結論
第5章 結論
本研究のまとめとして,まずは VP に関して新たに明らかとなった事柄と注意すべき要 点を本論文各章ごとに整理したい.本論文第1章で示した通り,現在 VP には異訳とされ る2種類のTib訳が知られている.しかし,これまで両Tib 訳の内容的な相違について触 れられることはなく,両者の間にどの程度の差異があるのかは不明であった.そこで,両 Tib 訳の比較に留意しつつ読み進めた結果,著しい内容の差や増広は両者の間に認められ ないことが分かった.細かい部分での比較研究は今後も引き続き必要となるが,全体とし て両Tib 訳はほぼ同じ内容を持ったSkt写本からそれぞれ翻訳されたものと見て間違いな いといえる.なお,VP の Phは他版の異訳が収録されているにも関わらず,VP の前後の 写本であるDKとSPUのPhには他版と同じ翻訳者の訳が収録されていた.おそらく,Ph の編集時に既訳のVPが散逸していた等の理由があり,PhではVPのSkt写本から新たに 翻訳したものを収録せざるを得なかったといった背景があったと考えられる.
本論文第2章では,VP 全15章の各章題を中心にVP 全体の概要を明らかにした.VP は,多くのタントラと同様に各章が強い独立性を有しており,さらに同じ章の中でも統一 性に乏しい雑多な内容を説いていることが分かった.なお,校合テクストとPhの間でVP の題名の相違が確認されたが,これは書写者や編纂者による誤謬である可能性が高いとの 結論に至った.また,VPの五仏は,タントラ本文の中で様々な異名を用いられていること が明らかとなった.そのため,本文の語句をそのまま読み進めているだけでは異名を五仏 に対応させて捉えることができず,内容を正しく理解することが必然的に不可能となる.
これは,あえて混乱させるように仕向けて説かれた一種の密意語であると考えられる.そ こで,各々の仏の本質や名称に見られる特徴などを考慮に入れ,五仏の異名を見極めなが ら本文を読み進めていく必要があることが分かった.本論文2−4では,五仏の異名を整理 した内容を取り上げたが,これらは全体から見ると異名のほんの一部に過ぎない.今後,
VP全体でどのような五仏の異名が説かれているのかを逐一確認していく必要がある.
本論文第3章では,VP全体の導入的役割を担う重要な章であるVP Ch. Iの詳細な内容 を明らかにした.各註釈書を参照しながら読み進めることによって,主尊・ダーキニーヴ ァジュラパンジャラの絶対的な存在としての力,5つのマンダラの構成と五仏の役割,ヨ ーガによる仏位獲得の理論というタントラの真髄ともいえる内容が読み取れた.また,Skt 註釈書や平行文によってVPのSktを一部回収し,Sktの偈として復元できたことも大きな 成果といえる.なお,著者不明である VPṬ では,唯識思想の用語による註釈が散見され た.おそらく,VPṬの著者は,唯識思想に傾倒した人物であると思われる.今後,さらに VPṬ を深く読み進めていくことで,VPṬ の著者がいかなる人物であったのかを明らかに したい.また,『Mahāmati註』では,VPの各語にナイラートミヤー十五尊マンダラおよび 五部マンダラの尊格たちを当て嵌めていた.さらに,DK における各尊の本質を説明に加 えていることから,『Mahāmati註』はDKからの影響を多分に受けたものであることが明 らかとなった.
本論文第4章では,VPの記述に基づいてHVがいかなる存在であったのかを検証した.
まず,VPのタントラ分類法は,現在知られている五分類法ではなく,実際にはタントラ 四分類法であった可能性を指摘した.そして,VPによれば,HVは当初ヨーガタントラ1
として説かれ,後にヨーギニータントラへと転換していたことが分かった.HVが当初ヨ ーガタントラであったとされていることを踏まえてHV三十儀軌の内訳と五十万頌の各儀 軌名を考察してみると,そこに登場する尊格名にヨーギニータントラ独自の尊格が皆無で あることが分かった.尊格たちの中にはヨーガタントラ以前から説かれていたヒンドゥー 系の尊格も含まれているが,それらも含めて全てヨーガタントラの中に見い出すことがで きた.もし,島田氏が主張する通り,HVを作成するための草案を整理したものがVPであ るならば,HVの内容や儀軌名には,既にVPに説かれている全女尊マンダラの女尊たちが 盛り込まれて然るべきである.したがって,VPが示すHVの全体像は,島田氏が述べるよ うな新しくHVを作成するための草案ではなく,VP編纂以前にヨーガタントラとして存在 していたHVの原初的形態を示していると考えるのが妥当であろう.以上が本論文の各章 において明らかとなった事柄と注意すべき要点である.
それでは,最後に全体のまとめとして,本論文から推測されるVPとDKおよびHVと の関係性について言及したい.VPの記述に従うならば,HVはヨーガタントラからヨーギ ニータントラへと転換したことになるが,そもそもなぜHVには転換が必要であったのだ ろうか.ヨーガタントラとヨーギニータントラは,思想やマンダラの構成尊が全く異なっ ており,わざわざヨーガタントラから転換するよりも,全く新しくヨーギニータントラを 作成した方が容易なことは明らかである.おそらく,そこには以下のような事情があった のではないかと推測される2.
