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帝国書院 | 高校の先生のページ 高等学校 世界史のしおり 2005年 10月号

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(1)

パラダイムの転換

 「オリエンタリズム」という用語の意味すると ころに大転換がおきたのは、エドワード=サイー ドの『オリエンタリズム』(今沢紀子訳、平凡社、 1986年、英語版1978年)以降のことである。この 用語は、ナポレオン=ボナパルトを総指揮官にし て断行されたエジプト遠征さなかの1799年にフラ ンスで創られ、当初は、フランスを筆頭にヨーロ ッパ諸国において綿々と行われてきたオリエント 諸語の学術研究を意味していた。19世紀半ばに、 近東を描く絵画がヨーロッパで流行し、これもオ リエンタリズムとよばれるようになる。ようする に「オリエンタリズム」という用語は、学問ない し芸術潮流をさすものとして、批判の意図を込め ずに使用されていたのだが、オリエント諸語研究 をも俎上にのせてサイードが「オリエンタリズム 批判」を展開するにいたり、パラダイムの転換が おきたのである。

 サイードの論点を二つに整理すると、こんなふ うになる。18世紀以降、オクシデントのオリエン ト像は、オクシデント優位の政治的・経済的関係 が作用した結果、著しく歪められた。その想像界 では、オクシデントが自由にして合理的、平和的 な存在であるとされる一方、オリエントには、オ クシデントにとって好ましくないと思われる属性 (停滞的、狂信的、官能的・・・・)が割りふられて きた。以上が論点の一つ。もう一つの論点は、オ クシデントはオリエントのなかの差異を無視した こと。エジプトであろうと中国であろうと、どこ も似たりよったりだとオクシデントは考えていた、 というのである。

 そして結論はこうなる。「オリエンタリズムと は、オリエントを支配し再構成し威圧するための オクシデントの様式」であり、オクシデントはオ リエントに負の本質的属性を割りあてオクシデン

ト対オリエントという優劣二項対立で世界を認識 してきた、とサイードは主張する。

サイードへの批判

 『オリエンタリズム』は、近代西洋のオリエン ト支配が政治的・経済的なものだけではないこと をあきらかにした。想像界を問題にし、支配の文 化的側面にも踏み込んだ画期的な書物だった。サ イードがパレスチナ出身で、「行動する知識人」 だったこともあずかったのだろう、サイードの人 気は、とりわけ日本では高い。

 しかし、批判はけっして少なくはない。ここで は、サイードの論点を建設的に継承しようとする 立場からの批判を一つ紹介しよう。第二の論点と 同じ誤りをサイード自身が犯しているのではない か、という批判である。つまり、オクシデントの なかの差異を軽視し、自分の論に合致しない事例 を無視してしまい、その結果として、『オリエン タリズム』という本は、「オクシデンタリズム」 に陥っているのではないかという批判である。  このような批判を、事例に基づかない抽象論に 終始しがちな現代思想や文学研究の立場からでは なく、具体的な事例に基づく実証的歴史学の立場 から展開した研究者がいる。帝国主義の社会文化 史研究をリードしてきたジョン=マッケンジーの 『大英帝国のオリエンタリズム』(平田雅博訳、ミ

ネルヴァ書房、2001年)である。19世紀を中心に、 オクシデントの絵画・建築・音楽・演劇などの諸 芸術が、オリエントからの創造的刺激によって活 性化した事実と、オクシデントとオリエントの優 劣二項対立にとどまらない多様なオリエンタリズ ムが存在してきたことを強調するマッケンジーは、 大著をつぎのように締めくくる−−「今日オリエ ンタリズムを批評する人々は、あまりに強引な画 一化を冒しやすい。過去に関して一枚岩的で二項 対立的なヴィジョンを創り上げることで、彼らが

多様なオリエンタリズム

(2)

未来のより共感的な基盤に立とうとする、異文化 間の関係にしばしば過度の損害を与えてきた。実 際のところ、オリエンタリズムは、軽蔑と侮辱ば かりかしばしば賞賛と畏敬にも使われ、無限の多 様性を持つものであった」。

 サイードの『オリエンタリズム』はもちろん、 彼の顰ひそみに倣うオリエンタリズム批評も、意義あ る仕事だったことはたしかである。今日までつづ く、オクシデントによるオリエント支配の、その 文化的側面を知らしめてくれたのだから。知るこ とは、支配を揺るがす第一歩になるだろう。だが、 今後重要になるのは、質の異なるあらたな一歩を どう踏み出すかだろう。その際には、マッケンジ ーがあきらかにした「賞賛と畏敬」を、異国趣味 (エキゾチシズム)にすぎないとして無視するの ではなく、「共感的な基盤」の形成に役立つ可能 性のあるものとして再考することも必要かもしれ ない。ここでは、「侮辱」と「賞賛」が同一人物 のなかに見られる、そんな例を一つ紹介したい。

ルーヴル博物館初代館長ドノン−文化相対主義

 サイードの『オリエンタリズム』のなかで、エ ジプト遠征は重要な位置を与えられている。エジ プト遠征は、「まったく文字通り、近代的かつ全 面的なオリエント体験を生み出すことになった」 ものであり、「いわば近代オリエンタリズムに可 能性を与えた最初の経験である」というのだ。  ところがサイードは、エジプト遠征に関する報 告書・回想録類のなかで累積部数最大の、きわめ て重要な一冊には言及しない。ヴィヴァン=ドノ ンの『ボナパルト将軍麾下の上下エジプト紀行』 (初版1802年)である。マッケンジーも、書名だ

けに言及してテクスト分析はしなかった。  ドノンは、戦闘および風俗、遺跡を画帳に記録 する役目を負って遠征に参加した。後年、ナポレ オン体制下にルーヴル博物館館長(初代)を務め ることになる人物である。

 『上下エジプト紀行』には、サイードの第一の 論点どおりのオリエント観が散見される。しかし ドノンは、「軽蔑と侮辱ばかりかしばしば賞賛と 畏敬」でもってエジプト人とその社会を描きもし た。たとえば、ムスリム有産階級の生活習慣を懶らん

惰だだと批判したそのドノンが、豪奢な邸宅で一夜 を過ごした経験にもとづき、そのような生活の快 適さを発見することもあった。遠征当時のエジプ トの支配層、マムルーク所有の邸宅である。ドノ ンによれば、−−「フカフカの美しい寝椅子の居 心地良さを味わえる僥倖に恵まれた。そのうえ部 屋には、オレンジの花の芳香が漂っていた。密生 した樹々のあいだを通ってくるあいだに生気を取 り戻した、そんな西風の精(ゼピュロス)が運ん できたのだろう。私は、月明かりの庭に下りてみ ることにした。・・・・(中略)無益な比較論を振り かざしての批判のための批判など、やめにしよう。 そうすれば、オリエント的享楽には確かに優れた 所があることを体験から悟ることができる。私が 実際そうだったのだ。この庭には、フランス風の 長くて立派な並木道もなければ、イギリス庭園の 曲がりくねった険しい小道もない。両国の庭は、 体の運動をやむなく行わなければならないように できており、その代償として空腹になり、健康に もなる。オリエントでは、むやみな運動は悦楽の 一つに数えられていない。低く枝の垂れ下がった イチジクの樹々の間に座り、冷気とまではいかな いが日陰を愉しんだり、オレンジとジャスミンの 林の中に張られたり建てられたりしている天幕や 東屋に、好きな時に入るぐらいのものだ。・・・・(中 略)幸福は常に自然と共にある。美しい自然のあ るところ、どこにでも幸福がある。トリアノン宮 (ヴェルサイユ宮殿内の離宮)の庭園のなかに幸 福があるように、エジプトのイチジクの梢の下に も幸福がある」。

