2.樺
第 6節 時服について
③ 慶暦八年 ,詔 禁士庶傲契丹服及乗騎鞍轡、婦人衣銅緑免褐之類。Ю 6
(慶暦八年〈
1048年
〉、士人 と庶人 は、契丹の服 を習 うこと、及び馬 の鞍碁 7、 婦人 の 青色の毛衣を着ることを禁止する。)契丹の服を着ることを禁止すると書かれている。
⑨
皇祐元年
,詔
婦人冠高母得喩四寸,廣
母得喩尺,杭
長 母得喩 四寸,例
禁以角為之。先是
,宮
中尚 白角冠杭,人
争倣之,至
謂 之 内様:冠
名 日垂肩等[六],至
有長 三尺者 ;杭長亦喩尺。議者 以為服妖
,遂
禁止 之。 8(皇祐元年〈
1049年
〉、婦人の冠の高 さは、四寸 〔約 12センチ〕 を超 えることはでき ない。横 の広 さは尺 〔訳30セ
ンチ〕 を超 えることはで きない。 くしの長 さは、四寸 を超 えることはで きない。 これ を牛や 羊の角で作つてはいけない。 これ よ り前、宮 中 では 自い角でできた冠の くしを請い願 い、人々はこれ を真似す るよ うになった。そ し て、 これが官 中の様式 となった。冠の名 は垂肩 な どといい、長 さは三尺 〔約90セ
ン チ〕ある。くしの長 さは尺 を超 えた。議者が怪 しげな服装 だ とい う意見 を出 したため、つい に禁止 された。)
ここでは、婦人の冠の制限、冠の長 さの制限について書かれ てい る。
⑩
七年
,初 ,皇
親典内臣所衣紫,皆
再入為勤色。後士庶寝相数,言
者以為奇衷之服,於是禁天下衣黒紫服者。169
(七年〈1055年〉初め、皇親 と内臣は紫の服を着たが、再び黒色の服 を取 り入れた。後 に士人 と庶人に広まった。言者は、正 しくない服だ と指摘 し、世間では黒紫の服を禁 止 した。)
ここでは、庶民で黒紫の服 を着 ることを禁止す る。官僚た ちの着 る月艮を倣 つてはいけな い としている。また、第1章で検討 した官服で も述べたが、皇親、内臣の服 は紫 とし、黒 色 を着 ることは禁止 された もの と考え られ る。
①
神宗熙寧九年
,禁
朝服紫色近黒者 ;民庶止令乗憤車,聴
以黒飾,間
五彩為飾,不
許 呵引及前列儀物。170(神宗熙寧九年〈1076年〉、朝服には黒に近い紫色の物を禁止す る。民間と庶人はただ 槍軍1・に乗 る場合、黒の装飾は許すが、所々に五彩の装飾がある場合、呵引 〔先ばら
い〕及び前列の儀物を用いることは許 さない。)
朝服の区分を明確 にしている。民庶の憤車の制限について書かれている。
⑫
哲宗紹聖二年
,侍
御 史雀思言 :「京城士人興豪右大姓,出
入率以輛 自載,四
人昇之,甚者飾以稜蓋
,徹
去簾薇,翼
其左右,労
午於通衝,甚
為僣擬,乞
行止組。」徒之。r2(哲宗紹聖二年〈1095年〉、侍御史173〔殿 中に給事す るこ とを掌 る〕である雀思 は、「京 城 の士人 と豪遊大姓 は、皇城 に出入 りす る場合、輛174〔か ご〕 に乗 り、四人で これ を 担いでい る。甚だ しい者 は、粽欄 で蓋い、簾 を外 し、その左右 に翼 のよ うに付 けて道 路 を行 きか う。 また、甚だ しい者 は官 中の人々の真似 を してい る。 それ らを止 めるこ
とを求 める。」 と言い、 これ に従 つた。)
士人、豪遊大姓 の輛の宮 中への乗 り入れ を禁止す る。宮 中での官 と士人、大姓の区分に ついて書かれ てい る。
