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即ち︵一︶に於ては専ら前記禅宗諸師の著作を事げ︑之に封して天台.畏一一百.市土三宗の反駁論者の帥名並に著作
の大概を配し.︒一︶に於ては是信一寸禅宗諸師の論難批評の中心問題が如何なるものであったかを﹁惜相用﹂の三大
に分類した︒との分類が果して安官であるか否か.幾分畑遣いであると考へる予の最も畏れる所なあるが兎に
角右の分類に表はれた問題が論争の中心問題であったo口ハ是等の諸問題中人師により︑封諸宗の如何によっ℃必
中しも同一態度ではなかった︒印ち天台良一百等の嘗教圏μ封する場合と.新興博士宗に封する場合とには亦自ら
品一一石具があった︒叉是等諸問題を通じて最も重要な題目とたったものは︑大問虎聞は相承論を中心として教理論に
及び︑夢窓は敬理論を中心として共他に及ぶの蹴あり︒叉一面天台宗との交渉の如く・教品開史的幾多の闘争を演
ヒた共根本的論争の題目が︑共の教理論よりも寧ろ常に鋲護国家論或は設問済生論.或は位台風敬論と言ふが如
き︑所謂布闘の﹁用﹂に首る問題に始絡したと言ム事は.
HE
亦例教の負ふ園家︑枇合︑人類に封する本来の使命
への敬闇的反省の現れであって︑従て此の大きたる問題についても是等諸師の著作巾論争の一問題となって表は
れて
ゐる
事は
一言
ふ迄
もな
い︒
かくて相承論判教諭を中心として諸積の問題な展開し.裁に一一日ふ所の諸宗交渉の全貌が見られるのであるが.
回より是等の諸問題は各宗の依擁する宗一訟の根本的問題全暗に亘る︑従って之を局限された紙敢に於て悉くを壷
すととは到底能はざる所︑加ふるに教理的専攻ならざる予の如き向後究を侠つべきものあり︑何りて姑く相承論
を中心に其他二三の問題を併せ考へ以て本論の概要とする︒
︵一−一︶
耀宗と天台宗との交渉
停法護閤論について
締宗と天台宗との交渉は.既に辻博土によって論巳蓋されたが如く叉前述した如く寧ろ政治と宗教と言った如
換言すれば一世曾史的論争制札機に始終したのであった︒そして其靴轍闘争の根本基調となったものは.
︵ イ
︶
き政教闘係
II
賓に宗教的本質問題である教理的哲接的理論闘争ではたく︑新興教闇の興隆に劃する反感毘迫であった︒然し
中世に於ける締宗ハ臨清輝﹀i乙諸宗︵天台.足音.浄土三宗︶LCの交渉
玉
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日本
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品目
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十年
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五入
12
ながら敬舎の棟梁たる叡山が有も南部の所謂山科透明の如き態度をとることは︑瞳面上避けなければならぬが矯
め︑共合法的理由として︑一には叡山は倖敬大師開宗以来.天子本命之壇場であり鎮護国家之雌法を修する唯
一の根本道場であるが故に︑止観法門に反して枠法を流布するは仰法王法衰滅の基でるり︑朝家亡弊の根源であ
るとする事︒二つには時借を以て専修念怖の徒と共に﹁異類異形﹂の輩とおり︑﹁平和戒律好名利﹂と庇す︑殊に借
風異朝に異似らば︑我良風を乱すのみたらや既に宋朝締法を流布せしめたが故に︑図を蒙古に奪はれ日域関東
北保氏﹁師連磨敬之刻失運命於片時﹂ではないかと言ふ如き保目が主張された︒是等の事は既に日Tく柴西輯師
の場合に於て︑或は嘉元寺破却降って天龍寺活替.市時寺棲門新造世一寸何れの場合に於てもとられた根本主張で
るっ
た︒
︵紺
野時
間航
融︶
以上の如く天台宗との闘係は.概して教理的論争と一言ふよりも寧ろ教閤勢力闘争に重賠を置かれたのであるが.
