第4章 メコン下流域における水資源に関する協力
第2節 メコンの水資源
1.水資源の開発・利用と環境問題
水資源は、生活用水や工業用水といったかたちで日常生活や生産活動を支えるだけでは なく、発電や灌漑の用途にも用いられる。水資源の利用・開発は、発電や大規模灌漑を主 たる目的として行われることが一般的であり、自然環境に被害を与えることが多い。たと えば、水力発電を目的とした大規模ダムの建設は、広範囲にわたる森林伐採を必要とする。
ダムが完成すると、多くの動植物のそれまでの生息地がダム湖に水没し、失われる。ダム の築造は、回遊魚の遡上等にも影響を与える。この結果、ダム周囲およびダムが造られた 河川の生態系が変化する。ダム建設によって巨大な貯水池ができると、広大な湖面から水 分が蒸発するようになる。これに起因して、ダム周囲では、降水量の増加や気流の変化、
湿度の上昇などが発生する。その結果、貯水池周辺の植生が変化したり、肺疾患等のかた ちで人体に悪影響を及ぼしたりする可能性もある。集中豪雨が観測されるようになった ケースも散見される 1)。森林喪失や河川の流量の変化、これに伴う生態系の変化は、灌漑 を目的とした導水トンネルの建設やこれを用いた取水・分水によっても生じる。
水資源の開発・利用は、適切に監理されない場合、ここまで見てきたような被害をもた らす。加えて、水資源は、これまでの地球環境政治の代表的対象ともいえる鯨類資源や絶 滅に瀕した動植物という枯渇しそうな生物資源と同様、貴重な天然資源である。鯨類や絶
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滅危惧種と同じく、環境政治の対象になると考えられる。このことから、水資源の開発・
利用は、環境問題のコンテクストから捉えられるといえる。
2.メコンの水資源を取り巻く状況
メコン地域の発展には、メコンの水資源の開発・利用が大きく寄与する。メコン流域諸 国は 1980 年代以降、急速な産業化、工業化、および都市化を伴う経済発展を経験してい る。インフラが不十分な国も多く、産業化や工業化に必要なインフラ整備も旺盛に行われ ている。増大していく電力需要を満たすためには、電源開発が寄与する。
メコンの水資源は、毎年平均 47 万 5,000 立方メートル以上が利用されないまま海へと たどり着いている。この利用されていない水資源が十分に活用され、水力発電に用いられ た場合、年間約 50 万ギガワットの発電が可能になると見込まれている。この発電量は、
今後数十年間に予想されるメコン流域諸国の電力需要を賄うのに十分な量に匹敵するとの 試算がある2)。
メコン下流域では、水資源の開発・利用に向けた動きが活発化しているが、すでに水資 源の開発・利用に伴う生態系・生物多様性への悪影響が発生し始めている。メコン支流で のダム開発が魚類に影響を与えた事例も報告されている。タイ東北部に位置するナンポン
(Nam Pong)・ダムの場合、築造前には85種の魚類が確認されたが、築造1年後には54
種の魚類しか確認できなかった。ダムの築造に伴う環境変化により、31 種の魚類が淘汰さ れたと考えられる。その一方で、築造後に、ダム周辺での漁獲量は増加した。ただし、コ イ科の魚の漁獲量が減少し、タイワンドジョウ科の魚の漁獲量が増えた。ダム築造に伴い、
その周囲で、魚類の生態系に変化が生じたと考えられる 3)。このような事態は、水資源開 発・利用の進展により増加していくと見込まれている。
メコン流域には、居住する地域の生態系に依拠して生計を立てている住民が数多く存在 する。たとえば、カンボジア人が年間に摂取するタンパク質の8割がトンレサップ湖をは じめとするメコン水系の魚類に由来するとの調査結果もある。開発に伴い、生態系が大き く変化したり、損なわれたりした場合、多くの流域住民が生計手段を失うことになる。流 域住民の生計手段を維持していくためには、自然環境に配慮したかたちでのメコンの水資 源の開発・利用が求められる4)。
メコンの水資源の開発・利用をめぐっては、流域国間での協力が必要となる。メコン河 は、6か国にまたがる国際河川である。国際河川では、ある上流1か国による水資源の開 発・利用が下流に位置する国の水資源や水質、生態系・生物多様性に影響を与える。加え て、メコン河は、タイとラオスの間やミャンマーとラオスの間で、国境の役割も果たして いる。このため、1地点における開発や環境悪化、生態系・生物多様性の変化が複数国間 の問題にすべからく昇華される。
メコン流域諸国は、政治・経済・社会システムが異なり、かつ対立や紛争の歴史を有す る。このため、水資源の開発や利用にあたっては、流域国間での信頼と透明性の向上が不
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可欠であり、この実現に向けた協力が必要である 5)。メコンの水資源は、近年、不足がち になりつつある。その一方で、メコン流域の各国内では、社会経済開発の観点から、水資 源に対する圧力が急上昇しつつある。このため、流域諸国間でメコンの水資源をめぐる紛 争が発生する可能性も潜在する 6)。これを回避するためにも、流域諸国が協力してメコン の水資源を扱っていく必要がある。
3.メコンの水資源に対する流域諸国の対応
