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10 年

ドキュメント内 震災体験 (ページ 128-181)

      藤本  諭 神戸市東灘区   僕が震災にあった家は神戸市の東灘区本山南町という町にある、海からは3キロほど、阪神高速から は数百メートルに位置する関西電力の社宅の、築30年はあろうかという木造一軒家だった。地震当日、

暗かったからかあまりよくわからなかったが、僕は地震の起こるちょっと前に目が覚めていた。起きる わけでもなく、トイレに行くわけでもない。とにかく目が覚めていた。なんとなく「もう1回寝ようか」

とか考えていたときに地震は起こった。どんどん大きくなる雷のような怒号とわずかな揺れでうつらう つらしていた目がさえた。「地震かな?」と思った直後、ドカン!という音と共になにか大きな力に下 から突き上げられ、地面は大きく揺れた。その感覚は揺れているというものではなく、スカイダイビン グのようにバサバサと真下からの風をうけながら地面に落ちていくようだった。揺れが大きくなったと きに反射的に布団にもぐった。怖いとか、早くおさまってとか、そういうのではない。なにも考えられ ないのだ。頭の中が真っ白になったというのだろうか、揺れはずいぶん長かったような気もするし、す ぐおさまった気もする。でも、覚えているのは落ちていくような感覚と、カサカサに荒れた母の手の感 触だけだった。

地震がおさまってから、子供たちは社宅に住んでいる住民の車に昼過ぎくらいまで缶詰状態で避難。

大人たちはあたりの様子を見に回っていた。車の中に約6時間。ずっとつきっぱなしのラジオとエアコ ン。6時間、社宅の友達とえんえんとしゃべっていたはずだが、会話の内容はまったく覚えていない。

本人は自覚していないだけで、案外精神的に疲労していたのかもしれない。車から出た後、母がすぐ近 くにあったローソンで買ってきた食料をくれた。ポテトチップスやアメなどのお菓子ばかりだった。母 曰く、母がローソンについた時点で店の前には多くの人が並んでおり、これだけ買うのがやっとだった そうだ。

夕方、屋根から落ちた瓦を掃除していると、父が遠く西の方角を見つめてから一言。「火事や」とぽ つりとつぶやいた。僕もその言葉につられて西の方角を見てみると確かに煙が上がっていた。いても 立ってもいられなくなった僕は、大急ぎで現場へと走っていった。このとき、僕も当然自転車はもって いたのだが、乗らなかった。子供なりに地震直後の都市で自転車に乗って移動することの危険性を感じ ていたのかもしれない。時計などの時間を知るための道具を何1つもっていなかったため、どれくらい の時間走ったかわからなかったが、なんとか空の赤いうちに現場にたどり着いた。現場は神戸市でも有 名な商店街だった(地震後に有名になったのかもしれないが)。大きな商店街のアーケードは真っ赤に 燃え上がり、周りの民家も覆いつくして、どんどん燃え広がって、僕はただただ圧倒されるばかりだっ た。周りには何千人とも思えるヤジウマの人だかりと、ぽつんぽつんと泣いている人たち。きっとこの 家に住んでいた人なんだろうなと幼いながらに感じた。大量の消防車が来てはいたが、そのうちのほん の数台しか放水していなかった。理由は簡単。水がなかったのだ。消防もかなり遠い小学校のプールか ら水をくみ上げたり、東灘区の川は基本的にすごく浅いのだが、その川に布団を投げ込み、川をせきと め、即席のダムを作ってなんとか水を供給しようとしたりしていた。

そのとき消防の人が言った「もう海から水ひっぱってくるしかないやろ!!」という言葉だけ覚えて いる。その後家に帰ったときに、辺りはだいぶ薄暗くなっていた。「どこ行ってたん」という父に「火 事見にいっとった」と答えたら、ふうんといった感じで流された。

その日の夜の街は真っ暗だった。見えているのは自分たちだけだった。

2日目の朝、早くに目の覚めた僕は父と一緒に散歩に出かけた。普段は2人とも散歩なんかしないの だが、自分たちの町がどうなったのかが知りたかった。いざ、歩いてみるとそこは、見るも無残な光景

2004  兵庫県立舞子高等学校 

129  だった。折れ曲がった無数の電信柱、ピサの斜塔のように大きく傾いた住宅。そこらじゅうの家という 家にヒビが入り、マンションは1階がつぶれて存在してなかった。

