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帝国書院 | 高校の先生のページ 高等学校 世界史のしおり 2005年 4月号

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(1)

 今から10年ほど前、エドワード=サイードを招

いて講演会を開いたことがある。準備の段階で文 明批評家として八面六臂の活躍をつづける彼のよ

うな忙しい人が果たして来てくれるものかどうか 心配したが、幸い同僚の教授がコロンビア大学で 教鞭をとっていた頃、知己だったということもあ

って無事、開催にこぎつけることができた。  当日は、『オリエンタリズム』などの刺激的な

本をそれまで出してきた著者の話を直接、聴こう とたくさんの人がつめかけた。立錐の余地がない ほど盛況で、改めて彼の影響力の大きさ、人気に

驚いた。穏やかに噛んで含めるように進める話は、 予想にたがわず感銘深かったが、個人的にはこれ とは別にもうひとつ忘れがたい思い出がある。

 それは、サイードに同行してピアニスト、指揮 者として世界的に有名なダニエル=バレンボイム

がついて来たことである。聞けば、古くからの友 人だという。サイードは、カイロに住んでいた少 年の頃、巡業公演に来たフルトヴェングラー率い

るベルリン・フィルの演奏を聴き、身体が震える ほど感動した、と自伝『遠い場所の記憶』に書い

ている。それほどの音楽通ならバレンボイムのよ うな友だちがいてもいっこうにおかしくない。  しかし、私にとって印象的だったのは、パレス

チナ人であるサイードが、アルゼンチン生まれの ユダヤ人であるバレンボイムと何のこだわりもな く、親しそうに話をする光景だった。パレスチナ

人といってもサイードは、どこか違う。これがそ の時、率直に感じたことであった。

希薄なアイデンティティ

 サイードは、確かにパレスチナ人のなかでも異

質な存在である。1935年にエルサレムで生まれた が、16歳までの幼少年期のほとんどをカイロで過

ごしている。父親は、そこで中東でも屈指といわ れる事務機器・文房具の販売会社を経営する実業 家であった。このためサイードが誕生する前から

カイロに本拠を移し、パレスチナとは夏の暑い盛 りに避暑のため長期に滞在するという程度のつな がりをもつにすぎなかった。

 1952年のエジプト革命以前のカイロには、パレ スチナを含むシリアから移住し、経済的に隠然た

る力をもつマイノリティ社会が形成されていた。 サイードは、そうした家族の一員であり、ある意 味で現地のアラブ社会から浮いていた。また、

1948年のイスラエル建国によってカイロに多数、 流入してきたパレスチナ難民とも生活の仕方・意

識において埋めがたい溝があった。

 それは、音楽に対する嗜好によくあらわれてい る。彼が無上の喜びとするのは、1869年のスエズ

運河開通を記念してつくられたオペラ座に行くこ とであり、エジプト人が賞賛してやまない国民的 な女性の演歌歌手ウンム=クルスームの歌は単調

で退屈きわまりなく、聴くのが辛かったという。  宗教的にもサイードは、アラブ・ムスリム社会

のなかでは少数派のキリスト教徒であった。しか も、それは中東に昔から根をはるギリシア正教、 アルメニア正教といったオーソドックスなもので

なく、19世紀を過ぎてアメリカから入ってきた福 音主義派のキリスト教への改宗者であった。母方

E. サイードと中東現代史

慶應義塾大学教授

 坂 本 勉

(2)

の祖父、父はいずれもその教会組織の有力な現地

人聖職者として活動していた。

 このようなサイードの身の置きどころのなさは、 国籍も関係している。彼の父親は第一次世界大戦

前夜、当時、パレスチナを支配していたオスマン 帝国の徴兵を嫌い、単身、アメリカに渡り、そこ で実業家として成功するきっかけをつかんだ。第

一次世界大戦末期、アメリカが参戦すると、兵士 としてフランスに行き、戦功をあげた。これによ

って彼はアメリカの市民権を取得し、かたちのう えでは「アメリカ人」になったのである。息子に エドワードという名前をつけたのは、アメリカ人

として生きてほしいと願う父親の夢だった。   カイロ時代のサイードは、パレスチナ人として

もアラブとしてもアイデンティティが希薄な人間 であった。教育も小・中・高校ともイギリス、ア メリカ系の学校に通い、そこで行われる授業はア

ラビア語でなく、すべて英語であった。生徒も大 半が欧米人の子弟、アラブ系のキリスト教徒、ギ リシア人、アルメニア人、ユダヤ人などであり、

アラブ・ムスリムの子どもと交わることはほとん どなかった。アメリカ人になることには強い 藤

があったが、さりとてパレスチナ問題、アラブ民 族主義の動向に敏感な少年ではなかった。

パレスチナ問題への積極的な関与

 1951年、16歳の時、サイードは、アメリカ市民

となるためには21歳になるまで最低5年間そこに 住まなければならないという事情のため、アメリ カに渡った。大学に入学した頃の彼は、「クルー

カットのアメリカ人大学生と、貧しいパレスチナ 人に関心のある上層ブルジョワ階級の植民地アラ ブ人という珍妙な組み合わせであった」と回想す

るように、政治には無頓着な人間だった。

 しかし、1967年、第三次中東戦争が勃発すると、

サイードは敢然と反イスラエルの行動に立ち上が っていく。彼を駆り立てたものは、ヨルダン川西 岸地区とガザ地区がイスラエルによって占領され、

パレスチナ人はこのまま何もしなければ永遠に故 郷を喪失してしまうという危機感であった。彼は

こみあげてくる怒りを故郷を追い出された難民と

は違うレベルでアメリカに在住するパレスチナ知 識人の立場からぶつけていった。

 サイードが危惧し、不当と感じたのは、パレス

チナ問題に対する一般のアメリカ人の知識、国と しての政策があまりにもユダヤ人寄りで、パレス チナ人については無視、隠蔽、黙殺が横行してい

るという現実だった。ユダヤ人についてはその苦 難の歴史、ホロコーストの悲惨さが繰り返し報じ

られ、イスラエルへの支援も手厚かった。しかし、 パレスチナ人については、巧妙な情報操作が平然 と行われ、正当な扱いに欠けていた。こうした状

況をサイードは組織的な抑圧と断じ、これ打破す るためパレスチナの歴史と現実をありのままに物

語り、それを使命とする活動をつづけていこうと したのである。

 本来、比較文学者であるサイードは、『オリエ

ンタリズム』のなかで西洋の東洋に対する認識の 根底によこたわる救いがたい歪み、偏見を洗い出 し、そこから生じる西洋の文化的な優越感が東洋

に対する植民地主義、帝国主義に転化していく元 凶だと非難した。このような問題意識の延長線上

から現代のパレスチナ問題をめぐるアメリカのジ ャーナリズムの偏向性、故意に事実を隠そうとす るイスラーム報道のあり方、合衆国政府の公正で

ない外交政策が批判されていった。彼にとって、 それはただ糾弾すればよいというものでなく、真

実の姿を『パレスチナ問題』、『パレスチナとは何 か』などの著作を通じて語っていったのである。  サイードのパレスチナ問題への積極的な関与は、

1960年代末からはじまるアラファトによるPLO を軸とする解放運動の進展と軌を一にしている。 二人の考え方、行動には、イスラエルをいたずら

に敵視せず、共存の可能性を探ろうとする点で共 通するところが多い。サイードの場合、パレスチ

ナ人とユダヤ人の協調、和解に対する姿勢はより 徹底していて、両者の合意のもとに世俗的民主主 義国家の建設を夢みていた。これにはバレンボイ

(3)

