共時的にみると,チャイナタウンは中国系移民によってもたらされたグロー バル文化現象である。世界各地に分布するチャイナタウンはそれぞれのホスト 図5 サンフランシスコ・チャイナタウン
と地域 図4 日本中華街と地域の構造
図6 ロンドンチャイナタウンと地域
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社会(所在国)と交渉しながら形成された。ホスト社会から分離されてきた生 活空間,そして異文化受容を強要された「出会い」から生み出されてきた場所 として,その形成に共通な背景がある。通時的にみると,世界各地のチャイナ タウンは出身国である中国の歴史や社会変動,及び近代世界システムを包摂し 成長してきた経緯がある。一方,チャイナタウンは所在国の歴史や文化,社会 構造の中に取り込まれ,そこにいる人びとは日常生活の実践でも絶え間ない文 化の混淆と
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藤,融合と分離を体験し,それにともなう多元的なアイデンティ ティを形成してきた。そうしたアイデンティティはまた現代のチャイナタウン の変容・再構築することに寄与する。! コンタクト・ゾーンの視点から
サンフランシスコなど北米のチャイナタウンはかつて支配・被支配の関係の 中で強制された人種隔離ゲートとして形成された。チャイナタウンのゲートは 一種の国境であり,そこから「アメリカ」文化がすり抜けていた。また,チャ イナタウンの中でも日常的な生活空間として,出身地域(サブエスニック=異 質文化,内部の境界)によって階層性や重層性がある社会構造となっていた。
1945年以降,アメリカにおけるマイノリティ公民権運動,そして1960年代末 から70年代初頭にかけて台頭したアジア系アメリカ人運動は,チャイナタウ ンをはじめ華人コミュニティ全体に大きな影響を及ぼした。その運動が射程に 収めていたのは,アジア系アメリカ人に権利と文化を与えることで,米国の社 会で従属的な市民の身分から彼らを解放するということであった。その結果と して,エスニック・アメリカンとしての権利,そして,文化の差異性が認めら れた。それによって,チャイナタウンはチャイニーズ・アメリカンの生活空間 として維持されるととともに,アメリカ・エスニックの表象の1つとして定着 した。
チャイナタウンの文化,とくに料理はアメリカ・エスニックの1つ境界を生 成し,異なる領域(アメリカ人,華人,他のアジア系移民など)に属する人び とをつなげる媒介として大きな役割を果たしてきた。チャイナタウンはさまざ 417 ロンドン・チャイナタウンの文化空間 −141−
まな人や文化が交じりあう空間であり,コンタクト・ゾーンとして考えること ができる。
ロンドンのチャイナタウンは北米のチャイナタウンと比較すると大きな違い がある。ロンドン・チャイナタウンは植民地宗主国民かつ東洋人である香港系 チャイニーズの移住によって形成された。その背景に「東旅の門」と表現され るように,エキゾチック,神秘性の
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れる幻想的空間であるとともに犯罪かつ 貧困というイギリスの東洋認識があった。つまり,植民地化によって「征服さ れた他者を自分たちのために表象する」ということであった。華人達は植民地 宗主国臣民と差別対象となる東洋人の二重ジレンマを抱えていたことによっ て,チャイナタウン,すなわち植民地支配の辺境としての伝統的なコンタク ト・ゾーンは,西洋と東洋が接触する境界の場として,常に異なる文化が相互 交渉し衝突し,格闘することを繰り返してきた。しかし,1978年以降,チャ イナタウン組織の設立によって,当該地の政府との関係が確立され,チャイナ タウンの発展を実現することができた。その経緯にPratt
が指摘する「植民地 化された主体が宗主国の人びと自身の言葉に関与して自分たちを表象しようと する」という動きが見られる。それは新しいチャイナタウン文化を構築するこ とに寄与した。そして,チャイナタウンの主人公達はその想像力を駆使し,チャイニーズ・ニューイヤーという表象を創設した。それによって,チャイナ タウンはロンドンの華人と当該地域の政府だけでなく,イギリス政府,さらに 中国政府のようなトランスナショナルな領域を
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げる媒介としての役割を果た すようになった。これに対して,日本中華街はコンタクト・ゾーンとしてどのように考えられ るのだろうか。世界各地のチャイナタウンと異なり,まず,日本の中華街は北 米やイギリスのような貧しい移民達からスタートしたものではなかった。それ は華人の歴史に関連するが,日本の最初の中国系移住者は明清の文化人であり 財力がある商人達であった。中国系移民は江戸時代に唐人と呼ばれ,彼らに よって持たらされた文化は,ホスト社会に大きな影響を与え,後に日本地域文 化と融合し,日本文化に変容したものも多くある。唐人貿易をはじめとする対
