J F A
P H Y S I C A L F I T N E S S P R O J E C T
とが大切です。
例1)ボールを手で奪い合う(写真④)
2)手と手で相手を押し合う(手押し相撲)(写真⑤)
3)お尻で相手を押し合う(尻相撲orどんケツ合戦)(写真⑥)
4)肩で相手を押し合う(ショルダーチャージ)(写真⑦)
それほど多くの時間を割く必要はありませんが、ウォームアップ などにとり入れるなどしてコンタクトスキルを磨いてみましょう。
(次号につづく)
写真④
写真⑤
写真⑥
写真⑦
2006ナショナルトレセンU-12東海より©AGC/JFAnews
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前号では、日本における野球の発展過程 から、新聞というメディアがどのようにか かわってきたのかを見ていきました。20世 紀初頭にスポーツを伝えていた新聞・雑誌 に加え、ようやくラジオが登場したころの ことです。ライブスポーツとしてその場に 立ち会うことができなくても、文字や写真、
あるいは音声で伝えられる国内外のスポー ツの様子は、 想像力 を加味すれば十分楽 しむことができました。1936(昭和11)年 のベルリンオリンピックでの「前畑がんば れ!」の実況放送の際、日本でラジオにか じりついていた人は、前畑選手が女子200m 平泳ぎで優勝する場面をイメージしながら 手に汗を握って応援したことでしょう。
この大会では、「民族の祭典」「美の祭典」
という記録映画が作成されました。ナチ ス・ドイツのプロパガンダという側面も否 定できませんが、スポーツを映像で楽しむ 時代は、もうそこまでやってきていました。
ベルリンオリンピックには間に合いません でしたが、1937(昭和12)年にはドイツでテ レビ放送が開始されます。そして翌1938年に、
英国のBBC放送がFAカップ決勝を初めてラ イブ中継し、いよいよテレビがスポーツを伝 える時代がやってきました。第2次大戦を挟 んだ1950年代後半からテレビが爆発的に普及 しはじめます。テレビという新しいメディア に触れた人々が求めたのは、スポーツ、とり わけサッカーの映像です。
1954(昭和29)年のFIFAワールドカップ スイス大会で、欧州放送連合(EBU)によ って欧州域内のネットワークが発足しまし たが、一部の地域にしか行き届かないもの でした。このとき9歳の少年だったフラン
ツ・ベッケンバウアーは、西ドイツとハン ガリーの決勝を ラジオで 一所懸命聴い ていました。「西ドイツが逆転で優勝を決め たとき、本当にうれしかったですね。すぐ に外に飛び出し、友達と、そのゲームをす べて再現しましたよ」とインタビューの中 で語るベッケンバウアー少年の頭の中では、
ラジオの音声をたよりに、大観衆の中で繰 り広げられる西ドイツとハンガリーのゲー ムが生き生きとイメージされていたのでし ょう。 想像力 。この大切な能力は、不便 だからこそ求められ、だから養われるのか もしれません。
さて、1958(昭和33)年のFIFAワールド カップ スウェーデン大会の時点では、陸路 の電送ルートによる国際的な生中継が可能 になっており、多くの国で人々は「テレビ で楽しむワールドカップ」に期待を寄せて いました。実際には1日1試合の制作が限度 であり、テレビの台数も限られていたため、
街頭テレビに群衆が集まって観戦するしか ありません。それでも映像としてサッカー の試合とスタープレーヤーを堪能すること ができるようになったのは画期的です。ペ レという新しいスターは、こうした環境の
もとで誕生したのです。
4年後のFIFAワールドカップは、南米のチ リが開催地です。欧州のファンは、欧州以 外での試合映像を見ることができるのかど うかが気がかりでした。そこに画期的な技 術が、アメリカで開発されます。ビデオテ ープレコーダーです。こうして1962(昭和 37)年のチリ大会は、ビデオテープが飛行 機で運ばれることによって、南米以外の 人々も映像で楽しむことができました。
しかしながらこの方法には大きな欠点が あります。映像が届いた時点では既に、新 聞やラジオによって結果が分かっていると いうことです。
この問題は、宇宙空間に人類が進出する ようになって解決します。衛星放送を用い た生中継の始まりです。日米間では1963
(昭和38)年、ケネディ大統領暗殺の第一報 が、初の衛星生中継によるテレビ放送とな ったのは皮肉です。1964(昭和39)年の東 京オリンピック、1966(昭和41)年のFIFA ワールドカップ イングランド大会は、テレ ビの条件がすべて整った中での大会だった と言えるでしょう。
スポーツを伝えるためにテレビは進化し、
