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/J  炒 平城宮第二次朝堂院上層

ドキュメント内 臨 拾鰯 螂鞘 (ページ 36-40)

朝庭 にお いて は、少 くと も

3時

(B〜 D)に

わ た る儀 式 の 跡 を検 出 した。 遺 構 の密 度 重複 が少 い事 か ら判 断 す れ ば、 各 期 の 遺 構 は年 中 行 事 と して の 節 会 等 の 儀 式 に際 して造 営 され た の で は な く、 即 位 関 連 儀 式 等 の 特 別 な儀 式 に 際 して 造 営 され た もので あ る と言 え よ う。 ま た各 時 期 と も遺 構 配 置 を異 に し、 そ れ ぞ れ 儀 式 内容 が異 った と考 え られ るが、

B期

の 大 嘗 祭 を 除 き そ の他 の 時 期 の儀 式 内容 は特 定 で きな い。 これ につ い て は大 極 殿 前 庭 に お い て 検 出 した 儀 式 関 連 遺 構 や 今 後 の 朝 庭 の調 査 で検 出が予 想 され る遺 構 等 を、 総 合 的 に検 討 す る こ とに よ って 明 らか に しな けれ ば な らな い課 題 で あ る。

と ころで儀式 内容 が 唯一 特 定 で き た

B期

の 大 嘗 祭 につ いて は一 体 どの天 皇 の即 位 に比 定 で き るで あ ろ うか。 この 問 題 に つ いて は、 今 後 行 う大 嘗 宮 南 の 部 分 の 調 査 や未 調 査 の第一 次 朝堂 院 朝 庭 中央 部 分 の今 後 の 調 査 成 果 を 広ゝま え た上 で 結 論 を

∂ ∂ ∂ 難波宮下層

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出すべ きで あ るが、一 応 、 今 回 の調 査 結 果 と従 前 の 大 極 殿 院、 朝 堂 院 の 調 査 成果 な らび に文献 研 究成 果 等 か ら、 この 問 題 につ いて考 え て お き た い。

文献上 か らは重作 を含 め 奈 良 時代 に 即 位 した

7代

の 天 皇 の うち、 大 嘗 祭 を行 っ た場 所 が 明記 されて い るの は、 孝 謙 天 皇 (南 の 薬 園 の 新宮)、

 

淳 仁 天 皇 (乾 政 官 院)、 光 仁 天 皇・ 桓 武 天 皇 (太 政 官 院

)4代

の 天 皇 で あ り、 「 乾 政 官 院」 あ る い は「 太 政 官 院」 が朝堂 院 で な い と い う前 提 の上 で は、 この

4代

の 天 皇 は 除外 して 考 え る こ とがで きよ う。 従 って 大 嘗 の 場 が 明 記 され て い な い

3代

の 天 皇 (元正・

聖武・ 称 徳

)の

可 能性 が 強 くな る。

次 に遺 構 配 置 か らみ る と、 既 に述 べ た よ うに大 嘗 宮 は

B期

に属 し、

C期

即 ち第

二 次大 極殿・ 朝 堂院造営 に先行 す る。 第 二 次 大 極 殿・ 朝堂 院 の造 営 は『 平 城 宮 発 掘 調査報 告

 

』 で は、 一 応 恭 仁 京 か ら遷 都 した 後 と考 え て い るが 、 恭 仁 京 遷 都 以 前 か ら造 営 が進 め られ て い た可 能 性 が な いわ けで は な い。 いず れ にせ よ、 天平 神護元

(765)年

に大嘗祭を行 っ た称 徳 天 皇 が

B期

の 大 嘗 宮 を使 用 した こ とは あ り え な い。

出土 遺 物 か らみ る と、 廻 立 殿 S B l1900の 柱 抜 取 穴 か ら、 上 層

(C期 )の

大 極 殿・ 築 地 回廊 所用軒 丸 瓦 で あ る

6225Aが

出上 した。 大 嘗 宮 の 施 設 は 短 時 日の 内 に とり こわ され る もの で あ って 、 そ の建 物 の 柱 抜 取 穴 か ら次 の 時 期 に多 用 され る瓦 が 出上 した とい う ことは、 今 回 検 出の 大 嘗 宮 遺構 が、

C期

に近 い 時 期 に営 まれ た ことを意 味 す る。 従 って、 この大 嘗 宮 を

C期

か らよ り時 間 差 の 大 き い元 正 天 皇 の もの と考 え るよ りは、 聖 武 天 皇 と考 え るの が 妥 当で あ ろ う。

この よ うに考え る と、 軒 丸 瓦

6225A型

式 は、 聖 武 天 皇 即 位 の 神 亀 元 (724)年の 前後 に既 に製作 され て い た こ と に な る。6225型式 の 瓦 の 年 代 観 は Ⅱ期 (養 老5年

