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ドキュメント内 中国宋代における服飾の変遷 (ページ 52-69)

i昧 (三

` 淋 賞 日 》

)

13 

白杉

(周『 中国衣冠服飾大辞典』上海辞書出版社、1996年)

  

帽杉。帽以烏紗、杉以喜羅為之,角帯

,繋

帆 東都時

,士

大夫交際常服之。南渡後,

一愛為紫杉

,再

愛為涼杉,自是服帽杉少丸 惟士大夫家冠昏、祭祀猶服鳥 若國子生, 常服之。212

50

(帽杉。 帽 は烏紗 を用 い、杉 は喜羅 を用 いてい る。 角帯 は繋模 である。 東 の都(開)

の時、士大夫 は交際の時に常にこれ を着ていた。南渡後(杭)、 一変 して紫杉 とな り、

再び変 わ り涼杉 とな り、 これ よ り帽杉 を着 る人 々は少 な くなった。思 うに、士大夫 の 家 では冠婚や祭祀 の とき も着 るべ きであ り、そ して國子生213も常 に着 るべ きで ある。)

帽杉 は、冠婚や祭祀の時に着 る。 また國子生 も着 るべ きである と書かれ てい る。

  

襴杉。 以 白細布 為之

,園

領 大袖

,下

施横襴為裳

,腰

間有辟積。進 士及 國子生、州縣 生月艮之。214

(補杉 は 自細布 で作 られ た。丸首で大袖、下は横補 を施 し、裳 とした。腰 間に辟積215が あ る。進士及び國子生、州縣生は これ を着た。)

進 士及び 國子生、州縣生は禰杉 を着 ると書かれ てい る。

(會 固 オニ )杉  

(『

14襴

大漢和辞典』諸橋轍次

大修館書店

 1963年

)

紹興五年 高宗謂輔 臣 日:「金翠為婦人服飾 已戒 中外

,及

下令不許入宮門

,今

無一人犯者。

定鈴金及採捕金 翠罪賞格。 」216

不惟靡貨害物 而修靡之習,賞開風化。

尚恐士民之家未能壷革

,宜

申厳禁,4「J

(紹興五年〈1135年〉、高宗が輔佐の官僚に言 うには、「金翠217は婦人の服飾であ り、贅 沢なものだけではなく、修靡の習であ り、実に風紀に関わる。すでに宮廷内外に戒め、

及び命令 を下 して宮門に入 ることを許 さない。今、一人 も犯す者がいない。なお士民 の家は、未だよくことごとく改めることができないことを恐れ、厳 しく禁止す るべき である。すなわち、鈴金及び金翠の採捕の賞罰の規定を定めるべきである。」)

ここでは、金翠が官廷内に入 ることを禁止する。士民の家でも金翠を禁止す ると書かれ ている。

  

淳熙二年

,孝

宗宣示中官樟衣 日:「珠玉就用禁中菖物

,所

費不及五高

,革

弊営 自宮禁 始。」因問風俗

,襲

茂良奏:「由貴近之家

,放

傲宮禁

,以

致流偉民間。粥管理者

,必

言 内様。彼若知上崇尚淳朴

,必

観感而化実。臣又間中宮服瀞濯之衣

,数

年不易。請宣示 中外

,傷

敷有司厳戦奢僣。」劉8

(淳熙二年〈1175年〉、考宗が中官の祥衣を宣示 して言 うには「珠玉は禁中の古い物に 用い られ、費用は五萬両に及ばず、弊を改めるにまさに宮中で禁止す ることか ら始め るべきである。」 と。 よって、風俗 を問 うに、襲茂良奏上 して、「貴族や皇帝に近い官 僚は、宮禁を模倣することによ り、民間に広ま りま した。著鋒 〔耳の飾 りに垂れる 耳玉〕を売る者は必ず種類を言います。売る側については、皇帝は淳朴を尊んでいる ことを知れば、必ず気持ちを見て変化 します。臣はまた中官が浣濯の衣を着、数年変 わ らないことを聞き、これを内外に宣示 し、すなわち有司に勅 して贅沢を厳 しくやめ るよ うにして頂きたい と思います。」 と。)

