第 2 章 自然と人間との合一
1 have f e l t
A p r e s e n c e t h a t d i s t u r b s me w i t h t h e j o y Of e l e v a t e d t h o u g h t s ; a s e n s e s u b l i m e
Of s o m e t h i n g f a r more d e e p l y i n t e r f u s e d
, • • .17) (高められた思想の喜び、で 私の心を動かすーっの存在を感じた,す なわち,はるかに深く融け合った崇高感である, . . . )山や谷の「神聖な静けさ」の中で,彼がおぼろに感じたこの「崇高さ」が「自分 の心の内にあるもの,夢のような,私の心の風景のように思われたj18)のである。
ここでの「夢のような,..心の風景j,つまり心象風景とは,外面的自然、の奥に潜 む内面的自然と人閣の本性とがぴったり重なり合った悦惚感のこと,すなわち 崇高性を伴ったヴィジョンのことである。この崇高性を知的活動として追求す ることを彼は願った。 I私は人間の想像力がほとんど奇跡と思われる変化を私 たちの肉体の中にさえ産み出すのに十分であるという真理に注意を引くこと を願ったj19)と彼が言ったのは,まさにこの崇高性のためて、ある。
I I
ヴィジョンの一つの特徴は「崇高性」にあることをみた。次にヴィジョンの もっその他の諸相について考えてみたい。
すて十二述べたように,ヴィションとはエクスタン であるから,すぐに消え 失せる。これがヴィションの制止感と深くかかわっている。この点に関して,
ヴィジョンが消えた後も,奥義をきわめた人の心にはまだ残像が消えないでい ると研究者たちは指摘する。例えば,
H. N. F a i r c h i l d
はt h e o b j e c t i t s e l f f a d e d o u t
,l e a v i n g o n l y t h e f e e l i n g s which
第3章 47
had c o l o r e d t h e o b s e r v a t i o n and a m e l t i n g . i n t e r f u s i n g b l u r o f a f t e r i m a g e s .2 0 )
(対象そのものは消えても,その観察したことと,残像が薄れて かすかに色どられたという感じだけは後に残る。)
と言う。R.
M. Bucke
も,ヴィジョンそのものは消えても「ヴィンョンについ ての記憶と,それが教示してくれたことが実在であったという感じとは,それ 以後4半世紀もの間消えないでいるJ 2 1 )
とも述べている。彼らの考えはWords.
worth
にもそのままあてはめることができる。Wordsworth
は,ヴィジョンが消えても「ある可能性としての崇高さについ てのおぼろな感覚だけはとらえられている」から,ヴィジョンを「ある大いな る精神,すなわち無限を食べて生きているもの,またある意識下の存在,神の 意識,あるいはそれ自体の存在が小さいものにせよ,大きいものにせよ,そうしたものへの知覚によって昂揚されたものの完壁な象徴
J 2 2 )
と考えた。そしてそ の象徴を「見えない世界の真なる知らせJ( a u t h e n t i c t i d i n g s o f an i n v i s i b l e w o r l d ) 2 3 )
と信じて疑わなかったし,またそれを「決して消えない喜びの源J
(An e v e r ‑ f a l l i n g p r i n c i p l e o f j o y ) 2 4 )
と考えた。TheE x c u r s i o n
で 使われた言葉で 言えは. ["エクスタシーから知恵を得たJ
2S)のである。故にこの喜びは宇宙の普 遍的なものと融合・同化L
た「宇宙の知恵と霊JC wisdom and S p i r i t o f t h e u n i v e r s e ) 2 6 )
であり,また「愛,すなわち霊が感じるような愛J( l o v e . s u c h l o v e a s S p i r i t s f e e l ) 2 7 )
と確信するに至る。こうして,ヴィジョンは「喜びJ .
["知 恵J .