 1.は じ め に

 歴史に対して苦手意識を持っている生徒は少な

くない。だが、「ユダヤ人問題」はこうした生徒 にも世界史を積極的に学ぼうとさせる一つの契機 を与えうる格好の素材である。ナチスによるユダ

ヤ人迫害にしろパレスチナ紛争にしろ、これらの 問題が何故生じたのか、世界史の学習を始める以

前にきちんと答えられる生徒はまずいない。また 説明しようとすれば、ユダヤ教の成立まで遡った うえでその後のユダヤ人の辿った道を2000年以上

の長きにわたり要点を押さえていかなければ理解 は得られない。こうした極めて今日的な問題にし てもその起源が実に古く、まさに世界史的教養が

必要とされる。現代の問題を理解するためには、 過去を知らなければならないという世界史学習の

一つの意義が実感されるのではないだろうか。こ こはまさに教師の腕の見せ所であり、生徒にとっ て印象に残る教材をどのように提示するかも鍵と

なると思われる。ここでは帝国書院の「世界史A 最新版」と「最新世界史図説タペストリー 三訂版」

を用い、筆者が授業で使用している文献・映像資 料も紹介しながら授業展開を考えてみたい。

 2.現代のユダヤ人問題

 まず、学習にあたって現代のユダヤ人問題につ

いて一瞥しておきたい。英国においてアウシュビ ッツの風化が甚だしいという報道があったが、日 本の高校生もほとんど予備知識はない。教科書の

p.169にアンネ・フランクについての囲み記事、 ワルシャワのゲットーから強制収容所に送られる

ユダヤ人についての写真があるので、まずここを 開かせ、ナチスのユダヤ人迫害政策について説明 する。p.164の囲み記事も印象深い。『アンネの日

記』は2003年に文藝春秋より増補新訂版が出たが、 たとえその一部分でも原文を読ませたい。高校生 にとってみると世代的に近いということもあり結

構反応がある。アンネや家族の写真もあり、隠れ 家の建物内部の図面もわかりやすい。迫害政策の

実相を知るのによい資料である。筆者はアムステ ルダムを訪れた際、アンネの隠れ家を見学したこ とがあるのでその際撮影した写真も紹介している。

教科書の裏見返しには「歴史に関連する映画を観 てみよう!」というコーナーがあるので、ここに

掲載されているスピルバーク監督の『シンドラー のリスト』についてはふれたい。時間の制約から すべてを観せることはもちろん困難であるので、

筆者はクラクフ・ゲットー解体のシーンを使用し ている。スピルバーク自身がユダヤ系であるとい うことも説明する。ホロコーストを扱った映画も

数多いが、筆者は一昨年公開されたポランスキー 監督の『戦場のピアニスト』についても言及して

いる。ポランスキー自身もユダヤ人で幼少時はク ラクフに住んでおり、まさにゲットー解体の現場 に居合わせていた。『シンドラーのリスト』の監

督も当初スピルバークから依頼されていたのだが、 あまりにも生々しすぎて固辞したという。

ユダヤ人迫はく害がいと アンネ=フランク 1929∼45

1933年ユダヤ人の家族ととも にナチスの迫害を逃れてオラン ダのアムステルダムに移住した。 ドイツ占領後にユダヤ人狩りが はじまると一家は2年間隠かくれ家 にひそんだ。44年秘密警察に踏 み込まれて,姉とともに強制収 容所に送られ,チフスで死亡し た。隠れ家生活をつづった日記 は全世界で読まれ,隠れ家は現 在記念館になっている。

「明解世界史 A 最新版」 p.169

近代ユダヤ史の授業研究

(4)

 『戦場のピアニスト』は主人公シュピルマンの 原作が改編され、ポランスキー自身の体験が描か

れている場面が見られる。ワルシャワ・ゲットー の場面でユダヤ人輸送列車にシュピルマン一家が 乗せられそうになったとき、旧知のユダヤ警察官

がシュピルマンだけ逃がしてくれる場面がある。 その際このユダヤ警察官は「走って逃げるな。歩 いて行け。」と言うが、これは原作にはない。ポ

ランスキーの体験が下敷になっている。ポランス キーはクラクフ・ゲットーから脱出する際、ドイ

ツ兵に見つかるが、「走らない方がいい」とだけ 言われ何故か見逃してくれたという。

強制収容所の実態についてはフランクル『夜と

霧』から紹介している。筆者は訪独の際、ノイエ ンガウメとダッハウを見学しているので、その時

の見聞も話している。ちなみにアンネの隠れ家に 一緒にいたフリッツ=プフェファーはノイエンガ ウメで命を落としている。全身に冷たい悪寒が走

るような重苦しい雰囲気が漂い、見学者の誰もが 無言であり、忘れがたい体験であった。筆者は授 業の際には、写真集や実物教材を教室に持ち込み

生徒に回覧させているが、ここでも現地で入手し たパンフや写真集を見させている。これらは生徒

にとってはやはり大きな衝撃であるようである。

 3.国際金融とユダヤ人

 次に、「それでは何故ユダヤ人は迫害されたの か」という発問につながるのだが、これはユダヤ

教の成立からの理解が必要なことを示す。教科書

p.35にユダヤ教・キリスト教・イスラム教につい て表にされている。またタペストリー p.238も関 連するのでこれらに基づき解説する。旧約聖書の

映像化ということで『十戒』が使用されることが 多いようだが、筆者はスピルバーグ率いるドリー ム=ワークス初のアニメ作品『プリンス・オブ・

エジプト』を推奨したい。「葦の海の奇跡」の場 面を授業では使っているが、迫力満点で生徒の関

心を喚起するという効果は十分である。

その後のヘブライ王国建国からバビロン捕囚、 異民族支配下の時代という苦難を歩むわけだが、

この間、ユダヤ教団は組織や儀礼が整備されて行 く一方、選民思想、救世主待望、戒律遵守といっ

たユダヤ教の特徴を鮮明にしていく。離散(ディ アスポラ)以降もユダヤ人が他民族に同化せず、 独自性を保持した要因となるものであるが、であ

るが故に彼らへの差別、偏見も醸成されていく。  ヨーロッパにおいてユダヤ人迫害が激化してい くのは中世後期以降とされるが、ユダヤ教徒は多

くの職業から閉め出され、キリスト教徒の忌み嫌 う金貸し業・行商に進出するが、「強欲なユダヤ人」

という偏見を生んでしまう。その勤勉さから医者・ 学者として成功する者も出た。市民革命期に同等 な市民権を獲得するが、ユダヤ人の中からその経

済的成功によって近代市民社会の中で重要な役割 を果たす者も登場する。その代表格として、教科

書のp.97にはネイサン=ロスチャイルドが紹介さ れているので、彼を切り口に国際金融資本におい て大きな影響力を持った点についてふれたい。フ

ランクフルトの零細な古物商兼両替商から身を起 こしたロスチャイルド家であったが、第2代にあ たるネイサンはワーテルローの戦いの際、ロンド

ンの金融街シティで一世一代の勝負に出る。ネイ サンは迅速な情報網によってナポレオンの敗北を

誰よりも早く察知していながら、戦時公債をロン ドン証券取引所で大量に売りに出したのである。 これを見て市場はウェリントンは破れたと受け止

(5)

