メッカ アラビア

アデン

ハドラマ ウト

ヒ ジ ャ ー ズ

シーラーフ ホルムズ マスカット

アラビア海

シーラーズ メルヴ サマルカンド

バクトラ ユ

クテシフォン ファシス

ナ イ ル

川 黒  海

海 カ

ス ピ

ル シ

湾 ア ペ 川 ィ

リ ス

川 ス ーフ

フタ

ササン朝とビザンツ帝国の紛争地域

ヒムヤル 王国

ヒムヤル 王国

アクスム王

アクスム王国

p.123 ササン朝ペルシア

ビザンツ帝国 おもな交易路

ムスリム商人 ユダヤ商人 インド・ 東南アジア系商人 唐・ウイグル保護下 のソグド商人 中国商人・ 遣唐使 ローマ教会

ソグド文字→ ウイグル文字、 マニ教

インド代数学 ギリシア哲学・科学

鑑真

阿倍仲麻呂 最澄

空海

イタリア エーゲ海・ ギリシア イベリア

トラキア

ガンダーラ・ アフガニスタン

シンド・ グジャラート

マラッカ海峡周辺 ライン川流域・

北フランス

中原

メソポタミア

河北

シリア

東アフリカ ジャワ

中原 関内 甘粛

メソポタミア

イエメン イタリア

マグリブ エーゲ海・ ギリシア イベリア

トラキア 黒海沿岸 ヴォルガ河畔

ソグディアナ アルタイ山麓

モンゴル高原

河北 朝鮮 陰山・ オルドス

西域

ベンガル

南インド ヒンドゥスタン 平原 ガンダーラ・ アフガニスタン

シンド・ グジャラート シリア

ペルシア エジプト

アラビア

インドシナ

マラッカ海峡周辺 ライン川流域・

北フランス

西アフリカ

東アフリカ ジャワ

江南

広東

北ヴェトナム 日本

雲南

ネットワーク   ナビゲーター

(9)

教がなぜ4人まで妻を持つことが認められている のか、契約結婚という特質やチャドルを身に纏う 理由などには、生徒たちは非常に興味を示した。 こうした資料は、現在彼女たちが持っているイス ラームの断片的な知識を整理して、興味関心を高 められる題材であると思う。そのうえでp.112〜 113の資料や大型写真図版などを用いてイスラー ムの文化を歴史的に捉えさせると、興味関心を持 って学ぶことができるようである。

 文化を学習させるときは人名や作品群を授業プ リントにまとめさせるが、授業のねらいとしては、 語句を覚えさせるというよりは、イスラーム文明 にふれ、その水準の高さに驚きながらも「へぇ」 と感心することができればよいと考えている。

3.イスラーム世界の展開

 後ウマイヤ朝とファーティマ朝、アッバース朝 が並立し、アッバース朝が衰退してイラン系のシ ーア派王朝であるブワイフ朝がバグダードを占領 したということから始まる、イスラーム諸王朝の 興亡は、この分野で生徒が混乱するところである。  女子生徒の場合、政治の動きや国家の興亡は、 男子生徒よりもあまり興味を引かないところであ るようだ。あまり煩雑にならないように注意し、 ブワイフ朝やサーマーン朝などイラン系民族が活 躍した時代とカラ=ハン朝やセルジューク朝を代 表とするトルコ系民族が活躍した時代に分けて捉 えられるようにしている。イスラーム世界の変遷 については、『タペストリー』p.114 のイスラー ム世界の変遷①を活用する。また、あわせてp.18 の世界全図も参照させて、世界的視野から見たイ スラームの動きと、とくにトルコ人の西進につい て注目できるように解説する。内陸アジアで学習 した「トルコ化とイスラーム化の進展」の箇所を 振って、既習内容との整理・統合ができるように 心掛けている。

 イスラーム世界の発展に関しては、とにかく生

徒が頭のなかで整理 しにくいところであ ると思う。イベリア 半島やエジプトにお けるイスラーム国家 の変遷を説明すると きは、煩わしくはあ っても、その地域に ついての簡単な地図 を板書して地理的状 況を把握させたうえ で説明することにし ている。授業プリン トを整理させながら、 後ウマイヤ朝・ベル ベル人のムラービト 朝とムワッヒド朝、 そしてナスル朝とア ルハンブラ宮殿など について解説してい く。教科書にはたい ていアルハンブラ宮 殿の「獅子の中庭」 が出ているが、この 写真と『タペストリ ー』p.135に あ る 宮 殿の全景を参照させ、 アルハンブラという のが<赤いもの>を 意味し、宮殿が赤く 見えるから命名され