この資料では、贅沢を禁止す るとい うことが書かれている。

  

寧宗嘉泰初

,以

風俗修靡

,詔

官民螢建室屋

,一

遵制度

,務

徒簡僕。又以宮中金翠, 播之通衝

,貴

近之家

,犯

者必罰。220

(寧宗嘉泰初〈1201年〉、風俗の修靡を以て、官民の室屋の営建は、一に制度に従い、

務めて簡撲に従 うべきであると詔 した。宮中の金翠が通衛に広がっているが、貴近の 家は犯 した者は必ず罰する。)

ここでは、宮中の金翠が貴近の家に広がることを禁止する。

以上の①〜⑨までの史料から、南宋時代になると、朱喜によつて士大夫の服装の制度が

で き、それ に従つた服装 をす るよ うになった。冠祀や紫杉、涼杉、帽杉 、襴杉 な どの制度 が定まった。 また、北宋時代 と同様 に贅沢 を禁止 してい る。理 由 としては、宋 の時代 は、

金 に歳貢 を送 っていた こともあ り、経済的 にもあま り豊かではなかった ことによ り、贅沢 を禁止 した もの と考 え られ る。

○おわ りに

これまで、中国宋代 の諸 臣 と士庶人の月艮飾制度 について『宋史』輿服志か ら見てきた。

諸 臣の服飾制度では、帽子、帯、笏、樺、服色のすべてにおいて身分の差 を明確 に しよ う と してい るこ とが読み取れ る。 また、宋代 の官服制度 が完成 したのは神宗時期 であること がわかる。在職年数や年齢、特別 な恩賜 によって服色が変わるな ど、細か く制度が定め ら れ てい る。

服飾 の特徴 としては、 この時代か ら魚袋 を身 に付 けるよ うになったことである。元々は 割 符 として用い られ ていたが、それが官位 の差異 を明確 にす るために装飾 品化 した と考 え られ る。紫衣 に金魚袋 (三品以上)・″卜衣 に銀魚袋 (五品以上)とい う姿が高官の象徴 とさ れ た。 このよ うに魚袋 をつ けることで身分 の差 をはっき りさせ ているのである。

また 「樺」の制度 か らは、異民族の文化 を排除 し、音の伝統的な漢民族の制度 を取 り戻 そ うとい う意志が見 られ、「程朱の理学」の考 えがあった ことがわかる。 さらに、「営時議 者 以準不営用之 中国

,賞

康繹氏之漸云。」 の ところでは、「議者 は樺 を中国では使 わせず、

徐 々に繹氏を廃す る傾 向があった」と書かれ てい る。「繹氏」とは、「佛教」の ことである。

よって、「樺」には 「佛教」の影響 があつた と考 え られ る。そ してそれ を廃す る と書かれて い ることか ら、宋代では、外か ら入 つてきた異文化 を廃そ うとしていたのではないか と考 え られ る。 また、唐 の時代 に流行 つていた北方民族 の胡服 の影響 もあ り、それ を廃 除 しよ

うとした ものではないか と考 える。

北宋 と南宋 での服飾制度 はそれ ほ ど大きな変化 は見 られ ないが、南宋時代 は在職年数 の 計算法 をきちん と見直す な どの制度の引き締 めが行 われた ことが北宋 よ りも感 じられ る。

また、時服の史料か ら読み取れ ることは、地方官の者 には特別な恩赦 を与 えてい ること で ある。史料 を見てみ ると、「藩鎮の観察使以上は、天 下楽量錦 を与 られ、尚書及び歩軍都 虞侯以上及び知益州、知井州 は、次量錦 を与 え られ、皆五事 とす る。」と書かれ てい る。観 察使 は正五品であ り、位 は高 くない。しか し、従一品や徒二品の中書門下、枢密 、宣徽院、

