れらの)共通性だけを見るために、(2)また両者の特性を想起するために、(3)あ るいは悪のために、 「何であろうか」という型式でおこる両者に関する思考
(vimarsa)が生じる。これが、疑惑である。また、この(疑惑)は、外的なも のと内的なものの2種類である。まず、内的(疑惑)は、(例えば)占星術師
(adeSika)が、正しい予言と誤った予言をした後で、三つの時間(過去・現 在・未来)についてのことがらを、現在さらに予言しようとする時、 「果たし て(予言は)的中するだろうか、的中しないであろうか」という疑惑が生ずる。
(以上のようなものである。)
疑惑は、あるものの(1)共通性だけを見るために、 (2)また両者の特性を想起 するために、 (3)あるいは悪のために、 「何であろうか」という型式でおこる思 考とされる161。この中で、(1)は推論に基づき(2)は記憶、(3)は前述の「推 論および聖仙知に分類される超人の知」の否定形であるといえる。
基本的に、 「占星術師の内的疑惑」に関する記述は、内的疑惑の具体例としてあ げられている。したがって、内的疑惑そのものが「特別」な認識であるというわけ ではないが、前述の超人の知のうちで推論に分類されていたものを参照すると「特 別」な認識との関連が見えてくるであろう。すなわち、この例を考察すれば、内的 疑惑は先の超人の知(=超人の推論)に対する疑惑と言えるのである。言い換えれ ば、占星術師の内的疑惑は、自らの、 「超人的な知(=推論)」によって得られた、
今も心に浮かんでいる知識や予言に対する疑惑なのである。したがって、通常の推 論または記憶とはまた別の対象をも含む非知識である。162
結局、占星術師の内的疑惑は、 『プラシャスタパーダ・バーシュヤ』の認識論上、
「特別」な認識が「誤った」認識として成立したものであると言える。これまでの ヨーガ行者の直接知覚や聖仙知は、分類上正しい認識(知識:Vidya)に属していた が、そのような「特別」な認識でも誤る場合は十分考えられる。したがって、
「誤った」 「特別」な認識を想定する必要があるのである。
また、この占星術師の内的疑惑も、前述の疑惑の(3)との関連からか、聖仙の 知と同様に過去・現在・未来の三つの時間に関連している。この面からも、 「特別」
な認識と関連していることがわかる。では、次にこの認識経験の時間という問題を
考えてみよう。
7認識経験の時間と認識論上の分類
前述した通り、『プラシャスタパーダ・バーシュヤ』では、認識をそれぞれの性格 と対象ごとに厳密に分類している。『プラシャスタパーダ・バーシュヤ』の章立てに よるその分類は、本稿2の冒頭部分にあげた表の通りである。しかし、この分類さ れた項目をそれぞれの「もとになる認識経験の時間」によって再分類してみると、
以下の表のようになる163。
《図3 認識経験の時間による認識の分類》
(a)直接知覚および推論(現在経験に基づく認識)の対象
(a)1 正しV> va ue(v dya)一
ム1:;:幕勤1隠ll㎏)
2 誤った知ue(av dya)丁㌶⑫覧璽霞㌶㌶
lSD
[
2.2.誤謬 (viparyaya)
2.3.非決定(anadhyavas巨ya)
(b)それ以外の対象
(b)1正しい知識(v dya)
P1量:;s穰」a)
Fii鮮1:隠㌶
※番号は、前述の表のまま。
この場合、鍵になるのはそれぞれの認識が(a)直接知覚および推論の対象であるか、
(b)それ以外の対象であるかということである。前にヴァイシェーシカ学派の認識論 は、ほぼ現在経験に基づいているということに触れたが、実は、これは直接知覚と 推論が基本的に現在経験に基づいているからである。したがって、直接知覚や推論 以外の対象のものが、過去や未来に関連する認識なのである。そして、それはこの 分類表では・記憶・聖仙知・疑惑の中で記憶及び聖仙知に基づくもの・夢となる。
このうち、夢と疑惑の一部は、ともに記憶に基づく過去に関する認識である。
したがって、聖仙知に代表される「特別」な認識とは、直接知覚と推論に基づか ず、現在に関する知識を得、記憶に基づかず過去の知識を得られる、認識経験の時 間に関しても文字通り「特別」な認識なのである。
8小結
ここで、これまでの考察でわかることをまとめてみよう。
(1)認識論上の分類
「特別な」認識とは、感覚器官と対象が直接接触できないか、徴証ぬきにして推 論される認識である。つまり、ヴァイシェーシカ学派の認識論の根幹である直接知 覚と推論の範囲外のものであり、それを分類上整理したものである。
ヴァイシェーシカ学派の認識論は、基本的には経験論的なものである。そして、