たという説があることや、当該地域が現在のスペ インであることなどを答えさせ、スペインには今 もイスラームの特色が残っていること、p.135 の レコンキスタの地図を確認することでスペインが どのように成立したのかについて少しだけでも説 明を加え、のちに行うレコンキスタの学習につな がるように心掛けている。

 エジプトのイスラームに関しては、カイロに目 を向け、8世紀以降にイスラームが作った都市が 現在でも地域の中心となっていることが理解でき るようにする。また、サラディンに焦点を当てた

「タペストリー」p.111 ①結婚と離婚 ②服装

「タペストリー」p.114 イスラーム世界の変遷①

「タペストリー」p.18 トルコの西進 ■トルコ人の西進

∼モンゴル高原からコンスタンティノープルまで∼

トルコ人の原住地 ウイグル(回 ) ハザール王国(8C) カラ=ハン朝(9C)

ガズナ朝(10∼11C) セルジューク朝(11C) オスマン帝国(16C) 現在のトルコ系国家(中国領内は「自治区」) コンスタンティノープル

アナトリア 西トルキスタン 東トルキスタン モンゴル高原

p.114∼117

(8C)

チャド湖 B

コルドバ

アラビア海 海 紅

コンスタンティノープル

バグダード

ビザンツ

帝国 セルジューク朝セルジューク朝

ジェンド

カラ=ハン朝

ニ ジェ

ル 川

ナ イ ル 川

ガズナ朝

ガーナ王国 カネム王国 エチオピア ムラービト朝

11世紀

マラケシュ カイロ

イェルサレム

サマルカンド ガズナ ホルムズ

カーブル

0 2000km

神聖ローマ 帝国

ファーティマ朝 ファーティマ朝

メッカ メディナ ローマ

レコンキスタ (国土回復運動)

1077 ムラービト 朝の攻撃で崩壊

第1回十字軍 セルジューク朝

の興起地

メッカ フェズコルドバ

メディナ

バグダード

カネム王国

11世紀末イスラーム化

マリ王国

1240∼1473 エチオピア

カイロ

ウルゲンチ カーブル

カラ=キタイ

1130∼1269

ムワッヒド朝 アイユーブ朝 アイユーブ朝 アッバース朝

ビザ ンツ 帝国 セルジューク朝

ローマ

マラケシュ

12世紀中ごろ

0 2000km

ゴール朝

1148∼1215

ホラズム朝

1077∼1231

フランス

海 ピ ス

アラル海

アラビア海

川 ル ェ ジ ニ

紅 海

(西遼)

コンスタンティノープル

C

1169∼1250

第3回十字軍

グラナダ

コンスタンティノープル

バグダード

ビザンツ 帝国

イル=ハン国 イル=ハン国 デリー=

スルタン朝 チャガタイ= ハン国

マリ王国 カネム王国 エチオピア ハフス朝 ザイヤーン朝 ナスル朝

マリーン朝

マムルーク朝 マムルーク朝 フランス

カイロ

アッコン アインジャールート

タブリーズ 1258∼1353

2000km 0

第4回十字軍

アラビア海 アラル海 ピ ス カ

川 ル ェ ジ ニ

チャド湖

海 紅

ル イ ナ

D13 世紀

メッカ メディナ 1258

アッバース朝滅亡 ローマ

カリフ制形骸化し, イスラーム帝国分裂

けいがい か

10世紀 A アラル海 黒 海

ス ピ

海 海

紅 ル 川 ニジェ

ール 川

チャド湖 アラビア海

メッカ アデン

デリー アレッポ ブハラ

メディナ グラナダ

イスファハーン ローマ コンスタンティノープル

カイロ コルドバ

バグダード

932∼1055 909∼1171

756∼1031 ビザンツ帝国ビザンツ帝国 875∼999 840ころ∼1132ころ

アッバース朝 アッバース朝

カネム王国 ファーティマ朝

ヒンドゥー 諸国 カラ=ハン

朝 後ウマイヤ朝

神聖ローマ帝国 フランス王国

ガーナ王国

エチオピア サーマーン朝

ブワイフ朝

10世紀中頃のイスラーム世界

(10)