(3)

 1.は じ め に

 教科書にそってスタンダードに授業を進めてい くと17世紀ころの世界をどのように扱っているだ ろうか? まずヨーロッパでイギリスがいち早く 議会政治を確立(タペストリー*p.153のヒストリ ーシアター参照)し、フランスはルイ14世の絶対 王政が全盛(p.154のヒストリーシアター参照) を迎え、ロシアでロマノフ朝(p.158のヒストリ ーシアター参照)が成立する。アジアでは、オス マン帝国が第2次ウィーン包囲に失敗し、ムガル 帝国でアウラングゼーブの宗教政策がヒンドゥー 教徒の反発を招くなど衰退期に入り、中国では明 から清への王朝交代が起こった…など自分で振り 返ると、つい各国史的な捉え方をしていることに 気づく。

 そんなとき、タペストリーの世界全図を眺める ことが視野を広げるのに役立つ。さっそくp.32∼ 33「17世紀ころの世界」を見てみよう。オランダ 東インド会社の貿易網を示すオレンジ色の航路が 目立つ。ラテンアメリカとヨーロッパを結ぶスペ イン銀船隊やマニラ・ガレオン船も記されている ものの、p.32∼33にある2つのグラフがヨーロッ パと日本を含めたアジアを結ぶ主役が誰かを物語 る。オランダを軸に17世紀の世界を概観したい。

 2.ヨーロッパ「17 世紀の危機」とオランダ

 『高等世界史B 新訂版』p.198では17世紀の危 機のおもな原因を16世紀の人口増加に求めている。 気候の寒冷化や疫病の流行とあいまって、食料や 燃料の不足や高騰と「新大陸」からの銀の流入量 が減少したこと【発問例:銀はどこからもたらさ れたか? ヨーロッパ経済はどうなったか?】な どで1620年ごろから経済活動が停滞すると社会不 安から暴動が起きたりした。危機は政治にも反映 し、17世紀に各国での内乱や国際戦争【発問例: ドイツを中心に起こった最後で最大の宗教戦争 は?】がなかった年は4年しかなかったという(タ ペストリー p.155参照)。ピューリタン革命と名誉 革命【発問例:当時のフランス王は誰か?】やフ ランスでの王権強化の動きは、危機を背景にした 国家機構の再編とも捉えられる。

 この中で、1581年に独立を宣言した【発問例: その背景は?】オランダだけが繁栄を続けられた 秘密はタペストリー p.159にまとめられている。  製造業の発展を背景に(とくに優れた造船技術 を生かして)海上進出し、バルト海交易で圧倒的

17 世紀ころの世界

神奈川県世界史教材研究会

タペストリーを使った授業案

*帝国書院「最新世界史図説タペストリー 三訂版」

オランダ 30%

フランス 25 スペイン・その他

5

ジェノヴァ 22 イギリス・ ドイツ  18

1581∼90 0 10 20 30 40 50 60 70 船舶数

1591∼1600 1601∼10 1611∼20 1621∼30年

オランダ

フランス イギリス ポルトガル

▲ p.32 外国船に握られる スペイン領の貿易

(1690 年代のアメリカからカディ ス港への商品持込割合)

▼p.33 オランダ東インド会社の台頭

(アジアからヨーロッパへの貿易に従事した 船舶数)

p.159 ヨーロッパの中心国(覇権)の推移

0 1470年ころ 1570年ころ 1670年ころ

10 20 30 40 50 60 (万t)

オランダ

ドイツ フランス

スコットランド イングランド

〈『近代国際経済要覧』東大出版会〉

・バルト海貿易において 圧倒的優位を得る ・自国の商工業(毛織物

業・造船業・陶器業)・

漁業(ニシン・捕鯨)・ 干拓による農業の発展 ・東南アジアのモルッカ (香料)諸島,マラッカ を支配 イギリスを追放 ・首都アムステルダムに 資金の多くが集中,金 融市場の中心になった ・ヨーロッパで唯一,鎖 国中の日本と取り引き した

強さの秘密

(4)

優位を築き、モルッカ諸島を支配して香辛料貿易

【発問例:ヨーロッパ人は何故ほしがったのか確 かめよう】で利益をあげたことが大きい。

 3.近代世界システムとオランダ

 この国際的な経済分業体制の成立について、タ ペストリー p.164∼165で特集されているほか『高

等世界史B 新訂版』p.172∼173では南北問題の 歴史的背景として取り上げられている。

 近代世界システム論は現代のアフリカ社会を研 究していたウォーラーステイン教授が主張したも のである。彼はアフリカがなかなか近代化できな

いのは経済的に不利な立場(「周辺」という)に 置かれてきたためで、「大航海時代」以降、西欧

諸国が「中核」(その頂点に立つ国や地域を「覇権」

という)となってアジア・アフリカ・ラテンアメ リカの富を収奪する不平等な構造が生まれ、歴史

が展開したと世界規模で考えたのである。  さて、オランダの覇権は17世紀で、1602年に6 つの貿易会社を統合して作られたオランダ東イン

ド会社は最初の株式会社といわれ、他国と比較し て抜群の規模を誇った。

 1623年アンボイナ事件でモルッカ諸島からイギ

リスを追い出し、アフリカ南端にケープ植民地を

開いて【発問例:オランダ系移民の子孫?】イン ド航路の主導権を握る一方、ブラジルにも進出し て砂糖プランテーション【発問例:おもな労働力

は?】を経営するなど世界中に商業ネットワーク を張り巡らせた。またバルト海交易では船舶の資

材となる木材やピッチ(防水剤)・タール(塗料)

などを確保し、グーツヘルシャフト【発問例:そ の経営にあたった土地貴族を何というか?】で生

産される穀物を西欧にもたらした。さらに北海で は軍艦に護衛されてのニシン漁も盛んで、イング ランドの毛織物輸出総額に匹敵した。オランダに

とっては他国との自由競争が有利であったため、 国際法の父と呼ばれるグロティウスに象徴される

海洋自由論が主張された。アムステルダムは製造 業ばかりでなく、資本が集中する金融市場として も繁栄を遂げた。

 しかし、イギリス・フランスとの激しい争いも 見られた。クロムウェル本人は同じプロテスタン ト同士【発問例:クロムウェルの宗派は? オラ

ンダで多い宗派は?】で対立を生むことは望んで いなかったとする見解もあるが、1651年に共和制

政府が制定した航海法は、本国と植民地間の海運 をイギリス船に限定してオランダの中継貿易を排 除することが目的であったため、イギリス=オラ

ンダ戦争が起こった。また、ルイ14世【発問例: 財務総監に誰を起用したか?】は1672年にオラン

ダ侵略戦争を開始した。これはフランスとイギリ スが共同歩調をとったオランダ潰しであったが、 オランダは湿地帯を利用した防衛線で危機を切り

抜けた。

 では、1688年名誉革命はどうであろうか。ジェ ームズ2世のカトリック復活政策を嫌う議会はト

ーリー、ホイッグ両党一致【発問例:後に保守党 に発展するのはどちら?】で、王の長女でプロテ

スタントのメアリの夫であるオラニエ公ウィレム に介入を依頼した。ウィレムはホラント州議会の 承認を得て、イギリスをフランスから引き離すた

め2万人の兵を連れてイギリスに上陸し、国王の 座に収まった。立憲君主制を無血で実現したので 日本

ムガル帝国

オスマン帝国 オスマン帝国

フランス イギリス イギリス オランダ

アンボイナ(アンボン) 香料諸島

(マルク諸島)

