第 2 章 熱力学ポテンシャル
本章では、内部エネルギーU から出発し、エンタルピー H、Helmholtz 自由エネルギーF 、Gibbs 自由エネルギー G といった新たなエネルギー 量を定義していく∗。出発点は第一法則(1.3) である。この微分式が示す
「自然な変数の組」を、Legendre 変換という手続きで変更していくことに より、上記のエネルギー量が定義されていく。同じエネルギーの次元を 持つ量をわざわざ複数導入するのは、これらが体積一定または圧力一定 の条件下で概念的に有用な性質を示すからである。
2.1 状態量の自然な変数
式(1.3) を再掲すると、
dU = T dS − P dV + µdN
このように、dU が dS, dV, dN によって表されるということは、
✓ ✏
U の変化を記述する「自然な変数」は、S, V, N の三つ
✒ ✑
であることを意味している。そして、一般的な数学的関係式† dU =( ∂U
∂S )
V,N
dS+( ∂U
∂V )
S,N
dV +( ∂U
∂N )
S,V
dN
との対応から、 T =( ∂U
∂S )
V,N
, P = −( ∂U
∂V )
S,N
, µ=( ∂U
∂N )
S,V
(2.1)
∗最近のIUPAC(International Union of Pure and Applied Chemistry) 勧告では、自 由エネルギーという用語は使用せず、単にHelmholtz エネルギー、Gibbs エネルギーと 呼ぶことが推奨されている。しかし、研究の現場では余り定着していないようである。 本書では両者をまとめて呼ぶときは「自由エネルギー」という語を使う。
†前頁「数学的準備」参照。
であることが判明する。例えば、気体の入った容器を圧縮すると内部エネ ルギーが上がる。その傾きが圧力P であることを二番目の式は示す。同 様に、系に粒子を加えたときの内部エネルギー増大の傾きが化学ポテン シャルµ であることを三番目の式は示す。
注意 上記2例に比べ、式(2.1)の一番目の式の意味は分り難い。エントロピー が他の量よりも抽象的で直観から離れたものであるから、これは仕方のないこ ととして、今後の種々の議論を通じて徐々に慣れていけば良い。
2.2 種々の熱力学ポテンシャル
式(1.3) から、内部エネルギー U は三変数 (S, V, N ) の関数として扱え ることを見た。しかし、エントロピーのような抽象的なものよりも、別の 変数の方が都合の良い場合もあるであろう。このような時に、Legendre 変換という技法によって変数の組を変換する。例えば、
✓ ✏
U(S, V, N ) において、変数をエントロピー S から絶対温度 T に変換 するには、次のような量を定義すればよい。
F = U − T S (2.2)
✒ ✑
これの微分を取ると
dF = dU − T dS − SdT (2.3) 右辺のdU に式(1.3) を代入すると T dS が消えて
dF = −SdT − P dV + µdN (2.4)
これは、✓ ✏
F の変化を記述する自然な変数の組は(T, V, N ) である
✒ ✑
ことを示している。F は Helmholtz エネルギーと呼ばれる。
同様にして、次表のようにエンタルピーH, Gibbs エネルギー G, グラ ンドポテンシャル‡Ω を定義することで、変数の組を切り替えることが出 来る。これらの中からどれを選択するかは、どのような実験条件を設定 するかによる。
‡グランドポテンシャルΩ は以下の章では考察しないが、ついでなので掲載した。
✓ ✏
定義 微分 変数の組
U dU = T dS − P dV + µdN (S, V, N ) H ≡ U + P V dH = T dS+ V dP + µdN (S, P, N ) F ≡ U − T S dF = −SdT − P dV + µdN (T, V, N ) G ≡ F + P V dG= −SdT + V dP + µdN (T, P, N ) Ω ≡ −F + µN dΩ = SdT + P dV + N dµ (T, V, µ)