授業を展開してみる。現在でもムスリムの英雄と して名を馳せているサラディンと、彼の好敵手で ある獅子心王リチャード1世を比較し、彼らの対 立を描き出してみることで、生徒たちがイスラー ム教とキリスト教の対立(十字軍)におけるイス ラーム側の状況を、興味を持って学習できるので はないかと考えたからである。十字軍側の状況に 関しては、のちにヨーロッパ史を学ぶときに提示 し、その際、イスラーム側の状況を復習すること で、学習内容の整理・統合と定着をはかる。この ときの授業では、キリスト教とイスラーム教の対 立が近代を経て現代においても、薄れていないこ とをまとめとして設定した。

 基本的に、年表を逐次説明するような授業展開 よりも、人物や象徴的な出来事などをクローズア ップして授業を行った方が、生徒の興味関心を引 くことができる。もちろん、進度や授業時数の問 題で、毎回このような授業ができるわけではない ので、どこにそうした授業を設定するのか、授業 者は思案のしどころだろう。

4.オスマン帝国を教える

 モンゴルによるイスラーム世界への侵略とその 後に成立するティムール朝を整理し、トルコ=イ スラーム文化の形成を理解させる。モンゴルの侵 攻を逃れたトルコ系遊牧民族たちがかつてのセル ジューク朝の対ビザンツ帝国最前線の地域に移住 し、アナトリアに小規模な諸国家を建設、それぞ れがビザンツ帝国との戦争を行っていた。そのな かで、頭角を現してきたのがオスマン帝国である。 オスマン帝国の成立と初期におけるティムール帝 国に対する敗北→滅亡の危機→オスマン帝国の再 建・拡大などについては、生徒も興味を持って聞

いている。ティムールについては、『タペストリー』

p.115 のヒストリーシアターを活用した。  オスマン帝国を教える場合、コンスタンティノ ープル陥落・ビザンツ帝国を滅ぼす事柄はクロー ズアップして教えたいところである。既習したこ との復習として、ビザンツ帝国がどのような来歴 を持った国家であるのか、その都コンスタンティ ノープルの歴史やアジアとヨーロッパ、東西の文 明の交差点と呼ばれる景観などを生徒に示し、導

入としていく。コンスタンティノープル攻略とそ の後のオスマンの発展については、『タペストリ ー』p.116〜117 を活用して説明し、授業プリン トを整理させることで理解できるようにする。こ の場面に関しては、ビザンツ帝国の滅亡がどのよ うな意味を持つのかを、オスマン帝国の発展の始 まりという視点だけでなく、ヨーロッパ人はどの ように受け止めたのか、ヨーロッパにどのような 影響を与えたのかという視点からも捉えられるよ うにすることで、「ヨコ」の世界史を認識し、ル ネサンス成立の要因としてのちに学習するときに 思い出せるように印象づけておきたい。

 また、p.117 のオスマン帝国のしくみについて 整理させ、イスラーム教の異教徒への寛容な姿勢 を説明し、キリスト教の異教徒への姿勢との違い を比較できるようにしている。また、時間があれ ばモーツァルトやベートーヴェンの「トルコ行進 曲」などを聞かせたりしている。興味関心を持た せる手段として、私は音楽の教材を意識して使お うと心掛けている。精選を行いつつ、たとえば、 バロックやロココ時代以降の文化の学習や、アメ リカ国家やラ=マルセイエーズ、民族意識の高ま りに関して、ショパンやワーグナーなどは必ず聞 かせるようにしており、生徒からの反応もよい。 近年出版されている『さわりで覚えるクラシック の名曲50選』(中経出版)などのシリーズが教材 として使いやすい。

5.近代のイスラームに興味関心を持たせるには

 ヨーロッパの近代化とアジアへの進出に対して、 イスラームの側がどのよう対応していったのか、 まず、衰退するオスマン帝国の状況を学習してい く。第二次ウィーン包囲の失敗と1699年のカルロ ヴィッツ条約によってオーストリアに領土を割譲 して以来、オスマン帝国はそれまでの攻勢から防 御に回ることになる。18世紀からのロシアの進出 として、ヨーロッパ資本主義勢力の西アジア進出 を受けて、イスラームでは内部からの改革運動が 発生した。