気に買い占め、その直後に英軍勝利が伝えられ、 公債は大暴騰した。これによってネイサンは天文

学的な利益を得て、国際金融における不動の地位 を獲得したとされる。この時、どのようにしてネ イサンはいち早く情報を得たのか。ベルギーから

の快速船、伝書鳩など諸説あるようだが、ロスチ ャイルド家が情報こそ命という確信のもと、欧州 に当時としては破格の情報網を張り巡らしていた

という点は注目に値する。19世紀初めの至急便で、 ロンドン∼ナポリが236時間(9日と20時間)の

ところロスチャイルド家の早馬は168時間(7日) で到達したという記録がある。この情報力を武器 に5人の兄弟たちはフランクフルト、ロンドン、

パリ、ウィーン、ナポリにそれぞれ居を構え、緊 密に連携をとっていく。オーストリア宰相メッテ

ルニヒとの提携、英国のスエズ運河株買収への関 与など欧州の歴史に大きく関与していった。この 時の英首相ディズレーリは改宗ユダヤ人であり、

ロンドン・ロスチャイルド家に頻繁に晩餐に訪れ る関係にあった。

 4.米国ユダヤ人の今日

さて今日、ユダヤ人は国際金融、とくに米国に

おいてどの程度の影響力を持っているのだろうか。 「ユダヤの陰謀」を怪しげに唱える通俗本も多い

ので冷静な検証の要求されるところである。過大

な評価は禁物である。この分野に関して、統計な どに基づいて客観的資料を提供してくれるものは

存外少ないが、佐藤唯行氏の『アメリカ・ユダヤ

人の経済力』『アメリカ・ユダヤ人の政治力』(い ずれもPHP新書)が有益な知見を与えてくれる。 ホロコーストの被害者であるユダヤ人が、パレ

スチナにおいてはアラブ人の土地を奪う形でイス ラエルを建国し、領土を拡大してきたのは歴史の 皮肉としかいいようがない。パレスチナ問題に関

しては、シオニズム運動の展開、列強の植民地政 策、とくに英国の三枚舌外交が招いた帰結につい

て丁寧に説明する必要がある。イスラエルが中東 諸国を敵に回し圧倒的な軍事的優位を誇示してき たのは、もちろんアメリカの巨額の財政援助によ

るものである。額にして毎年30億ドル。アメリカ が行っているすべての海外援助の実に5分の1を

占める。この背景には全米600万といわれるユダ ヤ票の存在がある。その投票率の高さ、組織的投 票行動、大口の政治献金などにより、他のエスニ

ック集団とは破格の影響力を行使している。ユダ ヤ系政治家としてはキッシンジャーが名高いが、 近年でもクリントン内閣では、オルブライト国務

長官、コーエン国防長官、ルービン財務長官、ラ イシュ労働長官と4人のユダヤ系が入閣している。

因みにこの時は、CIA長官のドイッチもユダヤ 人であった。前回の大統領選挙では大接戦の末に ゴアが敗れたが、彼が副大統領候補に指名してい

たリーバーマンは厳格なユダヤ教徒で知られる。 もしゴアが当選していれば史上初めてのユダヤ人

副大統領が誕生しているところであった。多くの ユダヤ系アメリカ人がイスラエルに肩入れかとす るのは、自分が安全な所にいるという負い目から

であるとか、あるいは再びホロコーストのような ことが起きたときに逃げていく場所としてイスラ エルの存続を望むからといわれている。今日のパ

レスチナ紛争の深刻さを見ると、これまでのよう に米国がイスラエルに資金援助を続けるだけでは

なく、和平についてもっと毅然としてイニチアシ ブをとらない限り出口は見えないと感じる。その ためにも米国のユダヤ人にも発想を変えなくては

ならない部分があるのではないだろうか。生徒に もじっくり考えさせたいところである。

ワーテルローの戦いの行方ゆ く えが 注目されているなか,ネイサン はいち早く勝利を知ったにもか かわらず,戦せん時じ公こう債さいを証券取引 所で売り続けたため,公債は大だい 暴

ぼう 落 らく

した。一転してかれが買い 占めた直後に勝報が届いたため に,公債は大だい暴ぼう騰とうし,かれは数 百万ポンドの巨きょ利りを得た。ロス チャイルド家が国際的金融資本 家の地位を不動のものとしたこ の事件は,情報収集能力の勝利 でもあった。

情報収集能力の勝利

ネイサン=ロスチャイルド1777∼1836

(6)

は じ め に

 第一次世界大戦後に債権国となったアメリカ合

衆国は、未曾有の急成長をとげ「永遠の繁栄」を 謳歌する大量消費社会を実現した。この「アメリ

カ式生活様式(American way of life)」は現代

の日本をはじめとする諸地域の生活にも様々な影 響を与えている。帝国書院『明解世界史A 最新

版』p.154∼155「あこがれの生活 アメリカの大 量消費社会」では「電気冷蔵庫の普及がアメリカ 国民の食生活を大きく変えたのと同時に豊かな生

活を象徴するものとして人々のあこがれの的とな った」とある。

 「歴史」の授業のなかで、上記単元は、単なる

過去の事柄を学ぶのではなく、物質文明を享受し ている「今(現在)」に大きく繋がっている事柄

を学ぶ単元の一つであろうと考える。

 そこで1920年代のアメリカを『明解世界史A  最新版』(以下「世史A」と略記)と『最新世界

史図説タペストリー 三訂版』(以下、「タペスト リー」と略記)を活用しながらの授業案を示す。

1920 年代と今日

 まず、現在の高校生の生活に馴染みが深い語句

<コカコーラ、マクドナルド、ケンタッキーフラ イドチキン、ガソリンスタンド>を示し、いつ頃 に、どこの国・地域で一般化したか発問する。

 コカコーラは1886年にジョージア州アトランタ の一薬剤師が南米産コカの葉とアフリカ産コーラ

の実を調合したもので二日酔いに効く良薬として 販売され、瞬く間に全米を席巻した世界的飲料で ある。(「世史A」p.155③参照)

 また、マクドナルドは1937年にマクドナルド兄 弟がカリフォルニア州にドライブイン式のハンバ

ーガーショップを開店したものが1号店であり、

セルフサービスなど徹底した合理化を図ったもの であった。

 1932年、後の「ケンタッキーフライドチキン」 の創始者カーネル(大佐)・サンダースはレスト ランを経営し、圧力鍋を使った独自の鶏の調理法

で人気を得たが、新しいハイウェー建設のあおり で集客能力を失ったためフランチャイズ権を売却

しなければならなくなり、全米各地に行脚し、チ ェーン店を増やしていった。

 1907年にミズーリ州で誕生したガソリンスタン

ドは、初期の自動車が故障しがちであったため整 備工場と兼業であるタイプが多く、自動車の普及 に伴って全米に広がった。

これらファーストフード店が1920年代の自動車

社会の実現なしには誕生しなかったことにふれ、

現在の私たちの消費生活と対比させたい。

繁栄の20 年代

 続いて、「世史A」p.154 の自動車王ヘンリー = フォード(1863∼1947)の項および「タペストリ

ー」p.229⑩の車の販売台数のグラフを見せる。  フォードのベルトコンベアによる大量生産方式 の導入により「1台のT型フォードを製造するに

は、はじめ14時間かかったが、ベルトコンベア方 式で 93分になり、さらには25年には、年間100万 台も生産され、1台当たりわずか10分程度」とな

ったことが、一般労働者の年収の「4分の1ない し5分の1」程度という「低価格」化をもたらし、

分割払いのクレジット決算により所有世帯が劇的 に増大したことを、「タペストリー」(p.229⑩) のグラフで確認させる。

 また、モータリゼーションの発達により、道路

沿いのドライブインや郊外の駐車場を設置した大

1920 年代のアメリカ−大量消費社会を学ぶ

(7)