表 1: 種々の熱力学ポテンシャル
✒ ✑
練習問題 上記のF の場合と同様にして、H、G、Ω について表中の定 義から微分を導き、変数の組を確認せよ。
補足 式(1.3)から(2.1)を得たのと同様に、式(2.4)からは S = −( ∂F
∂T )
V,N
, P = −( ∂F
∂V )
T,N
, µ =( ∂F
∂N )
T,V
(2.5)
が得られる。これらは統計力学において重要となる。HelmholtzエネルギーF と系の微視的エネルギー準位Ei (i = 1, 2, · · · )が、分配関数Qという量を通じ て次式のように結び付くからである。
F = −kBT ln Q, Q =∑
i
e−Ei/kBT
kBはBoltzmann定数と呼ばれ、気体定数RとAvogadro数NAによりkB = R/NAと表される。典型的には、まず何らかのモデル(例えば箱の中の粒子)を
設定してEiを求める。これよりQを経てFが求まり、式(2.5)を経てS, P , µ が求まる。以降、U , H, Gなども容易に計算される。これらについては、8.1節 で概説する。
2.3 エンタルピーと自由エネルギーの意味
本節では、エンタルピーH と二種の自由エネルギー F と G の意味につ いて考察する。環境に囲まれた部分系を考える。環境は十分に大きくて、 温度や圧力を規定するものとする。
2.3.1 定積過程と定圧過程における熱
1.2 節で、熱は状態量でないことを指摘した。しかし以下に示すように、 閉鎖系における定積過程と定圧過程では、系に出入りする熱量は状態量 である内部エネルギーまたはエンタルピーの変化に等しくなる。
まず、第一法則(1.2) は
δQ= dU + P dV − µdN (2.6) と書ける。よって、閉鎖系(dN = 0) の定積過程 (dV = 0) では、
δQ = dU (閉鎖系・定積) (2.7) を得る。すなわち、
✓ ✏
閉鎖系における定積過程では、系の受け取る熱量は内部エネルギー変 化に等しい。
✒ ✑
これは、仕事をゼロとする条件に設定しているのだから当然とも言える。 一方、閉鎖系の定圧過程(dP = 0) では式 (2.6) は
δQ= d(U + P V ) (閉鎖系・定圧)
となる。右辺の括弧内はエンタルピーH = U +P V に他ならない。よって、 δQ = dH (閉鎖系・定圧) (2.8) すなわち、
✓ ✏
閉鎖系における定圧過程では、系の受け取る熱量はエンタルピー変化 に等しい。
✒ ✑
エンタルピーという新しいエネルギー量を導入した理由は、ここにある と言ってよい。
補足 以上のように、定積または定圧の条件下で、一定の物質量の系(閉鎖系) が受け取る熱量は、内部エネルギー変化またはエンタルピー変化に等しい。そ こで、各条件下での系の熱容量が以下のように定義される。
定積熱容量: CV = ( ∂U
∂T )
V,N
(2.9)
定圧熱容量: CP = ( ∂H
∂T )
P,N
(2.10)
熱容量は、温度を1 K上下させる際に吸収または放出される熱量である。熱容 量の大きい物質は熱し難く冷め難い。旧来は比熱(specific heat)と呼ばれていた が、近年は熱容量(heat capacity)という呼称がほぼ定着している。
2.3.2 Helmholtz エネルギー
次に、Helmholtz エネルギー (2.2) を考察する。前頁で式 (2.4) を得た場 合よりも一般化するために、式(2.3) に δQ と δW で表された式 (1.1) を代 入する。
dF = δQ + δW − T dS − SdT
式(1.5) で注意したように、第二法則から一般に δQ ≤ T dS であり、等号 は(準静的) 可逆過程の場合にのみ成り立つ。よって、定温 (dT = 0) では dF ≤ δW (定温) (2.11) となる。すなわち、
✓ ✏
定温におけるHelmholtz エネルギー変化は、系が外部から可逆的に注 入された仕事に等しい。
✒ ✑
