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10 ) 高句麗王

ドキュメント内 [資料紹介] 『魏志』東夷伝訳註初稿(1) (ページ 37-47)

高句麗王として、初めて中国の記録に現れるのは、『漢書』王莽伝にみえる「高句麗侯騶」である。後漢代には、建武八年(三二)に遣使した高句麗王が『後漢書』にみえるが、名は記していない。後漢代で知られた最初の王は宮である。それが最初に係年されているのは、『資治通鑑』の一〇五年であるが、『後漢書』では、一一一年が最初である。『後漢書』によれば、一二一年に「宮死し、子の遂成立つ」とある。遂成の名は、一二二年にもあらわれ、その後「遂成死し、子の伯固立つ」とある。これにつづくのが一三二年の記事であるから遂成の死はそれ以前ということになる。『魏志』では、「宮死し、子の伯固立つ」とあるが誤りであろう。伯固は、一六九年に初めて登場し、公孫度が自立したとき(一九〇年頃)、度を助けて出兵している。伯固の死後、長子と小子との間で後継者争いがあり、それを経て小子伊夷模があとをつぐ。以下は、魏代のことである。

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官位 高句麗の官位制が確認される最初がこの『魏志』である。ここには、一〇種の官位が列記されており、それぞれに等級があって、つまり一〇等からなることが知られる。高句麗では、このあと四世紀になって一三等の官位制として展開し、滅亡まで至る。『魏志』にみえる一〇等の官位は、高句麗における初期の官位制を示すものである。ただし各官名は序列のみを示すものではなく、その性格は一律ではない。相加~古雛加という諸大加を編成したものと、主簿~丞のような王直属の官僚層と、使者~先人のような、諸大加も王も設置しえた家産官僚層の三つにわけてとらえることが可能で(武田幸男説)、それが官位制の形成と深く関わっている。高句麗官位制に対する本格的な研究は、金哲埈「高句麗・新羅の官階組織の成立過程」(『李丙燾博士華甲紀念論叢』一潮閣、一九五六)・宮崎市定「三韓時代の位階制について」(『朝鮮学報』一四輯、一九五九)にはじまる。もっとも体系的な研究は、武田幸男「高句麗官位制の史的展開」(『高句麗史と東アジア』)である。これらによりつつ、初期の官位制についていくつかの点について考えてみたい。まず官位制形成の時期であるが、『後漢書』の高句驪伝に、諸官位がみえている。それを『魏志』と比べると「古雛加」が「古鄒大加」となっており、また「丞」がもれている、という違いがある。しかし『魏志』以上の内容を伝えているとはいえず、およそ『魏志』に依拠したものとみるのが無難であろう。従って、これのみによって、後漢代における官位制の体系的存在を認めることはできない。『册府元龜』卷九六二・外臣部・官號には「高句驪國、後漢の時、其の國、官を置く」とあるが、それにつづけて、『後漢書』の高句驪伝に記す官位を列挙しており、『後漢書』が正史でいちはやく官位を記録していることによって、後漢代に 「官を置いた」ものと理解しただけで、特別の根拠はないであろう。しかし、高句麗における官位の存在は、後漢代において確認することができる。官位について具体的に記した最も古い記録は、『魏志』高句麗伝の後文にみえる「伯固、大加優居・主簿然人等を遣わし、〔公孫〕度を助けて富山の賊を撃ち之を破らしむ」という記事で、ここに「主簿」がみえている。それは公孫度の時代であり、その死が二〇四年であるから、当然それより前ということになる。従って、少なくとも官位のひとつである「主簿」が、後漢末期から存在したことはまちがいない。ただしこれのみで後漢末期においてすでに一〇等からなる官位体系が成立していたということにはならない。これを初出として、その後、『魏志』の伝える時期までに、一〇等の官位制が成立した、とするのが確実なところである。『三國史記』には、これら『魏志』にみえる諸官位がどのように記されているであろうか。まず(A)沛者の例は次の通りである。①