2人とも殺伐とした風景にちょっと暗くなってしまった。

その日のうちに、すぐ向かいにある商船大学学生寮に避難しにいった。そこは、まさに戦場の難民キャ ンプといった感じで恐ろしいまでの人、人、人だった。その中でぼくらの家族は布団2枚分くらいのス ペースを、離れ離れだったがとることができた。環境防災科に入って知ったのだが、この避難所は付近 の老人に積極的に声をかけて避難所に誘ったり、避難所の人数を数えて県に報告し、その数だけのおに ぎりや毛布をもらっていたりしていて、最終的には自分たちで独自のマニュアルを製作し、県から表彰 を受けていた避難所だったらしい。そんな避難所だったせいか、雰囲気はよく、広くて遊び場もあった し、遊びつかれても、学生のひとが貸し出していた雑誌を読んだりできて、退屈ではなかった。2日目 から、給水車が来だし、3日目には電気が復旧した。そんな日々が6日ほど過ぎた頃…加古川の親戚の うちに、僕と姉2人の子供3人だけ行くことになった。行くときはとにかく時間がかかった。昼前にで たのに三宮に着いたころにはもう6時に近かった。僕はひどい乗り物酔いで、なんとか飴をなめること でもっていた。長田あたりの記憶はないのだが、三宮あたりはひどいありさまだった。暗闇の中で道路 に倒壊したビルを照らす消防のライトがまるで映画のようだった。そんなこんなでひたすら 2 号線を 通って加古川の親戚の家についたころにはもう 10 時をまわっていた。親戚の家族は夜遅かったのにも かかわらず、ぼくたちに久方ぶりの温かい夕食をご馳走してくれた。

その日の夜は、今までの深夜でも少しがやがやしていた避難所に慣れてたたせいか、みょうに寝付け なかった。2日目の朝、ものすごい衝撃をうけた。親戚のおじちゃんが出勤し、親戚の兄弟が登校した のだ。「だからどうした」といわれそうだが小学2年の頭脳には衝撃だった。「加古川は同じ兵庫県なん だし、それなりの被害はうけているだろう」と思っていた。が、「え?地震なんかなかったよ?」とい われたら思わず信じてしまいそうなくらい被害がなかった。水道や電気などのライフラインなどはもち ろん、地震があったせいで閉まっているような店もなかった。まさかこんな近いのに「温度差」がある とは思いもよらなかった。

テレビを見ていてもなんだかちょっと「カヤの外」のように感じた。

そんなほのぼのした生活が始まってから1週間。加古川の親戚の家から東灘に戻った。

帰りは行きよりは早かった。壊滅的なダメージを負った町にもどるなんて僕らくらいのものなのだろ う、と思った。

帰ってきていきなり母が「あんた、明日から学校に行きよ」と一言。どうやら僕が加古川に避難して いる間に青空教室で、しかもほとんど勉強無しで学校が始まっていたらしい。

ひさしぶりの学校はものものしい集団登校で始まった。集団登校なんか見たことも聞いたこともな かったのでちょっと戸惑ったが、すぐにまだ安全じゃないんだ、と自覚し登校した。学校では半数以上 人数が足りない状態ではあるがみんなの懐かしい顔を見て素直によろこんでいた。しばらくしたら、学 校にプレハブの教室をつくるために、2週間くらいのあいだ六甲アイランドの小学校に神戸市が用意し た観光バスで通うこととなった。

そこはとても綺麗で最近できた学校というのがすぐにわかった。

  そして学校ができあがって1ヶ月、僕は大阪に行くことになった。

「大阪府寝屋川市」。ひらかたパークのある枚方市の隣に位置し、電車はJRではなく京阪電鉄を主と している。さほど繁華街的な要素は少ないが、商店街は多く神戸の深江とさほどかわらなかった。違う 点といえば、田畑が多いことくらいだろう。4月の6日、僕は生まれて初めて梅田より東に来た。僕の なかで繁華街といったら三宮のそごうが限界だったので電車乗り換えのためにおりた京橋のごちゃご ちゃっぷりにすごく驚いたのをおぼえている。JRから京阪にのりかえ30分ほどしたら「かやしま」と

2004  兵庫県立舞子高等学校 

ドキュメント内 震災体験 (ページ 128-181)

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