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戦後日本における市場秩序の受容と否定――構造改革・規制緩和路線の経済思想史的背景

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戦前日本における市場秩序の受容と否定

――構造改革・規制緩和路線の経済思想史的背景

寺西重郎

要 旨

(2)
(3)

1

はじめに

本稿の目的は,戦前期日本における市場秩序の受容と否定の過程を経済思 想史の視点から考察することである.第 1 に,国の内外で財市場の急激な拡

大が生じた開港と明治維新の時期1)に人々がどのようにして市場秩序を受

容したかを,福澤諭吉(1835 1901 年)と田口卯吉(1855 1905 年)の諸説を 中心に検討する.第 2 に,1930 年代に世界的に金融のグローバル化が停止 し経済のブロック化が生じるなかで,市場秩序が否定され政府介入が強まっ ていった過程をラジャンとジンガレスの「大反動」モデルに則して考察する.

明治初期の市場秩序受容過程では,市場経済の効率的意味合いだけでなく, 市場秩序のもつ倫理的含意と社会のあり方について,深い葛藤と省察が生じ た.1930 年代の市場秩序の否定にあたっては,予想されるインパクトにつ いて市場秩序を重視する立場とそれを否定する立場の間でイデオロギー上の 対立が生じた.

市場という抽象的な経済システムの変化に直面するとき,人々の行動は, その価値判断とともに,市場の機能と市場のもたらす便益とコストをどのよ うに理解していたかに依存して決まる.そしてその理解の程度は,その時代 の経済学による市場分析の水準と普及の度合いに依存する.したがって,こ の問題を考えるには,その時代ごとに最先端の経済学が市場の機能をどの程 度解明していたか,そしてその分析が日本でどの程度周知のものであったか を確認しながら進まねばならない.現在の日本の経済学者がもっている最先 端の市場分析のツールを既知のものとして分析することは,歴史分析におい

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ては正しい方法ではないであろう.

以下では,まず第 1 節で,経済学における市場秩序に関する分析の長期的 過程を,不十分ながら,要約する.第 2 節では,明治期から昭和前期にかけ ての経済学知識の日本への導入過程を概観する.第 3 節では,明治期におけ る市場秩序の受容過程を福澤諭吉と田口卯吉という 2 人の代表的な市場秩序 の主唱者の市場観を中心に考察する.第 4 節では,1930 年代における市場 秩序否定・政府介入拡大の過程を,ラジャンとジンガレスの分析を手がかり に分析する.最後に第 5 節では,アダム・スミスの市場秩序観と近年の規制 緩和路線における政府の市場観を対比することにより,本稿の分析の含意を 取りまとめる.

2

経済学における市場秩序認識の展開

――概観

明治から昭和前期というのは,西洋での経済学の発展史に則していうと, アダム・スミス(1723 90 年)によって創始されトーマス・ロバート・マル サス(1766 1834 年),デイヴィッド・リカード(1772 23 年)によって彫琢さ れ,ジョン・スチュアート・ミル(1806 73 年)によって集約された古典派 経済学が,アルフレッド・マーシャル(1842 1924 年)による限界効用理論・ 一般均衡理論との総合を経て,新古典派経済学に向かう転換点にあたってい た.

アダム・スミスは,人々の利己心に基づく行動を前提として,市場が自生 的に秩序を形成することを明らかにすることにより,近代的な経済分析の基 礎を切り開いた.利己心に基づく人々の極大化行動は,交換的正義の法の支 配のもとでの自然的自由であると考えられた.すなわち彼の自由放任主義は, 倫理的道徳的価値をもつものとして,ホッブス,ロック,ルソーなどの社会

契約思想の基礎をなす自然権思想2)に裏打ちされたものであった.スミス

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は経済社会の発展における分業の役割を強調したが,マルサスは,人口増大 と食料資源についての分析を行い,人口増加を抑制しないかぎり「困窮」が 経済を支配するという悲観論を組み立てた.リカードは,スミスの基本的前 提を引き継ぎながら,これをマルサスの議論と結びつけることにより生産と 分配に関する動学体系を構築した(Gill[1967]).

労働価値説に基づく生産費説,基本的に私的経済活動に立つ競争原理,人 口増加と資本蓄積・分業の利益に基づく経済の実物的動学理論などのスミス 以来の古典派経済学の伝統は,J. S. ミルによって引き継がれ集大成された. スミスの主張の基礎をなしていた自然権思想は,政治理論における社会契約 説の面で,ジェレミー・ベンサム(1748 1832 年)やミルの功利主義によっ て引き継がれた3).ベンサムは社会や国家を単純に平等な個人の総和(one

man one vote)と見なし,「最大多数の最大幸福」を主張したが,J. S. ミル はこれを否定し,所得分配の不平等の問題を体系に取り込んだ.彼は「団結 の自由」を認め,弱者である労働者階級の擁護4),分配問題における国家の

役割を主張した(猪木[1987], p. 15)5)

スミスはまた,生産の目的は消費にあるとして,消費者重視の視点を打ち 出した.しかし,リカードやマルサス,J. S. ミルでは,市場における価値決 定の生産費用原理を強調したために,消費者主権の流れが弱くなった.この 傾向は,限界効用学派と一般均衡学派が台頭する 19 世紀末から 20 世紀初頭 まで続く.マーシャルは『経済学原理』の第 8 版において,消費者主権の考 えが後退した理由として次の 3 点をあげている. リカードなどによる生産 コストの強調, 数理的な解析方法の未発達, 社会的富や人間社会の厚生 についての関心の高まり(Marshall[1920], Vol. 1, pp. 84 85).

マーシャルは,消費者の効用に重きを置く限界効用学派の分析とリカード

3) 「社会契約論は十九世紀イギリス功利主義の中に正当なブルジョア政治理論の後継者を見出し た」(田中[1993], p. 68).「ベンサムは 1 人 1 票という政治的平等を実現するために,……自然権 という用語を懸命にも避けてユティリティ(utility)という言葉を用いた.しかしこのことは決 して自然権や近代自然法の原理を彼が放棄したことを意味しない」(田中[1982],社会契約説). ベンサム以前の自然権思想では,革命によって悪政に抵抗するという論理が取られていたため, 中産層以下の危険な思想としてイギリス上層ブルジョアジーの恐怖の対象となっていた.ユティ リティという用語に依って保守主義者の批判を避けたのである.

4) この意味で J. S. ミルはマルクス経済学者からは「過渡期の経済学者」と呼ばれた.

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などの労働と生産費に重きをおく供給側の分析を総合し,その後の新古典派 経済学の出発点を用意した.マーシャル以後,経済学は,消費効用の極大と 一般均衡論の展開に基づく純粋経済学の消費者主権の流れと,ミクロ的・マ クロ的な市場の失敗を考慮した厚生経済学・ケインズ主義などのケンブリッ ジ学派の政府介入の流れへと分岐しつつ発展する.

消費者主権の流れ

20 世紀初頭,カール・メンガー(1840 1921 年),レオン・ワルラス(1834 1910 年),ウィリアム・スタンレー・ジェボンズ(1835 82 年)を中心とするオー ストリア学派の経済学者たちは,限界効用理論に基づく消費行動理論を打ち 立てた.またヴィルフレド・パレート(1848 1923 年)とワルラスを中心と するローザンヌ学派を呼ばれるグループは一般均衡理論を構築し,消費者効 用を基準とした競争的市場均衡の最適性を主張した.