型ショッピングモールなどが建設されたことを理 解させる。

 さらにはゼネラルモータース社がライバルT型 フォードの屋根が防水に難がある幌製である点を

指摘し、高級感を演出した「シボレーK型」を売 り出す戦略に出たこと、この開発競争が当時の新 しいメディアであるラジオ放送などを媒介として

非価格競争を激化させ、広告費の増大、モデルチ

ェンジ熱の高まりをもたらしたことにもふれたい。

 続いて、「タペストリー」(p.229⑧)の写真を 見せ、20年代の「大量消費社会」の到来を象徴す るものとして、電気冷蔵庫等の家電製品の普及が

あることにふれ、便利で豊かな生活が女性のライ フスタイルをどのように変えたか発問する。

 1929年には全米の家庭の7割に電気がひかれ、 その約4分の1に洗濯機が普及していたことにふ れながら、洗濯などの家事労働の軽減が家事労働

以外の余暇の時間をもたらし、1920年に全米の女

性は参政権を獲得していたが、政治参加に加えて、

さらに社会進出までも容易にしていったことにふ

れる。とくに商業、運輸・サービス業、営業・事 務などの分野の従事者が増大していることを「タ

ペストリー」(p.228⑥)の産業構造の変化のグラ フで確認する。

さらに「世史A」(p.155①)の「大衆社会のパ

ノラマ」中のダンスに興じる女性の服装と頭髪に ついて思うことを述べさせる。

 パーマをかけショートヘアで濃い口紅、肌を露 出させながらジャズに合わせて踊るチャールスト ンダンスに興じる若い女性は、自由に羽をバタバ

タさせる雛鳥(「フラッパー(ばたばたのお転婆 娘)」にたとえられ、大胆な水着姿で肉体美や脚

線美を競い合う「美人コンテスト」が開催された のも20年代であったことにふれる。

 それまでのモラルに縛られた禁欲を是とする価

値観が一変し、未来への夢より現在の享楽に熱中 する時代であった。1920年代のアメリカの「熱気」 には、熱冷ましのアスピリンが不可欠であったか

もしれないことを、当時の呼称が「アスピリンエ イジ」であったことから把握させたい。

 また、ダンスホールでは黒人がピアノ演奏をし ている点にも注目させたい。20世紀初頭にニュー オーリンズに誕生したジャズが北部にも広がり、

アメリカの代表的な音楽となった。第一次世界大 戦で白人が従軍したため、かつての白人街ハーレ

ム地区に黒人が流入し、黒人芸術家のメッカとな り、いわゆる「ハーレム・ルネサンス」を現出し、 その文化は大西洋を横断し、疲弊していたヨーロ

ッパに流入した。「褐色のエロティシズム」のジ ョセフィン=ベーカーがパリの社交界に進出した のはその好例である。

 加えて、「世史A」(p.155①)の「大衆社会の パノラマ」に映画館が登場している点にもふれた

い。1911年にはハリウッドで映画製作が始まり、 第一次世界大戦後からヨーロッパ出身の多くの映 画人や俳優を受け入れた。イギリスからアメリカ

に渡った喜劇王チャップリンは抜群の演技力で大 衆を魅了し、映画産業の大衆化に貢献し、サイレ

ント・ムービーからトーキーへと切り替わってい った。

「タペストリー」(p.229)の「Theme 航空機

産業のパイオニア」の写真を参照し、1927年にミ ネソタ出身の寡黙な青年リンドバーグが大西洋横

断単独無着陸飛行を行い、一夜にして国民的英雄 となったこと、いわゆるアメリカンドリームの体 現者となったことにふれる。

 大量消費・大量生産時代の渦中のアメリカの大 衆は現状に満足せず、ラジオがもたらす精神的な

刺激やヒーローを求めていた点は媒介がラジオで

あるか、テレビやインターネットであるかという 点を除けば今日とまったく変わりはないことを理

(8)

解させたい。

国内に抱える矛盾

 「世史A」p.155②の摩天楼「エンパイアステー

トビル」の偉容はまさにアメリカ式生活様式の象 徴である。自由の女神像が立つリバティ島の近く にあるエリス島には移民局が置かれており、移民

はその地で合衆国への忠誠を誓い、自由の女神像 の眼下に入国した。

 しかし、移民らは国内に抱えるさまざまな矛盾 に直面したことを、東欧・南欧・アジア系移民に 対する排他的な差別・敵意、マフィアの横行、左

翼への弾圧などの具体的事象を示しながら理解さ せる。

 「タペストリー」(p.228 )の「禁酒法」の

写真を見せる。1919年に禁酒法が制定された背景

には、第一次世界大戦での反独感情の高まりとビ

ール業者の多くがドイツ系移民であったことへの 反発、道徳的な理想論などがあげられる。  しかし、この法は反対者も多く、ごく普通の市

民が遵法精神をかなぐり捨て、密造酒の密造・密 輸入・密売に手を染めるようになった。ブーツを

履いて脚の部分に密造酒の小瓶を隠したため、「ブ ーツレッギング(ブートレッグ)」が密造・密輸 を意味する隠語となった。また、密造酒の売買の

交渉を声をひそめて話すことから「speak easy」 がもぐり酒場という隠語となった。いわゆる海賊

盤レコードや海賊盤CDなどを「ブートレッグ」 と呼称するのはこの故事に因んでいる。

 密売が大きな収入をもたらしたため、ギャング

やマフィアがその勢力を拡大して、映画「ゴッドフ ァーザー 」で名高いアル=カポネが密造酒販売、麻 薬、賭博、売春、「聖バレンタインディの虐殺」に代

表される敵対者の殺戮など悪事の限りを尽くした。

 「タペストリー」(p.228③)の「K.K.K.の集会」

の写真を見せる。いわゆるWASP至上主義を標

榜した彼らはアメリカ生まれの白人プロテスタン トこそが「生粋のアメリカ人」であると主張し、

当時の会員は数百万を数えた。

 黒人らに対する集団暴力事件の報告数の上位に

位置する州の「分布状況」(タペストリー p.228

)が南北戦争時の南部諸州と一致することを視

覚的に理解させたい。

 また、南欧系移民に対する人種差別の事例とし

てはサッコ・ヴァンゼッティ事件があげられる。

ボストン近郊の靴工場の殺人事件の容疑者として 靴職人のサッコと行商人ヴァンゼッティが逮捕さ

れ、2人がアナーキストであったことを理由に死 刑判決が下り、ロマン=ロランらの抗議声明も空

しく死刑が執行された。この事件は20年代アメリ カの負の側面を物語るものであり、2人が名誉回 復するのはマサチューセッツ州知事が誤りであっ

たことを認めた1977年であった。

 「タペストリー」(p.228⑦)のグラフ「不況に

あえぐ農村」を参照し、フーヴァーが「永遠の繁

栄」を叫んだその一方で、農村では第一次世界大 戦中の過剰な設備投資などにより農産物価格が下

落し、離農者が増大し「繁栄のなかの貧困」の状 態に陥ったことを理解させ、後のニューヨーク証 券取引所の株の大暴落に続くことを紹介し結びと

する。

まとめ

 1997年、京都で気候変動枠組条約第3回締約国 会議(温暖化防止京都会議)が開催され、先進国

に温室効果ガスの削減を義務づけた「京都議定書」

が採択され、今年(2005年)ようやく発効した。

しかし、世界最大の温室効果ガスの排出国である アメリカが、2005年3月現在、上記議定書から離 脱していることも周知の事実であり、環境問題解

決に向けた多くの課題を残している。

 1920年代のアメリカの大量消費社会、「アメリ カ式生活様式(American way of life)」の延長線

上に現在の(京都議定書から離脱している)アメ リカがあることを考えさせ、まさに歴史は過去の

遺物ではなく、現在と未来を考察する学問である ことを理解させたい。

《参考文献》

(9)