(導出から分かるように、上記の成立のためには閉鎖系でなくてもよい。) これまで通り、δW = −P dV +µdN とする。このとき、閉鎖系 (dN = 0) の定積(dV = 0) 過程で上式は
dF ≤0 (閉鎖系・定温・定積) (2.12) となる。すなわち、
✓ ✏
閉鎖系における定温・定積 過程では、Helmholtz エネルギーは減少ま たは停留し、熱平衡状態で最小となる。
✒ ✑
注意 上の不等号の元は第二法則(1.5)であった。すなわち、第二法則と(2.12) の不等号の起源は同一である。これついては2.4節において再度議論する。
2.3.3 Gibbs エネルギー
式(2.12) において、定積条件を定圧条件に置き換えた類似式が、Gibbs エネルギーについて成り立つ。
dG ≤0 (閉鎖系・定温・定圧) (2.13)
✓ ✏
閉鎖系における定温・定圧 過程では、Gibbs エネルギーは減少または 停留し、熱平衡状態で最小となる。
✒ ✑
練習問題 上式を導け。
解 式(2.11)は閉鎖系(dN = 0)でdF ≤ −P dV となり、さらに定圧(dP = 0) でd(F + P V ) ≤ 0となる。
自然現象は定温・定圧で起こる場合が多く、この条件は実験的にも実 現・制御しやすいという意味で、Gibbs エネルギーは特に重要である。
2.4 自由エネルギー再考
上で導入した二つの自由エネルギーF と G は、それぞれ定温・定積ま たは定温・定圧において減少し、熱平衡状態で停留する。これらは、孤 立系または断熱系におけるエントロピー増大則と同じ起源を持つ。模式 的に表すと、図2.1 のようになる。
図 2.1: 自由エネルギー変化とエントロピー変化
自由エネルギーが極小に向かい減少することは、通常の力学系におい て物体が位置エネルギーを減少させる方向に運動すること(例えば落下) と類似の描像を示しており、直観的にも便利である。
自由エネルギー減少則とエントロピー増大則との間で本質的に異なる 点は、後者が断熱系で成り立つのに対し、前者はそうではあり得ないこ とである。なぜならば、前者は定温条件を前提としており、温度を一定 に保つには外部の恒温槽(熱浴) に接触していなくてはならない。このよ
うに、✓ ✏
自由エネルギー減少則は部分系について成り立ち、エントロピー増大 則は孤立系について成り立つ。
✒ ✑
ここでは、両者の間の関係を、前節とは少し異った視点から再考する。 以下、Gibbs エネルギーについて議論する。Helmholtz エネルギーに適 宜読み替えるのは容易である。
熱浴中の部分系
恒温槽(以下、熱浴と呼ぶ) に浸された部分系を考える。熱浴は十分に 大きく、温度変化は無視できるとする。部分系の圧力も一定に保たれる とする。部分系は閉鎖系とし、部分系と熱浴を合わせた全系は孤立系と する。部分系と熱浴の間では熱を交換できる。
まず、式(2.8) で見たように、定圧では熱変化はエンタルピー変化に等 しい。全系は孤立系なので、熱は部分系と熱浴の間で完全に交換され、
dH部分 = −dH熱浴 (2.14) が成り立つ。すなわち、一方が得たのと等しい量だけ他方が失う。
次に、熱力学第二法則によれば、全系のエントロピーは減少しない。 dS全系 = dS部分+ dS熱浴 ≥0 (2.15) しかし、この式自体はあまり便利ではない。これが述べているのは全系 のエントロピーが減少しないということだけであって、肝心の部分系に ついては何も分らない。S部分 が減少しようと増加しようと、S熱浴 の変化 で補えば第二法則は満たされ得る。だが我々は熱浴には興味がなく、部 分系で何が起こるかに関心がある。そこで上の式から部分系に関する情 報だけを抽出することが望ましい。
この目的のために、「部分系の」Gibbs エネルギー変化を次式のように 導入する§。
dG部分 = dH部分−T dS部分 (2.16) このとき、全系に関する第二法則dS全系≥0 が、部分系における dG部分≤0 と等価なことを示すことができる。よって我々は部分系におけるdG
部分
