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年生と高校 3 年生

ドキュメント内 震災体験 (ページ 107-128)

JISHIN

小学 2 年生と高校 3 年生

野内  沙紀 神戸市西区   1月の終わりごろ、私はマーチングの発表会で演奏する予定になっていた楽譜をもらって嬉々として いた。次の練習日にはもうひとつ渡すから、といわれて楽しみにしていたのを覚えている。

当時、私は小学2年生。神戸市に引っ越してきてからまだ1年も経っていなかったが、自分の住所を はっきり言える程度にはなっていた。

短い冬休みが終わり、渋々片道10分程度の学校へと足を進めていた。

  突然、慌しい足音が聞こえてふと目が覚めた。音からして父だというのはすぐにわかった。

部屋はまだ暗く、寝ぼけていたのもあってよく覚えていなかったのだが、開けっ放しだったドアから 父が私の部屋に飛び込んできた。

「○○ちゃん大丈夫か!?」と私の眠っている2段ベッドの前に駆け寄ってきたので、何事かと私が 訊ねると、父は「地震だ!」と言った。

私は「地震」という単語にあまりにも聞き覚えがなく、その出来事を理解するまで妙に時間がかかっ た気がする。地震というとあれか、いきなり家が揺れるもの。当時小学2年生の私には、その程度の知 識しかなかった。

そして、何よりも私がそれを理解するのに困ったこと。それは、一番大きかったはずの、阪神・淡路 大震災(兵庫県南部地震とも言う)と呼ばれた地震の間、気づかずに眠っていたことなのだ。今思えば、

どうしてあんなに大きなものに気づかなかったのかが信じられないぐらいなのだが、幼いころの自分は よっぽど鈍感だったのだろうか…。この環境防災科で地震など災害や防災を学ぶようになってから、初 めてその恐ろしさを知ったのかもしれない。

  地震という事実を理解した直後、私が最初に心配したものは「どつぼ」だった(梅干とかを入れてお く焼き物の入れ物である。以前親戚があれの手乗りサイズぐらいのものを私にくれて、えらく気に入っ ていた)。慌ててベッドから降り、棚の上に置いてあった「どつぼ」を見たが、幸運にも私の部屋のも のは何1つ割れたりはしていなかった。ただ、片付けをしていなかった漫画類が散乱していたのは言う までもない。

夜中に叩き起こされ、挙句の果てにアニメのひとつもしていないつまらないテレビの前に、家族3人 で座っている時間が当時の私にとってどれだけ退屈だったか。青や緑ばかりの画面に赤い字で地震の震 度やマグニチュードの説明がずらりと並び、リポーターが炎の燃え上がっている街の様子を必死に実況 している。今の自分から見れば凄まじい光景なのだが、あのころの私にはつまらないニュースの一環で しかなかったのだった。

話は変わるが、当時のことについて、母から興味深い話を聞いた。大きな地震があると、空にひび割 れのような1本線や、区切られた壁のように雲が割れるという話をご存知だろうか。母は、地震のあっ た直後にベランダから父と一緒にそれを見たのだそうだ。写真のひとつでも撮っていてくれればよかっ たのに、などと思ったのはつい最近の話。

それから、母は祖母と母の妹の住む家へと電話をかけた。幸いにも家の家具が倒れたりはしたらしい が2人とも無事であった。しかしマンションが住める状況ではなかったらしく、うちに一時的に住むこ とになった。当時の遊び相手でもあった2人が家にくることに、危機感のかけらも抱いていなかった私 はとても喜んでいたのをしっかりと覚えている。

しかし、地震が起きてしばらくしたころ、私にとっての最初の悲劇がやってきた。水が止まっていた のだ。迷惑な話なのだが、ただでさえ水を大量に使う私にとっては信じられない出来事だ。何が驚いたっ てトイレのことだ。毎回トイレに行くたびに、タンクや風呂場の水をトイレに流し込んでから使うのだ。

2004  兵庫県立舞子高等学校 

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「トイレに行く<面倒」なんて不等号が組み立てられていたのは、私があまり残尿感を覚えないという 子供らしからぬ感覚だったからだろう。