 は じ め に

 ウィーン体制を崩壊させ、それ以後の「ナショ

ナリズムと国民国家」の出発点となった“諸国民 の春”1848 年革命の流れと展開について、生徒 たちはいかなる認識を持っているであろうか。お

そらくイギリス革命やフランス革命・ロシア革 命等に比べて知名度や興味は著しく低いと思われ

る。実際教える側にとっても、難しい箇所である。 複数の地域で時系列的に並行に事件が起こってい るうえ、イギリス革命におけるクロムウェル、フ

ランス革命におけるマリー = アントワネットや ナポレオン、ロシア革命におけるレーニンのよう な時代を代表する人物を軸にするにも、この時代

では選定しにくい。そこで教科書「明解世界史A  最新版」p.108 に掲載されている“ピアノの詩人”

フリデリック = ショパン(1810 ∼ 1849)の人生 とポーランド史を軸にこの時代にアプローチでき ないか思索してみたい 。

 ポーランドは三つの大国 によって消滅させられてお

り、そのナショナリズム的 な運動と失敗はある意味“諸 国民の春”を代表している。

またショパンはポーランド 生まれの愛国者であり、時 代の精神を代表するロマン

派の芸術家だった。  音楽が歴史的な事件とか

かわった事例としては 1830 年 夏 ブ リ ュ ッ セ ル で オ ー ベールのオペラ「ポルティ

チの物言わぬ娘 」(スペイン 人の圧制にナポリ人が立ち

上がったという筋立て)を観て興奮した観客が

街に飛び出してベルギー独立のための蜂起を始め た、というエピソードが有名である。ショパンの

音楽もその後の歴史の中でポーランド民族の拠り 所になっていく。なにより生徒にとってもショパ ンの旋律はどこかで耳にしているはずであり、身

近に感じることができるだろう。以下、実験的に 記述してみた。

 1.ショパンの生涯  幼年期∼少年期

(1810 ∼ 1829 年)   ショパンは1810年3月1日(一説には2月22日)、

ポーランドのジェラゾヴァ・ヴォラで生まれ、首 都ワルシャワで育った。父はフランス人でフラ ンス語教師をしており、母は没落したシュラフタ

(ポーランド貴族)の娘であった。彼には3人の 姉妹がおり、彼自身は第二子である。

 ポーランドは 1772 年から 1795 年にかけて三回 の「ポーランド分割」で地図上から抹殺されてい たが、ティルジット条約(1807)でナポレオン支

配下とはいえ、ワルシャワ大公国として独立を一 時期取り戻していた。ショパンが生まれた 1810

年頃はナポレオン帝政絶頂期だったが、その後 モスクワ遠征の失敗(1812)で没落してしまう。 ウィーン会議(1814 ∼ 1815)の結果、正統主義

の原則を掲げたウィーン体制が成立し、ポーラン ドにおいてもロシア皇帝が国王を兼ねるポーラン ド立憲王国が建設され、独立を失った。

 幼い時よりショパンはピアノの神童として名を はせている。最初の作曲の出版が7歳(1817)と

いうから凄まじい。この頃からワルシャワ貴族界 のサロンからお呼びがかかり、上流階級に出入り している。1823 年ワルシャワ高等学校に入学。学

生生活を始める。夏休み中はシュラフタの友人の 田舎の屋敷で過ごすことが多かった。この機会に

自由主義・国民主義の進展

「1848 年− 19 世紀の転換点−ショパンの生涯を軸にして」

埼玉県立所沢高等学校

 廣 瀬 和 義

かれは,革命にゆれた時代に 生きた作曲家であった。1810 年にワルシャワで生まれたが, まもなく祖国ポーランドは独立 を失った。七月革命直後にパリ を訪れ,二月革命後にここで息 を引き取った。かれは祖国への 熱い思いをピアノに託し,数多 くの民族舞曲(ポロネーズ・マ ズルカ)を作曲した。 ピアノの詩人とうたわれた

ショパン 1810∼49

「明解世界史 A 最新版」 p.108

(10)

ポーランド農民の音楽を知り、民族音楽採集に

情熱を傾けている。いわゆるポロネーズやマズル カにふれたわけで、彼の作曲家としての方向性に 大きな意味を持つことになる。1826 年 16 歳でワ

ルシャワ音楽学校に入学。しかし翌 1827 年、末 の妹エミリアを結核で亡くす。この時期より彼に も結核の症状が出始め、一生苦しむことになる。

1829 年音楽学校卒業。学校側の評価では「格別 の天才−音楽的天才」とある。同年ウィーンに行

き、曲の出版を決め、演奏会でも成功している。  彼は世界の表舞台をめざし始めたのである。

 2.ショパンの生涯  旅立ち

(1830 ∼ 1831 年)   1830 年フランスで起こった7月革命はヨーロッ

パ各地に波及し、民族統一運動や自由主義運動を 各地で起こした。フランスで7月王政が成立した のとベルギー独立以外はすべて列強に鎮圧されて

しまうが、ウィーン体制に対する諸国民の大きな 揺り返しである。ポーランドでもロシアからの独 立を求める 11 月蜂起が起こっている。直接のきっ

かけはロシアがフランスやベルギーの革命運動に 軍事干渉を企て、ポーランド軍を動員しようとし

ているという噂だった。しかしこの独立革命は1 年を経ずして翌年9月にロシアの大軍によって鎮 圧され、それまでの自治も取り消された。参加し

た多くの市民、軍人は亡命を余儀なくされた。  さて、ショパンはこの激動の年11月、ポーラン

ドを離れ再びウィーンをめざした。今回は長期間 の旅を予想し、友人たちと別れをかわしている。 友人たちは彼に銀杯に盛った故国の土を贈った。

しかし彼は二度と故国に帰ることはなかったので ある。ウィーン到着1週間後に11月蜂起の知らせ が届く。ショパンに同行していた友人のティトゥ

スは蜂起に参加するためポーランドにもどってい った。ショパンも一緒に帰国し戦いに参加するこ

とを望んだが、病弱な彼は兵として役に立つはず もなく、ティトゥスに「自分の芸術に専念し、ポ ーランドの名を世に広めることによって、銃を手

に取るよりも遙かに多くのことを祖国のために成 し得るはずだ」と説得され、帰国を断念した。彼は

ワルシャワの情勢を気にしながらウィーンに留ま

ったが、オーストリアはポーランドの一部(ガリ ツィア地方)を領土にしていた関係から反乱に対 して友好的でなく、居心地が悪かった。また当時

はやっていたウィンナワルツに対して芸術的な興 味を持てなかったらしい。しだいに悪化するワル シャワの情勢を耳にし、家族や友人を思って精神

的にもまいっていた。そこで彼はポーランドを支 援する気運があるパリをめざすことにした。1831

年7月、ウィーンを出発。ところが途中9月にシ ュトゥットガルトで革命の敗北とワルシャワ陥落 の悲報を聞く。そのうえ故国の家族や友人たちと

連絡が取れなくなった。ショパンは激しく動揺し、 有名な「シュトゥットガルトの手記」を残している。

 この悲憤の中で作曲されたといわれているのが 「革命」と呼ばれるエチュード、ピアノ練習曲第

12番ハ短調である。ピアノを叩きつけるような旋 律は彼の苦悩と絶望を文章以上に雄弁に語ってい る。また、悲劇的な故国に寄せる愛はマズルカや

ポロネーズの形態でその後の作品に濃い民族性を 映し出しているのは周知のごとくである。

 3.ショパンの生涯  青年期

(1831 ∼ 1846 年)   ショパンがパリに到着したのは1831年9月末で

ある。七月王政が成立し、大ブルジョワジーが政 権を握っていた。彼はここに居を定める。当時パ リには多数のポーランド知識人が亡命しており、

(11)