第 2 次世界大戦後に至り,ケネス・アロー,ジェラード・デブルー,二階 堂副包などの数理経済学者は新古典派的一般均衡モデルにおいて競争均衡の 最適性の厳密な証明に成功した.その後,H. マーコヴィッツやウィリア ム・シャープなどによって資産市場分析が進展し,効率的な状態条件つき証 券市場の最適性,つまり資産市場を含めた市場均衡の最適性が明らかにされ た.すなわち,代表的個人の通時的な消費効用の極大をもたらす資源配分が, 財市場と金融市場の市場均衡において実現される,という新古典派経済学の 基本命題が証明されたのである6)

政府介入の流れ

工業の発展,都市化の進展とともに,フランスなどで革命の生じた 1848 年ごろから西洋では古典的な自由放任主義への懐疑が強まってきた.さらに 交通・通信の進歩とともに,1870,80 年代には貧困が社会問題化してきた

(猪木[1987]).こうしたなかで,J. S. ミル,スタンレー・ジェボンズ,H. シ

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ジウィクなどが国家の役割を容認する主張を展開してきた.実際,イギリス で 1884 年に設立されたフェビアン協会は,J. S. ミルの社会主義理論を継承 したものであった(猪木[1987], p. 178).20 世紀に入り,社会主義の普及や 金本位制の自動調整機能への懐疑の高まりがこの傾向に拍車をかけた.マー シャルの後継者であるアーサー・セシル・ピグー(1877 1959 年)とジョン・ メイナード・ケインズ(1883 1940 年)は動揺するイギリス資本主義の現実 を踏まえて,実践的経験的なケンブリッジ学派の経済学を展開した.1912 年に『富と福祉』を刊行したピグーは,外部効果,公共財および誤った決 定7)(情報の非対称性)という 3 つの理由から市場が失敗することを明らか

にし,1936 年に『雇用・利子および貨幣の一般理論』を刊行したケインズ は,価格の調整機能の不完全性に着目して不完全雇用状態を含むマクロ均衡 の一般理論を樹立した.ピグーの貢献により「いまや政府は以前なら介入を 正当化できないような諸条件のもとでも,産業への有益な介入をなしうるよ うになった」(Stigler[1975],邦訳 p. 75)し,ケインズ経済学は政府による総 需要管理政策の根拠を提供した.

1950 年代になって,サミュエルソンやマスグレイブは公共財の問題につ いて厳密な証明を行い,また 1970 年代以降,非対称情報問題のもたらす諸 問題はスティグリッツやアカロフ等に依って包括的に解明された.

3

戦前期における西欧経済学導入過程の概観

日本における西欧経済学の導入過程は,便宜的に,1877 年(明治 10 年) ごろまでの啓蒙主義期,明治 10 年ごろから明治末期までの経済学の本格的 導入期,大正から昭和戦前期にかけてのマルクス主義中心の時期に分けるこ とができよう.

啓蒙思想の導入期

明治 10 年ごろまであるいは自由民権運動が衰退に向かう 1882 年(明治 15 年)ごろまでの時期は経済自由主義ないし個人主義の啓蒙の時代であっ

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た.その中心は,米国から帰国した森有礼の提唱により 1873 年(明治 6 年) に結成された啓蒙的学術結社,明六社であった.明六社では 1874 年(明治 7 年)2 月より機関誌『明六雑誌』を発行し,1875 年(明治 8 年)11 月の刊 行停止までに 43 号が刊行された.毎号平均 3,205 冊売れたという.設立時 のメンバーは箕作秋坪,西村茂樹,杉亨二,西周,津田真道,中村正直,福 澤諭吉,加藤弘之,箕作麟祥,森有礼の 10 名であり,その大部分が,幕臣 ないし佐幕藩出身の下級士族で,幕府の最終段階でその洋学機関ないし翻訳 方に勤務した経験をもつ.多くはまた大久保・西郷・木戸などの明治政府要 人と同じ天保元年前後生まれであり,福澤と津田を除く 8 人は明六社時代に は新政府の官僚であった(植手[1974], pp. 111 196).

明六社は,明治 7 年 1 月の民選議院設立建白書の左院への提出を契機に, 解散に向かう.建白書は,日本版の近代自然権思想である天賦人権説を根底 に,代議権と納税義務の不可分性を理論的根拠にして,民選議院による立憲 君主制への移行を主張したものであった.天賦人権説は明六社の啓蒙運動の 中心的テーマであり,理論的にはこれを否定することはできない.しかし建 白書の中心人物である副島種臣,後藤象二郎,板垣退助,江藤新平は征韓論 をめぐる派閥争いに敗れて下野した前参議であり,政権を掌握する薩長閥の 専横をけん制する政治的意図を含みとしてもつことは明白であった.主要メ ンバーの大部分が現役官僚である明六社としては,時期尚早論によって対抗 するしかなく 1875 年(明治 8 年)9 月には明六社自体の解散の決定に至る

(服部[1953],宮川[1967]).しかし明六社の啓蒙はその後自由民権運動の全 国的高揚をもたらし,1881 年(明治 14 年)には国会開設の詔勅が出される こととなる.

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基礎をアリストテレスの「人の性」(社会的動物)論におくなどして,天賦 人権論・社会契約説に基づく立憲君主制や共和制に一定の評価を与えており, 明六社の啓蒙運動の中心的論客の一人であった.しかし建白書を契機に自由 民権運動の火蓋が切られるとともに,加藤は天賦人権論と決別し,明治 14 年には,『真政大意』を含む過去の著作を絶版とすることを内務卿山田顕義 に申し出たのである9).1882 年には新たに『人権新説』を刊行し,ここで

加藤は,当時流行したイギリスの社会学者スペンサーの社会進化論10)の影

響のもとに,適者生存の事実は科学的に証明できるが人間生まれてから自由 平等ということは証明できない,と主張した.現在の視点で見ると,この加 藤の主張はきわめて「素朴な科学主義」であリ,とても説得的なものとはい えないという批判も成り立ちうる.田中のいうように,社会契約説はイギリ ス革命の生きた現実のなかから導出されたものであり,ホッブスやロックは その先行事実を基礎にしながら近代的人間観・社会観を理論化したのであり, 太古の昔に人類が一堂に会して国家建設の社会契約を結んだというのは単に 1 つの論理的フィクションにすぎないからである(田中[1993], p. 89).しか し,アジアの国際的政治的緊張状況のなかでは,とにもかくにも単なる理想 論では国家建設はできないという現実論としての前提がまずあり,国家主義 が選択されざるをえなかったということであろう.欧米へ対抗し富国強兵政 策を進めるためには,民権に対する国権の優位を確立せざるをえないという 状況があった(田中[1993], pp. 6 9,84 85).

またこの時期の西洋では,社会や国家における人間の行動や政治現象を, 自己保存,恐怖,功利といった抽象的原理からのみ演繹するホッブスやロッ

8) 河上肇の表現でいうと天賦国権・国賦人権となった.

9) 加藤は,民選議院について時期尚早論に立ち,論争の中心人物として,プロシャ流の絶対主義 的近代化方式を主張した.加藤の官職は,明六社時代は左院の一等議官,その後明治 14 年から 東京大学綜理,同 23 年から 26 年まで帝国大学総長.

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図表 1 1 明治前期までの主要経済学書とその翻訳

刊行年 著 者 書 名 翻訳刊行年 訳 者 訳書名

1759 Adam Smith 1948 米林富男 『道徳情操論』(第 6 版の訳) 1776 Adam Smith 1884 石川暎作・嵯峨正作 『富国論』

1789 Jeremy Bentham 1883 陸奥宗光 『利学正宗』

1817 David Ricardo 1921 堀経夫 『リカアド 経済原論』(抄訳)

1841 Friedrich List 1889 大島貞益 『李氏経済論』(英訳からの翻訳)

1820 Thomas Robert Malthus - 1877 大島貞益 『馬爾去斯人口論要畧』

1837 1840 Henry Cary 1884 1889 犬養毅 『圭氏経済学』 1848 John Stuart Mill 1875 1876 林薫・鈴木重孝 『弥児経済論』 1851 Herbert Spencer 1881 1883 松島剛 『社会平衡論』

1859 John Stuart Mill 1895 高橋誠次郎 『自由之権利・一名自由理 1863 John Stuart Mill 1880 渋谷啓蔵 『利用論』

1867 1894 Karl Marx 1931 河上肇・宮川実 『資本論』 1874 1877 Leon Walras 1933 手塚寿郎 『純粋経済学要論』

1878 William Stanley Jevons 1882 安田源次郎 『 氏経済論』 1881 Alfred Marshall 1885 1886 高橋是清 『勧業理財学』 1883 Henry Sidgwick 1897 日本土子金四郎・

田島錦治 『経済政策』(第 2 版の第 3 編のみ) 1890 Alfred Marshall 1892 井上辰九郎 『経済原論』

注) 1.本庄[1946],堀[1975],山下[1974]ほかによる.