メコン下流域に位置するカンボジア、ラオス、タイ、およびベトナムの4か国は、長年 にわたり、メコンの水資源の開発・利用を対象とした政府間協力の枠組みを維持してきた。
こ れ ま で に 、 ① メ コ ン 下 流 域 調 査 調 整 委 員 会 (Committee for Co-Ordination of Investigation of the Lower Mekong Basin; 以下、メコン委員会と呼ぶ)、②メコン下流域 調査調整暫定委員会(Interim Committee for Coordination of Investigation of the Lower
Mekong Basin; 以下、暫定メコン委員会と呼ぶ)、③メコン河委員会(Mekong River
Commission; 以下、MRC と呼ぶ)、の3つの枠組みがかたちづくられてきた。これら3
つの枠組みは、同時並列的に存在してきたのではなく、メコン委員会から始まり、暫定メ コン委員会を経て、現在の MRC に至る。なお、本論では、メコン委員会から MRC に至 るメコン下流域4か国間の協力体制に言及する際、「メコン・レジーム」(Mekong Regime) という言葉を用いる 7)。メコン・レジームをかたちづくってきた各委員会について述べる 際は、それぞれの委員会の名称を使用する。
メコンの水資源の開発・利用に関する協力は、サブリージョンの規模で行われてきたと 捉えることができる。メコン・レジームは、メコン下流域に位置する4か国によって構成 されてきた。東南アジアの 10 か国で構成される地理的空間をリージョンとした場合、そ の内部の隣接し合う4か国から形成される地理的空間であるメコン下流域は、東南アジア のサブリージョンに該当する。この視座に立つと、メコン・レジームは、東南アジアのサ ブリージョン・レベルにおける協力だと捉えることができる(図4-1、図4-2)。
メコン・レジームにおける水資源の開発・利用を対象とした協力は、ASEAN Way に よって規定されてきたと仮定できる。第1章で論じたように、サブリージョンにおける協 力は、リージョン・レベルでの協力の規範や行動様式によって規定される。第2章で見た ように、東南アジアのリージョン・レベルの規範・行動様式は、ASEAN Way である。こ のため、メコン・レジームでは、ASEAN Way に該当する行動がとられ、そこに由来する 結果を享受してきたと考えられる。ASEAN Way が用いられると、協力そのものの実現と 維持が促進される一方で、協力における具体的な取り組みの実施が遅れ、目的として示さ れた成果が得られない。このことを踏まえて、次節以降では、メコン委員会、暫定メコン 委員会、およびMRCで、ASEAN Wayに該当する規範や行動様式が用いられ、その結果、
協力関係が維持されてきた一方で、水資源の協調的開発・利用に至っていないことを見て いく。
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メコン・レジームは、メコン地域で最も長い歴史をもつ地域協力であり 8)、60 年に及ぶ 歴史をもつ。①メコン委員会時代(1957~1977 年)、②暫定メコン委員会時代(1978~ 1994 年)、③MRC 時代(1995 年~)、の3つに時期区分することが可能である(図4-
3)。次節からは、各委員会ごとに展開や取り組みを見ていき、ASEAN Way の影響を検 討していく。
図4-1 東南アジアとメコン下流域
出典:筆者作成。
図4-2 東南アジアとメコン下流域の概念図
出典:筆者作成。
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図4-3 メコン・レジームの展開
出典:筆者作成。
第3節 メコン委員会
1.メコン委員会の展開:形成と終焉
メコン下流域4か国による水資源の開発・利用に係る協力は、メコン委員会から始まっ た。メコン委員会は、国連と国連極東経済委員会(ECAFE)9)の支援を受けて、1957 年 10 月に発足した。ECAFE は、1956 年からメコンの水資源や生態系に関する調査を行い、
これをまとめた調査報告書を1957年10月に発表した。そのなかでは、メコン下流域に位 置する地点であるパモン、ケマラート(Khemarat)、コーン(Khone)、サンボール
(Sambor)、ならびにトンレサップ(Tonle Sap)を対象とした水資源の開発計画が示さ
れた。そして、情報や計画の共有、プロジェクトの調整、およびこれらに係る枠組みの設 立が必要とされ、メコン流域の開発を対象とした組織を形成するよう要請が行われた 10)。 タイ、ラオス、カンボジア、および当時の南ベトナムの4か国は、ECAFE の報告書の内 容を踏まえて、協議の結果、メコン委員会の設立を決定した11)。
メコン委員会に対しては、大きな期待を寄せられた。メコン委員会は、メコン流域を対 象とした史上初の地域協力体であったとともに、国連が初めて直接的に関与した国際河川 の開発計画であった 12)。国連事務総長時代のウ・タント(U Tant)は、国連によってな された取り組みのうちで、メコン委員会に代表されるメコン流域の開発プロジェクトが最 も重要なものの1つであると述べた 13)。メコン委員会は、メコン下流域だけではなく、東