2 識
第3節 特別な認識
1ヴァイシェーシカ学派における「特別な認識」
インドの宗教・思想は、神秘的}三義的な側面が強調されることが多い。しかし、
インドの思想は、そのようなものばかりではなく合理的なものも多く存在するe本 稿で論じているヴァイシェーシカ学派の哲学は、その合理主義的思想の典型例とも
言える。
前述の通り、ヴァイシェーシカ学派は、従来自然哲学、実在謝39などと呼ばれ、
独rlの精密な範疇論を展開している。そして、その範疇論の上台ともなるべき認識 論は、基本的に、経験論的観察に基づき、機械論的に精緻に諸現象を説明すること を目的とし、いわゆる神秘1三義的な現象の説明は皆無に近い。
ところが、同学派の『フラシャスタハーダ・バーシュヤ;の中では、 e聖仙の 知,、 ヨーガ行者の直接知覚.といったいわば「特別一な認識は、認識論の中で しっかりと・つの位置を占めている。では、そのような「特別。な認識には、どの ようなものがあるのであろうか。
まず、根本聖典である『ヴァイシェーシカ・スートラ』には、この特別な認識一 は、聖仙と超人(siddha)の知一として明記されており、 善(d㎞a)により て生じる」とされている140。しかし、『勝宗十句義論』には、この 特別な認識、
についての記述はない。では、『フラシャスタバーダ・バーシュヤξではどう規定 するのであろうか。以下検討していきたい。
2 『プラシャスタパーダ・バーシュヤ』における「特 別」な認識の位置
『フラシャスタハーダ・バーシュヤ』の認識論では、様々な認識形態を知識
(vidya:正しい認識)と非知識(avidya:誤った認識)の二つに分け、それをさら に対象ごとに詳しく分類している。そのおおまかな項目のみを表にすると次のよう
になる。
《図1認識論の分類》
1.正しい知識(Vidya)
2⌒
1.1.直接知覚(pratyakSa)
l.2推論(anumdna)
1.3.記憶(smrti)
1.4聖仙知(ar§ajfiana)
21.疑惑(sa⑪aya)
22誤謬(Viparyaya)
23非決定(a【1adhyavas亘ya)
144
24夢(suapna)
この中で、「特別」な認識として数えられるのは、 知識の中の(1)ヨーガ行 者(yogin)の直接知覚(pratyaksa)と(2)聖仙の知(邑巧aj五5na)、および非知 識中の(1)占星家(頭曲)141の(内的)疑惑(8arpgaya)である。では、それぞ れを個々に検討していくことにする。
3 ヨーガ行者(yogin)の直接知覚(pratyak6a)
インド諸哲学派では、認識論上「認識手段(pramApa)」に何を認めるかについ て各学派で様々な議論が展開された.その中でも直接知覚(pratyal 8a)は、各学 派ともに認める認識手段であるle。特に「経験論的」傾向を持つヴァイシェーシカ 学派の認識論では、直接知覚は重要な位置を占め、rプラシャスタパーダ・バーシュ ヤ1で詳細な記述がされている。
この「ヨーガ行者の直接知覚」は、プラシャスタパーダが強く影響を受けたとさ れるディグナーガをはじめとする仏教論理学者の体系では、直接知覚の四分類の内 の一っとされ、世尊の四聖諦に関する智もそこに分類される特別な認識である。そ してそれは、 「四聖諦を認識対象として、修習に勤める修行者達の、師の教説を離 れての、対象のみの知覚には、特別の超感覚的認識が可能」とする智である1娼。し たがってこの仏教側の「ヨーガ行者の直接知覚」は、プラシャスタパーダの体系で はむしろこの後に論ずる聖仙知に相当するものである。
「プラシャスタパーダ・バーシュヤ」での「ヨーガ行者の直接知覚」は、仏教の ように教義的な意味付けはなく、基本的には直接知覚であることには変わりない。
ただ、常人の直接知覚とは異る形の知識を得ることが出来るので、「般人との直接 知覚とは区別されて、直接知覚全般を定義した章の後半部分にまとめて論じられて
いる.
