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14 ) 耆老の言

ドキュメント内 [資料紹介] 『魏志』東夷伝訳註初稿(1) (ページ 69-82)

『後漢書』の東沃沮伝には、次のようにある。

其の耆老言わく、「嘗て海中に於て一布衣を得たり。其の形、中人の衣の如くなるも、兩袖の長三丈なり。又た岸際に於て一人有りて、破船に乘るを見ゆ。頂中に復た面有り。與に語るも通ぜず。食らわずして死す」と。又た説く、海中に女國有り、男人無し、と。或いは伝う、其の國に神井有り、之を鏑えば輒ち子を生むと云う、と。本伝が「中國人」とするところを、ここでは「中人」としており、そちらが正しいとすれば、普通の人、ということになる。晉・張華『博物志』卷三に次のようにみえている。毋丘儉、王領を遣わし高句麗王宮を追わしめ沃沮の東界を盡くし、其の耆老に問うに言わく、「國人常て船に乘りて魚を捕えんとし、風に遭いて吹かれること數十日、東に一島を得たり。上に人有り。言語相曉かならず。其の俗、常に七夕を以て童女を取り海に沈む」と。又た言わく、「一國有り亦た海中に在り、純て女にして男無し」と。又た説く、「一布衣を得たり。海より浮かび出づ。其の身、中國人の衣の如くなるも、兩袖の長二丈なり。又た一破船を得たり。波に隨いて出でて海岸邊に在り。一人有りて、項中に復た面有り。生得し、與に語るも相通ぜず。食らわずして死す」と。其の地、皆な沃沮の東の大海中に在り。本伝との異同が若干あるが、意味が異なるのは、「七月」を「七夕」としているところくらいである。女国については、中野美代子「女国幻想」(『竹内照夫博士古稀記念中国学論文集』同刊行会、一九八一年)に詳しい。

)挹婁

[原文] 挹婁在夫餘東北千餘里。濱大海南與北沃沮接。未知其北所極。其土地多山險。其人形似夫餘、言語不與夫餘句麗同。有五穀牛馬麻布。人多勇力。無大君長、邑落各有大人。處山林之間、常穴居。大家深九梯。以多爲好。土氣寒劇於夫餘。其俗好養猪、食其肉、衣其皮。冬以猪膏塗身厚數分。以御風寒。夏則裸袒、以尺布隱其前後、以蔽形體。其人不潔。作溷在中央。人圍其表居。其弓長四尺。力如弩。矢用楛。長尺八寸。青石爲鏃。古之肅愼氏之國也。善射射人皆入。因矢施毒、人中皆死。出赤玉好貂。今所謂挹婁貂是也。自漢已來、臣屬夫餘。夫餘責其租賦重。以黄初中叛之。夫餘數伐之。其人衆雖少、所在山險、鄰國人畏其弓矢、卒不能服也。其國便乘船寇盗。鄰國患之。東夷飲食類皆用爼豆、唯挹婁不。法俗最無綱紀也。[訓読]

挹婁は、夫餘の東北千餘里に在り。大海に濱し、南は北沃沮と接す。未だ其の北の極まる所を知らず。其の土地、山險多し。其の人の形夫餘に似たれども言語は夫餘・句麗と同じからず。五穀・牛・馬・麻布有り。人、勇力多し。大君長無く、邑落に各々大人有り。山林の間に處り、常に穴居す。大家は深さ九梯。多きを以て好しと爲す。土氣寒きこと夫餘より劇し。其の俗、猪を養うを好み、其の肉を食し、其の皮を衣る。冬には猪膏を以て身に塗ること厚さ數分。以て風寒を御ぐ。夏には則ち裸袒し、尺布を以て其の前後を隱し、以て形體を蔽う。其の人不潔なり。溷を作りて中央に在り。人、其の表を圍みて居る。其の弓、長四尺。力は弩の如し。矢には楛を用う。長尺八寸。青石を鏃と爲す。古えの肅愼氏の國なり。善射にして人を射れば皆な入る。矢