アムステルダム

ニューアムステルダム (のちのニューヨーク)

オランダ ロシア帝国

アンボイナ(アンボン) 長崎 ゼーランディア ゼーランディア

香料諸島 (マルク諸島)

キュラソー キュラソー

ブラジル ゴレ島

バタヴィア

マスリパタム マラッカ

クイロン

アムステルダム

ニューアムステルダム (のちのニューヨーク)

エルミナ

ケープタウン ケープ植民地

スリナム

西 太  平  洋

0 2000km

オランダの貿易ルート

オランダのおもな拠点 オランダ領

香辛料貿易を掌握

スペイン領との 密貿易の基地

英・仏の砂 糖植民地

奴隷輸出の拠点

砂糖プランテーションを展開

(5)

名誉革命【発問例:ウィリアム3世夫妻が承認し た権利の宣言を法文化したものは?】と呼ばれる が、オランダ人がイギリスを占領したように見え ないこともない。また、この出来事はヨーロッパ の国際関係を書き換える動きでもあった。100年 前、フェリペ2世のスペインに対して採られたよ うにルイ14世の覇権を阻止するためにヨーロッパ 諸国が包囲網を引く。オランダとイギリスと2つ の海洋国家は商業上の対立を乗り越えて同盟国と なったのである。オランダはアメリカから手を引 き【発問例:ニューヨークの古い呼び名は?】ア ジア貿易に専念し、世界市場でもイギリスと共存 する道を選んだ。

 なお、オランダが覇権の座から転落した理由は タペストリー p.159にあげられている。

 18世紀のオランダは世界商業上の優位を失って いたが、依然として潤沢な資金はより信用性の高 いイギリス金融市場に流れ込むようになった。

 4.オランダ東インド会社の活動

 アジアに有力な輸出品を持たないオランダは、 日本の銀や銅を独占的に利用してアジア内貿易を 展開することで莫大な利益を得ていた。ヨーロッ パで唯一鎖国下の日本【発問例:朱印船と鎖国令 について調べよう】と取引ができる国という立場 をうまく利用したのである。中国の茶や陶磁器、 東南アジアの香辛料、インドやペルシアの綿布な どがおもな取扱品目である。

 明清交代期の混乱で景徳鎮の染付や赤絵の輸出

が停止されると、それまでに日本に伝えられてい た磁器の生産技術によって代替品の生産が行われ るようになった。柿右衛門が赤絵の生産に成功し ていたが、1650年代には長崎でのコバルト(青色 顔料)の輸入が増加し、伊万里の染付がオランダ 東インド会社に買い上げられるようになった。注 文の皿にはVOCの社章が入れられブランド意識 が示された。1680年代に中国情勢が落ち着くと伊 万里の輸出は減少した。

 また、中国産磁器に押されて17世紀に多くのマ ヨリカ窯が食器生産を縮小してタイル陶板にシフ トするなか、中国産磁器の外観模倣に務めていた デルフト窯が人気を集めた。

 なお、オランダに集まったものは商品や資本だ けでなく、情報もである。江戸幕府にオランダ商 館長が提出する『オランダ風説書』は世界を網羅 し、おおむね正確であったことが知られ、18世紀 になってもイギリスの新聞は海外ニュースをオラ ンダの新聞記事を英語に翻訳して掲載していた。

 5.おわりに

 17世紀の西欧美術では市民の日常生活を題材に した風俗画が目につく。タペストリー p.163にフ ェルメールの「画家のアトリエ」とレンブラント の「夜警」が掲載されている。後者は火縄銃組合 の集団肖像画であるが、明暗の効果を重視する作 風ゆえに依頼者から前の二人が目立ちすぎるなど と物議を醸したものである。

 登場人物の服装や背景などから17世紀のオラン ダの人々を考察させたりして、生徒に歴史をより 身近なものと感じさせたい。

p.159 ヨーロッパの中心国(覇権)の推移

p.163 レンブラント「夜警」 p.163 フェルメール

「画家のアトリエ」

オランダからイギリスへ中心が移ったのはなぜか

・オランダ資金がイギリ スの産業に投資される ようになった ・オランダの主力商品で

あったアジアの香辛料

の人気が落ちた ・イギリスの主力商品で

あったインドの綿布(キ ャラコ)が大流行しは じめた

・英蘭戦争でイギリスに 敗北し衰退した オランダが転落した理由

オランダ 86% スイス 4 その他 10

総額 380万ポンド

オランダ 89% ドイツ 4 イタリア 2その他 5

総額 76万ポンド

オランダからイギリスへ中心が移ったのはなぜか

・オランダ資金がイギリ スの産業に投資される ようになった ・オランダの主力商品で

あったアジアの香辛料

の人気が落ちた ・イギリスの主力商品で

あったインドの綿布(キ ャラコ)が大流行しは じめた

・英蘭戦争でイギリスに 敗北し衰退した オランダが転落した理由

オランダ 86% スイス 4 その他 10

総額 380万ポンド

オランダ 89% ドイツ 4 イタリア 2その他 5

(6)