大祖大王〕二十年(七二)春二月、貫那部沛者達賈、藻那を伐ち、其の王を虜とす。②

同王〕二十二年(七四)冬十月、王、桓那部沛者薛儒を遣わし朱那を伐たしむ。其の王子乙音を虜とし、古鄒加と爲す。③

同王〕七十一年(一二三)冬十月、沛者穆度婁を以て左輔と爲し、高福章を右輔と爲し、令して遂成と與に政事を參せしむ。④

同王〕八十年(一三二)秋七月、遂成、倭山に獵し、左右と宴す。是に於て貫那于台彌儒・桓那于台菸支留・沸流那皁衣陽神等、陰かに遂成に謂いて曰わく、「初め慕本の薨ずるや、太子不肯(肖)にして、羣寮、王子再思を立てんと欲す。再思、老いたるを以て子に讓りしは、兄の老いたるをして弟に及ばしめんと欲するなり。今、王既に已に老ゆ。而して讓るの意無し。惟だ吾子之を計れ」と。遂成曰わく、「承襲は必らず嫡なるが天下の常道なり。王、今老いたると雖も嫡子の在

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官位

高句麗の官位制が確認される最初がこの『魏志』である。ここには、一〇種の官位が列記されており、それぞれに等級があって、つまり一〇等からなることが知られる。高句麗では、このあと四世紀になって一三等の官位制として展開し、滅亡まで至る。『魏志』にみえる一〇等の官位は、高句麗における初期の官位制を示すものである。ただし各官名は序列のみを示すものではなく、その性格は一律ではない。相加~古雛加という諸大加を編成したものと、主簿~丞のような王直属の官僚層と、使者~先人のような、諸大加も王も設置しえた家産官僚層の三つにわけてとらえることが可能で(武田幸男説)、それが官位制の形成と深く関わっている。高句麗官位制に対する本格的な研究は、金哲埈「高句麗・新羅の官階組織の成立過程」(『李丙燾博士華甲紀念論叢』一潮閣、一九五六)・宮崎市定「三韓時代の位階制について」(『朝鮮学報』一四輯、一九五九)にはじまる。もっとも体系的な研究は、武田幸男「高句麗官位制の史的展開」(『高句麗史と東アジア』)である。これらによりつつ、初期の官位制についていくつかの点について考えてみたい。まず官位制形成の時期であるが、『後漢書』の高句驪伝に、諸官位がみえている。それを『魏志』と比べると「古雛加」が「古鄒大加」となっており、また「丞」がもれている、という違いがある。しかし『魏志』以上の内容を伝えているとはいえず、およそ『魏志』に依拠したものとみるのが無難であろう。従って、これのみによって、後漢代における官位制の体系的存在を認めることはできない。『册府元龜』卷九六二・外臣部・官號には「高句驪國、後漢の時、其の國、官を置く」とあるが、それにつづけて、『後漢書』の高句驪伝に記す官位を列挙しており、『後漢書』が正史でいちはやく官位を記録していることによって、後漢代に 「官を置いた」ものと理解しただけで、特別の根拠はないであろう。しかし、高句麗における官位の存在は、後漢代において確認することができる。官位について具体的に記した最も古い記録は、『魏志』高句麗伝の後文にみえる「伯固、大加優居・主簿然人等を遣わし、〔公孫〕度を助けて富山の賊を撃ち之を破らしむ」という記事で、ここに「主簿」がみえている。それは公孫度の時代であり、その死が二〇四年であるから、当然それより前ということになる。従って、少なくとも官位のひとつである「主簿」が、後漢末期から存在したことはまちがいない。ただしこれのみで後漢末期においてすでに一〇等からなる官位体系が成立していたということにはならない。これを初出として、その後、『魏志』の伝える時期までに、一〇等の官位制が成立した、とするのが確実なところである。『三國史記』には、これら『魏志』にみえる諸官位がどのように記されているであろうか。まず(A)沛者の例は次の通りである。①