其の耆老言わく、「嘗て海中に於て一布衣を得たり。其の形、中人の衣の如くなるも、兩袖の長三丈なり。又た岸際に於て一人有りて、破船に乘るを見ゆ。頂中に復た面有り。與に語るも通ぜず。食らわずして死す」と。又た説く、海中に女國有り、男人無し、と。或いは伝う、其の國に神井有り、之を鏑えば輒ち子を生むと云う、と。本伝が「中國人」とするところを、ここでは「中人」としており、そちらが正しいとすれば、普通の人、ということになる。晉・張華『博物志』卷三に次のようにみえている。毋丘儉、王領を遣わし高句麗王宮を追わしめ沃沮の東界を盡くし、其の耆老に問うに言わく、「國人常て船に乘りて魚を捕えんとし、風に遭いて吹かれること數十日、東に一島を得たり。上に人有り。言語相曉かならず。其の俗、常に七夕を以て童女を取り海に沈む」と。又た言わく、「一國有り亦た海中に在り、純て女にして男無し」と。又た説く、「一布衣を得たり。海より浮かび出づ。其の身、中國人の衣の如くなるも、兩袖の長二丈なり。又た一破船を得たり。波に隨いて出でて海岸邊に在り。一人有りて、項中に復た面有り。生得し、與に語るも相通ぜず。食らわずして死す」と。其の地、皆な沃沮の東の大海中に在り。本伝との異同が若干あるが、意味が異なるのは、「七月」を「七夕」としているところくらいである。女国については、中野美代子「女国幻想」(『竹内照夫博士古稀記念中国学論文集』同刊行会、一九八一年)に詳しい。

)挹婁

[原文] 挹婁在夫餘東北千餘里。濱大海南與北沃沮接。未知其北所極。其土地多山險。其人形似夫餘、言語不與夫餘句麗同。有五穀牛馬麻布。人多勇力。無大君長、邑落各有大人。處山林之間、常穴居。大家深九梯。以多爲好。土氣寒劇於夫餘。其俗好養猪、食其肉、衣其皮。冬以猪膏塗身厚數分。以御風寒。夏則裸袒、以尺布隱其前後、以蔽形體。其人不潔。作溷在中央。人圍其表居。其弓長四尺。力如弩。矢用楛。長尺八寸。青石爲鏃。古之肅愼氏之國也。善射射人皆入。因矢施毒、人中皆死。出赤玉好貂。今所謂挹婁貂是也。自漢已來、臣屬夫餘。夫餘責其租賦重。以黄初中叛之。夫餘數伐之。其人衆雖少、所在山險、鄰國人畏其弓矢、卒不能服也。其國便乘船寇盗。鄰國患之。東夷飲食類皆用爼豆、唯挹婁不。法俗最無綱紀也。[訓読]

挹婁は、夫餘の東北千餘里に在り。大海に濱し、南は北沃沮と接す。未だ其の北の極まる所を知らず。其の土地、山險多し。其の人の形夫餘に似たれども言語は夫餘・句麗と同じからず。五穀・牛・馬・麻布有り。人、勇力多し。大君長無く、邑落に各々大人有り。山林の間に處り、常に穴居す。大家は深さ九梯。多きを以て好しと爲す。土氣寒きこと夫餘より劇し。其の俗、猪を養うを好み、其の肉を食し、其の皮を衣る。冬には猪膏を以て身に塗ること厚さ數分。以て風寒を御ぐ。夏には則ち裸袒し、尺布を以て其の前後を隱し、以て形體を蔽う。其の人不潔なり。溷を作りて中央に在り。人、其の表を圍みて居る。其の弓、長四尺。力は弩の如し。矢には楛を用う。長尺八寸。青石を鏃と爲す。古えの肅愼氏の國なり。善射にして人を射れば皆な入る。矢 の毒を施すに因りて、人中れば皆な死す。赤玉好貂を出だす。今の所謂る挹婁貂是れなり。漢より已來、夫餘に臣屬す。夫餘、其の租賦を責むること重し。黄初中を以て之に叛く。夫餘數々之を伐つ。其の人衆少しと雖も、在る所の山は險しく、鄰國の人、其の弓矢を畏れ、卒 ついに服するあたわざるなり。其の國、船に乘りて寇盗するに便あり。鄰國、之を患う。東夷、飲食の類、皆な爼豆を用うるも、唯だ挹婁のみしからず。法俗は最も綱紀無きなり。

