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はじめに
ヴェネツィア生まれのマルコ・ポーロといえば、モ ンゴル帝国時代の東西世界を結んだ旅行者としてあま りに有名な人物であるが、彼の旅行から半世紀ほどの ちの14世紀前半、当時の西ヨーロッパ世界を除くユー ラシアとアフリカの既知の世界のほぼ全域を踏破した 男がいた。現在のモロッコ北部、ジブラルタル海峡に 面した港町タンジール生まれのベルベル系ムスリム、 イブン・バットゥータ(1304-1366/67)である。 イブン・バットゥータによる30年近くにわたる数奇 な旅の記録は、マリーン朝のスルタン=アブー・イナー ン・ファーリス(在位1348-59)の求めに応じて、ま ず宮廷書記によって書き取られ、その草案をもとに、 グラナダ出身のイブン・ジュザイイが文学者としての 才覚を発揮して、序文を書き加えたり、詩句の引用と スルタンに讃辞を呈する美文調の文章を随所に挿入す るなどの整理・編集を加え、『大旅行記』−正式の題 名は『都会の新奇さと旅路の異聞に興味をもつ人びと への贈り物』、一般には『イブン・バットゥータのメッ カ巡礼記』として知られた−を編纂した(1355年12月 9日完成、56年2/3月に数種の写本を作成)。 連載の第1回では、イブン・バットゥータが故郷の 町タンジールを旅立ってから、最初の目的地であるイ スラーム第1の聖地メッカに至るまでの旅のあらまし を説明することによって、彼の旅をささえた情熱の源 泉とはなにであったのか、また旅を可能にした当時の イスラーム・ネットワークとはいかなるものであった のかを考えてみたい。
東方への旅のプロローグ
イブン・バットゥータの家族や家系について、また 彼の若いころのことは、『大旅行記』のなかで彼自身 が伝えていることと、若干の歴史家や伝記学者たちに よる断片的な記録を除いて、あきらかでない。なお、 イブン・バットゥータのイブンは「息子」「子孫」を
意味し、バットゥータ−バトゥータと読む説もある− は、いわば姓であり、家系の名として現在でもモロッ
コにおおく残されているという。彼の実イ ス ム名はムハンマ
ド、またアブー・アブド・アッラーはいわば父系をあ
らわす添クえン名ヤである。なお、東方イスラーム世界(マ
シュリク)の各地を旅しているとき、人びとは彼のこ とをシャムス・ウッディーン、またはバドル・ウッ
ディーンと呼んだ。これは宗教的な尊ラ カ ブ称で、「宗教の
太陽」「宗教の満月」の意味である。
14世紀の伝記学者イブン・ハティーブによれば、イ ブン・バットゥータは1325年6月14日に故郷の町タ ンジールを離れる前から、学問研究に若干のかかわ りをもっていたこと、出発してわずか3か月後のチュ ニス滞在中にメッカ巡礼キャラバン隊(ラクブ)が 組織され、その公認法官(カーディー・アルハッジュ) として任命されたことなどから判断して、すでに若 くしてマーリク派(イスラーム・スンナ派四大法学 派の一つで、当時、マグリブとアンダルスの諸地方
においておおきな影響力をもっていた)の法カ ー デ ィ ー官職を
務めるに足る学問を修めていたと思われる。
21歳のとき、「親しく付き添ってくれる旅ラ フ ィ イ ー クの仲間も
なく、集団で行く[メッカ巡礼の]キラャラバン隊に加ク ブ
わるのでもなく、ただ一人の旅立ちであったが、押さ え難い心の強い衝動に駆られ、またあの崇高なる約 束の場所[聖地メッカとメディナ]を訪れたいとい う胸の奥深く秘めていた積年の思いがあった。(中略) あたかも鳥たちが巣立ちするが如く、わが故郷をあと にした。その当時、私の両親はまだ健在していたので、 その二人から遠く離れることが何よりも堪え難いほ ど心残りであった」と、イブン・バットゥータは述 懐しているように、不安と期待が交錯するなか、故 郷をあとにした。そのときの旅の目的は、ムスリム にとっての宗教的義務の一つであるメッカ巡礼(ハッ ジ)を果たすことにあった。また、ダマスクスやメッ カで著名な学者・知識人たち(ウラマー)と会って 学問を修得することも、彼の重要な目的であったと 14世紀の世界旅行 イブン・バットゥータをめぐるユーラシア世界 第1回
イスラーム・ネットワークの時空に生きる
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思われる。
