• 検索結果がありません。

□ 脚

ドキュメント内 臨 拾鰯 螂鞘 (ページ 30-36)

・   ﹈    凹      駆

A期

婢 国

sallBO,

lEllsal19al

C期

dBJ199‐

9図

D期

第二次大極殿院・ 朝堂院地区変遷図

醐      . 腕﹇一柳 口 一如 ﹃

      1 2 9       ‑―

① S A l1800は S A l1250か ら300尺

 (1尺 =29.6 cm)の

P巨 離 に あ り、 S B l190 0は S A l1250か ら150尺 の 位 置 に 存 在 す る の で 、 S B l190o及 び 大 嘗 宮 遺 構 が 、下層 掘立 柱建 物 と同 時期 と考 え られ る。 S B H750も これ と同 時 期 とな る。

② S B l1751は S B l1900と 南 側 柱 列 を そ ろ え て お り、 ま たS B l1751の 西 側 柱 列 が 下 層 遺 構 の 中軸 線 (EO.6)か ら120尺 の 位 置 に あ る こ と か ら、 S B l1751 は① に記 した下層遺 構 と同 時期 と考 え られ る。

③ S B l1201と S B l1775は 東 西 両 側 柱 筋 を そ ろ え 、 足 場 穴 を 伴 う こ と、 柱 掘 形 の埋上 の状 況 が類似 す る こ とか ら同 時 期 と考 え られ る。

④ S B l1751と S B l1775は 柱 掘 形 が 2カ 所 で 切 り あ って お り、 S B l1775が 古 い こ とが 明 らか で あ る。 従 って S B l1201・ S B l1775は① ② の 下 層 遺 構 よ り 古 い 時 期 の 造 営 とな る。 た だ し大 極 殿 下 層 の S B 9140・ S B l1210 e s B 1005 0と の 前 後 関 係 が あ るの か、 併 存 す るの か につ いて は確 言 で きな い。

⑤ 既 発 掘 ず み のS B 100341こつ いて は、 今 日新 た な知 見 を え たわ けで は な いが 、 この柱掘 形 が大極 殿 S B 9150周 辺 の礫 敷 を 除去 して検 出 され て い る ことか ら上 層 遺構 造 営後 ま もな く造 営 され た可 能 性 が 大 き い。 な お 因 み に、 朝 賀 の 憧 柱 と 推 定 され た S X l1252〜 11258の 7カ 所 の 掘 立 柱 穴 (柱痕 跡 3個 を1つ の 横 長 の 掘 形 内 に 置 く)に つ いて も、 奈 良 時 代 後 半 か平 城 上 皇の 時 期 に属 す と され る が 、 第 152次 調 査 で 検 出 した もの は最 終 段 階 に使 用 され た 憧 柱 と考 え、 初 め て 立 て られ たの はそれ以 前 に遡 る と考 え る こ と も可 能 で あ る 。

A期

につ いて は、更 に細 分 で き る余 地 が あ る点 につ いて はす で に述 べ た通 りで あ るが 、 S B l1775・ S B l120Hよ 足 場 穴 を もち 、 柱 径 も太 く恒 常 的 な 建 物 と見 られ るの に対 し、 それ ら以 外 の建 物 は儀 式 等 の 祭 事 に使 用 され た仮 設 建 物 と考 え られ る。後 述す る

B期

を 除 き祭 儀 の 内 容 につ いて は特 定 で き な い力ヽ少 なくとも元旦 の朝 賀 な どの平常 の年 中行 事 と して行 わ れ る儀 式 に使 用 され た もの で は な く、 即 位 等 の特 別 な儀 式 に際 して 造 営 され た もの と思 わ れ る。

B期

の遺 構 配置 は、 『儀 式 』 か ら復 原 で き る大 嘗 宮・ 廻 立 殿 の配 置 な らび に規 模 に相似 し、大嘗 祭 に際 して 臨 時 に設 け られ た もの と言 え よ う (第 10図 参 照)。