サッカー文化論
スポーツの社会科学
中塚義実(筑波大学附属高校教諭)
スポーツとメディアの かかわり②
―テレビと ともに歩む
現代スポーツ―
Ⅰ.テレビの登場と
「見るスポーツ」の変化
2006FIFAワールドカップ ドイツより©Jリーグフォト㈱
夏季オリンピックの放送権料の推移 開催年
1972 1976 1980 1984 1988 1992 1996 2000 2004 2008
開催都市 ミュンヘン モントリオール
モスクワ ロサンゼルス
ソウル バルセロナ
アトランタ シドニー
アテネ 北 京
アメリカ 契約者 金額
ABC ABC NBC ABC NBC NBC CBS NBC NBC NBC
1350万 2500万 8500万 2億2500万 3億210万 4億100万 4億5600万 7億1500万 7億9300万 8億9400万
日本 契約者 金額
NHK NHK・民放 テレビ朝日 ジャパンプール ジャパンプール ジャパンプール ジャパンプール
JC JC JC
105万 130万 850万 1650万 5000万 5750万 7500万 1億3500万 1億5500万 1億8000万
ヨーロッパ 契約者 金額
EBU EBU EBU EBU EBU EBU EBU EBU EBU EBU
170万 455万 595万 1980万 2800万 9000万 2億5000万 3億5000万 3億9400万 4億4300万 注)日本の1980年は推定。この他、1984年は大会協賛金としてNHKが200万。1988年は技術協力金としてNHKが200万。1992年は技術 協力金としてNHKが500万。1996年は技術協力金としてNHKが1,250万、特別協賛金として1,200万。
参考文献:谷口源太郎「オリンピック放送権のビジネス化」、『新スポーツ放送権ビジネス最前線』、メディア総研ブックレットNo.11、2006 単位:USドル
またテレビの進化がスポーツの普及(大衆 化)や強化(高度化)に大きく貢献します。
街頭から各家庭に入ったテレビは、白黒か らカラー化し、カメラワークも多彩になり、
選手のクローズアップやスローモーション など、ライブスポーツでは味わえない、新 しいスポーツの楽しみ方が生まれました。
そして、テレビでの需要がますます高ま るにつれ、テレビで放送する権利をめぐっ て大きなお金が動くようになってきます。
1938(昭和13)年に初めてサッカーが中 継されたとき、BBC放送はFAに対して、施 設使用料として5ギニー支払ったとされてい ます。「これはスポーツ団体側がスポーツイ ベントの放送の財産的な価値を確保するた めに、放送局が競技場にアクセスする権利 を制限したものであると考えられ」(文献1)
ます。「英国では1927年にラジオによるス ポーツ中継がはじめられたが、それによっ て入場者数の落ち込みを心配し、とくにサ ッカーはなかなかライブを認めたがらなか った。ましてやテレビとなればその懸念は 大きく、放送権料はその<補償>ともいえ る」(文献2)との見解もあります。しかし 実際には、テレビ放送によりスポーツへの 関心は高まり続け、多くのファンを世界中 に持つことになったのです。
オリンピックやFIFAワールドカップのよ うに、誰もが楽しみにしているスポーツイ ベントは、誰もが地上波のテレビで楽しめ るようにするべきだとの観点から、こうし たメガイベントは公共放送が担うのが慣例 でした。日本ではNHKが独占的にオリンピ ック放送を担っていました(1980年のモス クワオリンピックで初めてテレビ朝日が単 独で放送権を獲得しますが、このときは日 本がボイコットしたこともあり、注目度は それほど高くありませんでした)。
1976(昭和51)年のモントリオールオリ ンピックが大きな赤字に終わったことは、
もはや税金だけでは肥大化するオリンピッ クを支えきれないことを物語っていました。
オリンピックの危機は財政面からも指摘さ れ、1984(昭和59)年の開催地に立候補し たのは最終的にはロサンゼルスだけでした。
ところがロサンゼルスオリンピックの組 織委員長に就任したピーター・ユベロス氏 は、従来の発想をがらりと変え、オリンピ ックを「もうかるイベント」に作り上げた のです。それは、高額のスポンサー収入を
得るために、五輪マークの使用権を「1業種 1社」に限って競争入札させたことや、テレ ビの放送権を公共放送に安価に提供するの でなく、独占放送権を競争入札の形にして テレビから大きな収入を得ることに成功し たのです。この方法は、その後のスポーツ イベントに大きな影響を与えました。オリ ンピックの放送権料は年々増え続け、今や オリンピックの総収入の約半分を占めてい ます。テレビなくしてオリンピックは成り 立ちません。
