御 伝 紗
下巻
第 七 段
親驚聖人絵伝
本 廟 創 立
←
(記 載な し) 廟 堂 創 立
第四幅
第二十図
『御 伝 私 考j 345
第五図第四国第三図第二図第一図
346 勝見寺蔵 『親驚聖人絵伝J(寛文9年)第1幅
図⑬
図⑬ 同第2幅
347
r
街l伝私考j第八図
第七回第六回
第十五図第+四国第十三図第十二図第十一回第十図
348 同第3幅
図@
図⑬
349 『御伝私考J
資 料
②
往 生寺 の絵紙
刈萱堂往生寺(長野市往生地)で絵解きされている﹃刈
萱親子御絵伝﹄二幅を縮少して一枚刷りにした﹃刈萱絵
詞伝弐拾分壱之図
﹄(筆者架蔵二点︑A本・B本)と往生
寺の境内図二種を紹介する︒
凡例
刷物の﹃
刈萱絵詞伝弐拾分壱之図
﹂(
二種
)・﹃信濃国
刈萱堂往生寺略図﹄・﹃信州善光寺之真景及苅萱上人石童
丸旧蹟苅萱山並往生寺の図﹄の詞書を翻刻する︒
て 本 文
中の正字・略字・異体字・変体仮名は常用漢字
体または通行の字体に改め︑仮名遣い・濁点は原本
のま
まとした︒誤脱等については*
を 付 し ( ) で
注記した︒
て判読の便のために︑新たに句読点を付した︒
350
付﹃刈萱絵詞伝弐拾分壱之図﹄A本[図
⑬]
石版刷︒
黒色単色刷
︒三七・一
二 ×
二八・九センチメー
トル
︒左に﹁明治廿
九 年 五 月 日 印 刷
/全
年 全 月 日
発行﹂﹁大日本帝国長野県信濃国上水内郡長野町三千九
拾八番地/水野善瑞﹂︑左下に﹁定価金五銭﹂︑下中央に
﹁長野市若松町西津活版社石版部印行﹂とある︒水野善
瑞師は︑往生寺第四十世である︒
初段筑前の国博多の城︑王︑加藤左ヱ門尉重氏公︑桜の
馬場に於て花見遊参の体相也︒
二段重氏公︑無常を感じて叡山叡空上人の弟子と成玉
ふ︒
段
重氏公︑廿一歳にて薙髪し名を寂照坊等阿と賜は
四段筑前国箱崎八幡宮︑重氏公へ霊夢を告け玉ふ る
︒
五段神勅を蒙り︑黒谷法然上人の弟子となり玉ふ
︒
六段国元より妻子の尋ね来らんことを恐れ︑長寛
二年
の三月高野山へ旅の御姿︒
七 段 石 章
一丸︑父の行衛を慕て︑母桂御前に旅立を願ふ
所なり︒
八段桂御前・石童丸︑都を指して登る旅の道中
︒
九段都黒谷法然上人の御禅室に御尋ねの処
︒
拾段高野山の麓︑学文路宿︑玉屋与次迄
着の姿︒
拾一
段石童丸︑父を尋ねて高野山に登り︑
三千坊を廻
り玉ふところなり︒
拾二
段 蓮 花 谷 往 生 院 に 於 て
︑親子対面ありと難も︑終
に名のり玉はず︒
拾三
段 泣 く /
¥ 玉 屋 へ 下 て 見
玉へば︑母上命終と聞き
歎き王ふところなり︒
拾四段石童丸︑母の白骨を背負て︑再び蓬花谷往生院
へ登り玉ふ体なり︒
拾五段石童丸︑父上とも知らず︑等阿法師の弟子とな
り︑名を信生房道念と玉はる︒
拾六段親子同居ハ障りありとて︑高野山より善光寺へ
旅の御姿︒ 拾七段差ロ光寺御堂前に来て︑自身往生の地を祈誓し︑
霊夢により此の地を授けらる︒
拾八段此の処に来て庵を結で修行すること多年︑或時 ハ一光三尊に御参迎︑又或る時ハ三光三尊に御来迎︒
