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6−2.旧大淀区の概要 6−2−1.旧大淀区の概要

旧大淀区は北区の北部に位置し,北は淀川,東は大川,南は旧北区,西は福島区と隣 接している。旧大淀区は豊崎東,大淀西に加えて,豊仁,本庄,豊崎,中津,大淀東の

7

つの地区に分かれている。

旧大淀区の地域は,江戸時代から続く近郊農村で青物類を天満青物市場に供給し,綿 花の栽培も盛んな土地であった。1885年(明治

18

年)に起こった淀川大水害で甚大な

6−1 大阪市北区における豊崎東地区,大淀西地区の位置

「都心回帰」による大阪市の地域社会構造の変動 70

被害を受け,11年にも及ぶ淀川河川改修工事の実施以降,鉄道の発達とともに機械・

金属・紡績・染色などの工場が次々と進出して一躍工場地帯となった。日露戦争を契機 にますます工場の進出が進み,周辺には飲食店,小売店,地方出身者用の従業員向け貸 長屋が次々に建設されてにぎわった。さらに

1909

年(明治

42

年)に旧北区地域で起こ った大火により

5〜6

万人の被災者が当地に移住したため田畑の宅地化が進み,鷺洲・

中津・豊崎各村が町へと変化していった。大正時代に入った大阪は,第一次世界大戦を 軸に大幅な躍進を遂げ,工業生産は東京を抜いて全国一位となり,「東洋のマンチェス ター」や「煙の都」と称された。当区に多く建設された染色工場は「煙の都」の象徴で あり,輸出の増大による需要の拡大で好況に沸いた。太平洋戦争下では,生産力増強の 掛け声の元,工場は次々に増設され,軍需産業がにぎわった。

1945

年の太平洋戦争における空襲の被害は甚だしく区内全域に及び,工場施設の約

8

割が消失した。しかし,戦後まもなく生活必需品を生産する中小企業が立ち上がり,や がて朝鮮特需により機械製造業,金属製造業,紡績の工場が復興した。1945年に製造 工場

66

工場,従業者

4,625

人であったものが

6

年後の

1951

年には,729工場,従業者

15,225

人にまで回復している。しかし工場は,大気汚染や水質汚染の問題で度重なる公

害対策を迫られ,1964年に施行された工場等制限法により統合整理,郊外移転を余儀 なくされた。大阪市は,当時万国博覧会を成功させるため都市整備を進めており,工場 跡地を職住近接の良好な住宅地へと再開発することにより転換を図ろうとしていた。そ のため

1967

年に出された大阪市総合計画では,旧大淀区の淀川と大川の沿岸地区を工 場地域から住居地域に用途変更し,中高層住宅の建設を可能にした。その結果,旧大淀 区では工場跡地を利用するリバーサイド整備事業が大阪市や都市再生機構により開始さ れ,1970年代に本庄,中津地区,1980年代に豊仁,豊崎東地区で公的住宅が次々に建 設された(大阪都市協会

1998)。

写真6−1 1921年頃の旧大淀区(天神橋6丁目付近)の様子(出典:『大淀区史』)

「都心回帰」による大阪市の地域社会構造の変動 71

このように旧大淀区では,近郊農村から工業地域へ,そして住居地域へと地域特性が 変化している。そのため,旧大淀区の世帯数と人口数の推移(表

6−1)を国勢調査より

見ると,1950年 の 世 帯 数

10,612

世 帯,人 口

42,987

人 か ら

2010

年 は 世 帯 数

30,679

帯,人口

54,786

人と世帯数は約

3

倍,人口数は

1.3

倍と増加している。世帯数の増減に

ついて詳細に見ると,1950年から

1960

年にかけて

4,163

世帯増加したものの

1960

年 をピークに

1970

年には

4,087

世帯減少している。これは工場移転に伴う工場労働者世 帯の転出によるものである。しかし,1970年以降は一貫して増加しており,1970年〜

1980

年は

2,534

世帯の増加,1980年〜1990年は

3,417

世帯の増加,1990年〜2000年は

4,642

世帯の増加,2000年〜2010年は

6,398

世帯の増加と年々世帯数が増加している。

これは,この地域に中高層マンションが建設されたことによるものである。特に

2000

年から

2010

年の

10

年間は大幅な人口増加が見られる。増加した

1

世帯当たりの人数を 見ると

1.03

人であることから,ファミリー向けよりはむしろワンルームマンションが 数多く建設され,一人暮らし世帯が増加していることがわかる。

さらに

2000

年の国勢調査で職業別

15

歳以上の就業者数と構成比(表

6−2)を見る

と,旧大淀区は,生産工程・作業労務者が

22.3% と最も高く,次いで事務従事者 21.5

%,販売従事者

21.2% である。現在の北区全体のデータと比較すると,生産工程・労

務作業者の割合が

3.6

ポイント高く,逆にサービス職業従事者が

3.9

ポイント低い。旧 大淀区の準工業地域としての特色が顕著に見られるデータとなっている(1)