 1.は じ め に

 今年はトクヴィル生誕200年にあたる。彼は、思想家・

歴史家であり、政治家でもあった。フランスの第一帝

政から第二帝政半ばまでを生きた人である。タペスト

リーでは彼について取り上げていないが、「トクヴィ

ルのデモクラシー論」として、肖像画とともに紹介し

ている資料集もある。

 6月10日から3日間にわたって、トクヴィル生誕

200年記念国際シンポジウムが東京で開かれた。なぜ、

今トクヴィルが注目されるのか。米仏の研究者たちを

招き、シンポジウムを開くのはなぜなのか。それは、

デモクラシー(民主主義)を今日の問題として考え、

自由と平等の関係を明らかにしようとするときに、ト

クヴィルの研究成果が有用であるばかりか、現在の時

点でより輝きを放つからであろう。アメリカ独立革命・

フランス革命と、それ以降の両国のデモクラシーにみ

られる共通点・相違点を、トクヴィルは実体験を踏ま

えて分析し、その先の未来社会への洞察をも語り、今

日の世界を予見したからである。さらに、シンポジウ

ム企画の背景には、9.11のテロ事件以後に見られる、

アメリカとフランスの対立がある。その対立の根底に

潜む、両者の世界秩序像やデモクラシー観の違いを探

るために、トクヴィルの視点を甦らせようというので

ある(宇野重規「『二つのデモクラシー』映す鏡 生

誕200年 トクヴィル思想の意味」2005.6.2付東京新聞

夕刊)。

 トクヴィルは、その名前(アレクシス=ド=トクヴィ

ル)に見られる通り、貴族であり、曾祖父のマルゼル

ブは、ルイ16世に死刑判決を伝えた人物である。王は、

マルゼルブに向かって、「常に国民の幸福を願ってき

た」と言ったという。マルゼルブは政治家であったが、

啓蒙思想家や文学者と交わり、『百科全書』の刊行に

尽力した。ルイ16世のもとで、大臣を2度経験し、王

の裁判では、議員として弁護にまわった。王処刑の翌

年、1794年に処刑されている。トクヴィルにとって革

命は身近なものだったはずである。

 2.フランス革命を引き寄せるには

 授業でも、政治文化などに視点をあてたフランス革

命研究の新しい動きについて、簡単にではあるが、ふ

れておく。それは、世界の歴史を見る目を、生徒たち

が自ら身につけることにつながるからであり、自らの

生き方を考えることに結びつくからである。

 その際、フランスで再評価が進んでいるという、さ

きのトクヴィルのフランス革命研究(『アンシャン=

レジームと革命』)や彼の生き方を取り上げて、民主

主義社会の多様性が現代の問題でもあることにも注意

を促したい。

 フランス革命に関連する新聞記事・展覧会の図録・

様々な書物・映画・演劇・オペラ・音楽などを、でき

るだけいろいろ授業で紹介しようと試みているが、実

際には、文字通りの紹介にとどまることが多い。今年

はマリ=アントワネット生誕250年で宝塚歌劇の公演

「ベルサイユのばら」がある、その原作(池田理代子

の劇画)はこういう話で、当時は小学生も夢中になり

熱狂的に支持してフランス革命を研究した生徒もいた、

というように。「ベルばらブームだ!」と反応が返っ

てきたりするが。マリ=アントワネットについては、

オーストリアのところで、マリア=テレジアの末子と

しての肖像画を見ている(タペストリー*p.157)。王妃

マリ=アントワネットと子どもたちの肖像画がタペス

トリー p.173にあるので、先回りをして、彼女と子ど

もたちがどうなったかを話す。

 次男のルイすなわちルイ17世の心臓のDNA鑑定が

行われて埋葬されたという記事が、写真入りで去年出

たのでプリントにする(「200年待ち望んだ安眠 ルイ

17世の心臓埋葬」、2004.6.9付東京新聞夕刊)。

 マリ=アントワネットといえば必ず出てくる話が首

飾り事件(タペストリー p.294の年表)。これについて

は、展覧会の図録の写真(複製)を見せ、映画「マリー

=アントワネットの首飾り」(2001、アメリカ)の内容、

タペストリーで見る 18 世紀の世界

フランス革命を中心に

神奈川世界史教材研究会

タペストリーを使った授業案

(7)

実際の事件のあらまし、事件の影響などを簡単に説明

する。一部分でも見てもらうと、生徒の関心をより引

きつけることができるのだが。

 映画では、「ダントン」(1984、フランス・ポーランド)

も生徒に見てほしい作品である。ダントンとロベスピ

エールの対立が描かれている。さらに最近のものでは、

「グレースと公爵」(2001、フランス)が出色である。

グレースは実在のイギリス人で、1786年にフランスに

来た。彼女は王党派で、1794年にロベスピエールが失

脚するまでの1年半を獄中で過ごし、その後回想録を

まとめた。映画はその原作に基づく。厳密な考証によ

る革命期のパリが映像として再現されるので、タペス

トリー p.172のパリの地図を参考に見るよう勧める。

 オペラ「アンドレア・シェニエ」(ジョルダーノ作

曲)が11月から12月にかけて上演される(新国立劇場)。

実在した詩人アンドレ=シェニエについては、タペス

トリーにも載っていないが、革命末期のパリが舞台に

なっているので、恐怖政治の話と関連させて紹介する。

 ヴィクトル=ユーゴーの小説『レ=ミゼラブル』を

読んだことがなくても、ミュージカルの同名作品は

知っているという生徒は多い。毎年上演されるので、

少女コゼットの絵の入ったポスターをどこかで目にし

ているようである。タペストリー p.193の19世紀文化

の年表に入っている作品であるが、革命が終わってし

ばらく経ったフランスが舞台であり、

ルイ16世の裁判や、革命の理想につ

いても語られている。ユーゴーによ

る巻頭の言葉「この世に無知と悲惨

のある限り、本書のような性質の書

物も無益ではあるまい」とともに、

授業で一部分をプリントにし、読ん

で感じたこと、考えたことを書いて、

提出させるようにしている。

 フランス革命の内容に入る前に、

タペストリー p.173のcの表にある

三色旗の色の意味・由来などを取り

上げる。トリコロール=カラーとい

う言葉を知らなくても、三色の組み合わせはおなじみ

のものであるし、自由・平等・友愛(博愛)を表すの

だとの声も生徒からあがる。ラ=ファイエットについ

ては、アメリカ独立革命で義勇軍を率いて戦い、総司

令官のワシントンに気に入られたということを思い出

させつつ、タペストリー p.173のxの肖像画を見せる。

生徒には少し先回りをして、彼がどんな考えをもって

いたかを示す。

 さらに、フランス革命の前奏曲には「ラ=マルセイ

エーズ」を。タペストリー p.173の「今日とのつなが

り」を見て、CDを聴く。楽譜と歌詞はプリントにし

て、説明を加える。

 3.環太平洋革命として捉える

3.環太平洋革命として捉える

 これまでも、アメリカ独立革命とフランス革命との

つながりは、フランクリンやラ=ファイエットの活動

から指摘されたことであったが、大西洋から眺めてみ

ると、18世紀から19世紀にかけての大きなうねりを感

じることができる。まず、タペストリーの次の3か所

の部分を活用して、環大西洋革命(18世紀後半∼19世

紀前半)の全体像を立体的に浮かび上がらせよう。

 まず、p.169の「特集・環大西洋革命」から。中央

に大西洋があるので、生徒にとっても一目瞭然である。

それぞれの出来事の年代を見比べると、ほぼ同時期に、

大西洋両岸の地域で革命が起こっていることがわかる。

どの革命か。アメリカ独立革命・フランス革命・ハイ

チ独立革命・ラテンアメリカ諸国の独立革命などがあ

げられる。続いて、生徒に聞く。この時代のイギリス

で進行していた革命は何だったか。産業革命。

 思い出そう。イギリスとフランスは、植民地支配と

世界貿易をめぐって覇権争いをしてきている。p.159

の第2次英仏百年戦争の年表で確かめよう。では大

西洋貿易はどうか。p.34∼35の「18世紀ころの世界」

ン=

の活

サン=マ ル

1822 ∼1825) 1699∼ 1702年

1722∼  24年

1772∼  74年

0 2000 輸入額 輸出額 4000千ポンド 1107 851 1679 1745 4769 5148 1699∼ 1702年

1722∼  24年

1772∼  74年

0 1000 輸入額 輸出額 2000千ポンド 756 136 966 112 1929 780

成長をつづける 大西洋貿易 (イギリスの対ア メリカ・西アフリ

カの貿易収支) 易

赤字の累積する

アジア貿易 (イギリス東イン ド会社の貿易収支)

るいせき

0° 60° 120°

60° 120°

0° 60° 120°

60° 120°

0° 0°

30° 30°

60° 60°

30° 30° 30° 30° 90° 90° 150° 150° 90° 90° 30° 30° 150° 150° 30° 30° A B B C C D D E E F F G G H H I I J J K K L L 1 1 2 2 3 3 4 4 5 5 南米独立運動家

シモン=ボリバル の出身地

イギリスとの自 由貿易を求める。 本国の統制に不 満高まる。

インド産綿織物 「キャラコ」の 語源。 スペイン継承戦争(1701ー13)後,

イギリス南海会社,スペイン領へ の奴隷貿易権(アシエント)獲得。

本国経済がイギリスに圧倒され, 金の多くがイギリスに流出。

1703年にイギリスと通商条約(メ スエン条約)を結び,イギリスに経 済的に従属。 ジェンキンズの耳の戦争(1738ー48)