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クなどの方法は,進化論によってだけでなく J. S. ミルなどによっても否定 される傾向が顕著となっていたことに注目する必要もある.このため,受け 入れるにあたって,ホッブスやロックに遡って人権思想の原理を学ぶことが なかったことである.

啓蒙思想としての近代自然法思想・天賦人権論が,ある程度政治的社会的 な役割を果たしたものの,短期間にその影響力を失ったことの背景には,思 想の受容過程に,今ひとつの次のような脆弱性がともなっていたことがある とされる.それは,思想が儒教(とくに朱子学)の論理的枠組みのなかで導 入されたため11),人間性には社会規範が本来ア・プリオリに賦与されてい

るという観念が強く12),社会秩序の人為的構成という意識が弱かったこと

である.いい換えると,自由で独立した個人の確立という概念の析出が弱く, その個人による社会秩序の能動的構成という観念が根づかず,このため民権

が国権に従属しやすい思想基盤の上に導入されたということである(植手

[1974],石田[1976]).

明治期の経済学導入

外国経済学の知識に導入はかぎられた洋書の利用と翻訳から始まった.初 期の海外知識の導入の中心は幕府の蕃書調所13)であった.現存する幕府の

蔵書目録には 5,930 冊の洋書が確認されるが,しかしそのなかでの経済学書 はわずか十数点でしかない14).またその多くはオランダ語のものであった.

本格的な経済学書の利用は明治新政府の手で始まる.太政官記録課から明治

11) たとえば明六社のメンバーは例外なくまず儒学を修めその後洋学に進んだ.これに加えて, 儒教では,超越的普遍的な天とそれへの人間の内在が前提とされるが,この枠組みは国家や共同 体に先行して個人の自由や権利があるという自然法思想の受容に好都合であったという側面もあ る.

12) 植手[1974]第 2 章によれば次のように整理される.第 1 に,朱子学では,五倫という社会規 範が人間性にとってア・プリオリに存在するのに対し,西洋啓蒙主義では,社会秩序は「不羈自 立」の権利をもった個人相互の関係としてア・ポステオリに成立する.第 2 に,朱子学では,人 間の本性は社会性をもっており,社会秩序は人間にとって自然的であると考えられているのに対 し,西洋啓蒙思想では,「自立自愛」「不羈自立」が人間の自然であり,社会秩序は人為の産物と される.

13) 1856 年に洋学の研究・教育および統制の期間として設立され,後 1862 年に洋書調所と改称, さらに 1863 年に開成所と改称された.

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15 年に刊行された『諸官庁所蔵洋書目録』によると,その法律の部には, 英独仏語の文献 5,049 部(10,064 冊),経済の部には 1,284 部(1,394 冊) が収録されている.経済書の用語別では,英語 1,394 冊,仏語 567 冊,独語 209 冊である.部署別では,東京大学が 803 冊ともっとも多く,ついで大蔵 省 294 冊となっている.大蔵省には,1872 年 5 月から 1874 年 7 月の間翻訳 局,1874 年 4 月から 1876 年 7 月には銀行学局,1877 年 2 月から 1879 年 6 月には銀行学伝習所がおかれ,近代的な国庫や銀行制度の移植を研究・教育 する機関とされた.蔵書はそのためのテキストであった(杉原[1980]).

明治期の経済学の導入期に,まず最初に導入されたのは経済自由主義に立 つイギリス経済学であった.J. S. ミルないしそれに基づく入門書の翻訳もの が広く読まれ,大きな影響をもった.他方田口卯吉は,スミス,リカード, ミル,スペンサーなどに依拠しつつ独自の自由主義経済論を展開した.彼の 主催する『東京経済雑誌』は 1879 年(明治 12 年)に創刊され,幅広い支持 を集めた.ついで,明治 15 年ごろ以後,自由民権運動の衰退と時期を同じ くしてイギリス系の経済学に変わって国家主義的なドイツ系の経済学の導入 が盛んになる.1887 年(明治 20 年)には自由主義経済学がわでは徳富蘇峰 によって雑誌『国民之友』(民友社)が発刊され,他方のドイツ歴史学派が わでは『国家学会雑誌』(国家学会)が発刊された.両者はともに大きな反 響をよんだ(杉原[1972], p. 22).『国民之友』の創刊号には田口卯吉の特別寄 書が寄せられている.

本庄[1946]によると,1867 年から 1897 年の 30 年間においてわが国で翻 訳された経済学書は 274 冊に上る.うち英書が 104 冊,米書が 48 冊,独書 が 40 冊,仏書が 37 冊であった.図表 1 1 は主要経済学書の刊行とわが国で の翻訳書の刊行を対照したものである.スミスの『国富論』は 1884 年に, J. S. ミルの『経済学原理』は 1875 76 年に翻訳が刊行されている.『国富論』 の翻訳は,田口卯吉が 1878 年に創立した東京経済雑誌において企画された ものであり,石川暎作,嵯峨正作の 2 人により 6 年の歳月をかけて完成され

た.現在の水準で見てもきわめて質の高い翻訳であるといわれる(杉原

(13)

書 35 冊であり,後期にドイツ関係経済書の翻訳が増加していることがわか る.

経済学書のなかでもっともよく読まれたのは一般向けの入門書の翻訳もの であった.最初の経済学入門書の翻訳は,神田孝平の『経済小学』[1867]で あり,その定本は,W. Ellis の『社会経済学大綱』のオランダ語訳であった. また後述するように,William and Robert Chambers 編の入門書

も,福澤諭吉がその 『西洋事情外編』において部分訳したことにより,広く読まれたといってよ

かろう15).その後の入門書としては,圧倒的によく読まれたものは,

フォーセット夫人(M. G. Fawcett)の『初学者のための経済学』であった. この本の骨格は J. S. ミルの『経済学原理』であり,イギリス国内で短期間 にたびたび版を重ねただけでなく,イタリア,スペイン,ロシア,ポーラン ドなどでも翻訳され世界中で広く読まれた.わが国では 1877 年に永田健助 訳述『宝氏経済学』が出され,問題集だけの訳本や簡約本が出るなどして, 明治前半期ではもっとも普及した経済学書となった.また,東京大学では, 1878 84 年の間雇外国人フェノロサが経済学を講義したが,その講義録では とくに J. S. ミルが重視されたといわれる.また,明治 14 年政変で下野した 大隈重信が設立した東京専門学校(後の早稲田大学)で,天野為之が講義し た経済学の講義録『経済原論』は,明治中期もっとも広く読まれた経済学教 科書として版を重ねた.これはフェノロサの講義録を基本として,ミル,ケ アンズ,フォーセットなどの英米の経済書を典拠として書かれたものであっ た(杉原[1972], pp. 7 11).