化活動を行っていた。ショパンはこの組織に入会

している。また、メンデルスゾーン、シューマン、 ベルリオーズ等ロマン派のそうそうたる音楽家た ちと交流する。パリで彼は名声を博した。ただし、

内気な彼はコンサートを好まず、ピアノレッスン と作曲をおもにしていた。この時期が彼にとって 人生最良の日々であり、作曲数も多い。1836年に

はシュラフタ出身のマリア=ヴォジンズカと婚約 した。

 しかし翌年破棄。彼の健康状態が理由といわれ ている。結核はじわじわと彼の身体を蝕んでいた。 このようなどん底の時に会ったのが女流作家ジョ

ルジュ =サンドだった。サンドは彼より6歳年上。 離婚した夫との間に2人の子があり、自分で引き

取っていた。最初に会った時、葉巻をすい、男も のの外套とズボンという出で立ちだったので「本 当に女性なのか?」と呟いたとか。以後1846年ま

で彼女とつきあうことになる。サンドは母性愛に 満ちた女性で病弱なショパンの面倒をよく見てお り、彼にとって得難いパートナーだった。ドラク

ロアが二人の並んだ肖像画を描いている。後年彼 らが別れるとこの絵は二つに切り分けられた。

 4.ショパンの生涯  晩年

(1846 ∼ 1849 年)   1846年、この年ショパンにとってはなかなかに

辛い年だった。サンドと破局をむかえ、決別した のである。彼はサンドを忘れられず死ぬまで彼女

の髪の束を持っていた。健康状態もますます悪化。 一方で芸術的感性はとぎすまされたのか、傑作「幻 想ポロネーズ 変イ長調」を作曲している。また

同時期、故国ポーランドでも悲劇が起こっている。  1846年2月オーストリア領ガリツィアのクラク フで民族蜂起が起こり、「ポーランド共和国国民

政府」が樹立された。しかしこの蜂起はロシア、 オーストリア、プロシアの三大国によって鎮圧さ

れてしまう。それどころか蜂起側に立つシュラフ タの地主をポーランド人の農民が襲撃するという 事態まで起こっている。そもそもここは再版農奴

制のもと地主による収奪が厳しい地域だった。ま た、蜂起側があまりにもポーランド・ナショナリ

ズムに幻想を抱きすぎ、農民等の大衆動員につい

てほとんど念頭に置かなかったということもある。  蜂起はしたがその後国内の諸勢力を組織しきれ ず失敗するという図式は、まさに後に来る1848年

革命の経過そのものである。ちなみにその後1863 ∼1864年にかけてワルシャワで1月蜂起と呼ばれ る対ロシア反乱が起こったが、この時は前回の教

訓をふまえ、農民解放令を出している。しかしツ ァーの出した解放令の方が条件がよかったので、

農民の協力を得ることに失敗した。

 1848年、パリで2月革命勃発。健康状態がかな り悪化していたショパンは喧噪のパリを離れイギ

リスへ演奏旅行に出かけた。しかし北の国でさら に身体をこわし、すぐパリに戻る。翌1849年10月

17日、姉のルドヴィカに見守れながら永眠。死因 は結核だった。享年39歳。遺骸はパリで葬られ、 墓にはいつも持ち歩いていたポーランドの土がま

かれた。そして遺言により心臓だけは故国に持ち 帰られ、ワルシャワの聖十字教会に安置された。  ポーランドの“諸国民の春”は失敗した。国内

の諸勢力を独立に糾合できなかったからである。 しかしショパンの残した曲の数々は以後長くポー

ランド・ナショナリズムの紐帯となるのである。

 お わ り に

 以上、簡単に“諸国民の春”をポーランドとシ ョパンを中心にして記述してみた。授業展開とし

ては、生徒にショパンの人生について調査させる とか、年譜を調べさせ、その時代について対比し た年表をつくらせるとか、様々な方法が考えられ

ると思う。その時は、まずショパンの曲を聴かせ てほしい。ショパンの曲の多くは、おそらくは生 徒がどこかで聴いたことがあると思われるので、

この時代に興味を持つきっかけになればよいと思 う。千の言葉より一つの曲の方が彼とその時代を

知るうえで大きなヒントとなるであろう。

《参考文献》

(12)

   は じ め に

 私の授業ではこれまで女性については、「女性 史」にような形で独立しては取り上げてこなかっ たので、本稿については、あくまで実践ではなく、

研究例としてお読みいただきたい。

 もちろん、授業中折々に女性についてふれるが

(たとえば選挙権の話など)、何しろ歴史の記録者 は圧倒的に男性であるため、「制度の中の女性の 扱われ方」は分かっても、女性の「姿」は見えて

こない。姿が見える史料としては、文字通り絵画 や写真などが、女性を映し出す。これも決して多 いとはいえないものの、図版を使って、その中の

女性の姿から推理を働かせたり、時代背景を考え る授業ができるであろう。

   導  入

 まず、シャネルのロゴマークを見せ、答えさせ たうえで、意識にとどめておくように言ってから、

   

次の言葉を紹介する。

  人間が真に自由と平等であるなら、当然女  も・・・。だが、革命が起こっても、女性は

 市民にも数えられていないのが実態ではない  か!

(この2つおよび人権宣言第1条はプリント印刷 で配布する。)

 これはフランス革命時、かの人権宣言を批判し

たフェミニズム理論家グージュの言葉である。グ ージュは、この革命がそもそも女性の権利につい

てはまったく想定していないことを喝破し、「人 権宣言」に対抗して「女性の権利宣言」を発表し たが、国王処刑に反対して断頭台送りになった。

 この言葉から、18世紀においてもこのように考 えられていたことや、遡ってポリスの民会の構成

にも触れ、女性が政治的権利を持つなどとは考え られなかった時代が長く続いたことを述べる。  だが一方で、経済的には女性は農業や家内工業、

商売などの仕事をこなし、重要な家計の担い手で あったこと、したがって労働しないから権利から 排除されていたわけではないことを、「最新世界

史図説タペストリー 三訂版」p.131の「農民の くらし」(ベリー公の時祷書挿絵)で確認させる(女

性の姿が見えるのは9月)。

   展  開

 Ⅰ 産業革命期

 そして、産業革命に話をつなぐ。農業社会であ れば家族がともに働き、職場と家庭とが渾然一体

となっていたが、工場労働が始まると、労働者は 家を出て工場に向かわねばならないことを述べて、

ココ = シャネルを切り口に女性の社会進出を考える

東京都立高島高等学校

 大 見 真 由 美

11月 9月

7月

(13)