*
拾 九 段 末 世 衆 生 済 度 つ
(の)為に地蔵菩薩を彫刻す︒
二拾 段 建 保
二年四月廿四日︑西方に紫雲毅数き八十三* 才
(歳
)
にて寂す︒
廿一
段 高 野 山 の
石童丸も︑此に来て往生す︒
(往
生寺
境内図
)三
観
亭 善 光 寺 来 迎 松 刈
萱塚左か
る か や 道 庫 裡 波 切 不 動 本 堂 六 地 蔵 七 観
音刈
萱
杉 鐘 楼 堂
口﹃刈萱絵詞伝弐拾分壱之図﹄B本
[図
⑮]
四色
( 茶
・主
円 ・
黄
・赤
)刷︒三
六 ・
O
×二六・五センチメートル︒左に﹁昭和十四年十月印刷/全年十一
月発
行﹂
︑ 左下に﹁長野県長野市往生地/水野善凱﹂とある︒水野
義口
凱師
(明
治
三十
七1
昭和
五十四年)は往生寺第四十二世
である︒
これは︑発行当時はて
二銭で頒布されていた︒
﹃絵詞伝
﹄A本と比較すると︑各段の構図は同じであ
るが︑線質が簡略・粗雑であり︑大きさもやや小さい︒ 全二十一段を左右に配列したのは同じだが︑B
本で
は︑
往 生寺の絵紙 351
上から下へと段番号順となるように配列が改変され
︑左
下の往生寺境内図はない
︒
段順通りに上から下へと配列
し︑
物語をたどりやすくなっている
︒
詞警
は︑
A本とほ
ぼ同文であるが︑次の異同がある
︒
初段
・遊 参 (A
本)
‑ 遊 山 吉 本 )
︑ 二 段 感 じ て
│ 感 し
︑ 四 段
・告け
│
告げ
︑ 拾 八 段 一 結 で
│ 結 て
︑ 拾 九 段 済 度 つ
│ 済 度 の
︒
臼﹃信濃国
刈
萱堂 往生寺略悶
﹄[
図⑪
] 木板刷
︒
黒色単色刷
︒
江戸後期
︒
二 九 九
× 四
0
・五センチメートル︒
題目の下に﹁善光寺本
/堂ヨリ六丁﹂
と分ち書きがある
︒
半紙大の格紙一枚に刷られている
︒
信濃国刈萱堂往生寺略図錦刊一内対丁
抑刈 萱堂 往生寺ハ︑刈萱道心往生ノ地ナリ
︒
道心ハ筑 前国刈萱ノ庄博多ノ城主加藤左ヱ門佐重氏ナル者也
︒故
アリテ発心シ︑京一一上リ︑
黒谷源空上人ノ御弟子
ト
ナリ
︑
寂照一房等阿ト号ス︒
修行中
︑
御台桂御前︑御子石堂丸ヲ 携へ尋来ルト聞キ︑高野山ニ登り給フニ︑石堂丸亦高野
ニ尋来
リ︑御弟子ト
ナリ道念
ト号ス︒
然レトモ障碍ヲ慮 リ︑未タ親子ノ名乗シ給ハズ
︒後︑
等阿法師善光(寺脱
カ)ニ来リ︑
当地ニ草庵ヲ結ヒ
︑
日夜参詣信
心
怠慢ナシ
︒
或参龍ノ夜
︑
夢 一 一
︑
汝チ親子ハ地蔵菩薩ノ化身ナリト如 来ノ御告ヲ蒙
リ
︑コレニ因リテ地蔵菩薩ヲ自作シ︑建保 二年四月廿四日︑八十三歳子ンテニ此地ニ往生シ給フナ
リ︒
道念法師モ高野山ニアリテ︑同夜間夢ヲ蒙リ︑釜感 余リ善光寺如来井ニ等阿法師ヲ慕ヒ来リ︑其往生ノ草庵 ニ於テ︑同ク地蔵菩薩ヲ彫刻︑ン︑合セテ当寺ニ安置シ給
フ刈萱
親子地蔵尊コレナリ
︒
善 光 寺 本 堂 往 生 寺 一 丁
二
丁 刈 萱 塚
三丁
六 丁 本 堂
352 水 観 亭
三乞日
左往生寺
金比羅
