第2章 モダニズムのなかの真宗思想
Chapter 7 The Awakening of Shin Faith (信の目覚めについて)
【要旨】二人の事例を取り上げて信心の徳について説明を加えている。
増田の英訳指導を行った海野大徹は「後序」において、西洋英語圏で本書は今後の真宗 の発展に一助となることを述べ、羽栗の著述に対して以下のような批評を行っている。25
人間の悪業つくりは二元的思考である人間の知恵では推し量ることは不可能であ るが、真宗門徒は仏の教えによって我執が明かとなり、自己の姿が知られること になる。26
自己我欲を超えたもの、すなわち阿弥陀仏の他力によって自己の本来の姿が鮮明 になる。27
人間の罪悪性を含めてすべてを抱き取る大慈悲に完全に気づくことが信心獲得と なり、そこには人間の力は無力といえる。28
名号、南無阿弥陀仏の名乗りとは、人間苦悩の懺悔であり、同時に名号のなかで 生きることへの感謝といえる信機信法の二種深信である。29
念仏の人は、真実の世界に目覚めた人であり、本能的自我の欲求から解放され、
この世において有るべき人間の姿を把握することができる。30
最後に「浄土真宗が語る「信」とは、無明煩悩のこの私であるからこそ迷わない教えであ るといえよう」31と浄土教の綱格が的確に表現されている。
北米での開教から帰国した羽栗は、真宗の盛会が殆ど習慣的形式の信仰で少しも活動が なく、新興宗教に食い込まれていく有様であったことから、信仰運動に身を投じるに至っ たと述べている。32 日本語原本の『心身の革命-他力信仰の極致』はそのような思いに よって執筆された。英訳を増田に依頼した羽栗の目的は、真宗の教えに関する英語書籍が 皆無のなかで、真宗の救いを西洋英語圏に容易に説明する手引き書とすることであった。
特に真宗のいう信心とは何か、獲得すると何が起こるといった点は布教・伝道において明 確に理解すべき事柄と理解されていたといえよう。
真宗の信心の内実は二種深信であり、信法に照らされることによって、罪悪深重なる信 機の姿が映し出され、自己の罪悪性が明白になるとしている。しかしながら、この自己の 罪悪性の自覚は信心獲得の因ではなく、あくまでも信後に知らされるものであり、その自 覚がないなら、真の信心獲得とはいえないとするものである。
3.花田凌雲勧学からの指摘
1932(昭和7)年、花田凌雲勧学は『最近異解異安心問題の検討』を出版し、当時 における異安心問題について著し、羽栗を含めた12項目について検討を行っている。羽 栗はこれに対して2年後の1934(昭和9)年に『勧学 花田凌雲氏著『最近異解異安 心問題の検討』批判』を出版している。羽栗に対する問題は、『大地をふまへて』(192 4年、大正13年)に書かれている内容によるもので、「罪悪観の徹底が獲信なりとの説」
と「獲信の覚知を強調すること」に焦点が絞られる。以下、花田勧学と羽栗のやり取りを 概観することによって羽栗の真宗思想を深めることにする。
① 「罪悪観の徹底が獲信なりとの説」について
花田勧学は羽栗が「罪悪観の徹底が獲信なり」と説いていることについて、次のような 立義を挙げ、つづいて検討を加えている。
【立義】33
凡そ罪悪観の徹底無くして他力の信心の得られよう筈が無い、他力信仰を説く者が 何等自ら罪悪の自覚なくして濫りに他力の摂取を説き、聴者また何等罪悪の反省なく して恣ままに他力乗托の思いをする、信機信法に概念の遊戯に過ぎない。
今日の宗門の多くの人達は悪人じゃ悪人じゃと口先ばかりで言って居る、だが少し も悪人たる自己を見出しては居ない、そんな生温い考え方では何時まで立っても如実 にはならない、斯かる人達はまだまだ聞法の機ではない、よくよく自己の罪悪を見詰 めなくてはならぬ、第一自己過去現在の生活を見詰めて三業の所作を吟味し、一一の 罪過に徹底的に反省する、而して教導者の前に諸有る罪過を露骨に告白する迄になら なければならぬ、それを憚るようでは未だ真に自己反省の実を尽し得たものではない。