ムスリムたちにとって、メッカ巡礼はイスラームの 信仰をささえる五本の柱(実践行為)の第五にあげら れ、聖典『クルアーン』(第3章第90節)にも「誰で もここ(メッカ)まで旅して来る能力がある限り、こ の聖殿[カーバ神殿]に巡礼することは、人間として アッラーに対する[神聖な]義務であるぞ」と規定さ れている。したがって、経済的・社会的条件が許され る限り、イスラーム世界の辺境にある中国や中央アジ アのムスリムたちも、またサハラ砂漠を越えたニ
ジェール川流域の黒スーダーン人地域のムスリムたちも等しく、
一生のうちで一度はメッカを詣でることが宗教的な務 めとされていたのである。
13世紀以降になると、チュニス、カイロ、ダマスク ス、バグダードとタイッズ(イエメン)などの諸都市 は、国家の編成する巡礼キャラバン隊の発着地となっ た。そして、イスラーム系国家や支配者にたちにとっ て、それらの諸都市からメッカに至る巡礼キャラバン 道(ダルブ)の安全を守り、巡礼者たちを保護するこ とは、支配者の権威と信頼を一般民衆に誇示するうえ でも、重要な責務となっていた。
チュニスやカイラワーンには、マグリブとアンダル スの諸地方やサハラ砂漠のオアシス都市、ニジェール 川沿いに成立した黒人系の諸国家を出発地とする多く
の巡礼者たちが集結した。彼らは、「マグリブ巡礼隊(ラ
クブ・マグリビー、ラクブ・アルマガーリバ)」として、 ひ と つ の キ ャ ラ バ ン 隊 に 組 織 さ れ、 ハ フ ス 朝 (1228-1574、東部アルジェリアとチュニジアを支配し たベルベル系マスムーダ族による王朝)によって任命 された巡礼司令官(シャイフ・アルハッジュ)が巡礼 隊を統率し、巡礼旗を掲げながら、スファークス、ト リポリ、アレクサンドリアなどを経てカイロに向かっ た。そして、カイロではマムルーク朝によってエジプ ト巡礼キャラバン隊(ラクブ・ミスリー)が組織され、 西から来たマグリブ巡礼隊と合流してメッカに向かっ
た。エジプト巡礼隊には、『クルアーン』の写本とカー
バ神殿の覆い布(キスワ)を納めたマフミル(ラクダ
の背中に設置された飾り輿こし)が随伴し、その送り出し
と到着の行事は、王権の象徴として、また支配者と民 衆が心をひとつにして歓喜に沸く一瞬であった。 イブン・バットゥータがチュニスに到着したあと、 しばらくするとヒジャーズ地方に向かう巡礼キャラバ アナトリア
明の建国 1368 貧農出身の朱元璋,紅巾 の乱の混乱のなかから台 頭し,明を建国。 アンカラの戦い 1402
ティム−ルにオスマン帝国敗れる。
マンサ=ムーサ王,メッカ巡礼。 途上カイロやメッカでたくさ んの黄金を振るまう。
トゥグルク朝の太守が独立。
パレンバンを完全征圧。 マラッカ海峡地域の港 市連合を解体させる。 黄帽派(ゲルク派)の
ツォンカパが,チベッ ト仏教を改革。 モスクワの台頭
キプチャク=ハン国から ロシア諸公国の徴税を ゆだねられ、台頭。
ティムール旗あげ 1370 モンゴル帝国の有力貴族出身の ティムールが建国。
旧チャガタイ=ハン国の 西半分と旧イル=ハン国 領は,分裂して混乱状態。
デリー=スルタン朝 マムルーク朝
リューベク ハンブルク
教皇領
サマルカンド
ティムール帝国 オスマン帝国
ド ニ エ プ ル
川
ナ イ ル 川
ナ 青 イ ル ナ 白 イ ル
シ ル 川
ア ム 川
イ ン ダ ス 川
エー ヤ ワ ディ ー 川
メ コ ン 川
長 黒 竜 江
江 バ
イ カ ル 湖
イ ル テ
ィ シ ュ 川
河 黄
ガ ン ジ ス 川
地
中 海
アゾフ海 黒
海
紅
海
ペ ル
シ ア 湾
カ ス ピ 海
ア ラ ビ ア 海
黄海 東
シ ナ 海
南 シ ナ 海 日
本 海
アラル海
ベ ン ガ ル 湾
イ ン ド 洋
太
洋 平
ア ル タ イ 山 脈
モ ン ゴ ル 高 原
ヒ マ ラ ヤ 山 脈
イ ラ ン 高 原 サ ハ
ラ 砂 漠
ソコトラ島
アンダマン 諸島
ニコ バ ル 諸 島
モ ル デ ィ ブ 諸 島
モルッカ (香料)諸島 ヒ
ジ ャ ー ズ アラビア アナトリア
ハドラマウト
シンド
ネパール
ジャワ スマトラ
ボルネオ ルーシ(ロシア)
ヨ ーロ
ッパ全域へ ヨ
ーロ
ッパ全域へ