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外貿易は,長崎を歴史上東北アジア,東南アジアと
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ぐ貿易の中継地とし,当 時の日本経済に大きく貢献した。そのような意味から,長崎という異文化と接 触する空間には,文化を受容し,生成していく土壌が歴史上すでにあったと考 えられる。次に,世界の他の地域と異なるのは,日中関係は常に日本の華人社会そして 日本のチャイナタウンに大きな影響を与えたことである。中華街が徹底的にダ メージを受けたのは,日中間の戦争であって,新たに再構築ができたのも,日 中国交正常化が背景にある。また,現在の中華街は他のチャイナタウンと異な り,中国系移民のまちとなっていないことも,歴史から,日本政府の政策に よって大量中国系移民が発生しなかったことに背景がある。日本各地における 中華街が現在の姿になったのは,1980年代以降のことである。その背景には 日中関係の改善,中国人のイメージの改善,まちおこしや観光のニーズの増大,
華僑二世三世のアイデンティティの変化などを挙げることができる。日本人そ して日本社会と一体化となった中華街の再構築は,歴史上の文化受容チャンネ ルの再現であり,新しい日中関係の中,華人が日本との文化を接触する新たな プロセスである。
Prett
はコンタクト・ゾーンの特徴として相互交渉をとりあ げ,それは非対称的関係の中での共存,相互作用,絡みあう理解や実践が取り 扱うことである。日本の中華街の再興運動はコンタクト・ゾーンという発想に 基づき同時共在的な主体同士(日本人と華僑)の相互的な関わりとして捉える ことができよう。しかし,その相互交渉のプロセスにおいて,単にPrett
に重 点が置かれている文化が混淆化,多元化する動きだけではなく,文化が伝統性,起源性,正当性などを志向する動きが見られる。文化接触の結果として,華人 達は中国文化の愛着や伝統文化の復興を願う心情から,日本人と一緒に主体と なって,日本におけるエスニックブームにのり,母国文化の文化要素の一部を 意図的に選択した。中華街の伝統作り,とりわけ新たな伝統及びアイデンティ ティの象徴を創出することによって,中国文化を活かした地域及び彼らのエス ニシティの活性化を果たしたのである。つまり日本の中華街は伝統的な生活空 間という脈絡から脱落し,グローバル化の中で周辺の地域社会(他者)と融合 419 ロンドン・チャイナタウンの文化空間 −143−
しながら再構築されたものである。
! 社会空間の視点から
チャイナタウンは社会空間としてどのように捉えられるのであろうか。ま ず,チャイナタウンは1つコミュニティとして捉えることができる。田辺によ ると,「コミュニティは人類学,社会科学でもっとも古くから論じられてきた 社会空間の1つである。この社会空間は相互行為に基づく実体的な社会関係 と,それをコンテクストとして築き挙げられてきた慣習,知覚や価値評価の傾 向性,つまり
Bourdieu
の言うようなハビトゥス(habitus)によって構成され る。人びとはそうした慣習化された実践や傾向性を反復することによってコ ミュニティという社会空間のなかで行為主体(agency)として!
ぎとめられ る」。また,近代における多くのコミュニティは「国民国家や植民地支配の統 治システムのなかに従属的な位置をしめてきた」。しかし,このようなコミュ ニティという空間は「単純な従属的な空間ではなく,人びとの多様な実践に よって彼らの生を能動的に維持し拡大するための空間に変貌する可能性をもっ ている」とある(田辺2006:372−373)。伝統的なチャイナタウンは,1つコミュニティとして中国伝統的な慣習や知 覚(ハビトウス)によって構成されていた。そして,移住先の国家支配の統治 システムのなかに従属的な位置を占めていた経緯がある。しかし,1980年代 以降,こういったコミュニティの人びとの多様な実践によって,チャイナタウ ンという社会空間を大きく変貌させた。大きな役割を果たしたのはかれらが 持っている
Bourdieu
が提起した各種の「資本」である。たとえばロンドン・チャイナタウンは,1970年代後半まで,植民地支配のシステムのなか,従属 的な位置があった。華人達は植民地宗主国臣民と東洋人という2つのジレンマ を抱えていた。しかし,1980年代,華人達はそれを自分たちに有利な政治資 本として,ロンドンの地域政府にチャイナタウンの建設を求めて実現できた。
そして,中国の政治的,経済的な台頭によって,彼らはチャイナタウンの多様 な実践のなか,香港人としてのアイデンティティを捨て,中国人としてのアイ
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