職場と家庭が分離したことを理解させる。

さらに、妊婦や子連れの女性が工場や炭坑での 重労働に適しているかどうかを問い、そこからよ り効率的な生産を求める資本主義の要請が「結婚

したら、夫を送り出し家庭を守る」という専業主 婦を生み出したことをつけ加えておく。ただし、 それでも働かざるをえない女性たちはおり、彼女

たちの工場労働を支えるために、子どもを家庭外 で預かる保育施設が設けられるようになったこと、

さらに第二次産業革命期以降、新しい産業社会の 形成にともなう新しい職業の拡大が、女性に新た な労働の場を提供したことによって女性の社会進

出が促されたことを補足する。

 Ⅱ 女性と衣服

ここで、教科書(「明解世界史A」)p.156∼157 を開かせる。炭坑といわず、たとえ現在のような

オフィスであっても、クリノリンスタイル(下写 真左)やバスルスタイル(下写真右)が労働にふ さわしいかどうかを尋ねる。

次に現在の女性の服装とどのように違うかを答 えさせる。スカート丈や締めつけぐあい、布地の 分量などが出てくると思われるので、ここで冒頭

のロゴマークに戻って、現在のような活動的な衣 服のもとがココ=シャネルであることを、教科書

の写真(右段上)を用いて説明する。

 そして彼女の開いた女性服専門店の開店が1915 年であったことから、それがどのような時代であ

ったかを発問する。第一次世界大戦が出てきたら、 「総力戦」や「銃後」という用語の説明とともに、

男性労働力の不足に対応するため女性の社会進出

が大幅に進んだことを、教科書p.157⑦の写真を 示しながら説明する。働くようになれば当然、先

ほどのような服装は動きにくいため活動的な服装 に変わっていくことを想起させる。

Ⅲ 女性と権利

 さらに、女性の社会進出が各国経済を支えたが ために女性の社会的地位が向上、それによって女 性の権利獲得も進み、1918年にはイギリスで、第

4回選挙法改正によって女性にも参政権が拡大さ れたこと、ただし男性とは制限年齢が異なり、男 女同一年齢になるのは1928年であることを指摘す

る。

   ま と め

 ここでまとめに入る。プリントの人権宣言第1

(14)

ジュの言葉に戻り、自由と平等という価値は、制

限のあるものかどうかを考えさせる。白人だけに あてはまるものでないと同様、一つの性に限定さ れるものでもないことは、生徒にも容易に理解で

きるであろう。しかし大事なことはその先にある。  自由や平等や権利というものが、天与のものな のか、黙ったままで手に入ったのかを考えさせ、

そうではないのであれば、どのようにしてそれら が獲得されてきたのか、フランス革命を想起させ

る。ただし、革命が最終の解決ではないことに留 意させなければならない。一歩前進二歩後退とい う状況の中で、多くの犠牲を伴いつつわずかずつ

でも権利が獲得されてきたこと、自由・平等や権 利が、このように「獲得」されたもので自然に備

わってあるものではないとすると、永遠に保障さ れているわけでもないことに気づかせ、ではそれ を維持していくためには、何が必要なのかについ

ても考えさせる。

 そのうえで、しかし人権宣言の「人間」は、有 色人種や女性を含んでいないこと、したがって彼

らがフランス人男性と同じ権利を持つためには、 さらにその何倍かの時間と努力と犠牲を要したこ

とを説明する。ことに女性は、男性の陰におかれ た歴史が長く、一方で権利の歴史は浅いので、容 易に奪われるおそれのあることは、昨今の「ジェ

ンダー」叩きからも想像できる。そこで、ジェン ダーという用語を説明し、「ジェンダーフリー」

とは、現在批判されているような「男らしさ・女 らしさを否定する」ものではなく、性の違いを理 由にした差別の排除を求めるものであること、性

差は能力差ではなく、生物学的な違い(体力・腕 力等の差)であること、女性は男性より「能力的

に劣っているから男性の補助的存在」なのではな く、体力の差を除外すれば全く同じ地点に立つこ と、したがって都知事らによる猛烈なジェンダー

フリー批判は、性差を固定的役割分担に結びつけ たものでナンセンスであり、男女というより「そ の人らしさ」を大事にすることが、男女共同参画

社会の形成につながることを述べて、この授業の 結びとする。

なお、もし時間があれば、女性が陰の存在とさ

れてきたことには、宗教にも大きな責任があるの ではないか、という私見についても、紹介したい。

   最 後 に

以上、女性である筆者が、世界史の授業で女性

について考えるという試案である。初めに記した ように、とくに女性にこだわった授業をやってき

ていないので、最初にこの話をいただいた時はと まどったが、今この授業を実際にやってみて生徒 の感想を聞きたいと思っている。本稿のために古

い文献を引っぱり出したり、調べたり、思いがけ ない勉強をすることができた。その意味で良い機

会であったと思う。

ただ、女性から見た女性史であるので、一面的 であると思う。男性であればまた違った発想や切

り口があるだろうから、ぜひ同じテーマで男性の 方にも書いていただきたい。

生徒は、学校の中では、男女差別的なことはあ

まり感じないでこられたのではないかと思う。し かし、学校という組織を出てしまうと、女性はさ

まざまな差別を受けて、愕然とするのである。筆 者自身も、そういった差別のない(と思われた) この職を選んだにもかかわらず、悔しい思いを何

度も経験している。全く経験しないですめば、そ れにこしたことはないとも思うが、差別に愕然と

することで、女性の歴史や現在の社会構造に思い を巡らすきっかけになるかもしれない。

 市井三郎の言うごとく、「自分に責任のないこ

とから受ける差別を減らしていくことが、進歩で ある」(『歴史の進歩とは何か』)ことを確信して、 そのような世界を築いていこうという意欲のある

生徒が出てくることを祈りたい。

(15)

 世界史A教科書の分野に帝国書院が参画したの

は、高等学校で授業が開始されて1年後の、1995 年であった。以来今日まで「世界史A」とともに

歩んできた一執筆者として、これまでの歩みを振 り返りながら、考えてきたことを記したい。

おもしろい教科書をめざす

 教科書を執筆することになった頃、私には二つ

のことが念頭にあった。一つは、おもしろい教科 書にしたいということ、第二には、世界史教科書 の理念を明確にしたいということであった。

 まず第1点についていえば、これは、高等学校 の世界史教師として約10年間、教科書に接してき た経験からきている。そこでは教科書は、すでに

歴史に興味を持っている生徒にとっては大変に有 用であった。世界史が選択科目であった間は、そ

れでもよかったかもしれない。しかし今や世界史 が必修科目となった以上、教科書は、歴史に関心 を持ったことがなかった、しかも多様な生徒たち

をも対象にしなければならない。このことから、 おもしろくする工夫は、極めて重要と思われた。

 だが歴史書を読んで楽しいと感ずるのは、何か らであろうか。私にはその「最初の一撃」は、自 分にとっての「常識」が破られたときの「驚き」

だと思われた。歴史では、当たり前と考えていた ことが、過去、あるいは他の地域から見れば非常 識となるということにしばしば出会う。そうした

出会いでの「驚き」こそ、歴史に興味を持つ契機 となると考えたのである。教科書が多面的な「驚

き」を提供し、その一つでもが生徒たちの何らか の琴線に触れて、歴史への関心の入り口となって くれる工夫が必要だと考えたのである。

しかし、教科書は、ただおもしろければよいと いうものではない。そもそも教科書の本分は何な

のであろうか。この点については、帝国書院企画

による「全訳世界の歴史教科書シリーズ」がヒン トを与えてくれた。このシリーズを見渡すと、世

界の歴史教科書には大きく二つのタイプがあるこ とがわかる。史料と討論を重視するタイプと、基 本的事実の記述とその学習を重視するタイプの二

種である。日本の教科書の伝統は、後者の典型と いえる。それは一見無味乾燥のように見えはして

も、基礎的事実の客観的な記述という点では、コ ンパクトで優れた内容を有していると思われた。 こうしたことから私は、「理念としての教科書と は、現在の日本における歴史的共通認識のエッセ