1250∼1517 13C∼15C 1243∼1502 1228∼1574 1196∼1465 1206∼1526 1336∼1649 1347∼1527 1370∼1507 1271∼1368 1320∼1413) 1293∼1527? 918∼1392 1225∼1400 カルマル リガ
リューベク ハンブルク
ボルドー
トンブクトゥ ガオ ジェンネ
チュニス ジェノヴァ アヴィニョン
ウィーン
アレクサンドリア
ジッダ メッカ メディナ
マッサワ
アデン
モガディシュ
マリンディ
モンバサ
ザファール マスカット ホルムズ バグダード カッファ
キエフ スモレンスク
イエレス
タブリーズ
レイ
イスファハーン ウルゲンチ
ブハラ メルヴ ニシャープル
ヘラート
カンダハル カーブル バルフ キシュ
ガズナ
ムルターン
ゴア
カリカット
クイロン マドゥライ
コロンボ ラホール
ホータン
ラサ ヤルカンド
カシュガル クチャ
トゥルファン アルマリク
沙州 (敦煌)
チッタゴン パガン
サムドラ
ジャンビ
パレンバン スラバヤ
ブルネイ スコータイ
チェンマイ 粛州 カラコルム
甘州 ヌルカン
平戸 坊津 フェズ
クカ カアリ
サワーキン アイザーブ アスワン
クサイル キフト バルカ トリポリ
ターナ ウラジーミル
トレビゾンド
アレッポ
クーファ
バスラ
ザンジバル
シフル モカ
ライスート ハマダーン
ブルガル
ダイブル
タンジョール カンベイ
アグラ
ビシュバリク
カータカ
ヴェーンギー グルバルカ
ナディヤ
テナッセリム
タンブラリンガ
ケダー
パジャジャラン ヴィジャヤ
パンドゥランガ 昇竜 涼州
興慶
ダマスクス
ベラサグン
大同
太原
べんりょう こう
登州
膠州 梁 河南
奉元 襄陽 鄂州
成都 重慶 江陵 竜興
天臨
大理 中興 広州
泉州 福州 高郵
がく
慶元(寧波) 集慶(南京) 開元
(長沙) (京兆府) シビル
(旧)サライ
オトラル
アラハバード
ペグー モスクワ
ロンドン
パリ
リスボン トレド グラナダ ローマ
プラハ
コソヴォ
ブルサ クラクフ オーフェン
カイロ
ノヴゴロド
モスクワ
ヴィジャヤナガル ダウラタ−バード
デリー
アユタヤ
京都 ニコポリス
マラケシュ
マジャパヒト アンコール (新)サライ
上都
大都 ヴェネツィア
コンスタンティノープル
サマルカンド コンスタンティノープル
イングランド王国 デンマーク スウェーデン ノルウェー
ジャラ−イル朝
東チャガタイ=ハン国 (モグーリスタン)
チベット フランス王国
カスティリャ 王国
ポルトガル 王国
マリーン朝 ナスル朝
マリ王国
ザイヤーン朝 ハフス朝
カネム王国
マムルーク朝 ヴ
ェ ネ ツィア
共和
国 教皇領 アラゴン王国
スイス
神聖ローマ帝国 ドイツ騎士団領 リトアニア大公国 ポーランド
王国
ハンガリー王国
オスマン帝国
ティムール帝国 (ジョチ=ウルス)
キプチャク=ハン国
デリー=スルタン朝 (トゥグルク朝
バフマニー朝
ヴィジャヤナガル王国
元(大元ウルス)
アユタヤ朝 大越(陳朝) ダイヴェト
チャンパー
マジャパヒト王国 高麗 コ リョ
日本
(南北朝時代)
ランサン
カンボジア セルビア
ウイグル オイラト キルギス
女真 じょしん
0° 120°
60°
30°
0°
60° 120°
0° 30° 0° 15゜ 15゜ 45゜ 45゜ 15゜ 30゜ 75゜ 75゜ 90゜ 90゜ 105゜ 105゜ 135゜ 135゜ 150゜ 150゜ 15゜ 15゜ 30゜ 30゜
45゜ 60゜
45゜ 1 1 2 3 3 4 4 5 6 5 A B B C C D D E E F F G G H H I I J J K K L L M 5 6 東アジア
紅巾の乱の流れをくむ反乱勢力 朱元璋の勢力 14世紀前半の元の領域
ヨーロッパ カルマル同盟 イングランド領 ヴェネツィア領 ビザンツ帝国領 イスラーム(ティムールの拡大)
1370年建国時のティム−ルの勢力圏 ティムール帝国の最大領域 ティムールの進出 トゥグルク朝直接統治地域の最大範囲 イブン=バットゥータの旅行路
イスラーム国家
おもな陸上交通路 おもな河川交通路
14世紀ころの世界
14世紀ころの世界
百年戦争 1339∼1453 英仏両国が,現在のフランス領内 を戦場に約百年にわたり抗争。
ペスト(黒死病)大流行 ペスト伝播の推定ルート 疫病の大流行が記録されるアジア・ アフリカのおもな都市
