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Wiley)監督の下で第1回日本年会が開かれ、組織改編を行うこととなった。すなわち、牧 師按手と教会の安定をめぐる行政的な業務、その他宣教事業をめぐる独自政策の組立と実

行ができるようになったのである。この時、ハリスは東京東部連回会(East Tokio District) の長老司として任命された。彼に与えられた東京東部連回会には、築地・常総・山形・浅草・

仙台などが管轄区域として属していた150。東京東部連回会だが、これは山形・仙台など東北 地方まで包括する広い区域であった。さらに、築地教会は、メソヂスト監督教会の日本宣教 における拠点として重要な教会であった。東京東部連回会の長老司としての職務を任され ることは、彼がメソヂスト監督教会の日本開拓宣教師として、同僚宣教師及び年会員たちか らハリスの活躍が期待されていたことを意味する。このように東京東部連回会長老司とし て赴任した彼は、自身の所属をこれまで属していたピッツバーグ年会(Pittsburgh Annual

Conference)から日本年会に変更した。そして、長老司としての活動をしながら、日本宣教

において積極的な指導力を発揮した。

とりわけ、この時期の彼は個教会に奉仕していたわけではなく、長老司として務めていた ので、日本人牧師の養成に力を注いだ。また、彼は年会で牧師の進級過程を管理・監督する

146 B. W. Billings, ‘Bishop Merriman Colbert Harris – An Appreciation’, KMF, June, 1921, p.115.

147 M. C. Harris, Christianity in Japan, pp.45-46.

148 Ibid, p.46.

149 ‘M. C. Harris’ s letter to Sunday School Friends in America’, July, 11th, 1882, GAL, November, 2nd, 1882, p.215.

150 「敎師傳道師派遺所」『日本美以美敎會第一年會議記録』、1884、42-43頁;‘Reports of the Presiding Elders - East Tokio District’, MJCMEC, 1884, p.17; ‘Appintments’, MJCMEC, 1884, p.38;『ハリス』 52-53頁参照。

伝道者学科試験委員として活動したこともある。そして、日本人牧師と信徒たちの神学と信 仰を増進するため、西洋キリスト教の書物である『耶蘇教奇跡論』などを日本語に翻訳した こともあった151。以上のような活動に基づき、彼は日本人牧師たちと信徒たちを同僚とし て見なし、活動する協力宣教の働きを展開した。そのような訳で、ハリスは連回会の中に優 秀な日本人牧師や信徒たちがいたので、長老司としての任に堪えることができたと述べて いる152。また、自分の管轄地域に限らず、時折東京北部連回会などの他の連回会の為に、必 要とあらばできる限り協力し、宣教的な領域を幅広く拡張していった153。その他にもメソ ヂスト監督教会の宣教において、伝道景況委員会(Missionary Cause)・朝鮮国伝道委員会

(On Corea)・美会各派連合協議会(Central Conference)など、日本年会の中で様々な事業を

兼務しつつメソヂスト監督教会日本宣教において中核的役割を担っていった。もちろん、彼 が活動していた函館にも時間が許す限り訪問し、説教や講義などを行った154

以上のように、ハリスの日本開拓宣教において、当時の活動は函館を中心とした北海道と 東京を中心とする山形及び仙台などに至る広大な地域に展開して、行われたことが分かる。

とりわけ、長老司という指導者としての任に委ねられると共に、年会内でも多様な委員会の 活動を兼ね、彼は先輩宣教師として同僚と日本の教会から高く評価されたのである。

(2)在米日本人の宣教

ハリスが日本の宣教師として活動を持続することには難しかった。1886年、彼は「今年 は非常に成功した年を過ごしている。これまで洗礼を受けた人のみ数えても、

250名を超え、

今回9月の年会までその数は350名を超えそうである。現地の兄弟たちは使徒的な情熱を持 ち、一生懸命尽くしたが、この大きな成長は彼らの強い信仰のおかげである」155と本国教会 に宣教の成功的な結果を報告しており、宣教活動の問題ではなかった。彼が何よりも本国に 戻ろうと悩んでいた理由は、妻の健康が良くなかったからであった156。それ故、マクレイは

1886年に第3回のメソヂスト監督教会日本年会で、次のように報告しなければならなかっ

た。

151 クリストリープ(Theodor Christlieb)、ハリス(Merriman C. Harris) 訳、『耶蘇敎奇跡論』、十字屋、1882 参照。.