吉良桜
観
来迎松
四 丁 稲 荷 嗣 七 刈 萱 杉 柳 清
五丁鏡池
四﹃信
州善光寺之真景及苅
萱上人石童丸
旧蹟苅
萱山並往
生寺の図
﹄
[図
②]
三色
( 赤
黄・背)制︒
筆者架蔵
︒三九二x五三・三
センチメ
ートル
︒左 端に﹁昭和十五年三月十日発行﹂
﹁東京市神田区司町二丁目十三番地/
発行者兼印刷人
三
光 商 店 秦 光 平
﹂ と あ る
︒
右上から︑善光寺本堂
・
善 光 寺 仁 王 門 苅 萱 山 西 光 寺
︑
中央上に往生寺本堂が描 かれ︑その下に大きく高野山での苅萱上人と石童丸の出 会いの場面が
捕
かれ︑左上に善光寺山門
・大勧進︑牛に
引かれて善光寺参りの図が描かれている︒
︿ 右
上﹀御本堂︑東
定 額 山 善
光寺
︑ 南 南 命 山
無
国 重 寺
︑ 西 不 捨 山 浄 土 寺 ︑ 北 比 空 山
雲
上寺
︑
高
サ十丈二重壁屋根︑表間口十五閥︑奥行廿九間三尺︑
柱数百制六本︑
(本 堂前 の香
炉の横に﹁大香炉﹂とあ
る)
︿ 右
中﹀仁王門︑
(扇
額
中に
﹁定
額山
﹂)
︿右 下﹀ 苅萱 堂
並苅萱上人石童丸の銅像
︿中央上﹀往
生寺
本堂
︑
(扇
額
中に
﹁往
生寺
﹂
)* ︿中央下﹀筑紫の大守加藤左衛門重氏︑世の無情(
常)
をきとり︑妻子を捨て高野に入り︑道心となり︑一子
石童丸︑母上に死別れ︑善光寺の父にあひ︑共に剃髪
して仏に仕ふ︒
︿ 左
上﹀山門
︿ 左
中
﹀(
扇額
中に
﹁大
勧進
﹂)
︿左下﹀昔︑信州に心あしき老婆ありける︒軒下にさら
せし布を︑牛にとられしをいかり︑追行きしに︑本堂
にて其姿消へ失せぬ︒﹃牛をのみ思ひ居りしは︑此道* にいるをみちびく我心を﹄と我家の傍︑勧
(観
)音
堂
に其の布ありければ︑忽ち善人となれり︒
往生寺の絵紙 353
図⑬ 『刈萱絵詞伝弐拾分壱之図J
A
本3う4
(国之章介抱前事謁繕差刈)
図
o r
刈萱絵詞f云弐拾分壱之図.1B本355 往生寺の絵紙
vmm 市
図⑪『信波国刈萱堂往生寺l略図』
ぱ謀総
中川司 (b
起
‑FJiFMJJ
44ZEta‑ ・
﹁
hnm
f信州善光寺之真景及;1ij萱上人石童丸旧蹟;1ij萱山並往生寺の図』
図@
資 料
③
高野山苅萱堂の絵解き台本と詞書
付絵解き台本﹃石童丸のお話﹂
﹁石童丸のお話﹄は︑高野山苅萱堂で昭和初期から昭
和五十年代まで絵解きを行った山田義行氏が︑昭和五十
五年に孫の山田昌弘氏のために筆録した
﹁ 絵
伝﹄の絵解
き台本である︒写本一冊(縦二五・五x
敏一 八
・二
セン チ
メートル)︒本文は︑コクヨ
B 3版︑縦書き書簡用便婆
を用いる︒本文と同じ用紙の仮表紙一一枚と本文十
二枚 の
右上端を︑ホッチキスで仮綴じし︑裏表紙はない︒事務
用クラフト紙茶封筒に入る︒封筒表の中央に﹁石童
丸の
お話/苅萱堂﹂とあり︑本文第一紙の右端に﹁石童丸の
お話﹂とある︒本文用紙の十二枚には︑左上に﹁①尚﹂
﹁ ぬ
2﹂j