写真6−2 1990年の旧大淀区の様子(手前が豊崎東の集合住宅群)(出典:『大阪市住宅供給公 20年のあゆみ』)

6−1 旧大淀区の世帯数と人口の推移

1950 1960 1970 1980 1990 2000 2010

世帯総数 10,612 14,775 13,688 16,222 19,639 24,281 30,679

人口総数 42,987 61,598 48,805 42,442 47,192 48,192 54,786

(数値は1950年から2010年までの国勢調査にもとづく)

「都心回帰」による大阪市の地域社会構造の変動 72

6−2−2.旧大淀区の住民組織

旧大淀区では,1948年に大阪市全域で赤十字奉仕団が組織化されるに伴い,豊崎連 合,続いて豊崎東連合,本庄連合,中津連合,八坂連合の五連合をもって大淀区赤十字 奉仕団が設立され,翌

1949

年には,豊崎東・豊仁・本庄・豊崎・中津・大仁(現大淀 東)・浦江(現大淀西)の

7

連合に分離された。以来各連合では,日本赤十字社の協力 団体として相互援助と災害救護活動を行ってきた(2)。その後,活動内容が当初目的とし た事業内容をはるかに超えるようになったため,1975年「コミュニティづくり・市区 行政協力・日本赤十字協力」を三本柱とする地域振興会が,赤十字奉仕団と構成員や役 員を同じくする一体の組織として発足した(大阪都市協会

1988)。

一方,大淀区社会福祉協議会は,終戦後の混乱の中で,地域住民が連帯責任を持って 社会福祉に取り組むべきとして

1949

年に地域関係者の発意によって,全国府県社会福 祉協議会や大阪市社会福祉協議会に先駆けて設立された(3)。そして

1955

年には大阪市 社会福祉協議会の小地域活動促進の方針に基づき,地区レベルの地域社会福祉協議会が

7

つの連合単位で設置された(4)。旧大淀区の地域社会福祉協議会は,地域福祉の向上に 関する事業の推進を目的として児童と高齢者の福祉に重点を置きつつも,都市整備の促 進,公害から地域を守るための工場移転の問題,墓地の移転などの地域の様々な課題解 決のための活動が実施された(大阪市社会福祉協議会

1977)。

このように旧大淀区では地域振興会と地域社会福祉協議会は,活動範囲も活動内容も 重複する為,協力して運営されている。そして,連合振興町会会長と社会福祉協議会会 長を同一人物が兼任する場合や,就任時期は異なるものの同一人物が両会長職に就任す る場合が比較的多くみられる。

6−2 職業別15歳以上就業者数と構成比(常住地)

北区 旧大淀区 豊崎東 大淀西

実数 実数 実数 実数

A 専門的・技術的職業従事者 6,512 14.2% 3,380 14.4% 758 14.0% 228 12.6%

B 管理的職業従事者 1,923 4.2% 672 2.9% 184 3.4% 49 2.7%

C 事務従事者 9,271 20.3% 5,061 21.5% 1,207 22.3% 379 20.9%

D 販売従事者 10,172 22.2% 4,991 21.2% 1,080 19.9% 398 21.9%

E サービス職業従事者 7,268 15.9% 2,815 12.0% 733 13.5% 212 11.7%

F 保安職業従事者 406 0.9% 226 1.0% 60 1.1% 12 0.7%

G 農林漁業作業者 34 0.1% 23 0.1% 2 0.0% 2 0.1%

H 運輸・通信従事者 913 2.0% 680 2.9% 176 3.3% 54 3.0%

I 生産工程・労務作業者 8,561 18.7% 5,243 22.3% 1,118 20.7% 452 24.9%

J 分類不能の職業 671 1.5% 439 1.9% 96 1.8% 30 1.7%

総数 45,731 100% 23,530 100% 5,414 100% 1,816 100%

(数値は2000年国勢調査にもとづく)

「都心回帰」による大阪市の地域社会構造の変動 73

6−3.豊崎東地区の事例