HX COOH CH
X
(5-1)
反応 (5-1) において、X = Fの場合においてのみ大きな発熱反応であり、これに対して、X = Cl,
Br, Iでは、吸熱反応であることが分かる。このことから、EDI 照射によってF- は帯電液滴に含ま
れる酢酸との反応によって大部分がアセテートイオンを生成し、HF分子として中性化すると予想さ れる。Fig. 5-2 で示されるAgF の負イオンマススペクトルにおいて、CH3COO- が強く検出され ているのはこの反応が関与していることも考えられる。また、Fイオンは反応性に富むので、帯電 液滴に含まれる水と反応する可能性がある(式5-2)。
H O HF OH
F
2(5-2)
しかし、この反応のエンタルピー変化は81.3 kJ/mol と計算され、吸熱反応となる[22]。したがって、
この反応はF の消費には寄与しないと考えられる。
AgF への EDI 照射で見られる CF3-、CF3COO- の生成については、F- と酢酸分子との反 応では説明できない。これは、水素引き抜き反応(5-3)が約 60 kJ/mol [21] の吸熱反応と計算さ れるからである。
CH COOHHFCH COO
F 3 2
(5-3)
酢酸のメチル基からの水素引き抜きを起こす化学種に関する唯一の候補は衝突界面で生成する F 原子 である。これは F 原子が衝突界面に多量に形成されると考えられるからである。F 原子
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は全ての原子の中で最も反応性が高い。たとえば、反応 5-4、5-5、5-6 はそれぞれ ~71、~
250、~170 kJ/mol の発熱反応である。
F HF OH
O H
2(5-4)
HF COO CH F
COOH
CH3 3
(5-5)
HF COOH CH
F COO
CH3 2
(5-6)
したがって、EDI 照射で衝突界面に生成した F 原子は反応 5-4、5-5、5-6 によって速やか に消費されると考えられる。CF3COOH の生成は反応 5-7、5-8 のような後続逐次反応によるも のと考えられる。
HF COOH
F CH F
COOH F
CH3n n 3n1 n (n = 0-2)
(5-7)
FCOOHF CH F COOH
CH3n1 n 3 n1 n1 (n = 0-2)
(5-8)
最終生成物である CF3COOH の持つトリフルオロメチル基は電子吸引性であり、H+ を放出 することで負電荷を非局在化し安定な構造を取ることができるので、衝突界面において CF3COO
- と H+ に分解しやすいと予想される。CF3- の生成は、以下の単分子分解反応で生成すると考 えられる。
2 3
3
COO C F CO
F
C
n
(5-9)
Fig. 5-2 に示す AgF の負イオンマススペクトルでは部分的にフッ素化された CF3-nHn- や CF3-nHnCOO- ( n= 1, 2 )が全く検出されていない。これは、衝突界面で生成したフッ素原子 が酢酸分子からの水素引き抜き反応に大きく関与し、界面においてCH3COOH 分子の大部分が CF3COOH 分子に転化することを示す。対照的に全くF置換されていないCH3COO- が強く現 れているのは、フッ素による引き抜き反応は衝突界面に存在する酢酸のみが関与し、帯電液滴内 部の大部分の CH3COOH や CH3COO- は衝突時の衝撃波の伝播によってそのまま後方散乱
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されるためと考えられる。EDI 照射と水素引き抜き反応により AgF 表面に Ag が濃縮され、F が 消費されるにしたがって、酢酸分子のフッ素化は起こりにくくなり、衝撃時間とともに、[CH3COOAg + CH3COO]- や[AgF3 + OH]- のシグナルが増加し、CF3- 、CF3COO- シグナルは減少す る。[AgF3 + OH]- は Ag原子が平面正方構造のdsp2 混成軌道を形成するためと考えられる。
す な わ ち 、 三 つ の フ ッ 素 原 子 と OH ラ ジ カ ル が Ag - の 混 成 軌 道 [Kr](4dx2-y2)9(5s)1(5px)1(5py)1 と共有結合を形成する。AgF4-n(OH)n- (n= 0, 2-4)のイオンが 観測されなかった理由については、現時点では明らかでない。
5-3-2 カチオン化剤としての金属フッ化物
前述したフッ素の選択的脱離は AgF 表面に部分的な銀濃縮をもたらす。この銀濃縮は結果と して Fig. 5-1(a) に示すように Agn+ の高効率な生成につながる。このような AgF に対する