(11)

かを解説したあと、『タペストリー』p.202 のヒ ストリーシアターを活用し、生徒によみときを発 問してみる。

 さらに、このムハンマド=アリーとイギリス総 領事キャンベルが何を話し合っているのか説明し (この図は、事実上エジプトをオスマン帝国から 離れた独立国とし、オスマン帝国のスルタンの地 位の転覆すら考えたムハンマド=アリーに対して、 そうした行動に出ないように説得しているイギリ ス使節団の図である)、ヨーロッパ諸国のアジア 進出とオスマン帝国の状況を広い視野で理解でき るように試みた。国家間の駆け引きやお互いに何 を国益として行動しているのかなどは、女子高生 は苦手なのかもしれないが、それぞれの行動原理 を理解させることで整理して学ぶことができたよ うだった。

 オスマン帝国については、トルコ革命が大きな 山となるかと思う。ここでは、ムスタファ=ケマル を取り上げる。タペストリーのp.222を活用して、 現在のトルコ共和国の基礎を築いた人物であるこ とを示したい。また、私は課外の時間を利用して、 同時代に近代化をめざしたアジア国家ということ で、日本とトルコを比較し、現在に至るその友好 関係の歴史なども解説した。教科書から少し抜け 出たような授業は、生徒もよく反応しており、興 味関心を高められたようである。ちなみに、現在 のトルコでは『トルコの父』への崇拝、世俗主義

や共和制の優越性を教える一方で、オスマン帝国 を否定的、後進的に描くことが歴史授業の主軸の ようであるが、近年、こうした動きを批判してオ スマン帝国の寛容性や西欧化の原点としての側面 を強調する動きも歴史教育の現場で出されてきて いるという。こうしたことは、日本の事例以外に も、歴史教育が国や時代によって変わりうると生 徒に示す材料にもなるのではないだろうか。

6.おわりに

 授業改善が叫ばれている今日、歴史の授業をど のように改善できるのだろうか。生徒に接してい ると、学力は確実に低下しているように思えるが、 しかし、だからこそ日々の授業を改善していこう という志向なしに生徒を伸ばすことはできないの だと思う。大学入試を突破するための学習は当然 重要であるだろうが、私としては、生徒が世界史 への興味関心を少しでも高めたり、視野を世界へ と広げて生きようと思ったりするだけでもよいと 考えている。詰め込み的に語句を『暗記』させた あげくに、進学して社会人となって、世界史や世 界の出来事や文化についてもう何も覚えたくない、 何の興味も湧かないと思わせるような授業をして はいけないと考えている。

 そのために、どのようにしたら興味関心を持た せられるのか、「へぇ」と驚いたり、「何故かなぁ」 と考えられるようにするにはどのようなアプロー チが適切なのかと考えてきた。前述したが、『タ ペストリー』のヒストリーシアターはよく吟味さ れていて、活用しだいでよい効果が出る。また、 世界全図とともに掲載されている『ネットワーク ナビゲーター』や『日本と東アジア海域』の図は、 前者はゲームの地図のようで生徒は親近感が湧く であろうし、後者は生徒にとっては新鮮な切り口 で日本とアジアの関わりについて提示されており、 うまく活用してみたい図である。

 我々教師は日常的に多くの業務を抱え、ゆとり がない生活を送っているが、目の前にいる生徒た ちにとってよりよい授業を展開するために、しっ かりとした教材研究・授業研究をしていきたいと、 自戒を込めて、強く思っている。

「タペストリー」p.202 ヒストリーシアター

(12)

1. はじめに

 文化的背景が異なる人々と接する機会が不可避 である国際化社会の今、異文化理解は必要不可欠 な資質である。民族的対立、宗教的対立も収まる どころか深刻化する現代で、異文化を理解するこ とのできる生徒を育てていくことが求められてい る。そのためには自民族中心主義から文化相対主 義へということが一つのポイントになると考えて いる。しかし、今の生徒たちも含め人間は無意識 に自分たちの文化を基準に物事を考えてしまった り、偏見を持ってしまっている。この構造に気づ くことが重要である。