⑬
徽宗大観元年
,郭
天信乞中外並罷翡翠装飾,帝
日:「先王之政,仁
及草木禽獣,今
取 其羽毛,用
於不急,傷
生害性,非
先王恵養萬物之意。宜令有司立法禁之。」r5(徽宗大観元年〈1107年〉、郭天信r6は官廷 の内外では翡課177の装飾 はや めるよ う求 め、
皇帝が言 うには、「先王 〔哲宗〕の政治 では、仁 は草木動物 まで及んでいたが、今 は必 要でないのに、その羽や毛 を取 り、生 きるものを傷つ け心 を害 してい る。先王の さま ざまな ものを慈 しみ養 う意思 とは異 なってい る。有 司178に法 を立て させ 、禁 じさせ る べ きである。」 と。)
ここでは、翡翠の装飾 の禁止について書かれている。
⑭
政和二年
,詔
後苑造綴畠。蓋自元豊初,置
為行軍之琥,又
為衛士之衣,以
排姦詐,44
遂禁止民間打造。令開封府 申巌其禁
,客
旅不許興販織板。179(政和二年〈1112年〉、後苑 で絞 り染 めを した絹織物 を造 る と皇帝が決 めた。おそ らく 元豊初 め〈1078年〜〉か ら行軍の印 としていた。また衛±180の衣 を不正 な者 た ち と区別
した。そ して遂 に、民間において これ らを作 ることを禁止 した。開封府181にその禁 を 厳 しくさせ 、客旅慇2には綴板 を販売す ることを許 させ ない。)
ここでは、民間で絞 り染めの絹織物 の製造 を禁止 し、軍隊の服 と民間の服 を区別 した。
⑮
七年
,臣
僚上言 :「章穀之下,奔
競修靡,有
未革者。居 室服用以壮麗相誇,珠
磯金玉 以奇巧相勝,不
獨 貴近,比
比紛紛, 日益滋甚。 臣嘗考之,申
令法禁雖具,其
罰 尚軽,有司玩習
,以
至於此。如民庶之家不得乗輛,今
京城 内暖橋,非
命官至富民、娼優 、下 賤,遂
以為常。霜見近 日有赴 内禁乗以至皇城 門者,奉
祀乗 至宮廟者,坦
然無所畏避。臣妄以為僣祀犯分
,禁
亦不可以緩。」於是詔,非
品官不得乗暖轄。B3(七年〈1117年〉、臣僚が言 うには、「世の中の人たちは、贅沢 を競い、身分相応 の服 を 着ていない。居室の服 は壮麗 で あ り、探犠諮4金玉 は珍 しい ものではな くな り、身分が 高い ものだけではな く、広 が り乱れ、 ます ます甚だ しくなってい る。 臣は嘗て これ を 考 え、法で禁止す るよ うに したが、その罰 は軽 く、有司の悪い習慣 に よ りこの よ うに なって しまった。民間庶人 の家では、輛 に乗 ることができなかったが、現在京城 内で は暖橋 に乗 り、命官 〔官 に任ぜ られ た者 〕でな くて も富民、娼優B5、 下賤 に至 るまで 一般的になった。最近見てい ると、内禁 に赴 くのに暖輛 に乗 つて皇城 門に至 る者や、
宮廟 に至 る者 がお り、畏れ る ところがない。 臣はみだ りに稽 を犯 し、身分 を犯す と考 え、これ らの禁令 を緩 めてはな らない と思います。」と。これ に対 して皇帝は詔 し、品 官 でなけれ ば暖橋 に乗 ることがで きない とした。)
この史料では、品官が乗 る暖橋 に民庶 が乗 つている。身分 の上下に関係 な く珠磯金玉を 付 けてい る。つま り、身分 の区別 の乱れ を正そ うとしていることが読み取れ る。