イギリスの密輸船長,スペインの官憲に 耳をそがれた,との証言より戦争に。オ ーストリア継承戦争(1740ー48)と合流。

ジャコバイトの反乱(1745) フランスの支援でジェームズ2世 の子孫がスコットランドで反乱。

プラッシーの戦い(1757) フランスと在地領主の連合軍を 破り,英はその後,ベンガル地 方などを植民地化。

イギリス,茶の輸入で 赤字続く。 フレンチ=インディアン戦争

ヨーロッパで七年戦争(1756ー63) が行われていたころ,英仏の北米 での争いは激戦をくり広げた。

ボタニー湾

西

イ   ン   ド   洋

ハドソン湾

タスマニア島 ←奴隷

砂糖・綿花・ 染料 →

綿 織 物

・ 武

器 ・ 雑 貨 ↓

←キャラコ・藍

←キャラコ ・藍

セントヘレナ アセンション バルバドス

グアドループ マルティニク

アンティグア ジャマイカ

ミナス=ジェイラス グアナファト

ミノルカ アゾレス諸島

カナリア諸島 マデイラ諸島

茶 ↓

ス ワ ヒ

リ 文 化

都 市

皮 ・

たばこ・綿花→

↑ 金

・ 皮 革

サンティアゴ メンドーサ コルドバ

ブエノスアイレス サンパウロ

リオデジャネイロ ニューヨーク モントリオール

メキシコ アカプルコ

サントドミンゴ

パナマ

ラパス スクレ

ベレン

バイア レシフェ グアダラハラ

マナオス カラカス

ボゴタ

グアヤキル

リマ グアテマラ

キト カルタヘナ

アンゴストゥーラ ポルトベロ ベラクルス

バハマ ニューオーリンズ セントルイス

デトロイト ケベック

ボストン プリマス フィラデルフィア リッチモンド

ロンドン パリ ナント

リスボン マドリード リヴァプール

アムステルダム ベルリン

エルミナ

アデン

モガディシュ

ザンジバル モンバサ マリンディ メッカ

ホルムズ バスラ バグダッド

カイロ イスタンブル

アレッポ ワルシャワ

サンクトペテルブルク

モスクワ

ウィーン

トボリスク オムスク クラスノヤルスク イルクーツク

カシュガル ウルムチ

ネルチンスク キャフタ

ヤクーツク オホーツク

北京

カーブル

デリー

ディウ

ゴア ボンベイ

クイロン カリカット

コロンボ カルカッタ

アチェ マラッカ ペナン バンコク サイゴン

バタヴィア パレンバン

バンテン マカオ 昇竜

広州

マニラ

ブルネイ 南京

寧波

ケープタウン

西安 江戸

長崎 キエフ

トリポリ

ケープコースト フォートジェームス サンルイ ゴレ

コロニア・デ・サクラメント ジブラルタル

モザンビーク

ソファラ ベンゲラ

マドラス ポンディシェリ

(シドニー) ポートジャクソン テヘラン

マギンダナオ

13植民地

オイラト諸集団 ハルハ

ニザーム チベット

ベンガル

フィリピン (スペイン領) チャハル

回部

スリナム

カーナティック

イギリス

フランス

朝鮮

清 日本

ムガル帝国 シク

アウド王国

マラータ同盟

ロ シ ア 帝 国

イギリス

フランス

スペイン ポルトガル

オランダ プロイセン

ス ウ ェ ー デ ン デンマーク= ノルウェー連合王国

ヒヴァ= ハン国 ブハラ=

ハン国

ラージプート

ビルマ

シャム カナダ

ペルー

ブラジル ヌエバエスパーニャ

副王領

ヌエバグラナダ 副王領

リオデラプラタ 副王領

アフシャール朝

アシャンティ 王国

ベニン王国 ダホメ王国

コーカンド= ハン国 ドゥッラーニー朝

オスマン帝国

大越

副王領

1763年パリ条約後の領土 イギリス領 拠点都市  島  密輸貿易港 スペイン領    オランダ領   拠点都市  島

フランス領   拠点都市  島

ポルトガル領   拠点都市  島 プロイセン領 オーストリア領 1776年に独立宣言する13植民地 イギリスの大西洋三角貿易ルート その他のイギリスの貿易ルート

イギリスの対フランス・スペイン戦争

華僑の進出都市

18世紀ころの世界

18世紀ころの世界

(8)

の大きな地図・貿易収支のグラフ・アジア物産の国産

化をめぐる地図とグラフから、とくにイギリスの動き

がつかめる。このイギリスと対抗しているのがフラン

スだということをおさえよう。大きな地図の凡例で、

p.169にあったハイチ独立革命の起きた島が、どの国

の植民地であったかを見てみると、生徒は、スペイン

とフランスのどちらなのか分からない、と言う。では、

p.36の「19世紀前半の世界」の大きな地図で、独立し

たハイチを見よう。フランスの植民地であったことが

すぐわかる。スペイン領サント=ドミンゴ島(イスパ

ニョーラ島)は、18世紀末までに全島がフランス領と

なり、フランス語読みでサン=ドマングと呼ばれた、

という説明をする。フランス革命の影響を受けて独立

運動が始まったという予測がつくだろうから、p.178

のトゥサン=ルーヴェルテュールの肖像画を見て、少

しだけ話をしておく。p.34に戻り、フランス領の植民

地となっている他の島も押さえておこう。フランス

は、これらの植民地で、黒人奴隷を使い、砂糖・コー

ヒー・タバコなどを作らせた。18世紀末には、サン=

ドマングが世界最大の砂糖の産地になっている。フラ

ンスは、砂糖やコーヒーなどを消費するだけではなく、

他のヨーロッパ諸国へ輸出した。

 そこでカフェの話に続ける。p.161のイギリスのコー

ヒーハウスの様子を見ながら、フランスでもカフェが

議論の場・情報交換の場としてにぎわったことを指摘

しよう。コーヒーがフランスにもたらされたのは1653

年、パリで飲用されるようになったのは1669年から。

シチリアのフランチェスコ=プロコピオという人物が、

パリにカフェを開き、自分の名前をつけた。アイスク

リームとシャーベットも売った。このカフェは、パリ

に現存する最古の店である。メルシエも書いているが、

店には新聞・雑誌が置かれ、客は自由に読むことがで

きた。常連客には、p.161に肖像画のあるルソー、ジャ

コバン派のダントンやマラーなどがいたという。生徒

たちに、革命期のカフェで政治に関する議論が活発に

行われたことを想像させる。女性が入ることを許さな

かった点も指摘しておく。女性の政治クラブは国民公

会で禁止された。p.196の左下を見よう。メアリ=ウル

ストンクラフトが載っているが、オランプ=ド=グー

ジュも出しておきたい。憲法制定国民議会が採択し

た「人間および市民の権利の宣言(人権宣言)」。p.294

の史料で見る際、「人間」と「市民」が誰をさすのか、

生徒に聞いてみる。女性が含まれていないことに思い

至らない場合が多い。グージュが「女性と女性市民の

権利宣言」を著したことを話しておく。ところで、フ

ランス人権宣言とアメリカ独立宣言の共通点は何だろ

うか。p.171の史料と比べてみよう。

 4.フランス革命の複雑さ

 フランス革命は国王と貴族の対立から始まった。国

家財政の危機は、ルイ14世の侵略戦争から始まり、ア

メリカ独立戦争への参戦によって、決定的となった。

ルイ16世の財政改革は失敗する。ここで、アンシャン= レジーム下の税負担の実態と財政改革の内容をp.172

の風刺画からつかもう。免税特権を貴族が手放すだろ

うか。貴族は大反対、王に三部会の開催を要求する。

旧体制の行き詰まりは、イギリスとの通商条約(1786)