大正・昭和前期の経済学導入

大正・昭和期の経済学はマルクス主義経済学の時代であった.スミスもリ ストもウェーバーもすべてマルクスとの関係で読まれた(内田[1967]第 1 章, 小林[1990]).とくに日清戦争(1894 95 年)以降,急速な工業化を背景に,

15) 出版は 1852 年.著者などについては千種[1996]参照.著者名はながく不明であったが,最近 J. H. Burton なる人物であることが判明したとのことである.千種は,福澤はロンドンの古本屋 街でこの 154 ページからなる小冊子を買ったが,スミスもミルも買わなかったとしている.福澤 はまた米国から当時評判の高かった入門書 F. Wayland[1853]の

(14)

ストライキが頻発し,分配問題にかかわる資本主義の矛盾が注目を浴びるこ ととなる.社会政策学会が組織されたのは 1898 年であり,同じ年に,後の 社会民主党となる社会主義研究会が安部磯雄・片山潜・幸徳秋水などによっ て立ち上げられ(杉山[1986], p. 17),また翌 1899 年には横山源之助の『日本 之下層社会』が刊行された.このころ以降日本の経済学はマルクス主義の圧 倒的な影響下におかれる.市民社会のあり方をめぐって,経済学が個人の思 想の中核に入り込むことがなかったことが日本の思想の歴史的特質であると されるが,そうした状況を一変させたのがマルクス主義である.諸科学は 『資本論』をめぐって循環した(内田[1967], pp. 247 250).「国家主義と社会 主義が真っ向から対立し,個人主義も自由主義も結局は社会主義の友軍とし て敵視」された(田中[1982]).マルクス主義理論は,経済理論であるととも に,日本資本主義の「発展段階」の規定,したがって社会主義革命の可能性 をめぐって,講座派対労農派の間の「日本資本主義論争」を巻き起こした. 京都大学での河上肇の経済学史の講義ノートには,1910 年代にはスミス, マルクスと並んで J. S. ミルに大きなウェイトがかけられていたが,1920 年 代にはミルに関する叙述が消え去っている(杉原[1980],第 3 部).河上によ るマルクスの著作の翻訳は 1919 年の『賃労働と資本』が最初のものである が,1931 年には宮川実との共訳のかたちで『資本論』の全訳の公刊が始 まった.

限界効用理論と一般均衡理論で目覚しく発展しつつあった新しい経済分 析・新古典派経済学は,ようやく 1930 年代にはいって中山伊知郎・高田保 馬・安井琢磨などの若手の新進の経済学者によって紹介・研究が始まる16)

また 1930 年に死去した福田徳三はその晩年ピグーの厚生経済学の研究に努 力を傾注した17).しかしこうした研究が強いインパクトをもつのは第 2 次

世界大戦後しばらくしてからのことであった.教育の面では 1920 年代以降 圧倒的にマルクス経済学が中心であった18).とくに 1920 年代に大学を卒業

16) これには満州事変以後マルクス主義者(河上肇,大塚金之助など)に対する弾圧が強まった ことも影響している.高嶋善哉や大河内一男によるスミス研究,小林昇等によるリスト研究が戦 時中進展したのもこうした理由がかかわっていると思われる(小林[1990]).

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してキャリア官僚になった,後に革新官僚と呼ばれた人々は,大学時代教養 としてマルクス主義の洗礼を受け,これが後に彼らによるドイツ全体主義受 容の基礎となった(古川[1990]).

しかし,この時代の経済学をすべてマルクス主義に関連づけて理解するこ とは一面的にすぎるかもしれない.とくに応用経済学の分野では,通貨制度 のあり方をめぐって,J. M. ケインズ,グスタフ・カッセル,アーヴィン グ・フィシャーなどの貨幣理論や為替理論が紹介され金解禁論争などで影響 を与えた.また,そうした政策論では,1895 年(明治 28 年)に創刊された 『東洋経済新報』が,石橋湛山などの論稿によって,大きな影響力をもった

ことも重要である.

4

明治期における市場秩序の受容

――福澤諭吉と田口卯吉を中心にして

坂本[1991]は,明治初期における市場秩序観,人々の欲望がすなわち交換 関係のうちに相互に媒介されることで秩序の形成が可能になるという考えの 受容過程を,福澤諭吉を中心に,徳富蘇峰・中江兆民・幸徳秋水などの思想 を考察した.そこでは,そうした秩序のもつ倫理的意味に対して根強い懐疑 の存在したこと,福澤などが果敢にその懐疑論に挑戦したこと,市場秩序へ の絶望から極端な国家主義や社会主義が生まれたことなどが明らかにされて いる.以下では,われわれは,市場秩序の倫理的内容でなく,経済的意味合 いを中心にしてそのコンセプトの導入・受容の経過を考察する.対象は,市 場秩序の経済学的視点からの代表的支持者とされる田口卯吉と福澤諭吉にお かれる.彼らが政府介入を批判し市場秩序を強調した理由は何か.

なお以下では,福澤については慶應義塾編『福澤諭吉全集』(岩波書店,

1969 1971 年)から,田口については鼎軒田口卯吉全集刊行会『鼎軒田口卯

(16)

吉全集』(1927 29 年)から引用し,全集第何巻と記す.

4.1 見えざる手の秩序の認識

田口卯吉は,スミス的な分業のもとでの職業選択の自由に着目して,国内 における自由競争と国際関係における自由貿易による社会の進化を主張した. ただし,田口はスミスとリカードを評価し,日本のスミスとも呼ばれたが, 自然法的自由経済論を信奉していた形跡は希薄であり,日本における近代市 民社会の形成という自覚はなかったものと思われる(和田[1995]).また,維 新後の体制が,新体制であるとは考えていたが,封建制から資本主義への推 移という事態も明確に認識されていたとはいえない(溝川[1971], p. 94).

田口は,国内での自由競争は,自由な分業と交換により平等な社会をもた らすとした.自由な分業のもとでは人々の職業選択の自由が保障される.田 口にとって開化とは平等な社会をもたらすことであった.平等な社会とは 「労働社会の有様平均に進歩したる」状況であり,社会の多数の構成員を満 足させる状況(1885 年〔明治 18 年〕,『日本開化之性質』田口卯吉全集第 2 巻, p.

126)である.この意味では単なる分配の平等でなく生産における効率性を

意味していたとも考えられるが,田口の見た市場経済のベネフィットは主と

して,自由で能力に応じた職業選択のもとでの平等な所得分配にあった(溝

川[1971], p. 91).『自由交易日本経済論』(1878 年〔明治 11 年〕,田口卯吉全集 第 3 巻所収)では,こうした国内レベルでの自由競争のベネフィットを説い た後に,それを国際貿易の領域における自由貿易論へと敷衍し,産業保護論 への批判を行う.田口においては,「経済の論理の基調は,社会的分業論を もとにし,資本と労働の流動性を媒介にして,職業選択の自由および交換の 自由こそが一国にとって有利である事を主張するものであり,自由交易論は その国際経済への応用に他ならない」(溝川[1971], p. 93).

こうした田口の市場論はその歴史分析に基礎をおいていた.『日本開化之 性質』において,欧州の開化は平民の導ける開化であるのに対し,江戸時代 の日本を含む東洋の開化は貴族の開化であったとし,今後の日本では,すべ ての人が自己の労働によって衣食する平等社会になる必要があると論じた. 「文明開化は社会の有様をして平均ならしむるものなり」(全集第 2 巻,p.

(17)

田口がその後もその諸論稿において,「ユートピア的といえるほどの徹底 性」(熊谷[1995], p. 35)で自由貿易論に一貫して固執し,自由貿易による経 済世界の調和像を描き続けたことは改めて注目せねばならない19).『東京経

済雑誌』が,明治中期までの時期に幅広い支持を集めた事実から,われわれ は,自由競争のもとでの自律的な秩序の形成とそのもとでの文明の調和的進 歩という見方に,当時の人々が寄せていた強い期待観を読み取ることができ る.徹底した市場主義は,労使問題についてのスタンスについても明らかで ある.田口は,婦女子労働の禁止問題や労働時間短縮問題について,これら は純粋な経済問題であるとの立場からいっさいの政府介入を否定し続けた. すなわち労働者と資本家の自由な利己心の発動に任せておけばおのずと解決 すると考えたのである(和田[1995]).田口の死後の『東京経済雑誌』も同様 な論陣を張った.しかし明治後期以降,貧困や所得分配の問題が深刻化の度 合いを深めるにしたがいこうした主張は支持を失わざるをえない.『東京経 済雑誌』の影響力は次第にかげりを見せていくことになる(杉原[1972], p. 141).

