VP 所説の HV 像から見る HV の原初的形態
第4章 VP所説の HV像から見るHVの原初的形態 4−1.はじめに
本章では,VPの記述を精査することによって,HVとはいかなる存在であったのかを探 究したい.先にも述べた通り,現在のところHVの存在を裏付ける明確な証拠は見つかっ ておらず,具体的なHV像はVPによってのみ窺い知ることができるに過ぎない.VPには HV の後期密教タントラにおける位置が示されており,さらに HV 五十万頌の内訳と全三 十儀軌の各儀軌名が説かれている.このように,VP は HV を知る上で欠かすことのでき ない極めて貴重な資料といえる.
さて,このVPの示すHVが実在したかどうかについては懐疑的な見方が存在する.HV に関する主な先行研究を改めて概観すると,まず島田[1986]は,VPとDKの比較から両タ ントラの根源であるHVについて言及している.そもそもDKがHVの最初の二儀軌であ るならば,HVとDKの成立は同時期であり,HVの略タントラとされるVPの成立はDK よりも後になることが大前提となる.また,VP と DK の間に共通する思想が論及されて いることは必然である.しかし,VP には DK を特徴付ける第四灌頂や四輪三脈といった 新思想体系が説かれておらず,明らかにDK よりもVPの方が成立が早いと考えられる.
しかも,マンダラにはVPからDK への影響が見られるとしている.したがって,島田氏 は HV を作成するための草案を整理したものが VP であり,HV は VP を起源とする架空 のタントラであると結論付けている.また,VP 成立の後に HV の草案の一部に基づいて 第四灌頂や五相といった VP 以降に興隆した新思想体系を取り入れて作られたものが DK であるとしている.
その後に,島田[1994]ではVPに説かれるHV三十儀軌の各儀軌名の邦訳を提示し,HV 三十儀軌の最初の二儀軌の名称が DK に踏襲された流れを図式化している.また,HV 三 十儀軌の各儀軌名は,Shendge[2004]によってVPからのSkt還元が試みられている.ただ し,島田[1994]とShendge[2004]は,どちらも北京版(P)のみに基づいた成果であり,HV五 十万頌の内訳については検討していない.そこで,本章では校合テクストと Ph を比較さ せてHV五十万頌の内訳と三十儀軌の各儀軌名を詳細に検討する.
なお,田中[2010]は,VP に新思想体系が見られることやマンダラ構成の見地から,VP よりもDKの方が先に成立したという見解を示した.この田中氏の見解に従うならば,VP に新思想体系が説かれないことに基づく島田[1986]の HV に関する論理は破綻することに なる.しかし,拙稿[2014][2015]でも示したように,VPに新思想体系が見られるとする田 中氏の見解には何らかの誤解があったと考えられ,実際は VP には新思想体系が説かれて いなかった.また,マンダラ構成についても先後関係を決定付ける根拠とまでは言えない.
したがって,田中[2010]が島田[1986]の研究成果を覆したとは考え難い.そして,田中[2010]
は,あくまでもVPとDKの先後関係に焦点を当てており,HVはVPを起源とする架空の タントラであると結論付ける島田氏の見解については反証を示していない1.
このように,島田[1994]が HV を架空のタントラと結論付けて以降,島田氏の見解を覆 す研究は発表されていない.したがって,HV は VP を起源とする架空のタントラである という島田氏の説が現在の通説といえる.
しかし,筆者は,HV について VP を起源とする架空のタントラであると結論付ける島
田氏の見解は早計と考える.確かに,五十万頌という膨大な量のタントラが存在していた とはにわかに考えがたい.その膨大な分量についてはHVを権威付けるための架空のもの と考えるのが妥当であろう.ところが,VP の記述から HV の内容が時代と共に変遷して いた様子を窺えるため,VP 成立以前に既に原初的形態の HV は実在していたと考えられ る.それならば,VP 所説の HV 像に HV の原初的形態の一端を求めることができるとい うのが本章の主旨である.