まず,タントラが次から次へと生み出されていた当時,新しいタントラを世の中に受け 入れさせるためには何かしらの権威の後ろ盾が必要であったと考えられる3.それまで存在 していなかったタントラを突然に仏説として世に出したならば,反発を受けることは必至 である.そこで考え出され手段の1つに,膨大な量を有する広本を想定し,それを現存す るタントラの後ろ盾とすることが挙げられる4.古来から存在していた膨大な量の広本から 抽出したタントラとすることで,当時の人の目に触れるのが全く新しいタントラでありな がら仏説でもあるという矛盾が解消されるのである.HV の五十万頌という膨大な量は,
このように仏説である後ろ盾として生み出された架空のものであろう.
しかし,HV には,さらにヨーガタントラという後ろ盾が必要であったと考えられる.
最初にヨーガタントラとして説かれたものを,後に時代の潮流に乗って徐々にヨーギニー タントラへと転換させることで,ヨーギニータントラが隆盛する前の段階であっても,既 に存在していたヨーガタントラから生じたものという権威付けが可能となる.さらに,尊 格や儀礼をヨーガタントラから受け継ぐことで,ヨーガタントラの信奉者たちを引き継ぐ ことも容易となる.このような例は他に見い出すことができないが,HV がヨーガタント ラからヨーギニータントラへと転換したとする VP の記述からはこのような事情が推測で きる.
なお,HVの広本については架空のものと考えられるが,HV自体はヘーヴァジュラタン トラという名称ではなかった可能性も含めて実際に何らかの形でヨーガタントラとして存 在していた可能性が高い.そうでなければ,VP でも DK でも主立った役割を与えられて いない尊格が儀軌名に多く含まれていることは不自然である.
それでは,VP の成立は DK の成立よりも時代が遡るかといえば,そう断言できるわけ ではない.VP で説かれる HV 三十儀軌の最初の二儀軌とDK は同じ儀軌名であり,第一
儀軌が「金剛蔵現等覚」,第二儀軌が「幻化」という名称であることは既に述べた通りであ る.しかし,これら2つの儀軌名は,VPで説かれる第三儀軌以降の尊格や所作に関連した 儀軌名に比べると異質であるように受け取れる.すなわち,先に最初の二儀軌があって,
後で残りの儀軌名を付け足したようにも見える.そうであるならば,DK の成立は VP の 成立よりも時代が遡ると考えられる.仮に第一儀軌と第二儀軌までの名称は熟考した上で 付与されたが,第三儀軌以降の名称は身近なものから付与されたと考えればそれまでであ るが,儀軌名の一致については再考の余地がある.
そもそも,VP と DK は,同じ HV に関係するタントラといわれながら,驚くほど共通 点が少ない.下記で,これまでに分かっているVP とDKの共通項,および先後関係に関 わる相違点を整理する.
・VPとDKの共通項と先後関係に関わる相違点 共通項
・VPで説かれるHV三十儀軌の最初の二儀軌とDKの二儀軌が同じ名称.
・VPのナイラートミヤー十五尊マンダラはDKにも全く同じ形が説かれている.
・VPのへールカ族マンダラとDKのヘーヴァジュラ九尊マンダラは同じ眷属で構成さ れている.(そのマンダラの四仏の位置にガウリーなどの四女尊,上下にケーチャリ ーとブーチャリーを加えると,上記のナイラートミヤー十五尊の眷属となる)
・HV五十万頌の内訳および三十儀軌の儀軌名に登場する五仏以外の尊格の中で,
ナイラートミヤー・クルクッラー・ヴァジュラヴァーラーヒー・ターラーは,
DKにも確認できる.
先後関係に関わる相違点
VP ヨーガタントラ的特徴 DK ○説かれる 十忿怒尊 ×説かれない VP ヨーギニータントラ的特徴 DK ×説かれない 第四灌頂 ○説かれる ×説かれない タントラ的身体論 ○説かれる
その他
・五相はVPとDKで全く異なる相を示している.
・両タントラを相互に結びつける引用文や平行文は確認できない.
・HV五十万頌の内訳および三十儀軌の儀軌名に登場する十忿怒尊以外の尊格の中で,
ブータダーマラとサラスヴァティー(Phプラティサラー)は,DKには確認できない.
以上のように,VP と DK を比較すると,両タントラは共通してヨーギニータントラの 特徴である全女尊で構成されたナイラートミヤー十五尊マンダラを説いている.また,へ
ールカ(VP Ch. I-11ではヴァジュラダーカ)あるいはヘーヴァジュラを中心とする九尊マン
ダラも共通の眷属で構成されている.しかし,VP には第四灌頂もタントラ的身体論も説 かれていないため,DKに比べるとヨーギニータントラ的特徴に乏しい.一方で,VPには ヨーガタントラ的特徴であるはずの十忿怒尊が説かれている.さらに,VP と DK では五