福澤諭吉もまた,市場メカニズムのもとで個々人の利己心に基づく行動が ある種の最適解をもたらすことを認識していた.「今日世に持囃す所の彼の 経済学の如きも,人に利己主義あるに依て初て出来たるものにて,供給需用 の関係なり,分業製産の事なり,競争均価の仕組なり,悉く皆此主義に依ら ざるはなし.又目下世人の喋々する彼の議院政治の仕組の如きも,固より世 の為め国の為めなど云ふ大造なるの事柄に依て出来たるものにあらず,全く 己れの事は己れに取て之を行ひ,人に頼まず又頼まれずとの利己主義より外 ならず.……人々自ら己れの利を謀りて……一毫も取らず一毫も与へず…… 期せずして自から天下の利益となり,天下は円満に治るべし.」(1889 年〔明 治 22 年〕,「漫に大望を抱く勿れ」全集第 12 巻,p. 187).すなわち市場経済も 議会政治もその基本は利己心にあると論じたのである.

ただし福澤の理解した市場秩序が西洋経済学の直訳的なものではなく,そ の意味ではきわめて自己流のものであったことは改めて注意しておく必要が ある.第 1 に,利己心に基づく競争が自然権によるとの認識は福澤において

(18)

も希薄であった.『西洋事情外編』でチェインバーズ(編)の翻訳にあたっ て,自然的自由と予定調和の数パラグラフを省略(杉山[1986], p. 164)した ことにその証左を見ることができる20).第 2 に,福澤においてもベンサム

的な功利主義の影響は見出しがたい.「個人の効用を究極の原理とするとこ ろの功利主義的性格」を帯びていたと主張されることもあるが(坂本[1991], p. 99),しかしそれは,個人の消費効用を究極の基準とする新古典派的論理 に立っていたということにはならないし,坂本の記述もそうした意図で書か れたのではないことに注意せねばならない.第 3 に,また,福澤が繰り返し ゲームの形でのレピュテーションの果たす機能に気づいていたことはたしか でも(坂本[1991], p. 99),それを市場秩序の自生性に結びつける論理展開を 念頭においていたというのも,うがちすぎた理解である.少なくとも補論で 指摘するようなアダム・スミスの経験したレベルの知的葛藤を,福澤から読 み取ることは難しいと思われる21)

4.2 市場の失敗

封建秩序との戦いを標榜する明六社の一部は経済自由主義の系として自由 貿易論を主張した.西周とともにオランダに学んだ津田真道などはそうで あった(杉山[1986]).1877 年(明治 10 年)以降自由貿易論を強硬に主張し たのは田口卯吉と 1879 年(明治 12 年)彼が創刊した『東京経済雑誌』に依 拠したエコノミストたちであった.『東京経済雑誌』は新興の民間商工階級 の立場を代弁して,明治 10 年代の経済政策論特に 1887 年ごろまで強い影響 力をもった(杉原[1972], p. 139)22).『国民之友』を刊行し平民主義をとなえ

た若き日の徳富蘇峰も,物質的文明の経済の世界と精神的文明の道徳の世界 の調和の論理として,自由貿易主義によりどころを求めた.すなわち“貿易

20) ただし,『学問のすゝめ』には個人については自然的自由はありうるとの記述(全集第 3 巻, p. 204)もある(杉山[1986], p. 220).ちなみに省略部分の全訳は千種[1996]に与えられている (pp. 56 58).

21) 『福澤文集二編』(1882 年〔明治 15 年〕,全集第 4 巻,p. 468)に,商人の異時間にわたる取 引の差し引き勘定を論じて,商売における評判の役割を論じている.

(19)

の主義”における自他の利益の両立が「自愛」と「他愛」の究極的一致をも たらすこと(“利益の結合はすなわち愛情の結合”の一大真理)に強い同感 を覚えたのである(坂本[1991], pp. 126 131)23)

しかし,自由貿易主義に対しては保護貿易の立場からの強い反対論が展開 された.とくに福澤門下の犬養毅24)は 1880 年雑誌『東海経済新報』を創刊

して自由貿易政策を批判し,J. S. ミルなどを引用しつつ幼稚産業保護論を展 開した(堀[1975], pp. 213 231,杉山[1986], pp. 265 278).大島貞益もまた,リ ストなどの議論を援用して,一国が低開発状態にあるときには自由貿易論が 妥当するが,一定の発展段階に達してからは保護貿易政策が必要であると論

じた.米国の保護主義者ケアリの著書は,1874 年に

-が抄訳され,1884 年には が犬養によっ

て翻訳された.また,ドイツのリストの主著

-は 1889 年に大島によって(英訳を通じてであったが) 最初の翻訳が出版された.この翻訳書には寺島宗則(元外務大輔,元老院議 長)が「序」を,富田鉄之助(日銀総裁)が「題言」を寄せており,当時の 反響の大きさがうかがわれる(堀[1975], p. 250).ちなみに『東京経済雑誌』 の終刊は 1923 年,『東海経済新報』の終刊は 1882 年であった.

福澤諭吉もまた自由貿易論には与しなかった.利己心に基づく市場秩序を 主張しつつも,国際関係においては,個人については「報国の大義」が必要 であるとし,政府については保護貿易による商工立国論(堀[1975], p. 304)

を唱えたのである.理由は,同胞に対しての「私情」を排除できないという ことにある(全集第 4 巻『文明論之概略』,p. 204).個人を個人としてではな く常に国民としてとらえ,一国の独立を何よりも重視した福澤の思考方式に おいては,国際貿易における政府の役割は経済政策論の不可欠の道具立てで あったのであろう(杉山[1986], pp. 174 183).

23) ただし蘇峰は日清戦争後,自由貿易論を放棄し帝国主義に転じ,国家主義・軍国主義のイデ オローグとなった(田中[1993], p. 160).「冷血な利己主義」すなわち利己主義の行き過ぎの問題 に直面し,これを「国家」という観念を直接媒介として意識的に克服しようとした(坂本[1991], p. 138).

(20)

4.3 政府の失敗

福澤は,しかし国内に殖産興業に関しては政府の介入を明確に否定した. 『民間経済録 二編』の「政府の事」という章で政府の職分として「司法,兵 部,租税,外国交際等」(全集第 4 巻,p. 334)に限るとしたうえで,政府に よる経済活動について『民間経済録 二編』「公共の事業の事」の章で次のよ うに論じた.すなわち,一般の事業において政府が民間と競うようなことが あってはならない,また産業奨励のために政府資金を貸与することは弊害が 大であるとし,しかし「直に公共一般に関係せざる事にても,其事業の極て 大にして資本を要すること極て多く,之を私に任ずれば所費所得容易に相償 う可からず,去迚永遠国の大計を目的とすれば,捨置」くことができない事 業25)は政府に任せる必要がある.同様の政府介入否定論は『文明論之概略』

その他多くの論考で見られる.

経済活動への政府介入否定論は田口卯吉においても明瞭である.とくに田 口は明治初期の政府の保護政策を鋭く批判した(「経済策」pp. 83 84 など,全 集第 3 巻).単に保護貿易批判というだけでなく,政府による直営事業や政 策金融を否定していることが注目される.

こうした政府介入否定論は当時の一般的な論調であったと思われる.とく に,政府が藩閥に支配されている状況下では,政府介入は利益集団の影響を 受けやすく,アダム・スミスのいう意思決定の利害集団による支配という動 機の面での失敗の可能性が危惧されたのであろう.