〜 天平17年

)に

位 置づ け られ て い た が (『 基 準 資 料

 

Ⅱ』 解 説)、『 平 城 宮 発 掘 調 査報告

 

』 で は Ⅲ期 (天平 17年 〜 天 平 勝 宝 年 間

)に

変 更 され て た 。 上 述 の 立 論 か らすれば、6225A型式 は Ⅱ期 に位 置づ け るのが妥 当 な よ うに思 わ れ る。 もっ と も、

今 回 の発 掘成 果 の み か ら この 結 論 を 出 す こ と は尚 早 で あ り、 今 後 充 分 な検 討 が必 要 で あ ろ う。

―‑ 36 ‑―

大嘗 祭 の行 事

  

「儀式」「延喜式」に拠る

(3)

(1)悠

紀・ 主基両斎 国の 卜定

(4

月)・ 斎 田斎 場 (稲 実 殿 地)

の造 営 、斎 田経 営 。

抜穂 使 の派遣 と抜 穂 の 行 事

(9月

)。 抜 穂 に先 立 ち 大 抜 、 抜穂 の後祭 典 。御 稲 上 京 。

北 野斎 場 で の行 事 (10〜 11)。 北 野 斎 場 の 卜定 。 外 院

・ 内院・ 神服 院 の造 営 。 白 酒

・ 黒 酒 の謹製 。御 贄 (紀 伊 。 淡路 。阿波

)の

調 備 。 神 服 の

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□ □

 

1物部 女 等 宿 屋 2  F写

3使政 所 屋

4抜穂 使 宿 屋

稲 実 殿

6五 間 屋

7高 萱 御 倉

10 8入神 殿 9造 酒 童 女 宿 合 10 歩鷺  lH

(4)

(10月 下 旬)。

(5)大

嘗 宮 造 営 行 事 (祭 日7日

前 者 工 ∵ 両 斎 国担 当)。

  

 

13図 斎田斎場建物配置図

(A)引

野斎場配置図(B)

場 の 卜定 と造 営 資 材 を 採 取 す る山 野 の 卜定

(8月

)。 資 材 運 搬 (祭 杷10日)。

地 鎮 (祭 祖7日 前)。 造 営 工 事 着 工 、

 5日

間 で 竣 工 。 廻 立 殿 の 造 営 (木 工 寮 担 当)。

(6)北

野 斎 場 か ら大 嘗 宮 へ 供 神 物 供 納 (11月 卯 日当 朝)。御 飯・ 神 撰 の 調 備 。

(7)御

湯 殿 の儀 (廻 立 殿)。 悠 紀・ 主 基 正 殿 の 儀 (卯 日夜 〜 翌 暁)。

18)大

嘗 宮斎殿 の鎮 祭 (辰 日朝)、の ち大 嘗 宮 の 壊 却 。

(9)辰

・ 巳・ 午 日の節 会 。

―‑ 37 ‑―

大嘗祭関係史料抄

儀式

 

巻第三

 

TTF大嘗祭儀中

祭 に先 んず ること十余 日、おのおの大嘗 宮 の料 の雑材 丼 び に萱 を、 朝堂第二殿 の前 に運 び置 く。祭 に先 んず ること七 日、大嘗宮の斎 殿 の地 を鎮 む。 … … その宮地 は東 西廿 一 丈 四尺・ 南北 十五丈、これを中分 して東 を悠紀院 と し、西 を主基 院 とす 。 その宮垣 の正 南 に一 門 を開 く (高 さ 広 さ各 一 丈二 尺)。 内 に屏 籠 を樹 つ (長 さ二 丈)。 正 東の 少 し北 に一 門 を開 く。外 に屏籠 を樹 つ (長 さ二丈五尺)。 正 北 に ま た一 門 を開 く。内 に屏籠 を樹 つ 。正西 の少 し北 に一 門 を開 く。

外 に屏籠 を樹つ。南北 の両 門 の間 に縦 に中籠 あ り (長 さ十 丈)。 その 南端 に道 を通 す (道 の 南 の範長 さ一丈。道の北 の籠 長 さ九丈)。 中籠 以 東 一 丈五 許 尺 に悠 紀 の 中垣 あ り。 その南 北両 端 に各小門を開く(南北 の宮 垣 と相去 る こと各 三 丈)。 その 南北 の門の間 に中垣 あ り。 その 南 に縦 に五間の正殿一宇 (長 さ四丈 、広 さ一 丈六尺)。 正 殿 東 南 に横 に御厠一 宇 (長 さ一 丈 、広 さ八 )。 中垣 の北 六 許尺 に横 に五 間 の膳 屋一 宇 (その制 正殿 に同 じ)。 西二 間 を盛 所 となす 。 北 垣 の南六許尺 に横 に三 間 の 臼屋一 宇 (長 一 丈 六尺 、広 さ一 丈 、盛殿 の東 の頭 と相 対 す)。 そ の 西 に縦 に神服柏棚 (左 右各 四柱 あ り。長 さ一丈 五尺 、広 さ五尺 、高 さ四尺)。 主 基 院 の制 、皆 悠紀 に准ず。……木工寮、大嘗院以北 に横 に五 間 の廻立殿 を造 る。