次節では,VP所説のタントラ分類法に関する記述を精査し,HVの内容が時代と共に変 遷していった様子を確認したい.なお,次節で扱うタントラ階梯の分類法とヨーガタント ラ・ヨーギニータントラの分類法は,VP の中の一連の偈の中で示される.しかし,両分類 法でヨーガタントラという語の意味が若干異なる.そこで,混乱を避けるために両分類法 を分けて示す.
4−2.VPに説かれる HVの位置
4−2−1.VPに説かれるタントラ階梯の分類法
VPに説かれるタントラ階梯の分類法は,AbhayākaraguptaがĀmnāyamañjarī (略号ĀM) で示す五分類法としてよく知られている2.このようなタントラを階梯分けする分類法は 様々な種類が存在しており3,特にチベット仏教の碩学たるBu stonの四分類法が有名であ る.しかし,近年ではBu stonの分類した各階梯に根拠のないSkt還元をすることで,Bu stonと全く同じ分類がインドで実際に行われていたと錯覚してしまうことが危険視されて いる4.そこで,HVの位置を確認する前に,VPに説かれるタントラの階梯に関する記述 を精査したい.なお,本論文では種村[2010]の研究成果に従い,ヨーゴーッタラタントラ は「ヨーガタントラ中の上位のもの」,ヨーガニルッタラタントラは「ヨーガタントラ中 の最高のもの」と考え,共にヨーガタントラの中で別格に階梯付けされたタントラとして 扱う5.
・VPのタントラ階梯分類法〔付録J参照〕
校合テクスト
dman pa rnams la bya ba'i rgyud/ / bya min rnal 'byor de lhag la/ / sems can mchog la rnal 'byor mchog/ rnal 'byor gong med de lhag la//
試訳
劣った者たちのために①クリヤータントラがある.
非クリヤータントラ6たる②ヨーガ[タントラ]はそれよりも優れた者のためにある.
最勝なる衆生のために③ヨーゴーッタラ[タントラ]がある.
④ヨーガニルッタラ[タントラ]はそれよりも優れた者のためにある.
Ph
dman pa rnams kyi bya ba'i rgyud/ / bya min rnal 'byor de lhag la'o/ / rnal 'byor mchog gi sems can mchog/ / rnal 'byor bla med de lhag la'o//
試訳
劣った者たちにとって①クリヤータントラがある.
非クリヤー[タントラ]たる②ヨーガ[タントラ]はそれよりも優れた者のためにある.
③ヨーゴーッタラ[タントラ]が最勝なる衆生[のためにある].
④ヨーガニルッタラ[タントラ]はそれよりも優れた者のためにある.
以上のように,VPのタントラ階梯に関する分類法において,校合テクストとPhで内容 の差はない.しかし,VPのTib訳に素直に従うならば,ĀMが示すような五分類として読 むことは無理がある.もし,b句のbya min rnal 'byorの元になったSkt写本がakriyāyoga-と いう複合語の形をとっていると考え,非クリヤーとヨーガを並列関係(Dvaṃdva)にとるな らば「非クリヤーとヨーガ」という2つの階梯があると一応は捉えられる.
しかし,文脈上,非クリヤーはクリヤーよりも優れたものとして説かれている.クリヤ ーよりも上位の1階梯に非クリヤーという名称を用いることは不自然であり,他に非クリ ヤーという用例も見い出せない7.したがって,非クリヤータントラとヨーガタントラを 隔てるdangなどの接続詞も確認できない以上,ここでは同格限定関係(Karmadhāraya)にと り,クリヤータントラに対する非クリヤータントラとしてヨーガタントラがあると解すべ きであり,非クリヤータントラとヨーガタントラをそれぞれ1つの階梯としているように は読めない.
さて,そこでĀMの該当箇所に目を移すと,VPを引用するより以前の記述で既にヨー ガタントラの直前にチャルヤータントラを設定し,代表聖典として『大日経』を挙げてい る.