ちなみに政府介入に対する明確な否定を根拠に,「福澤が『摂取』したの は,たとえ原典によってでなく,チェインバーズの著者やウェイランドのよ うな末流によってであるにせよ,スミスの原理であることは疑問の余地がな い」(杉山[1986], p. 145)と評価されることがある.しかし,杉山がいみじく もいったように,福澤は「矛盾がおおすぎる」(前掲書, p. 147)ことも事実で ある.自由主義者・絶対主義者などいずれの既存のレッテルも福澤には正確 には妥当せず,それぞれのレッテルに近い意見が見出される一方で,まった く別の考えが表明されているのが知られる.封建制を脱して,民主制と市場 機能に基づいた新しい社会の構築を目指すというところまでは,福澤の関心

(21)

は西洋の思想家たちと共通する.しかしこれに加えて,アジアの政治的緊張 と欧米による侵略の危機への対抗という今ひとつの大きな課題を抱えていた 点で福澤のおかれていた状況は西欧の思想家たちと異なり,したがってその 思想展開は既存のいかなる西欧型の思考パターンとも異質の面をもっていた. こうした異質性ないし既存のレッテルの非妥当性ということでは田口卯吉で も多かれ少なかれ同じであった(溝川[1971], pp. 110 111).

4.4 個人のあり方

明治の啓蒙思想家たちは,何よりもまず人間そのもののあり方の考え方の 変革から出発し,儒教に取って代わるものとして,近代市民的な思考方法を 広めることに努めた.明六社に依拠した思想家たちでは,幕末期初めて西洋 の社会科学の教育を受けた津田真道と西周の 2 人の役割が大きい26).津田

真道はその『情欲論』で,情欲こそ人間生存の前提であり,人間の知性を進 め,幸福を進める原点であることを説いた.西周はその『人世三宝説』で, J. S. ミルの功利主義論に明示的に依拠して,「最大福祉」を「人間最大の眼 目」とし,それを達成する手段ないし「第二の眼目」として,「第一に健康 (マメ),第二に知識(チエ),第三に富有(トミ)」をあげ,人世三宝と呼び,

道徳を修めようと欲するなら自己の三宝を貴重することに始まると主張し た27).「道徳を利益の対極に位置するのではなく,利益を社会的視野のもと

で合理的に追求する仕方がまさに道徳という規範をつくる」,また「文明」 と「開化」は,欲望と利益という世俗的価値を充足するための自由で合理的 な精神活動にほかならない,と説いたのである(松本[1974], pp. 54 55). 「利」を「義」と対置することによって,人間の欲求充足の問題を倫理外的

世界に押しやっていた儒教世界は,容赦なく批判された.

26) 津田真道と西周は幕府留学生としてオランダのライデン大学に学び(1863 1865 年)自然法・ 万国公法・国法・経済・統計の 5 教科を履修した.

(22)

しかし,この啓蒙的姿勢は 1874 年(明治 7 年)民選議院設立建白書が出 されるにおよび,大きく変化したこと,上述のとおりである.津田は,選挙 有権者を華士族と富豪に限るという条件のもとで民選議院に賛成したが,西 は時期尚早論の立場から,既存の会議体を再構成する代替案を出した.しか し彼は他の多くのメンバーと同じく漸進論に分類される(宮川[1967],明治 啓蒙思想集).

明治 10 年代に入り本経済が資本主義経済として本格的に展開し始めると, 資本主義ないし市場経済における個人のあり方が改めて問い直されてくる. とくに,儒教を否定した天賦人権論が否定されると,普遍的規範の追求姿勢 は影をひそめ,儒教は日常的な徳目として改めて強調されるようになる.と くに渋沢栄一が,実業人のあり方として『論語』と『算盤』の両立(経済道 徳合一主義)を説いたことはよく知られている28).また,ルソーの社会契

約論を翻訳紹介した中江兆民は,議会政治システムとして儒教の有徳君主論 の一般化・民衆化論を展開した29)

こうしたなかで,田口卯吉と福澤諭吉は市場経済による社会秩序形成の必 要性を一貫して主張した.まず,田口卯吉においては,市場経済における倫 理問題は楽観的にとらえられていた.『日本開化小史』には,孟子やスペン サーをひいて「倫理の情は成長せる私利心なり」(全集第 2 巻,p. 25)という 有名な一文がある.孟子の論理からはこれは人間が成長するにしたがい幼少 時には気づくことのなかった他人との協調的行動の必要を知るという意味で あり,スペンサーの意味ではこれは市場経済において自生的秩序が形成せら れるというスミス以来の市場観を表している.同様に,社会の進歩の原動力 を「保生避死」すなわち自己保存の欲望という本能に求め,人々が生命に危 険を防ぐためにさまざまな工夫をすることで技術力が向上したことを指摘し, 「貨財の有様進歩するや,人心の内部同時に進歩す」(『日本開化小史』1877

82 年〔明治 10 15 年〕,全集第 2 巻,p. 83)と結論した.すなわち,社会の進 化や退歩は人知の進歩や退歩と平行して進むという歴史観がここに表れてい る.したがって田口によれば,自由な市場秩序のもとでの経済発展は,道徳

28) 小野[1999]参照.

(23)

性や人間性の向上を必然的にともなうということになる.

しかしこうした楽観論が当時の人々に等しくシェアされたものでないこと も重要である.たとえば,「平民主義」を主張した徳富蘇峰は,1887 年(明 治 20 年)に『新日本之青年』を公刊し,物質文明としての経済の進歩と精 神文明としての道徳の調和の問題を論じた.すなわち,維新以来物質文明の 建設にのみ邁進してきたが,その結果道徳的に「裸体の社会」(植手[1974], p. 121)となった,西欧を模倣するならば精神文明をも視野に入れねばなら ないのではないかと論じたのである(坂本[1991], pp. 84 85).とくに明治 20 年以降は,一方で経済発展が起動に乗り始め,他方で政商の行動パターンと 著大な致富が世に知られるにつれ,経済人の道徳性の問題が大きな関心事と なった.蘇峰の平民主義は,わが国資本主義のエトスを支えるものとして 「労作・節用・貯蓄」を旨とする能力主義に基づく“力作型”経済人と平民 的道徳の確立の必要を説き,政商に代表されるリレイション依存型経済人 (“叩頭型”経済人)を批判した.

日本を独立国として自立的発展経路に乗せることを究極の課題としていた 福澤諭吉は,市場を通じて,独立した個人の対等の立場での競争的関係によ る社会秩序の構築を主張した.「一身独立して一国独立す」(『学問のすゝめ』 全集第 3 巻,p. 43)という言葉に象徴されるように独立した個人が強力な国 家の基礎をなすという認識であった.個人は国からも他人からも独立しなけ ればならないとされた.その独立の意味は次の 2 点である.第 1 に,対等の 立場すなわちレシプロカルな関係.「一毫30)をも貸さず一毫をも借らず」す

なわち贈与的関係がない.福澤はこのことをとくに政府と国民との関係にお いて重要視した(『文明論之概略』全集第 4 巻,p. 121,『学問のすゝめ』1872 76 年〔明治 5 9 年〕,全集第 3 巻,p. 40 など).政府は租税を受け取っているので あるから,人々を保護するのは当然の責務であり,人々は何も恩を感じる必 要はないとしたのである.第 2 に,リレイションに基づかないすなわち没情 誼的(坂本[1991], p. 79)な競争的関係.すなわち「情愛は競争の反対なり. ……競争は相抗するの義なり.同等同権の義なり.レシプロシチの在る処な り.レスペクトの生ずる源なり.不自由の際に生ずる自由とは正に此辺にあ

(24)

るものなり」(「覚書」1875 年〔明治 8 年〕,全集第 7 巻,p. 658).