EDI/SIMS によるフッ素の選択的脱離は試料のカチオン化剤(マトリックス)として、AgFが有効で
ある可能性を示唆する。
AgF のカチオン化剤としての価値を評価するため、PEG 600 と AgF 混合物の EDI 照射実 験を行った。10-3 M PEG 600 と 5×10-3 M AgF 混合溶液 1 μL を SUS ターゲットへ滴 下・真空乾燥後、測定を行った。Fig. 5-4 に PEG600/AgF (1:5) の 正イオンEDI マススペクト ルを示す。これより、Ag+ 付加した PEG 及びプロトン化 PEG が検出され、分子量分布情報も得 られた。Ag+ 付加 PEG が強く検出されていることから、AgF は EDI/SIMS においてカチオン 化剤として有用であることが示唆される。[PEG + Ag]+ の分子量分布が [PEG + H]+ 分布と比較 して高質量側へシフトしていることがわかる。これは、大きなサイズのPEG の方が Ag+ とより強い 結合を形成するためである。
5-4 まとめ
ハロゲン化銀を試料に用いて EDI/SIMS 測定を行った。AgF は例外的に試料表面に銀の濃 縮を生じさせ、フッ素成分が選択的に脱離した。EDI 照射による衝突界面で生成したフッ素原子 は、衝突界面に存在する H2O や CH3COOH との水素引き抜き反応で速やかに消費される。
結果として AgF 表面には銀が濃縮され極めて強い Ag+ イオンが生成することが分かった。
CH3COO- が検出され続けるのは、界面以外に存在する液滴中の酢酸が後方散乱しているため であり、CH3COO-からの水素引き抜き反応は衝突界面でのみ引き起こされる。この特異性を生か して、PEG/AgF 混合物からカチオン化された [PEG + Ag]+ を強く観測することに成功した。以 上のことから、AgF のみならず、他の金属フッ化物でも EDI 照射によるフッ素の選択的脱離に伴 うカチオン化剤としての効果が期待できる。本実験結果は、極めて高い反応性を示すフッ素原子と、
超音速衝突界面に生ずる高エネルギー状態、入射イオンの圧倒的大多数を占める H2O 及びプ ロトン 、この三者の協同効果による特異的な現象であり、今後のさらなる展開が期待される。
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第六章 EDI/SIMS における帯電液滴組成の検討
6-1 序論
SIMS は最も有用な材料分析の手法の一つである[1]。試料を衝撃する一次イオンのサイズの
増加に伴いスパッタ率や二次イオン生成効率が向上するという数多くの研究報告がある [2]-[16]。
Cs+ (CsI)n [2]や SF5+ [13]、グリセロールクラスター[17]-[20]、C60+ [9]、Au3+ [10][11]、Bi3+
[21][22] などの入射イオンを採用することで、高感度での SIMS マススペクトルの取得が可能に
なった。これは、クラスターサイズを大きくすることで、表面近傍に集中して入射エネルギーを付与 できるので、多くの粒子放出が担保されることとなる。
Mahoney は MCI を質量 106-107 u、~200 価の巨大グリセロールクラスターを用いる MCI を発展させた[17]-[20]。MCI はグリセロールを真空中で静電場噴霧した液滴を生体試料 に衝撃し、生体分子のイオン(preformed ion)を脱離させた。しかし、MCIで中性の化合物をイオ ン化し検出したという報告はない。EDI では、中性化合物である C60を始め、金属、金属酸化物、
半導体などから、強い二次イオンが観測される。帯電液滴の組成の違いがイオン化過程に大きな 影響を与えている可能性がある。
当研究室で、EDIの開発のきっかけとなったのがAksyonov と Williamsの論文であった。彼ら は真空エレクトロスプレーで生成した帯電液滴(水/メタノール)を用いる impact desolvation of electrosprayed microdroplets (IDEM) を開発した[23]。試料を溶解した電解質溶液を真空中 でエレクトロスプレーし多価のマイクロ液滴を生成させる。生成した帯電液滴は 5-10 kV で加速
し数 km/s の速度でターゲットを衝撃する。この時の衝撃によって液滴にあらかじめ溶解させたイ
オン種を脱離させるという手法である。この研究では、分析目的成分はエレクトロスプレー溶液に溶 解させたものであって、基板に塗布されたものではない。EDI では、極微量試料が基板に塗布さ れ、これを超音速衝撃でイオン化させる、というところがMCIとは異なるアプローチである。