⑩
先是
,植
嚢遣提奉淮南東路學事丁罐言:「衣服之制,尤
不可緩8今
間閻之卑,侶
優之 賤,男
子服帯犀玉,婦
人塗飾金珠,尚
多僣修,未
合古制。臣恐祀官所議,止
正大典,未違及此。伏願明詔有司
,巌
立法度,酌
古便今,以
義起祀。倅間間之卑,不
得興尊者 同榮 ;侶 優之賤,不
得興貴者並麗。止法一正,名
分 自明,革
湊倫以婦忠厚,豊
日小補之哉。」是歳
,又
詔敢為契丹服若藍笠、釣塾之類者,以
違御筆論。釣塾,今
亦謂之機袴
,婦
人之服也。田6(これ よ り前 、臨時に提奉187と して淮南東路に送 られた学事88〔科挙 の監督〕の丁曜が 言 うには、「衣服 の制度 は緩 めるべ きではあ りませ ん。今 、間閻189の身分 が低 い者 、娼 優 の身分 が低 い者 の男子 は犀玉でできた帯 を付 け、婦人 は金珠 の塗飾 を付 けるな ど、
贅沢 を してい る者 が多い。 これ は古い制度 か ら外れ てお ります。私 は考 えるに、祀 を 恐れ官所で合議 しま した。 しか し、法 を正す ことに とどまつてお り、まだ及 んでお り ませ ん。身 を低 くして願 い、有司に告 げます。厳 しく法 を立て、昔の制度 をよく理解
し、今 に適用 し、礼儀 を正 しくす ることを願います。間閻の身分の低い者 には尊者 と 同 じ栄誉 を与 えず、侶優 の身分 の低 い者 には貴者 と同 じ服装 な どの華麗 さを与 え させ ない。この法 を一度正 しくすれ ば、名分がおのず と明 らかになる。誓 橋 ЮO〔名 分の差 を軽視 し、乱す とい う風潮〕 を改 め、忠実に守 るよ うになるで しょ う。 これが小 さな 修正 とい えるで しょ うか。いや 、い えませ ん。」この年 また詔す るに、あえて契 丹の服
は、離 性 1〔毛織 のか さ〕、釣う
室 の よ うな もの とす る と した。皇帝の命令文に違 えば 処罰 した。釣塾の ことを今では機袴 といい、婦人の月長の こ とである。)
ここでは、身分の低い者 は、贅沢 を してはな らない。衣服 の身分の差 を明確 にす る。 ま た、契丹の服 を禁止す る と書かれてい る。
以上の①〜⑩までの史料か ら読み取れ ることは、北宋時代は官僚、士大夫、庶人それぞ れの身分が乱れているのを正そ うとしていることがわかる。② と③の史料を見ると、「近年 品官緑抱及奉子 白補下皆服紫色
,亦
請禁之。(近年、品官の緑抱 及び士人の自補 の下には 紫色の服 を着ることを禁 じてほしい。)」 「端扶二年,詔
縣鎮場務諸色公人井庶人、商買、伎術、不係官伶人
,只
許服喜、自衣,鐵
、角帯,不
得服紫。(端供2年
〈989年〉、縣鎮場に 務 める人たち、公人並びに庶人、商買、伎術で、官伶人でないものは黒服、自衣、鐵、角 帯は許すが、紫の服は許 されない。)」 と書かれている。これは、官月長で九品以上が緑、三 品以上が紫の服を着ることか ら、官僚 と同 じ色の服を着ることを禁止 しているとい うこと がわかる。士人や庶人たちが官僚たちの服装や使用 している物を真似 したことにより、身分の差が 乱れていた。 これではいけない とし、身分をはつき りと区別 させ るために贅沢を禁止する な ど、昔の法を見直 し、輿服の制度を厳 しくし直 した と考えられ る。