北山抄巻第五

 

大嘗会事

祭 に先 んず ること七 日、両国龍尾道 の前 に大嘗 宮 を造 る (東 は悠 紀 、西 は主 基 。先 んず るこ と十余 日、雑材等を第二殿前 に運 び置 く。殿 地 を鎮 祭 す 。畢 りなば諸エ ー 時 に起 ち、 その宮 五 日の内に造 り畢 る)。 その 北三 許丈 に木工寮 廻 立殿 を造 る。 (卯・ 酉 を妻 とな し、東 南 に戸 あ )。 東 に去 る こ と二 許丈 、片庇 を造 り、御釜殿 となす。

続 日本紀

元正天皇

 

霊亀

2(716)年

11月辛 卯

 

大 嘗 す。

聖武天皇

 

神 亀元 (724)年11月己卯

 

大嘗す。備前 国 を 由機 と し、播磨 国 を須機 とす 。 従五位 下石上朝臣勝男・ 石上朝 臣乙麻 呂、従 六位 上 石 上朝 臣諸男 、従 七位 上 榎 井朝 臣大 嶋 等 、 内物部 を率 い、神楯 を斎宮 の南北二 門 に立 つ。

孝謙天 皇

 

天 平 勝宝 元 (749)年11月乙卯

 

南 の薬 園 の新宮 にて大嘗 す 。

淳仁天皇

 

天 平 宝字

2(758)年

11月辛 卯

 

乾 政官 院 に御 して大 嘗 の事 を行 う。

称徳天皇

 

天 平 神 護元 (765)年11月癸 酉

 

廃 帝 既 に淡 路 に遷 り、天 皇 重 ねて万機 に臨 む。 ここにおいて、更 に大嘗 の事 を行 う。美 濃国 を以 って 由機 と し、越 前 国 を須伎 とす。

庚辰

 

詔 して日、 一又詔 して 曰 く、今 勅 りた まわ く、今 日は大 新嘗 の 直会 の豊 の 明 り聞 こ しめす 日に在 り。然 るにこのたびの常 よ り別 に在 る故 は、朕 は仏 の御 弟子 と して菩 薩 の戒 を受 け賜 いて在 り。 これ によ りて上 つ方 は三 宝 に供 え奉 り、次 には天 社・ 国 社 の神等 を も いや びまつ り、…… と宣 りたま う。

光仁天皇

 

宝 亀

2(771)年

11月癸 卯

 

太政官 院 に御 して大嘗 の事 を行 う。参 河 国 を 由 機 と し、因幡国を須岐 とす 。

桓武天皇

 

天応 元 (781)年11月丁卯

 

太政官 院 に御 して大嘗 の事 を行 う。

一‑ 38 ‑―

北 面 大 垣 の 調 査 (1)

156‑3次

住 宅 改築 に伴 う事前調 査 で あ る。 当該 地 は平 城 宮 北 面 大 垣 が 通 る と推 定 され る 位 置 に あ る。 調 査 区 は東 西 二 区 に分 け、 東 区 が13m× 3m、 西 区 が

5m× 3mの

2本の南北 トレンチを設 定 した。 この うち西 区 につ いて は顕 者 な遺 跡・ 遺 物 は検 出 されず 、現地 表 下 25〜40cmで地 山 を確 認 した に と ど ま った。 一 方 、 東 区 で は溝 1条、土壊7基等 を確 認 した もの の 、 北 面 大 垣 の 関 連 遺 構 は検 出 で き な か った 。 トレンチ北端 部 は地表 下 約10〜 20cm、 南半 で約50cmで黄 褐 色 砂 質 上 の 地 山 に い た るが 、 その 間 に幅約

5mの

東 西 溝 を検 出 した 。 ま た そ れ と重 複 して 大 小 の 土 媛 が あ るが 、土壊 群 は近世 以 降 の もので あ る。 東 西 溝 は最 深70cmあ るが 、 底 か らや は り近 世 の陶 器 。瓦 が若 千 出上 した の み で 、 古 代 に遡 る可 能 性 は少 ないで あ ろ う。

ドキュメント内 臨 拾鰯 螂鞘 (ページ 36-40)

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