["霊J 1 1
愛」を伴うと考えたのである。以上の考えを一言で言うと汎神論(
p a n t h e i s m )
ということになる。そこで,汎神論について検討する必要があろう。
元来,汎神論とは,宇宙,世界,自然、といったすべての存在が神であり,神 はこれら一切と同一であるとする立場を意味するから,神とすべての存在との 関係で把握される。それには基本的な二つの区別がある。一つは「無宇宙論」
Cacosmism)
で,これは神を強調し神が一切であるとする方向であり,他は「汎 宇宙論J(pancosmism)
で一切が神であるとする考え方である。いずれにせ48 ワーズワスの初期の神秘思想
よ,神からの字宙の流出,展開,または
K .C . F . Krause
が主張した万物は神 の中にあるとする「万有性神論J( p a n e n t h e i s m )
のように内包されたものとし て把握されている。捌Wordsworth
の場合はどうかと言うと,例えば,彼が少年時代を回想して,霊交のうちにうっとりと引き込まれた瞬刻
s e n s a t i o n
,s o u l
,and form
,A l l me
1te d i n t o h i m ; t h e y s w a l l o w e d up H i s a n i m a l b e i n g ; i n them d i d h e l i v e
,And by them d i d h e l i v e ; t h e y were h i s l i f e . I n s u c h a c c e s s o f mind
,i n s u c h h i g h h o u r
ofv i s i t a t i o n from t h e l i v i n g God
,Thought was n o t ; i n e n j o y m e n t i t e x p i r e d .
29)(感覚,魂,形相,すべては彼の中に溶け込んだ。すべてが彼の 動物的存在を飲み込んだ。すべての中で彼は生き,すべてによっ
い の ち こ こ ろ
て生きた。すべてが彼の生命となった。このような精神の昂揚の 中では,生ける神からの訪れを受けるこんなすばらしいひととき には,思想はなく,喜びのうちにそれは消え失せた。〉
と歌っている。これは明らかに汎神論である。つまり,宇宙には一つの生命が 宿っていて,人間の生命はそのような生命から一時的に分離された断片で ある。
従って,人聞は宇宙の一つの生命の中で,またそれによって生きるが,究極に は宇宙の存在(すなわち「一つの生命」あるいは「ーJ)に帰するという考えに 基づいている。
The
Old Cumberland Beggar"
の 中 で 「 私 た ち は み な 一 つの人間の心情を抱いているJ
30)と言ったのも汎神論の一端であるが,次の詩は 彼の詩の中マ最もよくその特徴を表している。1 7 9 9
年2
月頃に書いたP e t e rB e l l
,MS. 2
においてa l l b e i n g s l i v e w i t h God
,t h e m s e l v e s
3 49
Are God
,e x i s t i n g i n one mighty whole
, . .. 3 1 )
(万物は神と共に生き,一つの力強L、全体のうちに存在しながら,
万物それ自体も神である, . . . )
と述べ,また
1 8 0 0
年1
月から1 0
月の聞に書いたTheP r e l u d e
のMS.RV ( P e t e r B e l t
,MS.
2のページに記入した原稿〉の中でも,上の詩の God'が小文字になっ ている以外はその引用と同じである。またこのMS.RV
の別の箇所にa l l b e i n g s l i v e w i t h God
,a r e l o s t I n god and n a t u r e
,i n one mighy w h o l e . . . . 3 2 )
(万物は神と共に生き,一つの力強し、全体のうちに存在しながら,神と自然の中に失われる.. . . )
とも述べている。最後に引用した二つの例から判断すると,彼の考えは神が一 切であるとする
a c o s m i s m '
よりも,一切は神であるとするpancosmism'
に 近いことが分かる。いずれにせよ,万物は神の中にあるとするp a n e n t h e i s m '
を 彼は1 7 9 9
年から1 8 0 0
年にかけて強く信じていたことを示す。しかし,このような強烈な汎神論を彼が抱いていると考えるには異論があろ う。なぜなら,彼自身が出版した作品には極端な汎神論はみられないからであ る。例えば,