その経験には現代風に言えばいわゆる「超能力」的な体験も存在した。しかし、プ ラシャスタパーダは、それを神秘的なものとしてブラックボックスに入れてしまう のではなく、あくまで自らの認識の理論を当てはめて考察し、それが適用できない ものを極めて厳密に分類したうえで認識論上に位置づけたのである。その証拠に、
超人の知は、その種類によって直接知覚か推論か聖仙の知のいずれかに分類される もので特別なものではないとしている。そして、最も「超能力」的色彩の強い聖仙 の知も、それは聖仙のような超能力者的な「特別」な人物だけの独占物ではなく、
『般人にも存在するような第六感の様なものと同列に扱われているのである。まさ に、徹底して合理的に認識論を体系化し分類しようとするプラシャスタパーダの強 い意志が見てとれる。
また・この「特別」な認識の中で、 「ヨーガ行者の直接知覚」と「超人の知・疑 惑の直接知覚及び推論に基づくもの」以外は、現在経験を対象とするものではない 認識に分類されるものである。すなわち、過去および未来を対象としている認識で あると言える。
ヴァイシェーシカ学派の認識論の根幹である直接知覚および推論の対象は、ほぼ 現在時(未来の一部も含む)に限定されている。したがって、rプラシャスタパー
Isl
ダ・バーシュヤ』の経験論的な認識論において、通常の現在経験に基づいた認識の対 象外のものに関する「特別」な認識なのである。特に、過去認識の問題に関しては、
記憶や夢の問題も含めてヴァイシェーシカ学派の認識論にとってデリケートな問題 であったようで、扱いに苦慮していたことが見て取れる164。
また、超人の知の所で見たように、聖仙知などの特別な認識では、動力因が特定 されない(あるいは無い)という形で、通常の認識とは区別されている。逆に言え ば、この動力因が特定されない(あるいは無い)がゆえに特別な認識なのであり、
特別な認識である理由の根拠は、因果論的にも証明されているのである
しかし、ここでもプラシャスタパーダは、例外的なものとして十把ひとからげに 論じるのではなく、あくまで自己の認識論の体系に照らし合わせたうえで、しっか
りとした根拠のもとに厳密に分類し位置づけているのである。
(2)認識論の一項目としての「特別」な認識
このように見てくると、 『プラシャスタパーダ・バーシュヤ』における「特別な」
認識に対する基本姿勢が見えてくる。基本的にrプラシャスタパーダ・バーシュヤ』
では、「超能力」的な「特別」な認識をいわゆる「超」能力的な特別なものとは実 は考えていない。それはあくまで、日常的な観察によって経験的に知りうる「通常」
のものでもあり、自学派の認識論によって説明可能なものである。
直観的な認識や、神秘体験といったものは、たとえ本人が経験しなくても、ある いは数は少ないにしても現に経験している人々が存在しているものである。特に宗 教の影響力が強かった古代インドでは、むしろそのような認識や体験が比較的当た り前のものとして受け入れられたことは十分考えられる。したがって、「経験論的」
な側面を持つプラシャスタパーダにも、そのような「特別」な認識は比較的素直に 存在を認めることができたのだと考えられる165。
ただ、問題はそれをどう位置づけるかである。プラシャスタパーダは、そのよう なものを全てブラックボックスに放り込み、それ以上詳しく論じることをしないと いうことはできなかった。したがって、その超能力的な「特別」な認識を詳細に分 析し、ぎりぎりのところまでみずからの認識論上の一般的な認識との対応関係を検 討したうえで聖仙知やヨーガ行者の直接知覚を位置づけたのである。これにより、
「特別」な認識をもいわば「通常の」認識論の枠内に収めることができ、彼の認識 論の体系は一貫性を持つことができるのである。
また、プラシャスタパーダはこのような超能力的「特別」な認識にあまり高い価 値を見いだしていたようには思えない。実際に、超人の知は、独立した知識ではな いとしているし、聖仙の知も通常の人にもたまに現れるもので聖仙の独占物ではな いとする。ヨーガ行者の直接知覚も、「我々とは区別される」と区別したうえで、
このような直接知覚もありうるといった形で報告しているのみである。ここには、
例えばヨーガ学派等のような修行論的な位置づけ166は皆無に近く、客観的にこのよ うなことがあると記述しているのみである167。
むしろ、プラシャスタパーダは、あくまでこのような「特別」な認識を通常の認 識と区別して、できる限り混同を避けることにこだわる。ヴァイシェーシカ学派に とって、この厳密な区別こそが六つのカテゴリーの正しい知識につながり、ひいて は解脱につながる重要な問題なのである。
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