西城戸 誠
佐藤邦子氏の講演内容は、多嶋氏の講演と比べて時間が少ないため、多嶋氏の講演のように詳細なエ ピソードが紹介されているわけではないが、自身の生い立ち、炭鉱での生活、炭婦協の活動、閉山闘争、
炭婦協の解散に関する見解が簡潔に述べられている。また、佐藤邦子氏は、
1999
年9
月に刊行された『証 言集ヤマの残響』(佐藤進編、緑鯨社)の中で、「いつも新しいはじまり」と題された文章を寄せているが、そ の内容は、講演の内容に関連する箇所に注で補足している。さらに、2011
年11
月20
日に釧路市立博物 館において開催されたシンポジウム「ヤマを支えた女たち-太平洋炭鉱主婦会」75
でも、自身の生い立ちか ら炭鉱主婦会、炭婦協のエピソードが語られている。以下、これらの記録も含めて、本リサーチ・ペーパー で掲載された講演内容に関わる論点を整理し、指摘されていない内容についての若干の補足を行いた い。第一に、太平洋炭鉱主婦会の組織体制、運営に関する議論が挙げられる。太平洋炭鉱主婦会では、夫 が太平洋炭鉱労働組合の組合員であれば、
20
歳以上の妻は自動的に会員となり、また、結婚していなくて も、組合員の家族に20
歳以上の女性がいた場合は会員となるという規則がある76
。また、主婦会の組織体 制は、執行委員会-支部長、副支部長-支部の班長-会員という構図になっており、班長は輪番制とな っている。講演の中で、
1972
(昭和47
)年からの組織改革に関する指摘があったが、これは10
名の役員から5
名の 専従を置くことで人数を半減させ、支部長も執行委員と変更したことを指す。組織改革によって、事務所を 開設、有給の専従を置き、月1
回の常会を開いた。また支部行事が活発になり、中には支部長が執行部に 入ったため、彼女らが町内会や民生委員をやるようになったという、活動家の発掘につながったという評価 があった。だがその一方で、専従役員や支部長に手当を出すことによって、主婦会の活動が任せきりにな り、また「お金で活動する」という風潮が増えたという意見も挙がっている77
。佐藤氏も、太平洋炭鉱主婦会 創立30
周年のための座談会において「いままでは組織が生活を守るということになっていたけれど、今は 自分で生活を守るという風に意識が変わってきています。それをなんとか組織が生活を守るんだ、という方 向にもっていきたいのですが、すぐ現実を目の前にやられるものだからやりずらいんです。そういう悩みが あるのですが」と語っている。第
1
章の佐藤邦子氏のプロフィール紹介のところでも述べたが、太平洋炭鉱では、1962
年から持ち家制 度が導入され、社宅を離れる組合員が増加したことや、炭鉱主婦会発足当初の衣食住を要求する運動を 知る会員の減少、働く女性の増加などによって、炭鉱主婦会の組織のあり方や運営方法が困難になって いった。上記の組織改編は、「組織」に対する組合員の考え方が変わっている中で、炭鉱主婦会の活動家75
釧路市立博物館, 2012,
『「ヤマの話を聞く会」記録集(2)』所収。なお、このシンポジウムの内容は、本 リサーチ・ペーパーの記録の内容と同じ主旨であるが、家族に関する情報は個人名が記されている。76
『「ヤマの話を聞く会」記録集(2)』42
頁。77
『母のうぶごえ』36
号(1978
年5
月)45-46
頁。を増やすための模索がある。ここでは主婦会の組織運営の課題を常に抱えていた点に留意しておきた い
78
。第二に、太平洋炭鉱主婦会の活動は多岐に及んでいることが挙げられる。炭鉱主婦会は、組合の「両 輪」として活動を行ってきた。そして、太平洋炭鉱主婦会に限ったことではないが、その時代や炭鉱(ヤマ)
ごとに独自の活動が展開された。まず、「人間らしく生きる最低の権利を要求する」ための活動が挙げられ る。戦後の食糧難、衣料不足の時期では、「食糧よこせ」の運動や越冬資金闘争を行い、その後は、保育 所の開設要求、プロパンガス代金の値上げ幅の減少要求、高校増設運動など、生活や子どものための活 動が実施された。次に炭鉱で働く夫や息子のための活動が挙げられる。雇用を守るために、会社の合理化 に対する反対闘争や、夫や息子の命と安全のために、保安活動への監視や、坑内見学、抗口慰問、保安 靴の一足無償配布の要求などにも精力的であった。また、労働組合とともに行った平和闘争(選挙活動)
がある。釧路市議会選挙や市長選挙、北海道議会選挙、北海道知事選挙、衆議院、参議院選挙などで革 新勢力を広げる運動を実施した。炭鉱主婦会からも、議員を出す動きがあり、主婦会の会長であった石川 セイ子氏も議員として活動した。
最後に、太平洋炭鉱主婦会の活動の中でも特徴的といえるのが、機関誌「母のうぶごえ」の刊行である。
「母のうぶごえ」は、
1955
(昭和30
)年5
月1
日のメーデー行事の一つとして、日常生活の綴り方、うた(詩 や短歌など)が募集され、それを編集した論集としてスタートした。 普段、鉛筆を握らないお母さんたちが、子どもの成長や日々の仕事など、日常の喜び悲しみを綴った作品は、男女同権と言われながら発言の範 囲が狭かった女性の声であり、古い妻の座、母の座への抵抗として捉えられ、母のうぶごえが母の声となる ことを企図されていた
79
。また、太平洋炭鉱では、演劇サークルやうたごえサークルがあり、文化活動が盛 んであった。1952
(昭和27