に注目すればよく、熱浴の詳細を気にしなくてよい。
上記は次のように示される。要点は、熱浴が十分に大きくて熱平衡を 保ち、dG
熱浴 = 0 が成り立つと考えることにある。すなわち
dH熱浴 = T dS熱浴 (2.17) これと(2.14) を (2.16) に代入すれば、
dG部分 = −T (dS熱浴+ dS部分) = −T dS全系 (2.18) 絶対温度 T は正なので、上式は
✓ ✏
dS全系≥0 と dG部分 ≤0 は等価
✒ ✑
であることを示している。dG
部分は式(2.14) を介して熱浴からの影響を 実効的に含んでいると考えてもよい。
練習問題 以上の議論をHelmholtz エネルギーに置き替えよ。
(ヒント: 式 (2.7))
2.5 Gibbs–Helmholtz の式
前節で見たように、定圧下における閉鎖部分系への熱の出入りはエンタ ルピー変化dH に等しい。また、定温・定圧下での閉鎖部分系の自発的変 化の方向は、Gibbs エネルギー変化 dG の符号で決まる。このように、H とG は化学熱力学において主要な役割を果たす。以下に導出するように、
✓ ✏
Gibbs–Helmholtz の式は、G の温度変化と H とを結びつける。
✒ ✑
§前節の定義G = F + P V, F = U − T S, H = U + P V と定温条件から得られる。 このdG = dH − T dS の形が議論される機会は多い。
表1 (2.2 節) の Gibbs エネルギーの式を再掲する。
dG= −SdT + V dP + µdN (2.19) 右辺第一項より
−S=( ∂G
∂T )
P,N
(2.20) が分かる。一方、表1 の G と H の定義から、あるいは式 (2.16) でも見た ように、
G= H − T S (2.21) である。上の二式からS を消去すれば、
G= H + T ( ∂G
∂T )
P,N
(2.22)
これで、G, H, T 間の関係が得られた。これは次式と等価である。
✓ ✏
[ ∂
∂T ( G
T )]
P,N
= −H
T2 (2.23)
✒ ✑
これはGibbs–Helmholtz の式と呼ばれる。
以下の章で見るように、Gibbs エネルギーは平衡条件等を考察する上 で理論的な基礎となるのに対し、エンタルピーは定圧下で交換される熱 量として実測と結び付いている。この意味で、両者を関係付ける上式は 有用である。この式の典型的な適用例は、平衡定数と反応熱の関係を示 すvan’t Hoff の式として 6.2 節で議論する。
練習問題 (2.23) 式が (2.22) 式と等価であることを確かめよ。
注意 上の式(2.23)に現れたG/T の形は、気体定数またはBoltzmann定数を 含めて無次元化したG/RT またはG/kBTの形で頻繁に現れる。(Gを1モル当 りのエネルギーとした場合に前者、単にエネルギーの次元とした場合に後者を用 いる。NAをAvogadro数として、R = NAkBである。) 例えば、次章の式(6.7) で見るように、反応の標準Gibbsエネルギー変化∆G⊖と平衡定数Kの間には、
K = exp(−∆G⊖/RT ) ⇔ ∆G⊖/RT = − ln K
の関係がある。同様に、
(自由エネルギー変化)/(温度) = − ln(物質量の比) という形は多くの場面で現れる。
補足 式(2.21)をP, N一定下においてT で偏微分すると ( ∂G
∂T )
P,N
=( ∂H
∂T )
P,N
−S − T( ∂S
∂T )
P,N
式(2.20)より、左辺と右辺第二項が相殺する。式(2.10)の定義の通り、右辺第 一項は定積熱容量CP なので、上式は
( ∂S
∂T )
P,N
= CP T
となる。よって、CP が別の測定等により既知であれば、定圧下での温度変化に 伴うエントロピー変化は
∆S = S(T2) − S(T1) =
∫ T2
T1
CP T dT
により計算される。これは、熱容量のような具体性の高い量を用いて、エント ロピーのような比較的抽象的な量を求める関係式として有用である。