市場競争を重視する姿勢は,裏を返せば,既存の封建的・儒教的秩序に対 する一貫した強い批判である.福澤による儒教秩序の批判は,とくに情実の もとでの恩と威の並存に向けられた.「儒教的秩序のもとでは 恩威情実の 政 すなわち君主が人民に対してその 保護維持 を図ることと 生殺与奪 の刑罰 を科しうることが表裏一体」(坂本[1991],47,p. 235)となってお り,世間一般の「他人と他人の附合」に「実の親子の流儀を用ひん」とする ことから,「上下貴賤の名分」が生まれ,保護に名を借りた「専制抑圧」が もたらされる(『学問のすゝめ』全集第 3 巻,pp. 96 100),と批判した.独立 した個人のあり方と儒教のもとでの個人のあり方は,教育論に関して,次の ように比較された.「在昔は社会の秩序,都て相依るの風にして,君臣父子 夫婦長幼互に相依り相依られ,互に相敬愛し相敬愛せられ,両者相対して然 る後に教を立てたることなれども,今日自主独立の教に於ては,先ず我一身 を独立せしめ,我一身を重んじて,自から其身を金玉視し,以て他の関係を 維持して人事を保つ可し.……一身既に独立すれば眼を転じて他人の独立を 勧め,遂に同国人と共に一国の独立を謀るも自然の順序なれば,自主独立の 一義……一切の秩序を包羅して洩らすものある可らず」(『徳育如何』明治 15 年,全集第 5 巻,pp. 362 363).

ちなみに,ここでも福澤はその基本的テーマである,「一身独立し一国独 立す」に立ち帰っていることが注目される.福澤においては,個人は市民と いうよりは国民であり,公益は国益であった(杉山[1896], p. 174,188)ので ある.また,福澤は外国との対抗のためには富豪の力が必要であるとし,さ らには蘇峰の否定した政商の行動に対しても寛容であった31)

4.5 経済効率の源泉

生産費

リカードなどの影響下にあって J. S. ミルなどの経済学は生産費に強い関

心を寄せていた.ミルの影響を強く受けている『宝氏経済学』(永田健助の翻

(25)

訳)の章立ては次のようである. 第 1 編 生財論(土地・勤労・財本)

第 2 編 交易論(価値および価銀・貨幣・物品の価値・貨幣の価値) 第 3 編 分配論(地代・勤労の賃金・財本の利潤・工業結社) 第 4 編 外国交易信用および租税論(外国交易・信用・租税)

とくに第 1 編では,生産の効率に議論の重点が置かれている.まず,スミ スにしたがって分業の利益を次の 3 点にまとめている. 労働者の熟練の向 上, 分業による時間の節約, 工程に適した機械の案出.次に労働生産性 向上の原因を論じ,次のような要因を詳論している. 有形の原因――勤労 の分業,勤労の競合,機会および器具の使用, 無形の原因――労働者の熟 練,労働者の才知,労働者の行状,労働者の信実.

こうした叙述から,当時の経済学がミクロの組織効率に主たる効率の源泉 を見出していることがわかろう.こうした考え方は,当時の日本でも共通し た理解の仕方だと思われる.以下に見るように,福澤による人的資本の重視 や田口による OJT に基づく技術進歩なども同様な思考の方向にあるものと 思われる.

人的資本

明六社の西周は三宝の 1 つに「知恵」をあげたが,知識資本に大きな期待 を寄せその蓄積を説いたことも明治の経済学の大きな特色であった.福澤も その『学問のすゝめ』は,知識の修得により一身独立し,そうしてしたがっ て一国の独立維持を果たすことを主張したものであり,『文明論之概略』の 冒頭の文章「文明論とは人の精神発達の議論なり」に見られるように国民の 人的資本の蓄積に国の将来を託したのである.つまり,文明の発達とは自由 な精神の問題であり,そうした精神の発達を可能にし助長する社会システム の構築こそ一国の独立維持のための喫緊の課題であると考えられたのである.

(26)

うためには,有形の独立が必要であることを強調した.

技術進歩

田口卯吉は,西洋の進歩した技術が「労働社会の実験」により発達したこ とを強調した.すなわち,器械学は器械師の,建築学・造船学はそれぞれ大 工や船大工の,そして農学は農夫の,それぞれの実験を蓄積しそれに基づい て形作られてきた.労働を行う平民が自ら実用的で実践的な実学を作り出し てきたのであり,自由企業体制は平等な労働社会をもたらし,人々に技術的 工夫を行うインセンティブを与えるところに成長の基礎があると考えたので ある(『日本開化之性質』1885 年〔明治 18 年〕,全集第 2 巻,pp. 133 134).

松本[1974]によれば,田口の文明観においては, 自己の労働に基礎づけ られた平等な社会という基本的な社会構造, 実験的な人々の精神態度, 鉄道・郵便・生産技術・統治機構などの外形的・物質的な制度・文物の発展, の三者が密接に関連した文明の発展システムを構成していた(p. 60).

4.6 小括

以上要するに,急激な市場の拡大に直面した明治初期に,市場秩序の受容 を主唱した 2 人の代表的論者の目的と根拠は,次のように要約できるであろ う.福澤は nation building のための経済原理として市場秩序の導入を主張 した.彼にとって,市場秩序は贈与関係によらない競争を基盤とした経済主 体間の関係を醸成し,儒教に基づく秩序に代替しうることに重要な意味が あった.田口は平民を中心とした平等な社会の実現のための市場秩序の導入 を主張した.彼は,市場秩序のもとで,分業により職業の自由な選択が可能 となり,活発な経済活動へのインセンティブ効果を通じて経済社会の調和的 進歩が生じることを期待した.

5

1930 年代の「大反動」

――市場秩序の否定

5.1 ラジャン・ジンガレスのモデル

――1930 年代の政府介入はなぜ生じたか

(27)

府介入が急激に強まり,市場による秩序形成が否定された.このことは,1 つには世界大戦の遂行ないしその準備のための国防力増強に向けての制度改 革によって説明される.第 1 次世界大戦が総力戦であったことに鑑み,将来 再びそうした事態が生じた場合に備えるための制度変更がなされたという説 明である.こうした考えが官僚や陸軍のなかに存在したことは事実である. たとえば 1934 年に始まった国策研究会には多数の革新官僚,陸軍政経将校, 学者などが集まり,国防力強化の志向のもとに政策論議を重ねたといわれる

(古川[1990]).また,1935 年には後の企画院の母体となる内閣調査局が設置 され,革新官僚を集めて政策研究が行われた.しかしこうした見方を 1930 年代全体に適用することはかなり難しいようである.たとえば,内閣調査室 は当時の「革新」熱に対する岡田内閣(蔵相高橋是清,日銀総裁深井英五) の「政治的ゼスチャー」の意味があったといわれる(中村[1974], p. 30).中 村は「昭和十年ごろまでは経済全体を眺めてみると,まだ統制経済的な経済 政策は主流ではなかった.産業界内部では依然として自由経済を謳歌してい たし,政府の側でもドラスティックな統制はできるだけ避けたいという空気 であった」(同上 p. 33)としている.国防上の理由からの制度改革という意 識が急激に高まったのは 1936 年の 2.26 事件ないし 1937 年 7 月の日中戦争 開始以後のことであった(坂野[2004], p. 68 および中村[1974], p. 39).

(28)

移動の規制が不可欠であったのである.しかしこのことは,自由な資本移動 の資金配分効果だけでなく,金本位制のもとでの市場の自動調節機能を最終 的の放棄したことを意味していた.こうした動きは,その効果はともかく, 当時の経済界と政策担当者の間に産業自由主義の行き詰まりという認識が次 第に高まってきていたことを反映した立法であったことが重要である.とく に,1930 31 年にかけての金解禁政策が失敗に終わり,市場の自動的調整機 能に対する不信が高まってきたことが大きな契機となった.