)年には、山田五十鈴主演の「女一人大地を行く」という炭鉱映画のロケが行わ れ、太平洋炭鉱主婦会もエキストラや、映画関係者の宿泊等の引き受けを行っている。以上のような、多様な主婦会の活動がある中で、佐藤邦子氏が講演の中で特に重視しているのが、
3
歳 未満児の医療費無料化運動である。この運動は1972
(昭和47
)年に、太平洋炭鉱主婦会が他の女性団体 と行ったものである。釧路市に陳情したことによって、翌年から実現された。1978
(昭和53
)年発行の『母の うぶごえ』36
号では、「帯広市の実態調査を行い、町内会婦人部長、市内婦人団体とも話し合い、みぞれ の降る中を水産加工場へ署名に行き、他団体との連携に力を入れながら二度、三度と、市長に陳情を行 ない翌年市議会で可決され、老人医療費に次ぐ福祉拡充の運動でした」80
と記されている。そして佐藤氏 も、「幼児医療無料化と、老人医療費無料化実現が、今迄私の運動続けさせる意志となったのです」と、主 婦会役員の7
年間の活動を振り返って記述している81
。この主婦会運動の成功体験が、佐藤氏が主婦会 活動を継続することになった要因の一つであり、かつ他者に対しても、炭鉱主婦会の活動の意義を自信を78
なお、佐藤氏はシンポジウム「ヤマの話を聞く会」のなかで、「他のヤマでは、「主婦会の役員はお父さん の出勤が良い人がしている」、とも聞かされました。太平洋の場合はそのようなことはありません。地域で 選ばれて仕方なくやっていたのですが」(『「ヤマの話を聞く会」記録集(2)』52
頁)と語っている。79
『母のうぶごえ』第1
号(1955
年)、「"
母のうぶごえ"
発刊に当っての挨拶」「編集後記」より。80
太平洋炭鉱主婦会『母のうぶごえ』36
号、1978
年、27
頁。81
太平洋炭鉱主婦会『母のうぶごえ』34
号、1976
年、4
頁。83
もって働きかけることができるようになったと考えることができる。
しかしながら、第一の論点でも指摘したように、衣食住が不足していた時代ではなく、豊穣の時代になり、
また、主婦会の会員が生活上の都合で仕事を持つようになり、炭鉱主婦会の活動意義が見いだせないと いう組合員が増えたため、佐藤氏はじめ炭鉱主婦会のリーダーは組織運営に苦労していたことも確かであ る。例えば、閉山阻止闘争のために不可欠な平和闘争(選挙運動)に対しても、平成
3
年度の活動記録の 中には、「現在参議院選挙は終盤を向えている(原文ママ)と言われていますが、五月から行なっている街宣 やカード書きにはOB
の方々に快く参加していただきましたが、会員の参加が少なかったのは非常に残念 です」と記されている82
。また、1993
(平成5
)年以降、主婦会の会員数の減少や活動参加者の減少を懸念 する記述が、機関誌『母のうぶごえ』に目立つようになってきた。だが、このような状況でも、太平洋炭鉱主 婦会は、食品や化粧品のあっせん、着物の着付け教室、会員の親睦旅行、ボーリング大会などを会員向 けの行事を開催し、組合員自らの健康のためのイベントや学習会、病院のボランティアなど、地域のための 活動も行うようになった。一般に炭鉱主婦会、炭婦協の活動は、さまざまな問題を「組織」の力で克服する志向性を持ち、そして、
その活動の原点には、共に「学習」をするということが重視されているといえるだろう。つまり、個人の力では 対処できない問題に対して、相対的に社会的な力が無かった炭鉱の女性たちは「連帯」し、組織的な要求 を行ってきた。炭鉱主婦会や、炭婦協の運動スタイルは、こうした学習と連帯による組織の力に特徴付けら れる。だが、時代を経て、組合員数の絶対数の減少、仕事につく組合員の増加、「個」が重視されるライフ スタイルの浸透、高学歴化に伴う「学習」の社会的位置づけの変化、かつてのような運動による成功体験の 共有の困難さなどが、炭鉱主婦会活動の継続の困難さをもたらしたといえる。
第三の論点として、佐藤邦子氏は、北海道の炭鉱が「閉山」を前提とした中で、炭鉱主婦会や炭婦協の 会長に就任したが、それは会長として、閉山という「敗北の歴史」を連続的に経験することになったことが挙 げられる。講演でも語られているように、閉山闘争に応援にいくことはとても辛い経験であり
83
、1995
(平成7
)年に炭婦協を解散することになったが、筆舌に尽くしがたい経験であったことがわかる。炭婦協の解散について、佐藤氏は「(炭婦協解散の)決断と言われても、道炭労から「(太平洋以外の)
どのヤマも閉山し、もう続けていけないのだから閉じるしか無いよね」と言われて、解散式をしたということで す。それに自分が加わってやらなければならないのは、非常に嫌でした。悲しくもなりました。本当に嫌な 経験でした。でもそれも自分が来た道なのだから、「あなたが背負わなければならないのだ」と自分に言い 聞かせながら閉じてきたということです」と語っている
84
。そして、「各炭鉱の閉山によって、炭婦協が無くな り、道炭婦協も無くなるという時には、あちこちのヤマの大先輩から大変叱られてきた経験はあります」という82
『母のうぶごえ』46
号(1998
年11
月)、75-76
頁。83
「閉山闘争の応援に行くというのは、非常に嫌ですよね。しゃべっているうちに涙がでてきちゃってね。それを行く前に感じるから、行くのが怖いのだけれども、でも行かざるを得なくて、グッと我慢をしながら お互いに話し合いをしたり、あくまでも応援に行くだけなのですが」(『「ヤマの話を聞く会」記録集(2)』
(