―‑ 30 ‑―

今 回 は 大 嘗 宮 悠 紀 院 の 北 の一 部 を 検 出 した こ と に な り、 S A l1780。 S A l1800 は大 嘗 宮 の 東 と北 を 限 る宮 垣 に 、 S B H820は 北 門 に、S A l1835は屏 垣 に、S A l1830は 悠 紀 院 と主 基 院 を 区 画 す る 中 籠 に 、 S A l1825は 悠 紀 院 西 側 中 垣 に、

S B l1810は 小 門 に、 S B l1785は膳 屋 に 、 S B l1790は 臼 屋 に そ れ ぞ れ 相 当 す る。 なお 、『儀 式 』 に は 国屋 近 辺 に神 服 柏 棚 が あ った と され るが、 今 回 の 調 査 で は この 痕 跡 につ いて は検 出 して い な い。 ま た小 門 S B l1810の 東 正 面 に は 一 条 の 屏 垣 S A l1827を 検 出 した が、 『 儀 式 』 に は これ に対 す る記 載 は な い。

廻立殿 は『 儀 式 』で は

5間

×2間の 東 西 棟 で 柱 間

8尺

等 間 に復 原 で き る。 今 回 検 出 した 東 西 棟 S B l1900は

4間

×1間で桁 行 10尺 等 間・ 果 行 22尺 で 文 献 記 載 と 異 な る。『 儀 式 』 で は黒木 造 とす るが 、 S B l1900は 柱 掘 形 も大 き く柱 径 も太 い。

ま た、 『 北 山抄 』 で は廻 立 殿 を 大 嘗 宮 の 北 3丈ば か り とす るの に、 S B l1900は ず っ と北 へ 離 れ る。 しか し S B l1900は 下 層 閤 門 と大 嘗 宮 の 北 宮 垣 との 距 離 の 中

A B

今回の調査 な らびに『儀式劃に よる復原案

『儀式』巻 第二践け大

常祭儀 中の記述か ら の復原

(原図は池‖:三『家屋文鋭の世 界割に よる) 1廻立殿  61殿  11南 16琳 2神服柏Flll1 7生  12束問  17々 イ)i

3日 4膳 5盛

8室   13西  18呼 9御)貝  14/ト ド1,  19'IHナ1, 10北 門 15通 10図

 

大嘗宮・ 廻立殿配置復原図

F I I I I

回 中

‑31‑

央 に位 置 し、ほぼ下 層 朝 堂 院 の 東 西

2等

分 線 上 の 位 置 に あ た る こ と、 S B l1900の 東・ 北・ 西 に慢 を 張 っ た と 目 さ れ る 柱 列

(SA■

860。 S A l1850・ S A l1870)

が あ る こ と等 か ら S B l1900を 廻 立 殿 と考 え た 。

S B l1900の 東 に あ る南 北 棟S B l175Hよ、 『 儀 式 』 に は 記 載 の な い 建 物 で あ るが、『 北 山抄 』 に は廻 立 殿 の 東2丈ほ ど に片 廂 の 御 釜 殿 を 造 る記 事 が あ り、S B l1751は か な り東 へ 離 れ て い るがS B l1900と 同 時 期 と考 え られ る の で 、 御 釜 殿 と して の機 能 を持 つ 建 物 と して 考 え て お き た い。

B期

の遺構 配 置 は極 め て 規 格 性 に富 む 配 置 計 画 に 基 づ いて い る。 造 営 の 基 準 尺 は1尺 =29.6cmであ って 、各 部 の寸 法 は 第 11図 に示 す とお りで あ る。

B期

の朝 堂 院下層 の 区 画を、現在 盛 土 整 備 して あ る区 画 か ら考 え る と、 この 区 画 の 南 北 長 は 960尺 (大 尺 で 800尺