 異文化を理解するということは、異なった文化 に対して正しい知識を持ち、正しい知識を知るこ とである。そうであるならば、教える側は正しい 知識を与えてあげればよいだけである。しかしそ れでは不十分である。つまり、知識を系統的に与 えても、生徒が異文化を理解する資質が身につく わけではないとほとんどの教師が感じているであ ろう。それでは何が足らないのであろうか。それ は学ぶ段階で生徒自身が自分自身の問題としてし て考えていない、自分が偏見を持っている(偏っ た見方を知らず知らずのうちにしてしまってい る)ということに気づかないという点である。こ の状態でどんなに知識を与えても、間違った知識 や考え方を変えようと生徒は思わない。だから、 まず初めに自分が偏見を持っている(無意識に持 たされている)ということに気づかせてあげるこ と、自分たちが当たり前だと思っていることが世 界や他の文化ではそうではないということに気づ かせてあげること、現代の問題が自分自身にとっ て切実な問題であると気づかせてあげることが最 も重要であると考えている。

 世界史では、学習内容の最初から異文化を学ぶ

ことになるわけであるが、「異文化理解という資質

徒の興味・関心から考えて、「イスラーム世界」 の学習が一番適しており、かつ、必要であると考 えている。近年、同時多発テロやイラク戦争、そ してパレスチナ問題、またサッカーのドイツW杯 決勝の舞台で、ムスリムであるフランス代表ジダ ン選手が頭突きで退場となる発端となった差別発 言などイスラームに関することが現代社会の問題 となっている。そして、われわれ日本人は西洋側 の観点から知らず知らず物事を見たり、判断して いるということが多いということにも気づかせた い。このようなことから、私の場合「イスラーム 世界」を異文化理解の導入として位置づけている。 以下に紹介する授業は「導入−展開−まとめ」と なっているが、世界史の授業における異文化理解 教育の「導入」として位置づいていることにも注 目してほしい。

2. 導入(15 分)

 まず、生徒自身、無意識に偏見を持ってしまう こと、ステレオタイプに物事を見てしまうこと、 そしてイスラームに対してもそのような見方をし てしまっていることを意識化させるために、以下 のような発問をする。

〔質問項目〕

1 あなたのイメージを答えなさい。  眼鏡をかけている人は      だ。 2 イスラームに対するイメージを答えなさい。  ①やさしいかこわいか ②合理的か非合理的か  ③穏和か過激か

 あくまで自分の直感、イメージで答えさせるた め、考える時間は与えずにすぐ記入させた後、発 表させる。1の予想される答えは、眼鏡をかけて

いる人は「まじめ」「頭がいい」などが多いと考え

られる。答えが出た後、「眼鏡をかけている人すべ

てが『頭がよい』『まじめ』だろうか?」と投げか

け、そうではないことを生徒に認識させる。そし 世界史 A 授業研究

異文化を理解するための世界史授業案

〜イスラームの授業を通して〜

(13)

よるテロ、また「西洋=合理的」というイメージ から、①は「こわい」②「非合理的」③「過激」 の割合が多いと考えられる。2の答えが出た後、 1の時のように、「イスラームはすべて『こわい』 『非合理的』『過激』だろうか?」と投げかけ、1

と同様そうではないことを生徒に認識させる。こ のように生徒に自分の考えやイメージを意識化さ せた後、なぜわれわれはこのような偏った見方を してしまっているのだろうかと投げかけ、下の2 枚の絵を見せ、何に見えるかを考えさせる。

 この2枚の絵は、見方によって2つの物が見え る(絵1は杯と向き合っている2つの顔、絵2は 若い女性と老婆)というものであるが、どちらか が見えるとそれしか見えずもう1つは見えなくな ってしまうというものである。心理学的にいうと、 人間は経験に基づいた(裏づけられた)知識(信 念)で知覚判断をするということである。このよ うに2つの絵を使うことによって、人間は無意識 にある一方向から物事を見てしまうこと、つまり 生徒が自分も知らず知らず偏見を持ってしまうと いうこと、そして意識をして見ようとしないと2 つ見えないことを認識させる。生徒に「この偏見 の構造と、イスラームに対する自分の最初のイメ ージを意識しながら、イスラームについて学習し ましょう」と伝えてイスラームの歴史に入る。

3. 展開(30 分)