による貿易自由化の面でもはっきりしていた。経済活

動の自由・財産の所有・権利の平等を要求するブルジョ

ワが、貴族と手を結ぶのか、都市の民衆や農民と手を

結ぶのか。その選択が革命の流れを変えた。p.172∼

173の「ヒストリーシアター」と年表などを使って、

革命の転換点と、転換点前後の違いを明らかにする。

 フランス革命は国民の統合・統制も押し進めた。

p.173のc「国民国家の形成」の表で、統一フランス

語に注目しよう。国民公会がフランス語を国語にきめ

た(1793)。当時、フランス語以外の言葉を話す人々は、

フランス国内にたくさんいた。バスク語・カタロニア

語・オック語・フラマン語などを話す人々が、少なく

見積もっても4分の1以上いたという。平等の精神を

掲げながら、言語の面での平等は、違う向きで現実化

した。この問題は、今世紀にも引き継がれている。こ

の点も生徒に考えてほしい。

 5.おわりに

 トクヴィルは、常にフランス革命を視野に置いてア

メリカの社会を分析した。彼は、フランス革命前後の

連続性をはじめて明らかにした点でも評価されている。

彼はまた、デモクラシーを実現するのに、なぜ多くの

血が流されたのかという問題に対して、旧体制のあり

方に原因を求めている。この革命の悲惨さの問題も生

(9)

 1.は じ め に

 言葉だけではイメージできない。地図を見ても どこかよくわからない。絵を見てもイメージしに くい。そんな声を生徒からよく聞くようになった (もちろん、教科書の内容を口頭で説明するだけ

では、何一つわからない! ということになる)。 教科書がカラーになったものの、本文の記述との 関係にふれないと、生徒自身の好奇心に委ねたま までは生徒に過重な負担を与えることになってし まうらしい。という現状に鑑みると、図説資料に ついて、「教科書に該当する内容を見ておくよう に」というだけの指導では、世界史嫌いの人々を 無限に生産するだけということになる。以前は、 百科事典の代わりに持たせておくことにも意味が あると感じていた図説資料だが、見方・使い方を 具体的な授業の中で提示していかないと、図説資 料の面白さに気づくこともなく、苦手だった科目 の教科書の一つということになってしまいかねな い。本稿は、具体的な授業の中で、生徒諸君が図 説資料を見ることから気づき、考えることに つながるような学習活動をどう展開するか、 という観点から、とくに、ナポレオン没落後 の世界を一例として検討したい。

 2.環大西洋革命としての整理

 「市民革命」というまとめ方は教科書など では見られなくなってきた。それでも通常の 授業では、二重革命という整理の仕方を含め、 産業革命・アメリカ独立革命・フランス革命 とナポレオンとして展開されがちであろう。 ここでは、タペストリー*p.169の環大西洋革 命の説明を示して整理しておきたい。まず、 「七年戦争に関係した国のその後の動乱」の

地図を見て、七年戦争のおもな戦場を確認し、と くにインドと北アメリカでの戦いについて答えさ せる。そのうえで、七年戦争に勝利したイギリス が手に入れた広大なものは何か、そしてそれが産 業革命を迎えていたイギリスにとってどのような 場となっていったか、答えさせる。イギリス産業 革命は19世紀半ばまで他国をリードして「世界の 工場」と称されるようになることを確認する。  一方、七年戦争直後のイギリスでは、財政難か らアメリカ植民地に対する課税を強化したことを 確認し、どのような内容だったか答えさせる。植 民地住民の本国政府への不満が募る中、茶法に対 するボストンでの事件(p.170で再度確認させ、内 容を答えさせる)とそれへの本国政府の対応から 独立革命にいたったことを確認させる。フランス などから派遣された義勇兵(p.171で具体名を挙 げさせる)や武装中立同盟(提唱した君主の名と 国名を挙げさせる)などによるヨーロッパ諸国の 支援を得て、アメリカは独立を果たす(p.171の 独立宣言を読ませる)ことを確認する。アメリカ

19世紀前半の世界

神奈川世界史教材研究会

タペストリーを使った授業案

*帝国書院「最新世界史図説タペストリー 三訂版」

タペストリー p.169 ③七年戦争に関係した国のその後の動乱

ポルトガル

(1794年)

(1773∼75年) (1757年) (1755∼63年)

(1789年∼) フランス革命 コシューシコの蜂起

プガチョフの乱

プロイセン

オーストリア

スペイン

プラッシーの戦い フレンチ=インディアン戦争

(1794年)

(1773∼75年) (1757年)

(1782∼1801年)

(1780∼81年) (1810∼25年)

(1775∼83年) アメリカ独立戦争

シモン=ボリバルの独立運動

トゥパク=アマルの反乱

(1780∼81年) (1810∼25年)

(1791∼1804年) (1755∼63年)

(1789年∼) 1821年

1823年

1823年

1819年

1821年

1818年

1816年 1811年

1818年 1825年

1816年

1811年 1822年

1828年 メキシコ

ロンビア 大コロンビア

ペルー

チリ ボリビア

ブラジル パラグアイ

ウルグアイ

中央アメリカ 連邦

アルゼンチン

(1775∼83年) アメリカ独立戦争

アイルランド独立運動

フランス革命 コシューシコの蜂起

プガチョフの乱

ハイチ独立革命

シモン=ボリバルの独立運動

トゥパク=アマルの反乱

北極海 平

イ ン ド

西

ロ シ

ア 帝

イギリス プロイセン

オーストリア

ダホメー ベニン スペイン

フランス

オスマン帝国

オスマン帝国

国 ベンガル大守領

プラッシーの戦い

イスラーム諸王国

フレンチ=インディアン戦争

国名

七年戦争に関係した国と その植民地 七年戦争の主な戦場 アメリカ独立戦争・フランス 革命の影響を受け反乱・ 革命のおきた地域 1814年までの成功につな がった反乱・革命 1814年までに失敗した 反乱・革命 独立を勝ちとった地域

(10)

独立革命の理念はフランス革命に影響を与えたこ とを確認する。

 七年戦争に敗北したフランスは、ルイ14世以来 の戦争など(「鏡の間」で有名な宮殿と庭園を造 営したことも一因だったね、とp.154を示して再 確認させる)とあいまって、財政が危機的状況に 陥り、財政改革に取り組んだが、特権身分である 貴族が課税に抵抗して失敗したことを確認する。 この時、貴族が主張した身分制議会(1615年から 休会のままだった、この議会の名称を答えさせる) の開催には、農民や商工業者などの新たに成長し てきた勢力(この階級の名を答えさせる)が中心 となった第三身分が同調したが、召集後の採決方 法の対立などから、第三身分を中心として国民議 会が成立し、憲法制定までは解散しないことを誓 い(p.172の球戯場の誓いの絵で確認する。名前の 出ている人物の業績なども説明させる)、政府の その後の対応からパリ市民が武装蜂起してフラン ス革命が勃発したことを確認する。

 アメリカ独立革命とフランス革命の理念がラテ ンアメリカに影響を与え、フランスの植民地であ ったハイチで黒人奴隷による蜂起から独立革命が 展開されたことをp.178で確認し、このハイチ革 命の指導者でナポレオンによって捕えられ獄中死 した人物を答えさせる。フランス革命の限定相続 人ともいわれるナポレオンは、イギリスによる覇 権に対抗して工業化を進め、大陸封鎖令を発する が、その経済的意味と影響・結果についてp.175 を参考にしながら確認する。ナポレオン戦争によ ってスペイン本国が混乱するとラテンアメリカは クリオーリョの指導によって独立運動が展開され ていくことをp.178によって確認する。また、ラ テンアメリカの植民地が貿易関係を強化していく 相手国をp.175の⑥19世紀初頭の英仏勢力範囲(ヨ ーロッパをこえた英仏の抗争)の図を見ることか ら答えさせる。 

フランス革命・ナポレオン戦争の影響からヨー ロッパ各国では、ナショナリズムや自由主義の動 きが生まれてくるが、ナポレオン戦争後の国際秩 序として構築されたウィーン体制の果たした役割