152 MJCMEC, 1884, p.18; Ibid, 1885, p.17.

153 Ibid, 1885, p.20.

154 Ibid, 1884, p.23.

155 ‘Notes and Comments’, GAL, July, 1886, p.327.

156 Charles Volney Anthony, Fifty years of Methodism – A History of the Methodist Episcopal Church within the bounds of the California Annual Conference from 1847 to 1897, San Francisco: Methodist Book Concern, 1901, p.407.

ハリス牧師は昨年の9ヶ月の間、東京東部連回会の長老司として任に堪えた。彼がこの連回会で見せてく れた不屈の献身は非常に高く評価すべきで、これは話で説明しにくいほどである。この連回会の中で、行 われた宣教事業の結果はほぼ全的にハリス兄弟の努力で見なしても構わない。彼は籍をサンフランシスコ に移したが、その都市に居住する日本人たちを対象とするメソヂスト監督教会の宣教事業を担うためであ った。[東京東部連回会は]一番素晴らしい長老司を失ってしまい、日本年会は一番有能かつ名誉ある(most efficient and honored)メンバーを一人失うようになったのである157

マクレイの報告の通りに、

1886年、約13年間の日本宣教を終え、帰国したハリスは7月か

ら太平洋湾岸、すなわちカリフォルニア地域に移住した日本人たちに向けた宣教任務を付 与された158。カリフォルニア地域における日本人宣教会の総理(Superintendent of the

Japanese Mission in California)であった

159。1880年に明治政府と米国の間に移民契約が

結ばれ、多数の日本人たちが米大陸へ渡るようになったが、増加していく日本の移住民たち を信仰的に指導する必要があった160。ハリスがここに赴任した当時、サンフランシスコを 中心とする周辺には800名ほどの日本人が居住しており、その中の112名(洗礼を受けた者70 名)がメソヂスト監督教会の信徒となり、信仰生活を守っていた161。以上のような背景の中、

ハリスは帰国して米西部地域における日本人宣教の総理として任命されたのである。米国 教会と信徒たちはこのようなハリスの任地変更に関して期待と関心を持っていた162。この ように、これまで在米日本人に対するメソヂスト監督教会の独自的な宣教活動は行われて いなかった。ただ、在米中国人の宣教を担当していたギブソン(O. Gibson)博士がメソヂス ト監督教会中国宣教会(the Chinese Methodist Mission)を導きながら臨時的に日本人宣教 も共に担っていたのみである163。したがって、日本人を導く牧師が必要でああり、妻の健康 問題のことで、帰国していたハリスが適任であると判断された。ハリスは順調に進んでいた

13年間の日本宣教を中断して帰国しなければならなかったことを非常に悔やんでいたが、

本国に戻っても日本人たちに向けた宣教を続けることができたことを彼は大いに喜び、こ

157 MJCMEC, 1886, p.24.

158 ‘Notes and Comments’, GAL, March, 1886, p.139; ‘Mission to the Japanese in San Francisco’, GAL, July, 1886, p.328; ‘Notes and Comments’, GAL, August, 1886, p.376.

159 F. Herron Smith, ‘Bishop Harris’, KMF, June, 1921, p.153; B. W. Billings, ‘Bishop Merriman Colbert Harris – An Appreciation’, KMF, June, 1921, p.115.