然し仮令教撃の同化︑教相の頼度事相盛興の時代とは言へ︑三千の犬家を擁した天台大教圏から︑教理的論手
︷一不義的反駁が加へられたかったとは考へられない︒予は共賠について従来少しく詑意する所があったが︑僅かに
本朝台組撰連絡部書目︵鵬惟一一︶中に︑天台座主良助法親王の撰として﹁天台建磨宗論記﹂の名を見え出したに過ぎ
ぬ︒然し未だ眼耐の機がない
0
4んも同宗口倖法門に闘する著述︑殊に所前関東天台の教墜と稿せらるL
慧心
流︑
三章一七筒等の口停書︑例へば早くは鎌倉初期の心賀口倖一海註する所の﹁二帖抄︵献附脱会︶.共系統に属する傘舜
法印の倖書二帖抄見聞︵団︶.及貞和五年六月に類忠弘清書功畢った︑等海口侍抄︵胤︶等に於て論議せられた敬内教外
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経論
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等は何れも所謂一嫡弟一人之外不可授﹂の秘書で
あり.且つ著述の意同共白瞳が︑各宗悉く天台一家に統一さるべきものと一五ふ教理論の上に論じられてゐるが故
に︑未だ禅宗への駁論︑と言ふととが出来ぬ︒従って︑叉臆永九年二月比叡山西塔南尾貧困院佐.近江柏原成菩院
開基貞舜によって作られた天台名目類緊紗︵猷附加全︶の如きも︑問E勝劣を設かざるに非ざるも.一貫設く所は園
調仰の一致論である︒かくて蹄宗の非難に封し未だ駁論的著作を見出すを得なかった︒然るに予は近時大谷大墜固
書館並叡山文庫等に於て偶然停法護園論なる一番を借覧するを得て︑天台宗側の封梢宗への反駁論の一面を窺ふ
ととが出来た︒何りて少しく同書によって雨宗の交渉を見る事とする︒
偉法護園論は虎闘蹄師の宗門十勝論に封ずる天台宗徒の反駁論である・共序に︑
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不レ然乎像法決疑経一五.是諸比丘亦復自稿ニ我是法師.我是律師︑我是禅師一此三種肇人能減ニ我法↓更非ニ飴
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此三
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詑過
法相
段持
入ニ
於地
獄︑
猶如
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箭射
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呼守
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欲
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額密
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将レ
堕︑
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乍遇
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一来
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以て著述の主旨を知ることが出来る︒然し共著者並年時等に就いては之を知るととが出来ない︒思ふに乙の序
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年︶
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よりすれば.虎開輯師の十勝論を見て法の興麿園の安危であると考へ敢て本論を作るとあるから共時代のものL
如くであるが︑果して蹄師の時代に迄遡り得るや否や幾分の疑たき能はざる所たるも.同書第八王匝多人の僚の著
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慶天皇建徳二年に至る百年間の何れかに相官し.六十飴主は一脚皇正統記等の御歴代数に従へば.三十一代敏建天
皇より九十一代伏見天皇.百一代後固融天皇の十代の御治世に相営する︒印ち後宇多天皇弘安四年に生れ.後村
上天皇貞和二年七月に示寂した虎闘師錬の在世中並に残後廿五年間に相営する︒換一一目すれば宗門十勝論箸作早々
の時代に於て作製された事になるのである︒何れにしても現大谷大皐所蔵本は.共刊記によれば延賓九年八月の
出版に係り.共の論述の時裁は︑最初に﹁錬日輯講二人云一五﹂の十勝論の序に封して﹁論日華践之法界一五云﹂と
尋一
同ふ
が如
︿直
に論
難を
加へ
︑順
次十
勝第
一俳
一一
乾相
績よ
り次
第に
第十
他家
推稿
に及
び.
最後
に﹁
此一
論本
第三
護法
﹁
但仰意難レ測不可偏執.求那蹴摩一五諸論各異端修行理無二.偏執有ニ是非一達者無異詩.龍樹一式自法受染故段ニ品日
他人
法↓
雄ユ
持戒
行人
−不
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獄背
一願
一切
衆生
拾レ
邪師
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道︑
向入
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一誰
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上主
口提
こと
結ん
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る︒
倖法議園論の相承論等
健法護問論は前述の如く専ら宗門十勝論に封する反駁論であるが故に︑共論争の中心も亦相承論を中心とし加
ふるに組師連磨の位高︑臆化幽賛に関聯する︒
相承論が何故にかくも嘗代論争の中心となったかc是については首然支郊に於ける各宗の相承論の護連特にこ
の場
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於て
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唐末
五代
越宋
等に
至る
一六
台︑
開雨
宗聞
の激
烈な
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争を
考慮
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ばな
らぬ
︒一
一一
ロム
まで
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