[現代語訳]

挹婁は、夫餘から東北に千餘里離れたところにある 1

。大海に面し、南は北沃沮と接している。北の極限がどこにあるかはわからない

。その土地は険しい山が多い。その人の姿かたちは夫餘に似ているが、言葉は夫餘・高句麗と同じではない。五穀・牛・馬・麻布を産出する

。人は勇ましく力がある。大君長はおらず、邑落にそれぞれ大人がいる。山林のあいだに住んでいて、いつも穴居している。大きい家は深さがはしご九段ほどある。多いほどよいとされる

。土地の気候は寒く、夫餘よりも厳寒である。人々は、猪を好んで養い、その肉を食べ、その皮を身にまとう。冬には猪の油を何重にも身体に塗りつけて風の寒さを防いでいる

。夏には裸になって、わずかの布で前後を隠し、身体を覆っている。挹婁の人たちは不潔である。厠を家の中央に作り、人々はそのまわりを囲んで暮らしている

。挹婁の弓の長さは四尺ある。その力は弩のようである。矢には楛を用いている。その長さは一尺八寸である。青石で鏃を作っている。〔挹婁は〕昔の肅愼氏の國にあたる。弓矢が上手で、人を射ればみな命中する。矢に毒をぬりつけているため、あたれば人はみな死ぬ

。赤い玉や好い貂を産出する。今のいわゆる挹婁貂がそれである。 漢代以来、夫餘に臣屬していた。夫餘は、重い租税を課した。そのため〔魏の〕黄初年間(二二〇~二二六)に夫餘にそむいた。夫餘はたびたび挹婁を攻撃した。人口は少ないけれども、住んでいる場所は山が險しく、隣国の人もその弓矢を恐れて、とうとう屈服させることはできなかった。その国は船に乗って行って略奪するのに便利である。隣国はそのことを憂えていた。東夷では、飲食などをするときにはいつも爼・豆を用いているが、挹婁だけがそうではなかった。法律は最も綱紀がない。[註解]

1

)挹婁

挹婁という種族名は、『魏志』と『後漢書』の東夷伝にそれぞれみえるが、一般的ではない。『魏略』にも「挹婁」とあったらしいことは、『後漢書』卷一〇〇・孔融伝の注に引く「魏略」に「挹婁、一に肅愼氏と名づく」とあり、『翰苑』注所引の「魚券(豢)魏略」に「夫餘國、玄苑(菟)長城の北に在り。玄菟を去ること千餘里。南は句驪と接し、東は挹婁と接す。即ち肅愼の國なり」とあることによってわかるが、一般にはそこにみえるように、また『魏志』の後文にも「古えの肅愼氏の國なり」とあるように、肅愼とよばれる。『晉書』東夷伝では、逆に肅愼氏として立伝されており、「肅愼氏、一に挹婁と名づく」とする。肅愼の名は、古くから知られている。しかし、その肅愼とこの挹婁が、確かに同一種族を指すとは、必ずしもいえない。ただし、『晉書』以下の肅愼氏は、挹婁と同じ種族であるとみてさしつかえない。従って、古い時期の肅愼と、挹婁=肅愼とを区別して、前期肅愼(古肅愼)・後期肅愼(後肅愼)などとよぶこともある。古くからの記録とは、まず『國

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