(1397∼1523) こうきん
しゅげんしょう
東方貿易の展開
により勢力拡大。 ティムール (1336∼1405)
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ン隊が組織された。彼はその巡礼隊に所属する法官に 推挙され、隊旗をかざしつつ、隊列の先頭に立って進 んだ。そして、キャラバン隊に同行していたフェズ出 身のターリブ階級の人(マリーン朝の行政・管理にか かわる役人、法官や学問・教育にたずさわる人)の娘 を妻として娶ることになった。当時の一般的な慣習と して、同じキャラバン隊に所属する旅仲間(ラフィー ク)は、ジワールの関係(相隣関係と相互保護)にあ るので、しばしば仲間同士が婚姻関係を結ぶことが あったと思われる。
地中海に臨むエジプトの都市アレクサンドリアを訪 問したイブン・バットゥータは、その後、ナイル・デ ルタ地域を通過して、マムルーク朝の首都カイロをめ ざした。その旅の途中で、彼の未来の運命を決定する
ような出来事があった。それは、ふたりの聖ワ リ ー者と出会っ
て彼の東方の旅を予見する話を聞いたことである。聖 者のひとりはイスラーム神秘主義教団(タリーカ)
シャーズィリー派のムルシディーという長シャイフ老で、ナイ
ル川の岸辺からほど近いザーウィヤ(スーフィー教団 の修道場)で孤独の生活を送っていた。イブン・バッ トゥータは、訪れたザーウィヤの屋上で真夏の一夜を 過ごしたが、不思議な夢を見た。そこで、翌朝、ムル シディーにその夢の判断をしてもらうと、「そなたは、
やがてメッカ巡礼を遂げ、[メディナにある]預言者[ム
ハンマド]の聖墓を参拝したのち、イエメンとイラク の諸地方、そしてトルコの諸地方、インド地方を遍歴 し、インドには長い間留まるに違いない」と、告げら れた。この聖者を通じて神託をうけたかのように、し だいに彼の心のなかには、遙かな国々まで行ってみた いという希望が芽生えたのである。
その後、聖者ムルシディーの言葉どおりに、イブン・ バットゥータはエジプトとシリアの諸都市を経て、 1326年11月にメッカで行われた巡礼大祭に参加し、さ らに東アフリカ海岸、バルカン半島、南ロシア、中央 アジア、インド、東南アジア、中国などを遍歴し、いっ たんモロッコに帰国してからも、イベリア半島南部、 さらにはサハラ砂漠を縦断してニジェール河畔の黒人 王国マーッリー(マリ・タクルール王国)まで足を延 ばすことになった。こうして、彼の旅は人生のもっと も多感な21歳から50歳までのほぼ30年間におよび、実 に旅の全行程は、現在のほぼ50か国にまたがり、11万 7000kmにも達した。
イスラーム世界を行き交う人びと
では、イブン・バットゥータが長期にわたって、し かも当時知られていた旧大陸の西ヨーロッパ世界を除 くほぼ全域におよぶ大旅行をつづけることができたの は、なぜだろうか。それは、彼自身が未知の世界に憧 れるままに、旅に生き、旅に学び、旅を全人生とした からである。彼自身の言葉を借りるならば、「私はこ の目で見て、その真実を知ることに無上の喜びを感じ た」「なんでもこの目で実際に見届けたい」とする強
い願望を抱き、「できる限り一度通った途みちをもとに戻
らぬ」というのが彼の一貫した旅の哲学であり、他人
からも遠行漫遊を好む遍ラ ッ ハ ー ル歴の人であるとみなされた。
また、彼がイスラーム世界を自由に旅することがで きた理由のひとつには、マーリク派法学についての高 度の知識をもち、豊富な経験・情報とすぐれた判断力 をそなえていたことがある。当時のスンナ派イスラー ム法学においては、ハナフィー派、マーリク派、シャー フィー派、ハンバル派が正統四法学派の地位を確立し、 法廷ではこれらの法学派に属する法官が自説の主張を 重ね、四法学派の合議によって最終的な判決が下され た。従来、東方イスラーム世界ではシャーフィー派や ハナフィー派の法官たちが多数を占めていたため、と くにマーリク派法官については不足していた。このこ とは、彼の東方の旅を容易にした重要な条件の一つで あったと思われる。こうして、インドのデリーには8 年間、インド洋に浮かぶモルディブ諸島のマーレ島に は一年近く滞在し、マーリク派の法官として国家や地 域社会で厚遇され、人びとから高い尊敬をうけていた のである。