ガスクラスターイオンビーム(GCIB) は Yamada らによって開発され、材料加工技術への応用 が提案され、事業化に至っている [24][25]。GCIBとしてArn+ が多用されている。このGCIB の 特徴は表面荒れを起こさない迅速なエッチングが行える点にある。これより、深さ分解能を向上さ せる潜在能力をもち、今後有機材料の深さ分析で重要な役割を果たすと期待されている[26][27]。
Rabbani らはTOF-MS 装置を使用し、一次イオンとして Arn+ (n=60 – 3000) を用い、GCIB に関する系統的な研究を行った。Ar クラスターイオン衝撃は C60+ 衝撃と比較して表面ダメージ の蓄積が抑えられ、スパッタレートはクラスターサイズにあまり影響しないことがわかった。また、クラ スターサイズが大きくなると二次イオン収率の減少がみられた。GCIB は有機物の dual beam depth profiling 研究から、貴重な低損傷エッチング銃となることが予想されている[28]。
Ar は希ガスであり、原子間相互作用は水に比べてはるかに弱い。したがって、試料と Arn+
の衝突時におけるエネルギー緩和過程は水クラスターイオンを用いるEDIとは大きく異なると思わ れる。アルゴンクラスターにおける原子間相互作用は、弱いvan der Waals力によるので、衝突時 におけるエネルギー緩和過程において、衝撃波の伝播によるエネルギー散逸は起こりにくく、Arn+
中のAr原子そのものの個性が衝突過程に強く現れる。原子質量が40 uであるから、これよりも質 量が小さな H、C、N 原子からなる化合物に対しては、相手原子に運動量移行を起こしやすい。こ のため、有機化合物に対して大きなエッチング能を示す。ところが、Ar 原子よりも大きな原子量を
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持つ金属材料などに対しては、ほとんどエッチングが起こらない。このため、金属と有機化合物の 積層材料解析においては、エッチングが金属膜で停止し、多層膜の試料にたいしては適用が大 幅に制限される。これに対して、水を液滴に用いるEDIでは、無機、有機材料を問わず、エッチン グが可能である。これは、水という特殊な液体を入射粒子に用いていることに起因する。これは、水 滴が強い水素結合で三次元的なネットワークを形成し、衝突において、水分子の個性がなくなり、
液滴を構成する水分子が衝突において、協同効果を発現して特異な脱離・イオン化を起こす。す でに述べたように、瞬間エネルギー付与と瞬間エネルギー散逸という事象を極めて短時間(ps)に 実現できるのがEDIの特色である。換言すれば、Arn+ 衝撃は非断熱的、EDIは断熱的な衝突過 程を起こす、ということである。
このように、水を主成分とする帯電粒子を用いる SIMS は、他のクラスターに比べて特異な、そ して他法にはない優位点をもつ。この優位点は、水滴中に形成される水素結合に由来することは 上に述べた通りである。この水素結合が衝撃波の伝播媒体となって急速なエネルギー散逸に寄与 する訳であるが、水にアルコール等の有機溶媒を加えると、液滴中の水素結合に乱れが生じて、
衝撃波の伝播によるエネルギー散逸効果が減じて、イオン化過程や脱離過程に影響を及ぼすと 考えられる。この章では、帯電液滴の液体組成(水/アルコール混合比)を変えることで、得られマ ススペクトルやエッチング効率がどのように変化するかを調べ、衝突時におけるエネルギー散逸過 程に関する情報を得ることを目的とする。添加するアルコールとしては、メタノール及び 2-プロパノ ールを用いた。メタノールは、H2O の一つの水素原子がメチル基に置換された構造で、水の水素 結合に与える影響は比較的少ない、と予想した。一方、2-プロパノールは、疎水性が大きいプロピ ル基の存在で、水の水素結合の乱れがメタノールに比べてより顕著に表れると予想した。
6-2 実験
帯電液滴の生成方法・装置は第二章に準じる。1 M 酢酸の H2O /MeOH または H2O
/2-PrOH 溶液を大気圧エレクトロスプレーさせて帯電液滴を生成する。
Bradykinin および rhodamine B 溶液 1 μL をSUS ターゲット上に滴下、真空乾燥して EDI 照射を行った。塗布したサンプル量はいずれも 100 pmol である。また、半導体試料として シリコンの自然酸化膜 SiO2(4 nm)/Si を用いた。SiO2 膜厚は分光エリプソメーターで測定した。
合成高分子試料として、平均分子量 35,000 のポリスチレン(PS35000) 薄膜を用いた。まず、 1 wt% トルエン溶液を調製し、これを W( 1μm)/Si 基板上に製膜した。成膜条件は、スピンコータ ー3000 rpm、 30 s で均一に塗布後 90 ℃ で 5 分アニール、である。膜厚は分光エリプソメー ター によって測定し、50 nm と計測された。