オリンピック以上のビッグイベントであ るFIFAワールドカップの放送権料は、オリ ンピックに比較して安価に抑えられていま した。それは、オリンピックの放送権料を 高騰させたアメリカのテレビ局が、FIFAワ ールドカップの放送にあまり大きな関心を 払わなかったことや、公共放送が中心の欧 州が主導権を握っていたことなど、さまざ まな背景があります。収入よりも、全世界 をカバーすることをFIFAが求めてきたこと もあるでしょう。
ところが、1990年代に、有料の衛星波放 送局が各国の国内リーグ放送権を高額で買 い取るようになり、サッカー界にも大きな ビジネスの波が押し寄せてきました。1998 年のフランス大会までは、国際的な公共放 送局の連合組織が従来どおり、比較的安価 で放送権を獲得できたのですが、2002年と 2006年の交渉では、競争入札の結果、民間 の衛星有料放送局グループが、天文学的な 数字で獲得するに至ります。これに応じて 日本での放送権料も40倍近く跳ね上がり、
地上波の放送局連合だけでは交渉がまとま らず、有料衛星放送局の「スカイパーフェ クTV」が乗り出したおかげで何とか交渉を まとめることができました。2002年大会は
地上波で40試合が放送されましたが、残る 24試合はスカパー!に加入していないと見ら れなかったのは、こうした背景があったの です。
1984年のロサンセルスオリンピック以降、
オリンピックの放送権料は単一放送局では 購入できないほど高騰したので、日本では ジャパンプール、のちにJC(ジャパンコン ソーシアム)という放送局連合を組織して、
交渉に当たるようにしています(FIFAワー ルドカップでも2002年大会からはこの方式 が採用されています)。各放送局が金額を負 担する方法ですが、それは交渉成立後にJC 内で、どの競技をどの放送局が担当するの かという次の競争があることを意味します。
各局とも、注目度の高い種目を放送したい のは当然です。せっかく高額で獲得したの だから、より多くの人にチャンネルを合わ せてもらいたいし、そのためには局をあげ て盛り上げる姿勢になっていくのも当然で しょう。こうしてテレビ局は日本選手を大 きく取り上げ、時には過剰と思えるような 応援姿勢で 報道 するスタンスになって いきます。一方、競技団体の側も、競技人 口を増やすためにはテレビに取り上げても らえるかどうかが死活問題です。
こうしてテレビの側から、視聴者がチャ ンネルを合わせてくれるような工夫を、主 催者側(スポーツの側)にも求めるように なってきます。テレビがスポーツに対して さまざまな要求をしてきたときに、スポー ツはどのように対応してきたのでしょう。
これについては次号で検討していきたいと 思います。
(1)齋藤健司、スポーツと放送、『導入対話によるスポーツ法学』、不磨書房、2005
(2)杉山茂、テレビ放映とワールドカップ、『最新サッカー大辞典』、大修館書店、2002
(3)谷口源太郎「オリンピック放送権のビジネス化」、『新スポーツ放送権ビジネス最前線』、メディア総研ブック レットNo.11、2006
(4)杉山茂「高騰の波静まらぬサッカーワールドカップ放送権」、『新スポーツ放送権ビジネス最前線』、メディア 総研ブックレットNo.11、2006
Ⅲ.高騰する放送権料と日本の 放送局の対応
Ⅱ.テレビが支える現代スポーツ―
オリンピックとFIFAワールドカップ を題材に
団地のど真ん中にあるホームスタジアム(ジュロンイースト・スタジアム)で、
前日の調整練習をするアルビレックスSの選手
FIFAワールドカップの「世界」と「日本」の放送権料の推移 開催年
1978 1982 1986 1990 1994 1998 2002 2006
開催国 アルゼンチン
スペイン メキシコ イタリア アメリカ フランス 日本・韓国
ドイツ
世界の放送権料
(単位:万スイスフラン)
ITCが一括契約
キルヒ、スポリス グループ
2,250 3,900 4,900 9,000 11,500 13,500 130,000 150,000
日本の放送権料
(単位:100万円)
ITCにおけるNHKの 分担額
JCとスカパー!
166 293 305 437 500 587 20,100 15,000 注1 ITC(国際テレビコンソーシアム)が一括契約したものを世界の放送局連合に配分する形。
注2 日本の放送権は、1998年まではNHKが単独で獲得していたが、2002、2006年はJCとスカパー!で獲得。
参考文献 杉山茂「高騰の波静まらぬサッカーワールドカップ放送権」、『新スポーツ放送権ビジネス最前線』、メディア総 研ブックレットNo.11、2006