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[241]一方、我々とは異なったヨーガ行者が、ヨーガに専心しているときは、
ヨーガより生ずる法(dharma)1 に助けられた意識によって、自我、他
(我)、虚空、空間、時間、原子、意識について、また、それらに内属した属 性、運動、普遍、特殊について、さらに内属について、真実の本質の知見が生
ずる。
[242]さらに、ヨーガを離れた(==ヨーガをしていない)時は、ヨーガによ り生じた法(』)の助けの効果による四者(=対象、感覚器官、意識、
自我(アートマン))の接触から、徹細なもの、(何かに)隔てられたもの、
遠く離れたものについての直接知覚が生じる。
14∫
ここではヨーガ行者の直接知覚を、(1)ヨーガを行っていると時と(2)ヨーガを 行っていない時の1つに分けて説明している。
(1)ヨーガを行っている時の自我(atman)などについての本質の知覚
すなわち、ヨーガを行っているときには、そのヨーガより生ずる法(dharma)
に助けられた意識(manas)によって、自我(atman)等の実体(dravya)カテ ゴリーや、その他のカテゴリーである属性(9Ulユa)、運動(kaman)、普遍(
samanya)、特殊(ViSe§a)内属(samavaya)等の本質の知見があるというのあ る1竺これは、ヨーガによって、ここに挙げられた諸カテゴリーに関するより確実 なkl識が得られることを表す。ここで、注意すべきは、ここで挙げられている自我
(atman)、虚空(互kaSa)、空間(diS)、時間(k司a)、原子(parama阜u)、
意識(manas)は、 一般的には直接知覚されない実体である三 ;7ということである。
直接知覚は、基本的に、3つの大なる実体である地・水・火が、それぞれの原子の状態 ではなく、それが結合した結果である身体(Sarira)あるいは対象(vi§aya)を知 覚するのである1竺それ以外の実体は、推論によって知られるのである。したがっ て、常人は推論でしか知りえない実体及びそれに内属した諸カテゴリー(pad互rtha
)を直接知覚できるという点で、 e特別」なのである。
ヴァイシェーシカ学派では、カテゴリーに関する確かな知識を得ることが解脱に 通じるので149、推論でしか知られない諸実体をより 直接的な、直接知覚で知りう ることで、ヨーガが解脱に近づくために役に立つという事を証明することになる。
また、身体的技法のヨーガが、 r本質を見抜くカーを得られるというのは、他の正 統派諸学派や仏教の諸派にも共通してみられる主張であるが、その本質が諸カテゴ
リーに関する本質であり、いわば主知主義的・知識論的に影響を及ぼすということが ヴァイシェーシカ学派独特の議論であると言える。
(2)ヨーガを行ってない時の微細なものなどについての直接知覚
こちらの方は、いわゆる 超能力.的な認識能力であると言える。すなわち、ヨー ガ行者は、微細で目に見たり触ったりすることができないものや何かに隔てられた もの、および遠く離れたものについても直接知覚できるというのである。例えば、
現代的な文脈で言えば、細菌や水の分子構造などを「直接」知覚することは常人に は不可能である150。また、何かに遮られたものを「直接」知覚するということは、
現代風に言えば透視術の様なものであろう。さらに、遠隔地にあるもの、例えば東 京にいて大阪の出来事を「直接、知覚するような能力は、千里眼とでも言うべきも
のである。
これらの認識は、上記のように現代的な文脈で考えても「特別、な認識能力であ るが、実はヴァイシェーシカの認識論の前提から考えても「特別、な認識とせざる を得ないのである。なぜなら、先程も見たようにヴァイシェーシカの認識論上、直 接知覚は、 (認識)対象一感覚器官一意識一自我の接触が大前提とされるため、何か に隔てられたものや遠隔地にあるものは、この直接知覚の理論上成立しえないので ある151。したがって、ヨーガ行者の直接知覚は、通常のヴァイシェーシカ学派の直 接知覚理論から外れるものが、ヨーガの効果による・特別」なものとして、直接知 覚の項目の最後に、但し書きとして記されるのである。
4聖仙知伍r§ajiana)
146
(1)聖仙知(互r詞品m)の位置づけ
聖仙知(asajfidna)は、他学派では、むしろpratil)hi(直観・ひらめき)や irqjfii(智慧・知識)という用語で知られており1M、いずれも、直観的な知識の意
味合いである163。
ヴァイシェーシカ学派では、この聖仙(細a)は、ヴェーダ聖典の創造者であり、
特別な能力を持つものとされ、その聖仙の知は、rプラシャスタパーダ・バーシュヤ1 の中では(正しい)知識の四つの項目の最後にあげられている。では、その定義を
見ていこう。
(2) 1プラシャスタパーダ・パーシュヤ1の聖仙知の定義
<122>
【288】麺n亘ya−Vidhatptaip POtm atita−aniigata・▼a血m血e卵 a血driye6▼arthe6u dharlna−idi6u grantha−upanibadd噛▼
anupanibaddhesu ca_亘㎞・manasob sarpyag亘d dh醐1a−}ca yat prata》㎞yath亘一artha−ni▼edanalp j】輌utpadyate tad 51寧am. ity ieaksate I tat tu p{de▼a−r8ri4atp kad蚕dd e▼a laukik看n亘1P y8版1vanyaka braviti的o me b㎞亘恒 gante垣1町dayalp me
bthaya日j岱口1斑
聖典の創造者である聖仙達に、(1}過去、現在、未来のことがらにおいて、{2)
超感覚的なことがらにおいて、(3}法などにおいて、{4)書物に記録されたもので も記録されていないものにおいても、自我と意識の結合から、そして特殊な法 から、直観的で対象をそのまま伝える知識が生じる。これが、聖仙知(Ersa)で
ある。
この(聖仙知)は、多くは神や聖仙たちにあるが、時には世俗の人たちにも あらわれる。例えば、少女が「明日私の兄弟がやってくる、と心臓が私に語る」
というように。
ここで注目すべき点は、まず聖仙の知は、過去・現在・未来という三つの時間のこ とがらに関して起こるということである。ヴァイシェーシカ学派の通常の認識論は、
ほぼ現在経験に基づいており、rプラシャスタパーダ・バーシュヤ」でも記憶(
SMTti)と夢(evapna)を除いては、ほぼ現在経験に基づいた説明がなされている。
これは、後に詳述するが、その認識のもとになる経験の時間が聖仙知の場合「特別」
なのである。
また、超感覚的な対象についても直観的な知識が得られるとあるが、これはいわ ゆる「超能力」的な認識であるといえる。
しかし、驚くべきことに、この「超能力」的な認識は、前の過去・現在・未来に関 する知識も含めて、聖仙達のみの独占物でない。時には、世俗の人たちにも現れる
ものだというのである。rプラシャスタパーダ・バーシュヤ」では、その例として少 女がr明日私の兄弟がやってくる、と心度が私に語る」という場面をあげているが、
これはいわばr虫の知らせ」とでも言うべきものである。当然のことながら、この ような「虫の知らせ」のような知識を得ることは、直接知覚と推論を軸として厳密