160 白石清、『北米宣教八十五周年記念誌 - The Eighty-Fifth Anniversary of Protestant Work Among Japanese in North America』、Los Angeles:南加基督教会連盟出版部、1964、7、17頁参照。

161 M. C. Harris, ‘The Japanese in California’, GAL, August, 1886, p.379.

162 彼(ハリス)は最近にカリフォルニアの日本人宣教にて、総理として任命され、その年の夏に米国に戻る 予定である。日本で彼の献身によって行われた成功的な事業は米国でも日本人のために彼の宣教事業とし て続くのは間違いないことだと見られる。‘Merriman Colbert Harris’, GAL, May, 1886, p.224.

163 BMCHarris, p.58.

れを信仰に従順であった結果であると信じた164

ハリスの在米日本人への宣教は順調に行われて、その結果はサンフランシスコにて先に 得られた。彼がここで入ってきたその年(1886年)9月、公式に最初の日本人教会が組織され た165。引き続き、1893年には米国内で初めて日本人教会のために独自の教会建築を仕上げ ることができた。その他にも日本人たちの積極的な協力は、ハリスが太平洋湾岸の日本人宣 教を効果的に行うことにおいて、大きな力となった。とりわけ、美山貫一という人物の助力 と役割は絶対的であった。美山貫一はかつてここに移住し、ギブソンより洗礼を受け、キリ スト者になり、その後牧師となった。ハリスがここに赴任した約2年前の1884年に、美山貫 一はメソヂスト監督教会カリフォルニア年会(the California Annual Conference of the

Methodist Episcopal Church)の準会員(on trial)として加入していた

166。ハリスはここに赴

任した最初の約2年間は、本人が積極的に前面にでることより、美山貫一が活発に同胞に向 けた宣教をするように支える役割を担った。このように、支援する役割を担ってからこの地 域の状態を調査した後、最初に独立的な空間の確保の必要性に気づくことになった。いつま でも日本人に向けた宣教活動が、中国人を対象とした宣教活動の下部組織のようであるこ とは良くなかったからである。さらに、当時の在米日本人たちは相対的に彼らより先に米大 陸に渡ってきた在米中国人たちと見えない摩擦と葛藤を経験していた。この地域を管轄し ていたメソヂスト監督教会カリフォルニア年会もすでにこの状況を把握した後、在米日本 人の宣教が在米中国人の宣教組織から独立できるように行政的な措置を取っていた167。以 上のようなプロセスがハリスの赴任に合わせて行われたのである。

ハリスが赴任した1886年から1892年頃まで、西部湾岸の日本人宣教はたゆまず発展を遂 げた168。メソヂスト監督教会カリフォルニア年会員たちも、ハリスの指導の下で、発展する 在米日本人の宣教に注目しはじめた。これは、日本人宣教会が既存の宣教会

(Mission Society)から連回会(District)という、より大きな組織に拡大できるきっかけにもなった。す

なわち、連回会で昇格される場合には、総理(superintendent)を中心として配下に各地域別 の担当者を構成し、詳細でかつ効果的な宣教活動とその管理が可能だからである。そのよう

164 これに関するハリスの言及は次のようである。I left Japan with many regrets. The work there is charming; it is thrillingly interesting; and moves along with ever accumulating power and promise of speedy triumph. Called here by the voice of duty, I could only obey; but thankful that though here in my native land, I may continue to labor among the Japanese, to whom I solemnly dedicated my life thirteen years ago. M. C. Harris, ‘The Japanese in California’, GAL, August, 1886, p.379.

165 M. C. Harris, ‘Japanese Methodist Missions on the Pacific Coast’, GAL, June, 1897, p.258.

166 BMCHarris, pp.58-59.

167 Annual Journal of the California Conference of the Methodist Episcopal Church(以下AJCCMEC), 1886; Ibid, p.64;『ハリス』、63頁。

168 1887年90名に過ぎなかった信徒数が1891年には200名が超える成長を果たした。Ibid, pp.60-70; 白石 清、前掲書、8、17頁参照。