だがあの時、私はある豆知識を覚えた。皆さんは当たり前に思うかもしれないが、歯磨きは水でする ものである。何を変なことを言うんだこの人は、と思った人は一度水のあまり使えない生活をしてみる といい。最近の日本では、「蛇口をひねればいくらでも水が出てくる」というのが当たり前だ。しかも、

日本ではジュースや酒よりも水のほうが安い。一度海外に旅行したことのある人ならわかるかもしれな いが(特に硬水の出る地方)、ジュースの1ℓペットボトルよりも水の500mlのほうがはるかに高いのだ。

私もあれを初めて見たときは驚いたが、日本のように軟水の出ている国のほうが少ないことをよくあら わしている。

これを言ってしまえばわかりやすいことだが、私たちはその高価な水を滝のように流しだして、風呂 に入ったり歯磨きをしたり、食器を洗ったりしていたのだ。

少々脱線してしまったが、私が震災当時歯磨きに使っていたのは「ウーロン茶」である。逆に虫歯に なるのではないか、なんて思っている人もいるだろう。ところが、実はこれは結構歯にも良いらしく、

お勧めらしい。しかし、それも最近母から教えてもらった話だったのだが、当時の私には嬉しくない健 康法だったわけだ。洗面所に、うがいをするコップの横に2ℓペットボトルでお茶がどんと置かれている 姿は、外観的にもあまり歓迎できたものではない。

そんな体験の中には、当たり前のようであまり知られていないこともいくつか存在していた。皿にサ ランラップを置いて洗い物やごみの量を減らすこと、割れやすい食器などはあまり高い位置に置かない こと。意外にも学校などの建造物が、普通の家々よりも頑丈だということ。結構当たり前なことなのだ が、これも体験しないとわからないことなのである。

  当時、我が家は幸いにも被害はまだ少なくガスも電気も通っている状態であった。(すぐにテレビを 見ることができた、ということがいい証明だ)しかし、水が止まっていたことにより私たちは日本がど れだけ豊かな国だったかということを思い知った。毎日のように何度も来る給水車に、マンション中の 人たちが様々な入れ物を担いで集まってきた。そのときの話をしよう。

私が住んでいるのは、当時と変わらぬマンションの5階だ。丁度家を出ればすぐそこにエレベーター があるという、結構便利なところに住んでいた。震災が起きてエレベーターの使用が禁止されていた頃 も、まだ歩いて登り降りのできる距離であった。

エレベーターがある程度使えるようになった頃、マンションでは水のタンクなど荷物だけをエレベー ターを使って運んでもいいということになった。私のいた棟にはエレベーターが3つあり、その中でも 使わせてもらえたのは右端のものだけだった。右端のエレベーターは 17 階まであったが、全部の階に は止まるわけではなかった。マンションが微妙に変なつくりになっているせいでもあったのだが、私の 場合は4階まで水を運んでもらい、そこから5階まで運んでいくという形になった。

このシステムが出来上がるまで、友人など 10 階らへんに住む住民は何度あの高い自分の住居まで階 段を登り降りしただろうか。水のタンクは数リットルあるし、それ以上にペットボトルなども担いでい ただろう。高いマンションというのも、こういうことを考えると不便なつくりだと思う。急な階段とい うのも、あくまで歩くものとして階段が手段にされている限りは考えものだろう。避難経路という前に、

階段は日常では使われるものなのだから。

  そういえば、我が家の食器棚は妙に大きくて、天井との幅があまり無かったことから、棚自体が倒れ ることは無かった。割れた食器の数も少なく、数枚の皿やグラス、カップなどがわれた程度であった。

しかし、家族3人色違いで買ったクマのカップがなぜか母のものだけ割れたのが、私にとっては怖かっ たのを良く覚えている(あれは母の代わりに割れて、彼女の不幸を持っていってくれたのではないかと 私は思っている)。他の棟の上のほうに住んでいた友人の母が、大量の割れた食器類をダンボールに詰 めていた姿は今も鮮明に覚えている。

  それから数日がたった頃、祖母たちの家に荷物をとりに行った。車に揺られ、震災後初めて記憶に残っ

2004  兵庫県立舞子高等学校 

ドキュメント内 震災体験 (ページ 107-128)

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