・ĀM [D109a1-3, P121a2-5]
dam pa'i chos phyi'i ni bya ba'i rgyud la sogs pa'o/ /
de la bya ba'i rgyud ni dam tshig gsum gyi rgyal po dang 'byung po 'dul byed la sogs pa ste/ /
gang du khrus dang smra bcad la sogs pa rnams kyi(P kyis) bya ba phyi rol gyi lugs ma dang bris sku la sogs pa la lha ru dmigs pa'o/ /
spyod pa'i rgyud ni rnam par snang mdzad mngon par byang chub pa la sogs pa'o/ / gsang ba ni rnal 'byor gyi rgyud la sogs pa ste/ / rnal 'byor gyi rgyud ni de kho na nyid 'dus pa la sogs pa'o/ / rnal 'byor bla ma'i rgyud ni 'dus pa la sogs pa'o/ /
rnal 'byor bla na(P ma) med pa'i rgyud ni rnal 'byor ma'i rgyud do//
試訳
外の最勝なる法がクリヤータントラなどである.
その中の①クリヤータントラは
Trisamayārājatantra. (略号TR)とBhūtaḍāmaratantra (略号BḌ)などであり,
沐浴や禁呪などの所作を[なし,]外の像や図像の身体などを尊格として拠り所とする. チャルヤータントラはMahāvairocanābhisambodhi (略号MVA=『大日経』)などで ある.秘密[とされるの]がヨーガタントラなどであり,ヨーガタントラはSTTSなど である.ヨーゴーッタラタントラはGSなどである.
ヨーガニルッタラタントラはヨーギニータントラである.8
以上のように,ĀMではヨーガタントラの他にクリヤータントラとチャルヤータントラ の2つの階梯があることを明確に説いている.このように『大日経』を代表聖典とするチ
ャルヤータントラという階梯が存在することを前提とした上で,続く文章の中でVPを以 下のように改変して引用している.
・ĀM [D109a3-4, P121a5-6]
gang mkha' 'gro ma rdo rje gur du gsungs pa/ /
skyes pa rnams ni gdul bya'i rgyur/ / rnal 'byor rgyud ni yang dag bshad/ / bud med rnams ni bsdu ched du/ / rnal 'byor ma rgyud rab tu bshad/ / dman pa rnams la bya ba'i rgyud/ / de bas lhag la spyod rnal 'byor/ / sems can mchog la rnal 'byor mchog/ rnal 'byor bla med de lhag la'o//
試訳
VPに説かれている.
男性たちを教化するために,ヨーガタントラが正しく説かれた.
女性たちを摂受するために,ヨーギニータントラがよく説かれた.
劣った者たちのために①クリヤータントラがある.
さらに優れた者のために②チャルヤー[タントラ]と③ヨーガ[タントラ]がある.
最勝なる衆生のために④ヨーゴーッタラ[タントラ]がある.
⑤ヨーガニルッタラ[タントラ]はそれより優れた者のためにある.
このように,ĀMではチャルヤータントラを加えた五分類法を前提とした上でVPを一 部改変して引用している.非クリヤーの部分がチャルヤーとなっているVPの異読が存在 していた可能性もあるが,おそらくはAbhayākaraguptaの手による故意の改変と考えられ る.このような理由から,VP本文とĀMのVP引用とではタントラ階梯の理解に齟齬が生 じるのである.
以下では表を用いて,VP本文から読み取れるタントラ階梯とĀMが示すVPのタントラ 階梯にどのような相違があるのかを明示したい.
VP Tibから読み取れるタントラ階梯 ĀMが示すVPのタントラ階梯
劣
↑
↓ 優
①クリヤー ①クリヤー
②チャルヤー
非クリヤー =ヨーガ
純粋 ②ヨーガ
ヨーガ (秘密)
純粋 ③ヨーガ
別格 ③ヨーゴーッタラ 別格 ④ヨーゴーッタラ
④ヨーガニルッタラ ⑤ヨーガニルッタラ
ところで,ĀMの引用文を見て分かる通り,VPには上記のようなタントラの階梯に関 する分類法と別に,タントラをヨーガタントラとヨーギニータントラの2種類に区分する 分類法が説かれている.このヨーガタントラとヨーギニータントラの分類は階梯の違いも あるが,そのタントラが説かれた目的に基づいた分類法といえる.まずはVPのヨーガタ ントラとヨーギニータントラの分類に関する記述を確認したい.