 まず、イスラームの創始者は誰かと発問する。

教科書「明解世界史A 最新版」を見れば、「ムハ

ンマド」と答えるが、「マホメット」と答える生徒

も予想される。板書でムハンマドの隣に括弧で「マ ホメット」と書く。次に、イスラームの聖典は何 かと発問する。答えさせた後、これも同様に「ク ルアーン」の隣に括弧で「コーラン」と書く。そ

るのはなぜか、発問する。そして、それらの言葉 がヨーロッパ経由で伝えられた、つまりヨーロッ パでの呼び方が日本に伝わったためであると説明 する。

 次に、世界でイスラームの信者の数、割合はど れくらいか発問する。数は約12億700万であるこ とを説明(板書)、割合はタペストリー四訂版 (p.59)で約19%、世界人口の5分の1であり、世 界第2位の信者数を持つ宗教であることを確認さ せる。

 このように、知識 に関することでもで きるだけ現在の学習 者とつながる現在の ことを踏まえながら 授業を進めていきた い。

 続いて、イスラームが生まれた背景について説 明する。6世紀にビザンツ帝国とササン朝ペルシ アの対立で地中海東岸地帯の商業活動に支障が出 て、アラビア半島経由のキャラバンラインが繁栄 する。とくに紅海沿岸のメッカを代表とするオア シス都市が中継貿易により繁栄することを教科書 p.35の図を見ながら確認する。そして、その結果

アラビア半島の 社会構造が変化 し、貿易で豊か になる商人とそ うでない者との 貧富の差が拡大 し、富をめぐる

絵1 ルビンの杯 1) 絵2 妻とその母 2)

タペストリー p.59

ササン朝 ペルシア ビザンツ帝国

コンスタンティ ノープル

アンティオキア

イェルサレム クテシフォン アレクサンドリア

メディナ

アクスム アデン メルブ

ホルムズ

アラビア半島

アラビア海

川 ル

642年 ニハーヴァンドの戦い

イスラーム軍,ペルシア軍を破る ササン朝ペルシア滅亡へ

ス ダ

622年ヒジュラ ムハンマドら, 迫害を避けメディナに逃れる ササン朝とビザンツ帝国

の紛争地域(6世紀) おもな交易路

メッカ

0 500km

「明解世界史A 最新版」p.35

ビザンツ帝国とササン朝ペルシアの争い

(メソポタミア付近の東西交通路遮断)

社会改革の必要性・新しい秩序や宗教の希求

紅海側の陸海路の交易が盛んになる

メッカ・ヤスリブの繁栄

(オアシス都市)

貧富の差の拡大 部族の伝統の崩壊

両国の衰退 (権力の空洞化) ユダヤ教・

キリスト教の 流入

(14)

った。それまでの背景をタペストリー p.108の図 で確認する。そんななかメッカに生まれたムハン マドは商人として隊商の旅に出ていたが、40歳頃 神アッラーの啓示を聞きイスラームを創始した。 そして、神の前では皆平等であるという考えが大 商人などの利害を脅かすものとして迫害され、622 年にメッカからメディナに移住した。これを聖遷 (ヒジュラ)といい、622年をイスラーム暦元年と

する。こういった一連の歴史的事実を説明した後、 教科書p.34の絵を見せ、「なぜムハンマドの顔が

けずられているのか」と発 問する。そして、イスラー ムでは偶像崇拝が禁止であ ることを説明する。また、 イスラーム圏の新聞を見せ、 西暦とヒジュラ暦両方が載 せてあることを確認させる。  そして「預言者」「コーラン」「断食」について 説明する。イスラームの特色である豚肉を食べな いことや一夫多妻制、利子を取らない、結婚時に は契約を結ぶ点などにふれ、自分たちの価値基準 とは違う点、勘違いしている知識を獲得させる。 授業の導入時に生徒は自分自身が偏見を持って物 事を見てしまう可能性があることに気づいている ので、これらの知識を説明するときも、これまで の自分の持っている知識と比較しながら説明を聞 いている様子がありありとわかる。

4. まとめ(5 分)

 最後に、タペストリー p.252の「⑦炎上する世 界貿易センタービルの写真」を見せて、どのよう な事件であったか発問する。答えさせた後、イス ラーム原理主義組織アルカイダがアメリカに対し て行った犯行であること、

そしてその後アメリカはそ の報復としてイラク戦争を 起こし、日本もイラクに自 衛隊を派遣したことを確認 する。そして、なぜイスラ ームの過激派がアメリカを 攻撃したのか、イスラエル と争いを起こしているのか、