とその限界について考えていくことを確認する。  環大西洋革命の観点で、産業革命・アメリカ独 立革命・フランス革命とナポレオンの内容を再確 認することによって、英仏の対立の背景として、 イギリスの工業化と覇権の確立の過程が資料を通 じて確認できる。

 3.ウィーン体制

 1814年、フランス革命・ナポレオン戦争の戦後 処理のために、オスマン帝国をのぞく全ヨーロッ パの支配者が参加する国際会議がウィーンで開か れた。まずp.176のヒストリーシアターを読み、「会 議は踊る、されど進まず」と皮肉られた状況をイ メージさせる。オーストリア外相(のちに宰相と なる)メッテルニヒが議長として、各国の利害対 立を調整しようとしたが、ナポレオンのエルバ島 脱出と百日天下の報で、諸列強の妥協が成立する ことになった。ウィーン会議の基本原則とされる 正統主義と勢力均衡を挙げ、とくに正統主義の内 容は「キーワード」で確認する。フランス外相タ レーランが中心となって主張した、革命前の主権 と領土を正統とし、革命前の状態に戻すべきとい う考えである。なぜフランス代表が主張したか、 それをなぜメッテルニヒが受け止めて利用し、そ の結果どういう結果につながったか、考えさせる。  会議の結果はウィーン議定書にまとめられるが、 p.176「③ウィーン会議による主な領土変更」の 図と「zウィーン体制下のヨーロッパ」の地図を 見比べることで、その内容を確かめる。「ウィー ン体制の成立から崩壊へ」の表を見ながら、革命 を封じ込める反動勢力のインターナショナルとも 0 3000km イギリス インド

オランダ領東南 アジア植民地へ 本国同様フランス に占領されたため イギリスが攻撃

ナポレオンの遠征によ りイギリスとインドを 結ぶ線を断たれる スペイン本国との

通商断たれイギリ スとの貿易増える 中立を保ち英仏と中継貿易 をしていたがイギリスの介 入にあい1812年米英戦争へ

フランス牽制のた めイギリスに攻撃 され1807年参戦

エジプト デンマーク

エジプト デンマーク

イギリス

勢力範囲 フランス 勢力範囲

0 3000km

イギリス インド

オランダ領東南 アジア植民地へ

0 3000km

イギリス インド

フランス アメリカ

オランダ領東南 アジア植民地へ 南米植民地

(11)

いえるウィーン体制の中核となる四国同盟の加盟 国を確認する。また、ロシア皇帝アレクサンドル 1世が主唱し、ウィーン体制の精神的支柱となっ たキリスト教精神に基づく君主間の同盟の名称を 答えさせ、英王・教皇・オスマン帝国スルタンが 参加しなかった理由を考えさせたい。さらに、こ の表から、自由主義とナショナリズムの動きをウ ィーン体制側が弾圧していく段階、ラテンアメリ カ諸国の独立とイギリスの五国同盟脱退・アメリ カ合衆国のモンロー宣言、ギリシアの独立、フラ ンス七月革命、ベルギーの独立などによってウィ ーン体制が破綻しはじめる段階、フランス二月革 命に始まる「諸国民の春」「1848革命」によって ウィーン体制が崩壊していく段階を読み取り、「z

ウィーン体制下のヨーロッパ」やp.177の「z七 月革命・二月革命」の地図によってそれぞれので きごとの位置と関係を確認する。

 ラテンアメリカ諸国の独立につ い て、p.178の「zラ テ ン ア メ リ カ諸国の独立」の地図とその運動 の指導者たちの説明を読み、とく に1811年以降の独立の指導者2人 の名と活躍した地域を確認する。 また、イギリスはラテンアメリカ 市場の開拓をねらって独立を支援 する外交(英外相の名をとった用

語を答えさせる)を展開したため、合衆国モンロ ー大統領によるアメリカ大陸とヨーロッパの相互 不干渉を唱えたモンロー教書とともに、ウィーン 体制に動揺を与えたことを確認する。

 4.大英帝国の繁栄

 p.179の「イギリス帝国の確立」の年表を見て、 1801年にアイルランドと合同することによってグ レートブリテンおよびアイルランド連合王国が成 立することを確認する。また、この年表から工業 化の影(p.168で再確認)とそれへの対応や自由主 義政策をとりあげ、その内容を確認する。また、 自ら自由貿易政策(「z大英帝国の構造」から用 語を確認する)を展開するとともに、他の地域に

自由貿易を強制する政策を展開していく戦争を、 年表から選ばせる。この戦争については、イギリ ス国内においても不名誉な戦争であるという批判 もあったが、その契機はともかく清に対する自由 貿易の要求を実現させたことと、この戦争によっ て「アジア」に対する「ヨーロッパ」の優位が確 定したということから、「世界史」を語るうえで も重要な戦争になると考えられる。この戦争の直 前の1837年に18歳で即位したヴィクトリア女王の 時代はまさに大英帝国の繁栄の時代である。イギ リスは世界経済の覇権を確立し、植民地と本国の 関係についても経済的な分業体制として整理し、 国内政治においては自由党と保守党の政権交代が 続く中で選挙法の改正をはじめとして様々な自由 主義政策が展開されていったことを確認する。

 5.まとめにかえて∼ 19 世紀前半の世界

 上の図はp.200のイギリスの覇権を示した図で あるが、p.36∼37の「19世紀前半の世界」と合わ せて示すことによって、ウィーン体制でヨーロッ パが語られている時期に、イギリスの工業化と植 民地帝国化がすすみ、イギリスの覇権が確立して いったことを確認する。とくに「時代の概観」を 読み、「19世紀の世界経済∼『世界の工場』イギ リス」の年表と物流地図を読み解くことによって、 イギリスの覇権について具体的なイメージを持た せたい。まとめとして「歴史と経済」を用い、自 由貿易政策を理論化したのがリカードであり、ド イツのリスト(p.38)との対比で整理する。

ナショナリズム運動弾圧

アヘン戦争

海峡植民地

制海権は英が掌握 セイロン アルジェリア出兵

東方問題

ケープ

インド 植民地化

イギリスの進出 フランスの進出 ロシアの進出

世界の工業生産各国シェア

イギリス フランス ド イ ツ アメリカ ロ シ ア

約28% 19 12 12 5

(1850年)

(12)

世界遺産のタージマハル これまでは、ベンガル 湾とマラッカ海峡沿いの海港都市にまつわる「内 聞伝」をもっぱら語ってきた。今回は話題をかえ てインドの内陸都市アーグラの名所、タージマハ ル廟である。

 壮麗な大理石造りの墓廟、その四方に建つミナ レット、中心に水路を配した大庭園、これらを囲 む巨壁…。ムガル帝国の第5代皇帝、シャー =ジャ ハーンが愛妃の死を悼んで建造させたといわれる タージマハル廟は、インドが誇る代表的な世界遺 産である。

 この世界遺産について、近年大きな問題が起 こっている。一つは環境の激変による大理石の劣 化である。とりわけ酸性雨や大気汚染の影響を受 けて、17世紀半ばの建築物が変質しているという。

タージマハルは誰のもの? もう一つは、所有権

をめぐっての係争である。05年7月の報道(7月 15日付、朝日新聞朝刊)では、インド中央政府と イスラーム宗教組織の間で、タージマハル廟の所 有権をめぐる法的な争いが起こっているという。 イスラーム法による寄進不動産を管理・運営する スンニー派のワクフ委員会が、タージマハル廟の 所有権を主張してウッタル・プラデシュ州高裁に 請願したことに端を発する。他方、シーア派のワ クフ委員会も「シーア派の建築家による建造」を 理由に所有権を主張している。因みに、この建築 家とは誰か。神谷武夫氏によれば「デリー城(ラー

