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Eurogames234 b 最近の更新履歴 ボードゲーム読書会@高田馬場

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Academic year: 2018

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2. アングロアメリカン・ホビーボードゲーム 1960-95

・アングロアメリカン・ホビーゲームのインタラクションの基本は「直接衝突」

・そうでないゲームも出ていて、そっちのほうがドイツゲームの起源といえる

・時代の変遷とともに、アングロアメリカンゲーム自体が、2 人からマルチへ、もっともらしさからプレイアビリティへ、 衝突から交渉へ、という流れに乗っている

■3M/アクワイア

・テーマよりも抽象的なシステムに重点を置く

・短く明瞭なルールセット

・比較的短いプレイタイム

・プレイヤー負け抜けの排除

3M は 1966 年、ドイツの全国紙 Die Zeit でゲーム批評を行っていた Eugen Oker を雇い、欧州へのマーケティング開始。 アクワイアはドイツ人にとってゲームデザインの手本になった。

■1970 年代以降

・「メールゲームコミュニティ→雑誌」の流れ

【英国では】

・ゲーム専門誌 Games and Puzzles が創刊(ロンドンのニューススタンドで買えたらしい)

・大メーカーの堕落とインディ出版社の勃興 - Intellect, Heartland, GW, etc.

・Civilisation(1980)。文明の衝突に重点を置かず発展・進化をテーマとするゲーム。(あとテクノロジーツリーの発明) (Maier の Civ は"4x=Explore-Expand-Exploit-Exterminate"の代表作であることを考えると、この構造は興味深い)

【米国では】

・RPG の発生(1974)

・ウォーゲームメーカーの SF/F ゲームへのシフト

・そもそも AH は元々非ウォーゲームにも積極的な会社だった

・Cosmic Encounter(1977)。後のあらゆるゲームに影響を与えた「ルールを壊す特殊能力」コンセプト。 (ドイツゲーム的観点からは、このゲームの独特な敵設定→交渉システムも重要)

3. ドイツのゲーム

ドイツのゲームがこうなっていることの背景は、基本的には以下の 3 つ。

・玩具製造の伝統

・メディアと批評

・WWII の影響

【玩具製造の伝統】

・そもそもニュルンベルクでは 14 世紀から玩具製造の歴史を持ち、「世界の玩具の中心」であり、玩具の地位が高い

・19 世紀には例のパーラーゲームの流れがあり、家庭で子供がパーラーゲームを、というのがポピュラーに

【メディアと批評】

・ドイツでは、60 年代の時点で既に、新聞の文化面で普通にゲームが批評の対象になっていた

(何故そうなのか、というところにこの本は踏み込んでいない。玩具製造の伝統に関係していると思われるが…)

・SdJ の設立はメディアが主導。

ゲーム博物館(SdJ の団体が後援)、Essen Spiel(FMV というメディア/イベント会社が主催)といった動きにも繋がる。

・ゲームの作者を「著者」とみなし、批評の対象として扱う文化の浸透。

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【WWII の影響】

・戦争やナチを匂わせる玩具は完全禁止、衝突というテーマ自体が嫌われる。

・WWII 以降の西ドイツにおいて、ゲームは「物資が不足する中で安価に使える一家団欒の道具」として受容された。

・ということで、発展・建設、といった教育的かつ非 WWII 的なテーマおよびメカニクスのゲームが必要とされた。 この 3 つに加え、1970 年代、WWII での壊滅から復興したドイツのゲーム会社には、使えるタイトルの不足という課題が あり、自らタイトルを開発していく必要に迫られていた。

4. ドイツゲームからユーロゲームへ

■80 年代

・ドイツゲームの「元年」はスコットランド・ヤードの 1983 年。

・ドイツゲームの最初のスターである Wolfgang Kramer が最初にスポットライトを浴びたのは 1986 年(アンダーカバー)。 英国ロンドンではゲームショップ Just Games が輸入販売を実施。

米国ではマサチューセッツ州の Games People Play が同様の行為を実施。

ボストンでは元 AH 社員の Alan Moon がゲームクラブを設立。Kremlin 以降、ドイツゲームを遊ぶようになっていった。

・1988 年、英国で雑誌 Games International 発刊。ドイツゲームをフィーチャー。

・この雑誌の終焉を前に、この雑誌のライターだった Mike Siggins がコピー誌"Sumo"を発刊(89 年)。

・ニューズグループ rec.games.board(87 年∼)での、最初のドイツゲーム関連の投稿は 89 年(Die Macher レビュー)

■90 年代前半(カタン以前)

・90 年、Moon がドイツゲームに特化した招待制コンベンション Gathering of Friends を開催(現在も継続中)。

・91 年、Moon がドイツへの売り込みを目的としたインディ出版社 White Wind を創立。

・MB 社員 Mile Gray が Essen に行き、Flinke Pinke などいくつかのゲームのライセンスを買って MB 版を出版。

・「貴族の務め」英語版発売(1993)。米国版は AH、英国版は Gibson という「ハードコアな」出版社からの発売。 (ここで初めてドイツゲームが英米のホビーゲーマーに大きく認知される。

ドイツ語圏のゲームの認知は、クレムリン・貴族の務め・カタンの 3 段階で大雑把に分けられる)

・94 年、WWW サイト The Game Cabinet 開始。

■カタン以降

・カタンの最初の輸入販売は 1995 年。Gathering of Friends、ついで Avaloncon。 Avaloncon ではみんなカタンばっかり遊んでたらしい。

(ここでカタンの版権を取ったのが Mayfair じゃなくて AH だったら歴史はだいぶ違ってたんじゃなかろうか)

・95 年(カタンの直後)、Mayfair がドイツゲームの英語版の可能性を調査を、社員 Jay Tummelson に命じる。 ・カタンとその他数点のライセンス契約に成功。96 年にカタン米国版発売、今に至る。

・Jay Tummelson、Mayfair を退社(Wikipedia が引いてる Designers&Dragons だとレイオフって書いてあるらしい)。 ・98 年に Rio Grande 創立。

■ユーロゲームへ

・2000 年、Boardgamegeek 開始。

・ドイツゲームはグローバルな地位をホビーシーンに確立し、「ユーロゲーム」へ。

・これの影響で、ゲームにあきらかな複雑化傾向が。アメリカのホビー・ゲームからの影響と思われる。

・メインストリームへも影響あり。

・カタンとカルカソンヌは「メインストリーム物」へ昇格。

・Mattel はユーロゲームへ再参入。Hasbro も Risk のリデザインなどを実施。 ・モバイルゲームにドイツゲームが次々と移植され、誰の目にも触れるように

・米国のデザインもドイツの影響を受ける。Dominion(2008)などは明らかにドイツの美意識の影響がある。

参照

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