Provision 2 Lesson 6 “A Man Who Saved the World”
Part 1 【本文全訳】
2003年 2 月 23 日,香港発の飛行機が,ハノイに到着しようとしていました。乗客の一人は中華系 米国人のビジネスマンで,彼は微熱を感じていました。彼の体内で,まだ世界では知られていなかった ウィスルスが暴れまわっていることに気づいている人は一人もいませんでした。実は,このビジネスマ ンは,SARS と呼ばれる伝染病の発生の引き金を引き,ベトナム中を大混乱に陥れることになりました。
カルロ・ウルバニ医師は,イタリアの小さな町で生まれました。その生まれ故郷の病院で勤務する傍 ら,ウルバニさんは国境なき医師団の一員として,しばしばアフリカに出かけました。彼はその活動を 通じて貧しい子供たちに医療を提供しました。彼は陽気で人懐こい性格だったため,患者や周囲の人達 から人気がありました。2000 年にウルバニさんは妻と 3 人の子供とともに世界保健機関の伝染病の専 門家としてベトナムに赴任しました。
Part 2 【本文全訳】
ウルバニさんがハノイ・フランス病院から電話連絡を受けたのは 2003 年 3 月 3 日頃でした。ある医 師が,『香港から来た観光客が今重篤な病状にある。彼の病名が私達にはわかりません。彼の様子を見 に来て下されば,助かります。』と言って,ウルバニさんの支援を求めました。
ウルバニさんは慌てて駆けつけ,その患者が呼吸困難に陥っているのを目の当たりにしました。その 男性は 40 度近くの高熱が続き,彼の顔面,腕,脚は紫色に変色していました。彼は 30 分以上にわたっ て辛そうに咳をし続けました。
これは,その病と彼の戦いの始まりでした。あらゆる検査をしたにもかかわらず,彼はその病気の原 因を発見することができませんでした。『これは私達がインフルエンザとして知る病気ではない。私達 はそれが何であるかを突きとめなければならない。』とウルバニさんは言いました。
ウルバニさんは,その患者は中国の広東省出身者と接触があったかどうかと考えました。彼は,そこ に暮らす人々は『謎の肺炎』の発生の故にパニックに陥っていると聞いていました。けれども,その患 者が感染者の付近にいたのかどうかは定かではありませんでした。ウルバニさんと彼の同僚達にはただ , 病気が広がっていくのを見て,世界保健機関に電子メールでそれを報告することしか出来ませんでした。
Part 3 【本文全訳】
3月 5 日に,その患者の手当に当たっていた看護師が倒れました。酷い頭痛と筋肉痛のせいで彼女は 動けなくなりました。後に別の看護師が勤務中に同様の症状を示して倒れました。やがて更に多くの看 護師が病状を訴え始めました。
ウルバニさんと彼の同僚達は,その病気の拡大を防ぐために精一杯のことをしました。彼らの努力は 全く功を奏しませんでした。3 月 8 日までに,その病気に罹ったスタッフの数は,17 人になりました。 病院の隔離病棟は,痛みと高熱に苦しむ患者が漏らすうめき声が溢れていました。その病気に感染に感 染していない医師や看護師はほとんどいなかったため,その病院にできることはほとんどありませんで した。また,患者を治療するための医療機材も効果的な薬剤も一切ありませんでした。
ウルバニさんは彼が気付いたことを記録したり,サンプル検査を行ったり,その病気を食い止める手 段を解明しようと試みました。彼は患者が示した症状を詳しく書き留めました。来る日も来る日もデー タを世界保健機関の職員に電子メールで送信し続け,ハノイ・フランス病院で何が起きているのかを世
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界に知らせて欲しいと彼らに求めました。ウルバニさんはまた,彼と彼のスタッフを支援するため資材 と人員を送って欲しいと世界保健機関に求めました。しかしながら,観光への負の影響を憂慮して,ベ トナム政府は世界保健機関およびウルバニさんへの協力を渋りました。ウルバニさんの要請は拒否され ました。
Part 4 【本文全訳】
ハノイ・フランス病院は患者たちを隔離病棟に入れ,その中には職員を除き,人は一切立ち入ること ができませんでした。ウルバニさんは患者のもとに通い続けました。彼は病床の傍らに座り,患者に希 望を与えようとしました。『このウィルスに対して効き目のある薬はまだありません。けれども,どん なウィスルでも永久に生き続けられません。しばらくしたらウィスルは死んでしまいます。私はずっと あなたと一緒にいますよ。だから気を強く持つようにしましょう。』と彼は言いました。彼の患者の一 人は『世界は私達を見捨てたが,ウルバニ医師はそうではなかった。彼は私達を大いに励ましてくれま した。』と彼は回想しました。けれども,ウルバニさんはその時彼の体に何が起こりつつあるかを知り ませんでした。そのウィルスは,彼の体内でも素早く増殖しつつありました。
3月 11 日に,ウルバニさんが待ちわびていた世界保健機関の感染症の専門家がハノイに到着しまし た。その専門家である押谷医師は,ウルバニさんの上司でした。彼に病院を案内した後,ウルバニさん は突如彼に次のように尋ねました。『もしあなたがこの病気に感染していたら,あなたはどうします か。』押谷医師は『取るべき最善の策は,ハノイから退去し,まともな治療が受けられる場所へ行くこ とだと思います。しかし,医師として,正しい行為は病気を拡散させないようにすることだと私は思い ます。』と答えました。『けれども,家庭を持つ男としては….私ははっきりとしたことを申し上げるこ とはできません。』と彼は続けて語りました。
同じ日の晩に,ウルバニさんはそっとハノイを離れバンコクに向かい,そこで彼は伝染病を専門とす る病院で治療を受けました。このとき彼自身が患者になったのです。
Part 5 【本文全訳】
3月 12 日に世界保健機関は,全世界に警告文を発しました。世界保健機関は創設以来初めてそのよ うな措置を取りました。その警告文は,ベトナムの病院でいかにその病気 (SARS)が拡散したか,その 病気がいかに素早く,患者の呼吸が,ほとんできなくなる終局的な段階に到達するかを述べていました 。 ウルバニさんが自分の命を犠牲にして,世界保健機関に送信し続けたことが,重要な情報になりました 。 その瞬間から,SARS の拡散を食い止めるために世界中で様々な措置が取られるようになりました。
3月 27 日に SARS で危篤状態に陥り,2 日後,妻のジュリアナに看取られながら亡くなりました。 それは,彼がハノイで具合の悪くなった観光客を最初に見てから 27 日後のことでした。ウルバニさん は 46 歳でした。7 月に世界保健機関は公式に SARS の終息宣言を行いました。
ウルバニさんの死に,押谷医師は涙を流しました。『もし私が彼の立場にいたとしたら,彼と同じよ うなことが自分にできたか疑わしいと思います。私は彼がその状況のもとで,最善だと彼が考えること をしたのだと思います。彼の患者に対する献身はその証です。』と押谷さんは語りました。
もしウルバニさんが,発生初期の段階で SARS ウィルスを発見していなかったならば,SARS は更に 多くの犠牲者を出したことでしょう。犠牲者の数は,100 万人に達していた可能性がありますと専門家
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達は語りました。
今から遡ること 1999 年に,国境なき医師団にノーベル平和賞が授与された際,ウルバニさんはイタ リアのメディアに次のように語りました。『私の希望は世界中の人々に可能な限り最高の医療を提供で きることです。これが実現するよう私は 2 つのことを行い続けます。一つは,患者に寄り添うこと。も う一つはいかなる障害にも屈しないことです。』
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