)と

な る。 これ を

5等

分 した と こ ろ がS B l1740の 北 廂 柱 列 の位 置 に 相 当 す る こ と に な る。 しか も この 区 画 の 中 軸 か らS B l1740の棟 通 り ま で も192尺 (大 尺 で160尺

)で

、960尺の1/5に 相 当 して い る。

な お

A期

S B l1201・ S B l1775は や や 規 格 性 に 乏 し い もの の 、 中 軸 か ら西 側 柱 筋 まで は ほ ぼ 108尺 (大90尺

)で

あ る。

大嘗宮 の 区画 は、 北端 の一 部 を検 出 した の み で あ るが、 中 軸 が下 層 区 画 の 中 軸 よ り

lm近

く東 へ ず れ て い る。 仮 にS A H830が中 軸 で あ る な らば 、 大 嘗 宮 の 東 半 部 を45尺 と60尺 に わ け る こ と とな る。 従 って 東 西 長 全 長 は210尺 とな り、 『 儀 式』 等 に み え る平 安 時代 の寸 法 (214尺

)と

は わ ず か に異 る。 今 後 の 発 掘 に よ っ て確 実 な東 西長・ 南北 長 が 判 明 す れ ば、 大 嘗 宮 の 区 画 の 計 画 性 、 平 安 時代 の大 嘗 宮 区画 の寸 法 との関係 な ど に つ いて も明 らか と な ろ う。

C・

D期

につ いて は、 計 画 寸 法 の規 格 性 が 下 層 程 明 瞭 で な くな る。 朝 堂 の 区 画 は下 層 を 踏 襲 す る た め、 東 西 600尺 と不 変 で あ る。 東 第 一 堂 S B l1750の 身 舎 南 妻 棟 通 り柱 は、 第 二 次 大 極 殿 回廊 の 棟 通 りか ら南へ 250尺

(1尺

=29.7cm)、大 極 殿 院 南 北 中軸 線 か ら東 へ 225尺 (同

)の

位 置 に あ る。

閤門 前庭 部 の建物 は、 仮 設 的 で あ るた め か 、 規 格 性 は乏 しいが 、 い くつ か の 遺 構 につ い て はや は り規 格 性 が 認 め られ る。 即 ち 、 S B l1223と S B l1796。 1184

―‑ 32 ‑―

a湾655 S47592

11図 1第二次朝堂院地区下層遺構配置図

‐―一N40

‑N20

‑― o

iS20

‑S40

‑S60

‑―‑380

‑――創OO

S20

S140

F I I I

│‐

1 1 1

0     E20

‑ 33 ‑一

0の 棟 通 りの 間 隔 は 120尺 、S B l1796と S B H840の 相 対 す る妻 の 間 隔 は80尺、 S B l1796と S B l1795の棟 通 り の 間 隔 は40尺 と な っ て い る。

 

161・ 163次 の 調 査 を 通 じ、 遺 物 は散在 的 な 出 土 状 況 を 示 し、 瓦・ 土 器 片 が 若千 量 出土 したにす ぎな い。 瓦 につ いて 言 え ば 瓦 葺 と考 え られ る東 第一 堂 周 辺 で も極 めて少 量 しか 出土 せ ず、 水 田開墾 時 に礫 等 とと もに投棄 され た と考 え られ る。

出土 した軒 瓦 は、 軒 丸 瓦6225型式 15点 、6113型式

2点

、6311型式

2点

、 軒 平 瓦66 63型 式7点、6691型 式

2点

、 鬼 瓦 1点で あ る。 鬼 瓦 は平 城 宮

6型

Aで

、 瓦 編 年 のⅣ期 (天平 宝字 元年 〜 神 護 景 雲 年 間

)に

属 す と考 え られ る。

 

 

161・ 163次 調 査 で は、 第 二 次 朝 堂 院 東 第一 堂 の 規模 とそ の下 層 建 物 の存在 、 及 び朝 庭 中央 部 の儀 式 関 係 遺 構 を検 出 した ことが、 特 記 すべ き成 果 で あ った。