こうした 1930 年代に入ってのからの政府介入の強化の動きを寺西[2003] や Teranishi[2005]は,経済思想における市場機能認識の変化によるものと してとらえた.これに対して Rajan and Zingales[2003]は,とくに金融市場 に対する規制に注して銀行(利益集団)と中国侵略を目指す国家主義者(利 益集団)の政府との結託とその利害の追求という視点からの説明を試みてい る.以下ではラジャンとジンガレスのモデルの概要を説明し,その問題点を 明らかにしよう.

ラジャンとジンガレスは,自由企業体制ないし市場重視の金融経済シス テムがきわめて脆弱な政治基盤の上に立っていること,それは「既得権益 という雑草の攻撃を絶えず受ける繊細な植物であり,それを守り育てるた めには手厚い心配りが必要である」(Rajan and Zingales[2003],邦訳 pp. 385 386)と主張する.市場の役割は,良いプロジェクトをファイナンス し新しいアイディアを実現すること,そうすることにより借り入れ制約を 克服して通時的消費効用の極大化を実現することに求められる.市場経済 システムとくに資本主義システムの根幹を成す金融資本市場が機能するた めにはさまざまな制度的インフラ(法律とその有効な執行,明確な会計基 準,有効な規制,監督機関;情報収集組織,格付機関)が必要である.そ の多くが公共財的性格をもつものであるため,十分な供給を確保するため には,集団的行動(collective action)の問題を解決し政府による支援が 必要である.政府によるインフラ供給が行われるためには政治決定が必要 であり,決定プロセスは利害集団間の政治過程(interest group politics) に依存する.しかしこの利害集団政治過程では,市場経済システムの受益

(29)

り高い結集力をもつ利害集団の政治力より弱く,市場の抑圧ないし市場の 発展措置を放置ないし無視する政策から利益を得る集団によって支配され る傾向が強い(シカゴ学派の展開してきた利害集団モデル).したがって 市場経済システムの拠って立つ政治的基盤はきわめて脆弱である.

反市場的集団の政治力は,金融インフラにかかわる技術進歩が急速で あったり,貿易・資本市場の開放により海外からの競争が強まると,弱く なる.20 世紀初頭と 1980 年代以降の市場経済の順調な発展はこれにより 説明される.また金本位制が停止され,大恐慌の生じた 1930 年代以降の 金融市場の閉塞と停滞(大反動[Great Reversal])は,反市場的立場の 既得権益集団の政治力が強まり,これに不況下の落伍者の集団の間に広 まった反市場感情が相乗して生じた.この傾向はとくにヨーロッパや日本 において強く,いわゆるリレーションシップ資本主義が生まれる素地を提 供した.現在においても市場主義は必ずしも安泰ではない.それを守るた めには,市場主義が人々に経済的自由を保障する利用可能な選択肢のなか で最善のシステムであることを周知するとともに,それがさまざまな反市 場的政治力の攻撃にさらされていることに警告を発しなければならない.

(30)

定する政治経済学分析を代替することはできない.より具体的にいうと,個 別産業である金融産業にかかわる政治過程については,利害集団モデルが適 用可能であっても,自由経済システム全体のあり方の分析にこのモデルは適 用できないのである.以下でこのことを説明しよう.

5.2 利益集団モデルの適用範囲

シカゴ学派の利益集団モデル32)は,集団行動に関するフリーライダー問

題に着目し,小集団では,その集団に参加することによる個人的便益が参加 のための費用に較べて大きいのに対し,大集団では費用の方が大きいと考え る.したがって小集団の方が集団の利益のための政治活動を活発に行うのに 対し,大集団ではその成員はフリーライダーとなりがちで集団の政治行動は 弱くなる.このため集団間の利害の対立する政治決定では小集団の利害が優 先されることになる,というわけである33)

ラジャンとジンガラスの議論では,小集団は銀行業者などの業界団体ない し大銀行からなる利益集団である.これに対して彼らの議論では,大集団は

消費者=投資家であるマクロ的な一般市民であり,上記利害集団モデルを適

用することにより,市場の受益者である一般市民は,強力な交渉力をもつ銀 行などの反市場勢力の犠牲になるという結論が導かれる.たしかに,一般市 民は金融規制の個別事案に関しては,費用と便益の観点からはフリーライド のインセンティブをもつかもしれない.しかし,ことが自由企業体制など経 済社会の基本的なあり方にかかわる場合,一般市民の行動は集団行動の費 用・便益とは別のインセンティブ,たとえばイデオロギーや経済思想などに よって支配される,ないしより強く影響されることに注意しなければならな い.たとえば,ノースは「個人は公正だと信じる程度において私的な費用便 益計算に基づく行動を中止する」(North[1981],邦訳 p. 74)と述べ,人々が 公園にごみを散らかさない行動をとったり,匿名で献血行動を行うことを説

32) Stigler[1971],Olson[1965],Posner[1971],Beker[1983]を参照.この種のモデルの解説と しては,Pelzmann[1976]が優れている.Persson and Tabellini[2000]では,こうした利害集団に よる政策決定モデルはシカゴ学派と呼ばれている.

(31)

明している.ノースによれば,国家目的や社会全体の利害にかかわる問題に ついては,個人は通常その倫理的道徳的判断ないしそれを包括するイデオロ ギーによって行動するのである.

このことは,ほかならぬスティグラーなどのシカゴ学派の経済学者によっ ても十分認識されていたことである.たとえばスティグラーは「自由貿易の ようなある種の変革は,われわれ経済学者には説明できない政治制度の根本 的再構成なしには,達成できないであろう」と述べて,貿易制度の基本的な あり方の問題などは利益集団理論では分析できないことを認めている34)

また,ポスナーは,ラジャンとジンガレスの本の出るはるか以前に次のよう に論じている.「極端には,社会の全員あるいは大部分の人が利益集団を形 成すると考えた方がふさわしい問題もある.しかし,利害者集団をこのよう に用いるとそれは公共的利益の理論に解消されてしまって何の用も成さない ことになる」(Posner[1971]).また近年進歩の目覚しい政策決定の経済学で は,シカゴ学派型の利益集団モデルは special-interest politics の問題に適用 可能であるが,general-interest politics では政党政治が基本的な政策決定の メカニズムであり,そこではイデオロギーや中位値投票者(median voter) の選好などが大きな影響力をもつとされている(Persson and Tabellini[2000]). ちなみに,Iverson and Sockice[2001]や Perotti and von Thadden[2006]は, 金融システムの決定の問題に中位値投票者の理論を適用して次のように論じ ている.中位値投票者が金融資産よりも企業特殊技能などの人的資産を多く 保有している経済では,産業構造などの大きな変化をもたらす資本市場より 安全な投資を選ぶ傾向のある銀行中心の金融システムを選好し,自己の人的 資産を守ろうとする傾向がある.

ラジャンとジンガレスは,シカゴ学派の利害集団モデルを適用するにあっ たって,タクシー免許の発行増加に反対の姿勢をとり続けるニューヨークの タクシー業界(小集団)とそれを利用する,したがってタクシーの増加によ り利益を得る,市民(大集団)の例をあげている.問題は,同じ市民であっ

ても,マクロ的な消費者=投資家である市民集団とタクシー利用者としての

ニューヨーク市民ではインセンティブ構造がまったく異なっていることであ

図表 1 1 明治前期までの主要経済学書とその翻訳 刊行年 著 者 書 名 翻訳刊行年 訳 者 訳書名 1759 Adam Smith 1948 米林富男 『道徳情操論』(第 6 版の訳) 1776 Adam Smith 1884 石川暎作・嵯峨正作 『富国論』 1789 Jeremy Bentham 1883 陸奥宗光 『利学正宗』 1817 David Ricardo 1921 堀経夫 『リカアド 経済原論』(抄訳) 1841 Friedrich List 1889 大島貞益 『李氏経済論』(英訳からの

参照

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