教導者の方でも容易に認容してはならない、然らざれば罪悪観は徹底せぬ徹底しない ものを認容すれば到底信心は如実にならない、いい加減な所に腰を据えて不徹底な信 心を安んずる。罪悪観の徹底これが如実の信機である。
然るに如実の信機は佛智に照らされなければ徹底し得ない、徹底的に自己の罪悪を 知った時に自力を離れる自力を離れたのが即ち他力である「松影の暗きは月の光かな」
月光に照されなければ松影の暗さは分らない、松影の暗さに徹底したとき即ち月光の 明るさに徹底したものである、此の間に両者の対立は有り得ない、故に罪悪観の徹底 即ち信心である、信機は即ち信法である。
凡そ今日の布教が唯だ他力の尊さをのみ説きて罪業を顧みざれと示すが故に、聴者 は少しも自己を省察するといふことが無い、此の儘此の儘といふばかりに落居する、
だから信機の体験が無い、信機の体験が無いから何時までも罪悪の造り次第といふこ とになる、俗諦生活の放縦に流るゝは当然である、しかもそれは如実に他力を仰ぎ得 た当流の信心にはなって居ない。そうした気安めの説教をする為めに一般に真宗が誤 解さるるのである。
【花田勧学による検討】34
つづいて、花田勧学は「第一に徹底とは如何の程度を指すのか。罪悪観の徹底といふこ とが果たして同一に行われ得るであらうか」と提示して、「往生成仏の真因たる信心の内容 として、凡夫有漏見の罪悪観が何程の価値を有するか、立義者の言う所では罪悪観の徹底 が信心であるといふのであるから余程尊というものでなくてはならぬ」と批判している。
また、罪悪観の徹底はどの程度まで為されなければいけないのかと疑問を投げかけている。
信機は所謂罪悪観ではないのに、罪悪観の徹底が信心なりと説くことは宗義を害するも 甚だしいと述べ、他力の光に照らされて罪悪観が徹底するなどと説くことは、少なからず 誤解を誘うものであるとしている。
花田勧学に対する羽栗の批判は以下のように展開される。
【羽栗の花田勧学への批判】35
まずは、罪悪とは道徳上でいうのではないとして、自己の主張と異なる立義として、1.
罪悪の内省、2.露骨の告白、3.教導者の態度、4.罪悪観の徹底即信機の問題を提示 している。
1. 罪悪の内省・・・過現未の三世にわたり自己を内省することを主張するものであ るが、一々の罪悪を徹底的に反省するなどいう事は少しも書いていない。
2. 露骨の告白・・・罪悪の自覚をこそ勧め、告白などを勧めることは些かもない事 である。
3. 教導者の態度・・・妥協を許さずに相手の罪悪の自覚を明確にさせることである。
4. 「罪悪観の徹底これが如実の信機である」・・・これは本題の中心であるが、罪 悪観は信仰への道程であって、決して信仰そのものでない、罪悪観と信機信法と は断じて別なものである。大体、罪悪観は信仰への道程であるものであるけれど も、仏智によりて知らされるものであって、人間本来の智慧によって決して知れ るものではない。罪悪観が如何に徹底したとしても、それがそのまま信機である といふことは述べていない。
羽栗による反論趣旨は、『信仰はどうして得られるか』(1923年)36や『大地をふまえ て』(1924年)37を踏襲して、以下のようにまとめることができる。
現代人は宗の内外に関係なく、自己そのものを知らなさ過ぎるため、教導者が直 ちに弥陀如来の救済を説いても効果は至極少ない。
罪悪に徹底することで自然にその人自身が如来の救済に値う機会を得る。
罪悪観に徹底する事が決して他力信仰そのものでないが、如実の信心への道程で ある。
煩悩を断じて悟を開くのが聖道門であり、煩悩を断ぜずして如来の救済を仰ぐの が他力真宗である。
絶対他力の救済を通して、自己の煩悩や罪悪への認識が明かとなる。
煩悩罪悪の身と知る罪悪観の徹底は、他力による獲信の因ではない。
羽栗によると、罪悪観の徹底は真の信心獲得の条件ではないが、自ずと得られるもので あるとする。すなわち、罪悪観に徹底する事は決して他力信仰そのものでなく、如実の信 心への道程であるとして、真宗の信仰は罪悪観の徹底によって護られるとする。罪悪観が 徹底しなければ、如実の信心を維持する事は不可能であるというのが羽栗の真説と理解で きる。