ンスを生徒に伝達するもの」と考えるようになっ

た。「現在の日本」と限定するのは、「現在と過去

との対話」(E.H.カー)という、歴史学の特質か らくる。また、これは「理念」であり、「エッセ

ンス」の具体的内容に関しては、明示された絶対 的なものは存在しない。それ自体が、また探求の 対象となるという性格を有している。しかし他方、

その内容については、その手がかりは与えられて いる。たとえばこれまでの教科書や高等学校学習

指導要領、各種の世界史シリーズなど、日本におけ る様々な世界史記述の実例がそれである。執筆者 の責任は、これらの実例と自らの研究を基礎に、

「エッセンス」を抽出する努力をして、その成果 を記述することだと考えたのである。

驚きを感じてもらう具体的工夫

 私たちの教科書では、全体の構成と本文につい

ては、上述した「エッセンス」の記述に重点が置 かれている。前近代では地域文化の形成と発展を 通時的に、近代以降では地球単位での世界史を共

時的に記述している(現行教科書の構成は下図)。 その際、一見開きを記述の単位として、厳選した

「世界史A」のこれまでとこれから

(16)

基本的事項の内容と意義について記述している。

また、記述の基本となる史料は必ず明示してきた。 「驚き」を感じてもらうための工夫は、主とし て特設頁や、一連のコラムなどで展開されている。

たとえば「物を通してみる」世界史シリーズは、 1995年版から設けている。また、日本との関係で 過去を見直す「世界史のなかの日本」シリーズは

じめ種々のキャプションでも、今日身近にある話 題を広く取り上げてきた。カラー化するなど、ビ

ジュアル性を重視したのも、その一環である。  わが国の歴史学は1970年代に大きく変貌した。 「世界史の基本法則」の追及を柱とする「戦後歴

史学」から、「社会史」への転換がそれである。 そしてその具体的成果が提供されはじめたのは、

1980年代に入ったころからであった。この「驚き」 を提供するための記述では、同時にこうした現代 の歴史学の成果を紹介することにもなっている。

現行教科書への改訂で行った新しい取り組み

 全体の構成は1970年代以後行われてきた編成を

踏襲したが、一部に手を加えた(下図ゴチック)。

 世界史Aで最も苦労してきたのは、前近代の構

成と、それをいかに近・現代に接合するかの問題 であった。今回は、2部(16世紀以後)を「アジ

アの繁栄」→アジアに向かうヨーロッパ→アジア

の変動という順序に配列し、整理してみた。

 また「現在」の視点を重視した。「地球社会の

到来」(3部6章)では、1970年以降の現在の世 界について、地球規模で多元化と一体化が同時進 行している「地球社会」を記述した。それととも に、そこで強く意識されているのは、①「人間の

権利と自由の尊重」と、②「異文化理解」、そし

てそれらの上に成り立つ、③「共に生きる世界」

という三観点=未来に向けての課題である。

 「人間の権利と自由の尊重」と「異文化理解」 の問題については、本教科書のすべての記述がこ

れに関係するともいえる。そのなかで人権と自由 の問題についてとくに注意したのは、各時代の具

体的様相、それを女性や子どもたちについても目 配りして記述するということであった。異文化理 解については、「物を通してみる世界史」のほか

に「クローズアップ生活・文化」を特設したし、「物

にも歴史あり」のコラムはじめ、キャプションな

どでもこうした観点から重要なものを選んでいる。

共生の模索については、とくに、1部に「南北ア

メリカ世界」と「東南アジア世界」を設定した。

両世界、とりわけ「東南アジア世界」についての 基礎知識は、今後の日本の進路を考えていくうえ で、不可欠となると考えたからである。

理想的教科書をめざして

 現在、私たちは、現行教科書の改訂に取り組ん でいる。改訂の主要点は、上でも述べた三観点を、 今まで以上に、目に見える形で教科書の構成に反

映させることにある。それによって、生徒たちが

自身の未来について考えるとき、教科書が一層役 立つものとなることを願ってのことである。

 だが、理想的教科書への接近は、執筆者のみに よって達成されるものではない。教科書を使用し

て下さる先生方や生徒諸君の批判も、また極めて

重要な要件となる。現在進めている改訂では何度 も現場の先生方からの批判を仰いだが、こうした

協力関係もさらに深くし、批判をふまえて、可能 な限り理念に近づいていきたいと考えている。 (地球社会の到来)

人類・文明のはじまり 現代の世界と日本

一体化に向かう世界

ユーラシアの交流圏

ヨ ー ロ ッ パ 世 界

イ ス ラ ー ム 世 界

南 ア ジ ア 世 界

東 ア ジ ア 世 界 3部

19世紀末

16世紀 1970年以降

2部

(17)

人文学の危機とCOE

 この原稿では、私たちが現在展開している、最

先端の歴史研究と高校歴史教育を結びつける活動 について、ご紹介させていただく。これは、大阪 大学の大学院文学研究科を中心に、同人間科学研

究科、言語文化研究科などと共同して進められて いる文科省21世紀COE(center of excellence)

プログラム「インターフェイスの人文学」(2002∼ 06年度)の一環をなす。

 21世紀COEプログラムは、「現代中国研究」「砂

丘の研究」など特定分野の集中的研究を想定した しくみだが、「インターフェイスの人文学」の場 合は、自然科学・社会科学と比べて(日本の)人

文系の諸学問が、19世紀以来の古い枠組みに拘泥 するあまり、ひとしく発言力を失っているという、

個々の分野をこえた人文学の構造的危機を、「研 究」対象としている。人文学が本当に純粋な「虚学」 であれば、それが大学から消失しようが騒ぐに価

しない。が、現実世界を見れば外交やテロ、環境 から少子高齢化までどの社会問題も、科学技術の

発達だけでは解決せず、文化や歴史への洞察を要 する領域は日々拡大している。そこで、諸学問間 や各国の学界間の「横断」、研究者が社会と接す

る「臨床」など、「インターフェイス」(接触面) での活動を意図的に行い、人文学全体を「書斎と 書物に閉じこもった硬直した学問」から、研究室

−社会−メディア空間などを行き来しながら行う 柔軟で開かれた学問に改造しよう、というのが「イ

ンターフェイスの人文学」の示す人文学再生のシ ナリオである。

世界につながる新しい歴史学

上のようなねらいを実践する場として、「インタ

ーフェイスの人文学」内部には、「イメージとし

ての日本」「モダニズムと中東欧」などいくつか の研究班がある。いずれも、それ自体「横断的」

ないし「臨床的」性格をもつ研究や、関連する教 育(大学院には「COE科目群」が解説されてい る)を行いながら、既存の学問のあり方・方法論

の意識的な再検討をつねに試みている[詳細はホ ー ム ペ ー ジhttp://www.let.osaka-u.ac.jp/coe/ 

を見られたい]。

 そのうち、歴史系の教員・若手研究者を中心に、 「日本史」「東洋史」「西洋史」などの学問分野間

の「横断」̶それは、従来の歴史研究(そして あらゆる人文・社会科学研究)の根本的弱点だっ たアジア史に正当な位置づけをあたえながら行う

「横断」でなければならない̶を主目的として つくられたのが、2002∼03年度の「シルクロード

と世界史」(代表:森安孝夫教授)および、メン バーの異動にともなってテーマを再編した2004∼ 06年度の「世界システムと海域アジア交通」(代表:

桃木至朗)である。両方合わせて以下、「歴史班」 と略称したい。班活動の中心は研究会で、「中央

アジア学フォーラム」「海域アジア史研究会」「グ ローバルヒストリー・セミナー」など、阪大らし くタテの地域割りでなく横に世界を輪切りにする

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