ーム内部で対立しているのか、と生徒に問いかけ る。そして、その原因や問題解決の手がかりが過 去、つまり歴史にあるのではないかと伝え、次回 からさらに詳しくイスラーム世界を見ていこうと 話をして授業をおわりにする。

5. おわりに

 時間の関係もあり、今回の授業案では使わなか ったが、インドネシアで味の素が豚の成分を使用 し問題になった事例や、数年前に九州で開かれた アジア諸国によるスポーツ大会で主催者である市 が歓迎の意を込めて各国の選手たちに振る舞った 土地の名物である豚骨ラーメンをムスリムの選手 が知らずに食べてしまい問題になった事例を導入 部分で使い、生徒の興味・関心を高めさせ、正し い知識を知らないと今の国際化社会ではこういっ た問題がおこると実感させる入り方もある。  生徒に偏見を持っている(知らず知らずのうち に偏見を持たされてしまっている)ことを認識さ せ、その原因を突き止めるために、そしてそれを 修正させる手段として過去(歴史)に手がかりを 求め、現在の自分の偏見や考えを変容させていく。 現代の問題を自分自身の問題として切実にとらえ、 その原因や解決策を探るために過去(歴史)に手 がかりを求める。まさに「現在と過去との対話」 である。異文化理解はいかに生徒に自分自身の問 題として考えさせられるかどうかが鍵となってく ると考えている。

 1時間の授業では、異文化を理解させるための 仕込みがやや多いため、歴史そのものにあまり深 くふれることができない。また、歴史の内容を扱 った展開部分ではとくに目新しいことをしている わけではない。しかし、1年間かけて異文化理解 教育をしていくという長いスパンで考えた時、そ の導入の授業であると位置づけるならば、そして、 いかに生徒自身の問題として考えさせるというこ とを考えるならば、最初にこれくらいの時間をか けて生徒の意識づけ、教授側からいえば生徒の意 識が変容する「しかけ」をしっかり行いたい。

参考文献

1)齊藤勇編『図説心理学入門 第2版』誠信書房、1988、p.14 2)同上、p.15

(15)

1. 19 世紀の世界を概観して

 アジアの専制君主国が次々と西欧諸国の植民地 化にさらされてゆくなかで、オスマン帝国や清、 ムガル帝国を個別に見ていっても、2単位ものの 世界史Aでは、時間的な制約ばかりでなく、各地 域独特の地名・人名や事項に生徒の頭が翻弄され てしまう。そのため、私は「明解世界史A 最新 版」2部5章では植民地化されてゆく国々の歴史 を先に略年表で比較対照し、共通する一つのポイ ントを提示している。それは、近代化に取り組む 各国が「いつ自国の遅れを認識したか」である。 その国が自らの遅れを認識しなければ、生き残り のための改革という動きは起こらないと。中国・ インド・トルコと各国を取り巻く状況は異なり、 遅れを認識する程度や質にも差異はあるが、基本 的なパターンとは「事件(遅れの認識)→改革(国 内問題)→挫折(内圧・外圧)→崩壊」といえよ う。

2. 導入(親日的なトルコ)

 新課程で学んだ中学校の地理歴史では、トルコ についても他と同様にほとんどふれられていない ため、生徒にはなじみがない。その親日的な側面 の要因となっている1904年の日露戦争を用いて、 ロシア帝国の南下政策に侵食されるトルコと、ア ジアでの満州から朝鮮半島へと進出するロシアに おおいなる脅威を感じていた明治政府との共通す る立場について、教科書の地図を用いて比較し、日 露戦争のもつ世界的なインパクトを理解させたい。  ともすれば、生徒は日本史の事項と世界史の事 項とを別の分野のものと考え、世界史Aで学ぶ近 現代史では、中学校までの基礎知識が十分生徒の なかで生かされていない傾向があると思われる。

5章では植民地化されてゆく旧大国の一つ目にあ たるトルコで、日本史とのつながりをもしっかり と提示してゆきたい。

3. 展開①(遅れの認識)