東 第一 堂S B H750は 、 調 査 前 まで は切 妻 造 と想 定 して い たが、 四 面 廂 付 建 物 で あ る こ とが 明 らか とな った た め、 入 母 屋 造 か 寄棟 造 とな る。 梁 行 総 長46尺は、

第二 次朝 堂 院東朝 集 殿 (第48次 調 査)、 第 一 次 朝 堂 院 東 第一 。三 堂 の 果行 総 長 と同 じで あ る。 お そ ら く、第 二 堂 以 下 の各 堂 も同 じ異 行 総 長 で そ ろえ て い た もの と思 われ る。 藤 原 宮 の ご と く第一 堂 の み に特 徴 を もたせ る とす る な らば、 第二 堂 以 下 を切 妻 造 に し、基 壇 高 を低 くす る等 の変 化 を つ けて い た こ と も想 定 され るが、 こ れ は今 後 の調査 を またね ば な らな い。

下 層 の S B l1740は 、 身 舎桁 行

7間

・ 果 行

3間

に 四 面廂 の つ く内裏 正 殿 に近 い 大規模 な建物 で、屋根 は人 母 屋 造 か 寄棟 造 で あ る。 他 の 諸 宮 の 朝 堂 院第一 堂 と比 較 した場 合 、 その平 面が 独 特 で あ る。 なお 難 波 宮 下 層 の第一 堂 は 四 面 に廂 は な い もの の、 身 舎 梁 行 が 三 間 で あ る こ とは注 目 され る。 ま たS B l1740は大 極 殿 下 層 の掘立 柱建物 S B 9140と 比 較 して も、 柱 間 寸 法 は小 さいが、 桁 行 柱 間 で は

2間

、 身 舎 梁 行 で は1間多 く、 S B l1740の 特 異 な性 格 を示 唆 して い る。

今 後 朝堂 院第二堂 以 南 の 調 査 が 進 展 して、 第二 堂 及 び その 下 層 建 物 の存 否 や規 模・ 配 置 が 明 らか にな る と、 他 の 諸 宮 との 比 較 も可 能 とな ろ う。

―‑ 34 ‑一

朝庭 にお いて は、少 くと も

3時

(B〜 D)に

わ た る儀 式 の 跡 を検 出 した。 遺 構 の密 度 重複 が少 い事 か ら判 断 す れ ば、 各 期 の 遺 構 は年 中 行 事 と して の 節 会 等 の 儀 式 に際 して造 営 され た の で は な く、 即 位 関 連 儀 式 等 の 特 別 な儀 式 に 際 して 造 営 され た もので あ る と言 え よ う。 ま た各 時 期 と も遺 構 配 置 を異 に し、 そ れ ぞ れ 儀 式 内容 が異 った と考 え られ るが、

B期

の 大 嘗 祭 を 除 き そ の他 の 時 期 の儀 式 内容 は特 定 で きな い。 これ につ い て は大 極 殿 前 庭 に お い て 検 出 した 儀 式 関 連 遺 構 や 今 後 の 朝 庭 の調 査 で検 出が予 想 され る遺 構 等 を、 総 合 的 に検 討 す る こ とに よ って 明 らか に しな けれ ば な らな い課 題 で あ る。

と ころで儀式 内容 が 唯一 特 定 で き た

B期

の 大 嘗 祭 につ いて は一 体 どの天 皇 の即 位 に比 定 で き るで あ ろ うか。 この 問 題 に つ いて は、 今 後 行 う大 嘗 宮 南 の 部 分 の 調 査 や未 調 査 の第一 次 朝堂 院 朝 庭 中央 部 分 の今 後 の 調 査 成 果 を 広ゝま え た上 で 結 論 を

∂ ∂ ∂ 難波宮下層

 θ θ θ

ドキュメント内 臨 拾鰯 螂鞘 (ページ 30-36)

関連したドキュメント