﹁ ぬ ロ﹂と付されている︒書簡用便築の縦罫 全十五行に一行おきに記し︑一枚が八行である︒封筒
358 表・本文とも青色ボールペンで記されている︒場面ごと
に①から⑮の番号が付されているが︑
﹃ 絵 伝﹄三十幅と は必ずしも一致してはいない︒ 凡
て本文中の正字 例
・略字・異体字は通行の字体に
改め
︑
旧仮名遣い・
捨て仮名振り仮名は原本のままとし た︒
一︑宛字誤字と思われるものは︑当該箇所に*を付し
下に()で注して訂正した
︒
一︑見せ消ちされた語句は︽︾で囲み︑訂正詩句のあ る場合は︑原本のままに右傍やその下に示した︒ 一︑句読点は︑原本のまま付した︒ て改丁(頁)は︑﹄印で示し︑その下に(ぬ2)
の よ
うに頁数を記した︒ て 原 本 に
付されている場面を表わす①1@
の番
号は
︑
原本の位置に記した︒⑫は原本に記されていない︒
﹃絵伝﹄三十幅と対応する場面は︑山田昌弘氏の現
行絵解きを参考にして︑新たに(絵1)1(
絵叩
)
の番号を付した︒
石童丸のお話
苅萱堂﹄(
封筒
表
)
石童
九の
お話
︑
①(絵1)今から八百四十年の昔︑九州博多の津に加藤* 兵衛のじよう繁昌と一言う九州六ケ(箇)国の殿様があり
ました︒この人︑四十才(歳)を過ぎても世継ぎがない
ために︑石童川のお地蔵さまに深き御心願を︑おかけに
なり︑そして︑おさずかりになったのは︑すなわち加藤
左衛門繁氏経(卿)であります︑
( 絵
2)若年ですが︑繁氏経(卿)は︑文武同道に秀いで
しょり﹄
( ぬ
l)
②近国の代(大)名︑原田種昌経(卿)にみこまれ︑
③(絵
3)
原田氏の息女︑桂子姫と︑御婚儀が整のうこ
ととな
りま
した
︒
④(絵
4)
そして︑ある日︑花見の宴が開かれ︑繁氏始 め︑本妻の桂子︑千里姫の三名は︑コトをたんじ詩を吟
じ︑むつまじそうに盃をくみかわしておりますが︑互い
サイにねたみ合う心の内は︑次の如く︑
( 絵
3)
妻よ
(と)共
に双六をして居りますが︑その髪の毛の終わりが︑﹄(ぬ
2)蛇になって︑もつれ合う︑このあさましい姿をひそ
かに見た︑繁氏の心の鏡に映ったので︑あ々我は罪なこ
とをしたとさとったのです︑
⑤
(絵6)桂子は千里を︑なきものにせんと考え︑おつ
きの家来︑中村早タルに
︑こ
のことを計りました︒
⑤(絵7)レンケツムルイの早タルは千里を殺すに忍び
ずうるし川の︑ほとりを︑はいかいする弥生という︑女
の首
を切
り︑
(絵8)これが千里の首なりと︑いつわり﹄
(M
桂子の前に持ち帰ったのです︑3)
⑦このことを︑ひそかに聞いた繁氏経(卿)は︑この世* 無情(常)
をま
す/
{¥
感じ
︑
(絵9)その夜︑我が住みなたれ︽つ︾城閣を忍びて
@(絵日)巡り/¥って高野
山 ︑
て︑ この苅萱堂に落ちつき
@
( 絵
日)その時の住職︑覚心上人のお弟子となり︑法
(発)心テイハツ︑し名を苅萱円空と改めて︑ひたすら
念仏三昧(昧)に重に入られましたが﹄(ぬ
4)
⑮(絵ロ)あとに残った身代(
御台
)の千里は︑国に悪
高野山苅萱堂の絵解き台本と詞書 3う9