また、③の史料には 「慶暦八年
,詔
禁士庶微契丹服及乗騎鞍轡、婦人衣銅緑免褐之類。(慶暦八年く1048年〉、士人 と庶人は、契丹の服を習 うこと、そ して馬の鞍碁 、婦人の青色 の毛衣を着ることを禁止する。)」 と書かれてお り、契丹の服を禁止 している。これは、第
1章
でも論 じたように、異民族の文化をυF除し、昔の漢民族の制度に戻そ うとする 「程朱の理学」の考 えを読み取 ることができる。
第
2節
南宋時代 の士庶人 の服飾『 宋史』巻
153輿
服 には、以下の よ うに記 され てい る。①
中興
,士
大夫之服,大
抵 因東都之奮,而
其後給愛焉。一 日深衣,二
日紫杉,三
日涼杉
,四
日帽杉,五
日襴杉。淳熙中,朱
烹又定祭 祀、冠婚 之服,特
頒行之。凡士大夫家 祭祀、冠婚,則
具盛服。 有官者僕頭 、帯、樺 、笏,進
士則峡頭、襴杉、帯,虎
士則峡頭、喜杉 、帯
,無
官者通用帽子 、杉 、帯 ;又 不能具,則
或深衣,或
涼杉。有官者亦通用帽子以下
,但
不為盛服。婦人則似書 、大衣 、長裾。女子在室者冠子、背子。衆妾貝1椴紛 、背子。Ю2
(南宋 とな り、士大夫 の服 は、大抵東都 〔北宋 の都 、開封〕の音の ものであったが、そ の後やや変化 した。一つ 目は深衣Ю3、 二っ 日は紫杉Ю4、 二っ 日は涼杉Ю5、 四つ 目は帽 杉Ю6、 五つ 日は補杉Ю7でぁる。淳熙中〈南宋時代、1174〜1183年〉、朱烹 はまた、祭祀 や冠婚 の服 を定 め、これ を特 に一般 に広 めた。お よそ士大夫の家は、祭祀や冠婚 には、
す なわち盛服 を備 えた。有官者 は峡頭 、帯、樺 、笏 を用い、進士は峡頭 、補杉 、帯 を 用い、虎 士Ю8は峡頭 、喜杉、帯 を用い、無官者 は帽子 、杉 、帯 を用いた。 また、備 え ることができなけれ ば、深衣 、或いは涼杉 を用いた。有官者 はまた、帽子以下 〔杉や 帯〕 を用いた。 ただ、盛服Ю9とは しない。婦人 は、俄響 、大衣、長祐 を用い る。正妻 は冠子、背子200を用 い、衆妾2∝は似紛 、背子 を用いた。)
ここでは、朱喜 によつて士大夫の服 を規定 され た ことが記 されている(朱子 の法)。
②
冠祀
b三
加冠服,初
加,紺
布冠、深衣、大帯、納履 ;再加,帽
子、喜杉、革帯、繁鞍 ;三加
,僕
頭、公服、革帯、納樺。其品官嫡庶子初加,折
上巾、公服 ;再加,二
梁冠、朝服 ;三加
,平
見服,若
以巾帽、折上巾為三加者,聴
之。深衣用 白細布,度
用指尺,衣全四幅
,其
長過脇,下
属於裳。裳交解十二幅,上
属於衣,其
長及躁。園袂方領。曲 裾黒縁。大帯、絡冠、幅巾、黒履。士大夫家冠昏、祭祀、宴居、交際服之。202(冠祀203〔元服の祀〕、三加204〔加冠の祀〕の冠服。初加に結布冠、深衣、大帯、納履、
再加に帽子、喜杉、革帯、紫鞍。,三加 に峡頭、公服205、 革帯、納樺。その品官の嫡庶 子の初加に、折上巾、公服。,再加には二梁冠、朝服。,三加は平見服206と した。 もし平 見服がない場合は、巾帽、折上巾を許 した。深衣は、自細布を用い、長 さは指尺を用 い、衣は四幅 とし、その長 さは脇を超 し、下は裳に属す る。裳は十二幅、衣に上属 し、
その長 さは躁まである。丸い袖の方形のえ り、曲裾は黒縁である。大帯、結冠、幅巾、