不完備契約理論の基礎付け ∗
安田 洋祐
†初出: 2006 年 4 月
伝統的な契約理論では「将来起こりうる可能性について Complete (完備な) 契約 を予め書くことができる」ことを想定する一方,「不完備契約」ではなんらかの 事情で完備な契約が書けない場合を扱います.Grossman and Hart (1986),Hart and Moore (1988)によって不完備契約アプローチは始まり,完備契約の世界では 明らかにすることができなかった「所有権」や「組織」,または契約を補完する
「法律」「制度」の役割などに焦点をあてることができるようになったのが大きい 特徴です.私のアドバイザーであるボルトン教授も,不完備契約を金融契約に応 用したパイオニア的な論文 Aghion and Bolton (1992) を書いています.
完備契約の仮定の下で導出される最適な契約が高度に複雑で現実には見られな いことが多い反面,不完備契約理論によって導出される結論が幅広いインプリケー ションをもたらすことから,不完備契約アプローチは 90 年代を通じて大ブレー クしました.しかし,その過程の中で一部の研究者から疑問視されるようになっ ていったのが不完備契約の理論的な基礎付けです.
つまり,「どのような理由で契約は不完備になるのか?」「たとえ契約が不完備で あったとしても,完備契約が書ける場合と同じ結果がもたらされる可能性がある のではないか?」といった問題をめぐって研究者の中で論争が起こったのです.こ の論争は 90 年代後半にピークを迎えました.Review of Economic Studies という 雑誌の 66 巻 (1999) がこの論争の特集号になっています.
不完備契約理論でしばしば用いられる仮定は「当事者間で事後的に観察できる 変数 (例えばいくら投資を行うか) が,第三者である裁判所には観察できないため に契約に盛り込むことができない」というものですが,Maskin and Tirole (1999) は,そのような状況でも単純なメカニズムを用いることによって,完備契約で実現 される最適な結果が不完備契約の下でも同様に達成できることを示しました.つ まり,たとえ完備契約が書けなくとも効率的な結果が実現されるというわけです.
∗本稿は『ECONO 斬り!!』 http://blog.livedoor.jp/yagena/ の掲載記事「不完備契約の 基礎付け」(2006/4/29) を微修正し転載したものです.
†やすだ・ようすけ — 政策研究大学院大学助教授
1
彼らの考えたメカニズムは,当事者間で順番に「チャレンジ」を行う機会が与 えられ,チャレンジの結果に応じて裁判所に罰金を払う,というものです.変数 自体は裁判所には観察できませんがこのチャレンジの結果は観察できる,という のがミソです.ちなみにこのメカニズムは,Moore and Repullo (1988) で分析さ れた Subgame Perfect Implementation (部分ゲーム完全遂行) をヒントに導かれま した.
この Maskin=Tirole のネガティブな結果に対し,再交渉が可能な場合には依然 として不完備契約が非効率性をもたらすことを示したのが Segal (1999),Hart and Moore (1999)です.つまり,「再交渉を行わない」というコミットメントを事前に 行うことができる場合には Maskin=Tirole の結果が成り立つ一方,そのようなコ ミットメントが不可能な場合には Segal らの結果が成り立つ,というわけです.
しかし,話はこれだけに留まりません.なんと Maskin=Tirole は,たとえ再交 渉を防ぐことができなくても,当事者がリスク回避的であれば彼らの結果が成り 立つことまで明らかにしてしまいました.上で言及したメカニズムでは,「チャレ ンジ」によって生じる罰金を裁判所に払うことになっていましたが,これを「当 事者間で確率的にお金をやりとりする」ように変更するのです.リスク回避的な ケースでは,「不確実性によってお金を裁判所に渡すことなくチャレンジのコスト を生み出すことができる」というのがポイントです.
以上の論争を通じ,学会ではどうやら Maskin=Tirole に軍配が上がった,と いうのが共通認識のようです.つまり「ある変数が裁判所に対して立証できず契 約に盛り込めない場合でも,一般には完備契約下と同じ効率的な結果をもたらす ことができる」という Irrelevance Theorem が勝利した,ということです.もちろ ん,この Irrelevance Theorem は不完備契約アプローチ自体が無意味であるこ とは意味しません.契約が書けない理由は立証不可能性以外にも考えられます (よ く言われるのが,契約を書くこと自体にコストがかかるという限定合理性のアプ ローチです).また,Maskin=Tirole とそっくり同じメカニズムが実際の世界で用 いられているわけでもありません.
しかし,ひとつのベンチマークとして,Irrelevance Threorem の重要性は広く認 知されるに至りました.なんでもかんでも「不完備性を入れればすぐに非効率性 が発生して,再交渉に影響を与える外的要因 (所有権や制度) に意味が出てくる」 というナイーブな議論に対してもっと慎重になろう,というわけです.
さて,以上で言及してきた論争は非常に興味深いものの,原典にあたるとなると かなりテクニカルです.Maskin (2002) が非常に分かり易い簡潔なサーベイになっ ていますので,まずはこの論文から目を通してみてください.Tirole (1999) もよ く引用されるサーベイです.不完備契約の入門テキストとしては柳川 (2000) がオ ススメです.
2
参考文献
[1] 柳川 (2000) 『契約と組織の経済学』東洋経済出版社
[2] Aghion and Bolton (1992) “An ‘Incomplete Contrats’ Approach to Financial Contracting” Review of Economic Studies, 59, 473-494
[3] Grossman and Hart (1986) “The Costs and Benefits of Ownership: A Theory of Vertical and Lateral Integration” Journal of Political Economy, 94, 691-719 [4] Hart and Moore (1988) “Incomplete Contracts and Renegotiation” Econo-
metrica, 56, 755-785
[5] Hart and Moore (1999) “Foundations of Incomplete Contracts” Review of Economic Studies, 66, 115-138
[6] Maskin (2002) “On Indescribable Contingencies and Incompete Contracts” European Economic Review, 46, 725-33
[7] Maskin and Tirole (1999) “Unforeseen Contingencies and Incomplete Con- tracts” Review of Economic Studies, 66, 83-114
[8] Moore and Repullo (1988) “Subgame Perfect Implementation” Econometrica, 56, 1191-1220
[9] Segal (1999) “Complexity and Renegotiation: A Foundation for Incomplete Contracts” Review of Economic Studies, 66, 57-82
[10] Tirole (1999) “Incomplete Contracts: Where Do We stand?” Econometrica, 67, 741-781
3