節 度使 に与え られていた天 下楽曇錦 を与え られ てい る。 また、知益州、知井州 には次量錦 を与 え られ、工事 とした。益州 と井州 は、遼や西夏の国境付近 に位置す る。 当時は、遼 と 争 つていたため、北 の方 の地方官や戦いに貢献 した者 には特別 な恩赦 を与 えていた と考 え

られ る。

また、北宋時代か ら南宋時代 にかけては、技術官(医師、天文師 な ど)や膏吏か ら官僚 に な った者 を評価 しよ うとしていることがわか る。 これ は、北宋時代の都である開封か ら南 宋 時代の都である杭州 に遷 る際に、気候や風土の変化 に対応す るため、医師や天文師が重 用 とされていたのではないか と考 える。膏吏は、庶 民であ りなが らも役人の仕事 をす る地 位 の低い役人の ことである。膏吏は、地元で働 いてい る。南に遷 るとき、その土地のこと を よ く知 ってい る膏吏に助 けて もらったことによ り、特別 な恩赦 を与えた と考 え られ る。

そ して士庶人の服飾制度 は、陳茂同氏、戴鉄祥氏、華梅氏、王雪莉氏が論 じていた よ う に「程朱の理学」が特 に南宋時代で影響 してい ることがわかった。また、北宋時代 は官僚、

士大夫、庶人それぞれ の身分が乱れているのを正そ うとしてい ることが読み取れ た。士人 や庶人たちが官僚 た ちの服装や使用 してい る物 を真似 した こ とによ り、身分 の差 が乱れ た。

これではいけない とし、身分 をはつき りと区別 させ るために贅沢 を禁止す るな ど、音の法 を見直 し、輿服の制度 を厳 しくし直 した と考え られ る。

また、契丹の服 を禁止す るな ど、第1章で も論 じた よ うに、異民族 の文化 はりF除 し、昔 の漢民族の制度に戻そ うとしてい ることが読み取れ る。

そ して、南宋時代 も北宋時代 と同様 に贅沢 を禁止 していた こ とがわか る。理 由 と しては、

この時代宋 は、金 に歳貢 を送 っていた こともあ り、経済的 にもあま り豊かではなかった こ とによ り、贅沢を禁止 した と考 え られ る。

この よ うに宋代の諸 臣や士庶人 の服飾制度 には、北方民族 が勢力 を拡大 してきた ことに よる影響 を非常に受 けていることがわかる。国境付近の地方官や膏吏には特別な恩赦 とし て帯や時服 を与えた り、異民族 の文化 をリト除 して漢民族 の文化 を取 り戻そ うとす る 「程朱 の理学」の考 えが表れ ていた。 また士庶人の服飾制度では、贅沢 を強 く禁止 していた。北 宋 時代か ら金や遼 との争 いがあ り、南宋時代 には金 に歳貢 を送 つていた。 それ に よ り国の 経済 を考慮 し、贅沢 を禁止 していた と考 え られ る。

先行研究で共通 して論 じられていることは、宋代の服飾制度には 「程朱理学」が影響 し ているとい うことである。この結論に対 しては同意であ り、『 宋史』輿服志か らも読み取る ことができる。しか し、あま り詳細には論述 されていない。また、王雪莉氏の結論②の「美 に対する追及があ り、時尚に突飛な奇想があつた」 とい うところに対 しては同意すること ができない。『宋史』輿服志か らは読み取ることができなかった。また、北宋、南宋に分け ての服飾制度の変化や時代背景についてはそれぞれあま り述べ られていない。

やは り、政治情勢によつて服飾制度 も変わるとい うことが今回の研究でわかつた。 しか し、今回の研究では宋代の政治について詳 しく研究す ることができなかった。また、唐の 時代の服飾制度か らどうよ うに変化 したのか とい うところも調べることができなかったの で、これ らは今後の研究課題 としたい。

ドキュメント内 中国宋代における服飾の変遷 (ページ 52-69)

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