ル・キラー)の設計にも参加したウスタド=アフ マド=ラホーリー」だという。この人物がシーア 派であったかどうかは不明である。両委員会の 主張に対して、インド中央政府考古局は、「古代 遺跡保護法によって1920年にインド政府の所有に なった」と反論している。最近、外国人観光客対 象に大幅値上げした入場料金からの莫大な収入も 絡んで、タージマハル廟の所有権をめぐる係争は 深刻化するかもしれない。

タージマハルのホウセンカ、咲く ほとんどの観

光客は、壮麗な白亜のドーム屋根をもつ墓廟に目 を奪われる。しかし、周辺の樹木や花に目を向け る人は少ない。中央の水路に沿って続く参道の東 側、基壇から見て左手、庭園の東端近くに実はホ ウセンカが植わっている。1997年10月、2度目の タージマハル見学の折に、私はホウセンカの種子 20粒ほどを集めてティッシュペーパーに包み、写 真フィルムの空ソケットに入れて持ち帰った。翌 年4月、その10数粒を三重県津市の宿舎の庭に植 えた。庭はかなり広く、しかも日当たりがよかっ たせいか、9月には見事1mばかりに成長した茎 にピンクの花を数輪咲かせた(写真)。ホウセン カは数あれど、タージマハルのホウセンカが日本 の津の庭に根づいた! 少々の感慨とあれこれ想 像がめぐった。

ホウセンカ、だれの爪をそめたやら 一体このホ

ウセンカはいつごろ植えられたのだろう。白亜の 大理石、濃緑の芝や高樹、赤砂岩の南門にマッチ させるべくインド考古局が後に植えたのか。いや、 ひょっとしてシャー =ジャハーン帝が建造を命じ た頃には植わっていたのか。ホウセンカはネパー ルでは女性が体に色を染めるのに使うが、花では なく葉をつぶして赤褐色の模様をつける(『ネパー ル・インドの聖なる植物』T.C.マジュプリア著、 西岡直樹訳、八坂書房、1989)。だが、ムガル貴 族の女性たちが、このホウセンカの花をしぼって 爪を染めたかもしれない。実際、韓国や沖縄では、 若い女性が花をしぼってその汁を爪に染め付ける ツマベニの風習があった。沖縄の古歌「てんしゃ ごの花」に唄われる、娘がツマベニにする「てん しゃご」とは、ホウセンカのことである。インド・ 東南アジア原産の草花が、中国を経て鳳仙花とい う優雅な名を与えられ、やがて琉球や韓国を経て 日本の本島にも伝わってきたらしい。

南海寄帰内聞伝

タージマハルのホウセンカ

追手門学院大学教授 重松伸司

(13)

ある。実証研究に沈潜するだけでは見えにくく、専門 外の者には手に余るこの「中国」概念に鋭く切り込む ことから、本書は巻を開く。岡田氏は、「中国人」を、 がんらい城郭都市に住みその文化を身につけた人をさ す文化上の観念、「中国」を、漢字によるコミュニケ ーションによって支えられる政治的統一体、と刺激的 に定義したうえで、その創始を前221年の秦の始皇帝 による統一において、それ以前を「中国以前の時代」 とし、また1895年の日清戦争における清の敗北以降を、 中国の歴史が外部のできごとや影響によって左右さ れるようになった時代として「中国以後の時代」と呼 ぶ。ここでいう「中国」が、われわれの眼前にある中 国国家や伝統的に交渉・接触してきた中国文化とは異 なる定義が与えられているとはいえ、これだけでも十 分に刺激的である。さらに氏は、その間の2100余年を、 「中国」の観念が適用されうる地域のひろがりと、「中

国人」に含まれる人びとの範囲とを基準として3つの 時期に分け、さらにそれぞれを前後期に分ける整然と した時代区分を提示する。すなわち、秦の最初の統一 から589年の隋による再統一までの約800年を第一期と し、184年の黄巾の乱による後漢の事実上の滅亡を以 て400年ずつの前後期とする。ついで1276年の元によ る南北統一までの約700年を第二期とし、その折り返 しに当たる936年の契丹による燕雲十六州領有で前後 期を分ける。そして1895年までの約600年を第三期と し、1644年の清朝の中国支配開始を以て前後期を区切 るのである。

入れ替わる「中国」、そこから照らしなおす世界史 ま

ず誰しもその斬新な時代区分に目を奪われるであろう。 そこに一貫している論理は、ことばとヒト、とまとめ ることができる。「ことば」とは、文字と言語への着

目である。すなわち中国語を、漢字を用いた通信・記 録のための文語コミュニケーション体系と、その下で の多様な言語の集合体、と喝破し、さらに音韻の面か ら、人工言語としての中国語の内実の変化を指摘する。 またヒトとは、「中国人」とされた人びとの内実とそ の人口の増減である。氏によれば中国史の第一期の始 まりは、始皇帝によって文字すなわち文語によるコミ ュニケーション体系が統一・公開されたことを画期と しており、以後第一・二期は、秦漢時代の中国人の事 実上の絶滅と、鮮卑はじめとした北族による新しい中 国人の形成、第二・三期は、契丹・女真・モンゴルそ して満洲という、より新しい北族が第一∼二期の北族 に取って代わる時代、とするのである。その過程は、「中 国」の中身が次々と入れ替わり、北方のアルタイ系諸 族がことばの面でもヒトの面でも「中国」の中身を満 たしていく過程として描き出される。一方、これらの 内容が氏独特の歯切れよい文章と大胆なまでの術語の 言い換えによって畳み掛けるように展開され、おおむ ね高校世界史レベルの語彙で理解できることも特長で ある。それゆえに本書が、氏のもう1冊の通史的概説 『世界史の誕生』(ちくま文庫)とともに、ひろく参照 されることを望むものである。ひるがえって、論の骨 子はすでに20年以上前に提示されているが、概説とい うこともあり、少なくとも学界では正当な評価を受け ているとは言いがたいと思われる。たしかに史料的根 拠や論証は、おそらく、なかば意図的に省略されてい るが、さまざまな専門の研究者は、それぞれおのが分 野において氏の投げたボールを受け止めるべきではな かろうか。

(駒澤大学文学部講師 杉山清彦)  この表題を見て本書を手に取る人は、おそらく三国志や中華思想 といった、われわれ日本人がイメージするところの「中国」文明の 通史を想像し、期待するであろう。本書は一見オーソドクスなタイ トルを掲げながら、そのような期待を見事に裏切り、突きくずし、 そして全く新しい「中国」史像を示してくれる、知的興奮に満ちた 書である。著者・岡田英弘氏は、モンゴル史・満洲史に軸足をおき ながら、ひろく中国史・日本古代史などさまざまな分野で発言をつ づけており、その卓抜した史眼には定評がある。本書は「民族の世 界史」シリーズの1冊『漢民族と中国社会』(山川出版社、1983年) の中で通史に相当する1章として氏が執筆した「東アジア大陸にお ける民族」を新書版に増補したものである。

「中国」史・「中国」概念の解体と再構築 そもそも、われわれが

「中国の歴史を学ぶ」「古代以来の日本と中国の関係」などというと き、「中国」のさすものがけっして一様ではないことに思いいたる であろう。それはときに「漢民族」であり、「現代中国の領域」で

岡田英弘

中国文明の歴史

講談社現代新書 2004年

参照

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