大祖大王〕二十年(七二)春二月、貫那部沛者達賈、藻那を伐ち、其の王を虜とす。②

同王〕二十二年(七四)冬十月、王、桓那部沛者薛儒を遣わし朱那を伐たしむ。其の王子乙音を虜とし、古鄒加と爲す。③

同王〕七十一年(一二三)冬十月、沛者穆度婁を以て左輔と爲し、高福章を右輔と爲し、令して遂成と與に政事を參せしむ。④

同王〕八十年(一三二)秋七月、遂成、倭山に獵し、左右と宴す。是に於て貫那于台彌儒・桓那于台菸支留・沸流那皁衣陽神等、陰かに遂成に謂いて曰わく、「初め慕本の薨ずるや、太子不肯(肖)にして、羣寮、王子再思を立てんと欲す。再思、老いたるを以て子に讓りしは、兄の老いたるをして弟に及ばしめんと欲するなり。今、王既に已に老ゆ。而して讓るの意無し。惟だ吾子之を計れ」と。遂成曰わく、「承襲は必らず嫡なるが天下の常道なり。王、今老いたると雖も嫡子の在 る有り。豈に敢えて覬覦せんや」と。彌儒曰わく、「弟の賢を以て兄の後を承くるは、古えも亦た之有り。子其れ疑う勿れ」と。是に於て左輔沛者穆度婁、遂成の異心有るを知り、疾と稱して仕えず。⑤

次大王〕二年(一四七)春二月、貫那沛者彌儒を拜して左輔と爲す。  新

大王二年(一六六)〔椽那皁衣明臨〕荅夫を拜して國相と爲し、爵を加えて沛者と爲す。内外の兵馬を知らしめ、兼ねて梁貊部落を領せしむ。⑥

故國川王〕十二年(一九〇)秋九月、京都、雪ふること六尺。中畏大夫・沛者於畀留、評者左可慮、皆な王后の親戚なるを以て國の權柄を執り、其の子弟並びに勢を恃んで驕侈なり。人の子女を掠め人の田宅を奪えり。國人怨憤す。王之を聞きて怒り、之を誅さんと欲す。左可慮ら四掾那と謀叛す。⑦

中川王〕七年(二五四)夏四月、國相明臨於漱卒す。沸流沛者陰友を以て國相と爲す。これらを整理すれば次の通りである。貫那部沛者達賈桓那部沛者薛儒

沛者穆度婁→左輔貫那沛者彌儒→左輔椽那皁衣明臨荅夫→國相・沛者

沛者於畀留(王后の親戚)沸流沛者陰友→國相これを通して、沛者が左輔・國相となる資格をもつものであることがわかる。特に明臨荅夫の例からすれば、皁衣では國相になることはできず、沛者となって國相となることができることがうかがえる。とうぜん皁衣よりも沛者が上位であることも確認できる。次に(B)主簿の例をあげる。大主簿も含める。 ①〔次大王二年(一四七)〕秋七月、左輔穆度婁、疾を稱して退老す。桓那于台菸支留を以て左輔と爲し、爵を加えて大主簿と爲す。②

新大王〕五年(一六九)、王、大加優居・主簿然人等を遣わし兵を將い玄菟太守公孫度を助け富山の賊を討つ。③

東川王〕十二年(二三八)、魏の太傅司馬宣王、衆を率いて公孫淵を討つ。王、主簿・大加を遣わし兵千人を將いて之を助けしむ。④

烽上王〕三年(二九四)秋九月、國相尚婁卒す。南部大使者倉助利を以て國相と爲し、爵を進めて大主簿と爲す。このうち、②③は、中国史料の引用である。整理すれば次のようになる。桓那于台菸支留→左輔・大主簿主簿然人南部大使者倉助利→國相・大主簿国内史料としては、主簿はなく、大主簿のみである。これらによれば、大主簿も、左輔・國相になることができた。先の沛者との関係はわからない。于台・大使者よりは上位であることがわかる。次に(C)于台である。これは『魏志』の優台に該当する。優と于とは音通である。

①〔

大祖大王〕十六年(六八)秋八月、曷思王の孫都頭、國を以て來降す。都頭を以て于台と爲す。

沛者の例の④

③〔

次大王二年(一四七)〕秋七月、左輔穆度婁、疾を稱して退老す。桓那于台菸支留を以て左輔と爲し、爵を加えて大主簿と爲す。冬十月、沸流那陽神を、中畏大夫と爲し、爵を加えて于台と爲す。皆な王の故舊なり。④〔故國川王〕十三年(一九一)夏四月……西鴨谷左勿村の乙巴素なるものは琉璃の大臣乙素之の孫なり。性質剛毅にして智慮淵深、世に用いられず力田し自給せり。大王若し國を理めんと欲さば、此の人に

ドキュメント内 [資料紹介] 『魏志』東夷伝訳註初稿(1) (ページ 37-47)

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