 オスマン帝国は多民族国家であった。少数のト ルコ族が多数のアラブ族をはじめ、領土拡張とと もに少数民族を次々と抱え込んでゆき、その分裂 要素を宗教別生活共同体とでも呼ぶようなミッレ ト制を導入して、緩やかな結合を維持していた。 このような国に仏革命の思想(自由と平等)が波 及してくると、「民族自立」運動と結びついて帝 国分裂の危険性が高まる。このような状況にロシ アの南下政策という外圧が重なるとき、オスマン 帝国の中枢部に危機感が高まってゆく。

 中国との比較で考えれば、西欧列強との戦いに よって完敗する経験では相手国の強さは痛感でき ても、自国と何がどう異なるのか、自国の遅れを 認識することはあまりできないようである。清朝 では最初の改革を推進するメンバーは、太平天国 の乱を鎮圧したゴードン指揮の常勝軍(外国人部

世界史 A 授業研究

トルコ近代化の挫折 —ミドハト = パシャが挑んだものとは?−

神戸市立六甲アイランド高等学校 鵜 飼 昌 男

(16)

隊)とともに戦った郷勇の領袖たちであった。ト ルコの場合は、ロシアとの戦いよりは領土内のム ハンマド=アリーが率いるエジプトの反乱によっ て目を見開かされたといえる。敗戦経験が外側か らのインパクトとするならば、西欧社会を内側か ら見ることによって自国の遅れが認識されたとき、 改革の必要性とその方向性までもが具体的に見え てくるのであろう。「なぜ、エジプトを抑えられ なかったのか?」と。

 本格的な改革「タンジマート」のスタートが 1839年である点に注目させ、ナポレオンのエジプ ト遠征(1798年)、ギリシアの独立(1829年)、2 度にわたるエジプト=トルコ戦争(1830年代)に 見られる「西欧との接触→影響」の違いを調べさ せても良質の課題になると思われる。

4. 展開②(ミドハト = パシャの生涯)

 タンジマートは1839〜76年までの約40年間も続 く西欧化改革であった。当時のスルタン、アブド ゥル=メジト1世はギュルハネ勅令を発して、政 治と宗教の分離をはじめ、近代的軍隊の創設など、 イスラム教による緩い結合というオスマン帝国の 大前提をも揺るがしかねない方針を打ち出した。 56年にはクリミア戦争後の外圧によって、改革の 勅令も発布され、イスラムの原則である異教徒に 対する差別さえも覆されていった。この改革期間 に有能な官僚として成長・活躍した人物が、タン ジマートの成果として有名なアジア初の憲法「ミ ドハト憲法」の起草者ミドハト=パシャである。  彼の波乱の人生をたどりながら、帝国改革の要

点を理解させたい。

 本校では2年次の社会科学系選択科目(学校設 定科目)として、「世界史B」に連動した「人物史」

西暦 トルコ史の主要事項 ミドハト=パシャの事績

1822 ギリシア独立 法官の子として出生

1831 〜39

2度の

エジプト=トルコ戦争 1839 ギュルハネ勅令

※タンジマート開始

17歳

 →翌年、官界入り 1853 クリミア戦争

1856 改革の勅令

1858 36歳)欧州視察

1860 38歳)パシャの称号授与

1861 スルタン(アブドゥル= アジズ)即位

1864 〜70

42歳)難治で有名なドナ

ウ州知事に就任。その後、 バグダード州知事も経 験。任地では手腕発揮。  →一時左遷

1871 49歳)首都に召還

1872 50歳)大宰相に抜擢

 →数か月で罷免

1874 52歳)法相就任

 →サロニカ州知事  →3か月で退職 1876 新スルタン擁立

(アブドゥル=ハミト2 世)

ミドハト憲法の制定

54歳)スルタンの廃位擁

立に関係 

 →再び大宰相に就任

1877 露土戦争→憲法停止 ※タンジマート挫折

55歳)スルタンによって

罷免→国外追放 1878 アブドゥル=ハミト2世

が議会停止=専制  →ベルリン会議

欧州諸国を歴訪(改革 運動を継続)。  →81年逮捕 

1883 61歳)流刑

 →メッカの近郊で殺害 1908 青年トルコの反乱

 →ミドハト憲法復活

※ミドハトの死から25年

参照

関連したドキュメント

関西学院は Kwansei Grand Challenge 2039

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①中学 1 年生 ②中学 2 年生 ③中学 3 年生 ④高校 1 年生 ⑤高校 2 年生 ⑥高校 3 年生