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6−1 日本の中華街とサンフランシスコ・チャイナタウンの概況

ドキュメント内 ☆論 王維 103~150/王維 (ページ 30-36)

! 日本の中華街と華人社会の特徴

日本の中華街の夜明けは江戸時代に始まる。まず,当時日本で唯一の開港地 だった長崎に,三江(漸江,江蘇,江西)や福建などから貿易に従事する華僑 が渡来してきた。そして,日本の開国前後に神戸,横浜,函館が開港される と,広東からも多くの華僑がやってきた。

開港後の長崎,神戸,横浜では,条約国の外国人を集中的に居住させる外国人 居留地が設置された。しかし当時,日本と条約を締結していなかった国の民で ある華僑は,基本的に居留地のなかでの居住,そして居留地以外の地域で日本

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人との雑居も許されていなかった。しかし,来日する中国人の多くは,欧米の 商船に乗って,欧米人を対象にした商売に従事していた。そのため,外国人居 留地の一角にひっそりと雑居することができたのであった。そして,その一角 がのちの中華街として発展したのである。

つまり,日本の中華街の歴史は日本の開港を伴い,華僑を含める外国人の来 日と同時に始まり,中華街は外国人居留地とともに,横浜,神戸,長崎の町に 異文化の色彩をもたらしたのである。

しかし,中華街は,歴史の上で日清戦争や日中戦争により,大きなダメージ を受けた。第2次世界大戦後から1970年代頃まで,戦前の賑わいと中国的な 景観が戻ることはなかった。大阪世界万国博覧会のころから中華街を訪れる人 は増え始め,さらに中華街を整備・発展させるために,横浜中華街では,1971 年に中華街で商売する華僑と日本人が協力して,発展会を前身とする,横浜中 華街発展会協同組合が設立された。その協同組合は,次々と活発な活動を行い,

街を盛り上げるのに大きな役割を果たした。中華街のイメージを改善する目的 で,シンボルとなる中華門(牌楼)が再建された。

1972年の日中国交回復による友好ムードのもとで,牌楼はテレビやラジ オ,新聞,雑誌などで頻繁に取り上げられた。さらに1980年代に入るとエス ニックブームが巻き起こり,中華街への関心はさらに高まり,全国各地から観 光客が訪れるようになった。横浜中華街の建設を皮切りに,神戸南京町と長崎 新地中華街には,中華街を発展させるという目的で,中華街商店街振興組合が 設立され,中華街の建設が始められた。1980年代の前半までには,両中華街と も,中華門をはじめとする中華街のハード面における建設と整備が完成した。

つまり,現在の中華街のイメージは,たかだか20数年間で形づくられてき たものにすぎない。しかし,それは街並の特徴が徐々に失われつつあった状況 に危機感をもった中華街の人々が自らを変えていこうとした結果,得られたも のである。華僑のルーツを意識しながら,地域の特徴を活かし差異化を図ると 同時に,日本の中で受け入れられ溶け込むように工夫が凝らされたのであっ た。

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中華街に現在のような繁栄をもたらしたのは,1980年代半ばに中華街で始 められた「春節祭」であった。これを皮切りに,横浜の「関帝祭」,「媽祖祭」,

「中秋祭」,神戸南京町の「中秋祭」,長崎の「唐人屋敷祭」「中秋祭」など,中 国伝統文化をベースにしたイベントが次々と生み出され,実施されるように なった。これら中華街のソフト面における行事はすべて,観光客を呼び,街お こしのために企画されたものである。

中華街の春節祭は,中国の春節と元宵節の習慣にちなんだイベントだが,そ れは必ずしも伝統文化をそのまま踏襲したものではない。各地域の状況にあわ せ,中国文化の一部を選択し,新たに創り出されたものである。これらのイベ ントは年々盛大になり,地域の観光に大きく寄与するようになっている。特に 長崎の春節祭はランタンフェスティバルに発展し,長崎市の冬を飾る大きな風 物詩ともなり,日本全国の主要な伝統行事・祭・イベントの1つとされるまで になっている。

中華街の建設であれ,それによって生まれた春節祭文化であれ,中国的な情 緒が濃厚に漂っているにもかかわらず,中国風文化にすぎず,中国文化ではな い。これは,長崎の地域観光を振興し,より多くの観光客を呼び寄せるため作 られた新しい地域の伝統にほかならない。この新しい伝統は400年間築いてき

写真6 長崎新地中華街の近くにある湊公園に設置するオブジェ

(23年2月)

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た長崎華僑社会,及び長崎対アジア諸地域の歴史的関係を土台に作り出された 新たな観光資源である。長崎ランタンフェスティバルは,まさにこうした特徴 を活用した地域文化の創造であり,ローカルをコアとした当該地域の歴史的な チャネルの復活と再構築である。その再建過程はグローバル化の時代において 地域文化を再建するという文化「生成の語り」の典型的な事例である。

日本華僑(華人,在日中国人)社会は四極多元の構造として分析することが できる。四極とは近代日本開港以来,日本へ移住してきた「老華僑」と1980 年代以後来日した「新華僑」,そしてイデオロギーの対立によって分断された

「大陸系」と「台湾系」の華僑のことである。多元とは華僑の学校,出身地,

職業,在留資格などによって構成されている華僑社会の多様性を指している。

これらを併せて日本に在住している中国人は現在およそ70万人"であるが,そ のうち戦前に日本に来た老華僑及びその子孫は10%もない。しかし,彼らの

!

かの一部は中華街の主人公となる。その他,中華街の文化創造運動に関わっ ているのは,新華僑の中での音楽などの文化活動に関連するものに限られてい る。多くの在日中国人は日本伝統的な中華街に関わらない。そういう意味では,

日本の中華街は新移民の受け皿でもなければ,在日中国人にとって経済中心地 でもなく,日常的な存在でもない。

! サンフランシスコ・チャイナタウン及び華人コミュニティ構成

アメリカのサンフランシスコのチャイナタウンは,1850年代のゴールド ラッシュから始まった広東出身者の集団的移住によって形成された。1950年 代まで,華人社会はほとんど広東一色であって,チャイナタウンは彼らにとっ て生活の居住地であり商業する場所であった。彼らのほとんどはアメリカ市民 権を獲得し,今日まで続いている広東人の移住に社会基盤を作っていた。広東 出身者を中心とする血縁,地縁組織は同じ地域の移民の到来に伴い,現在でも 伝統的な役割を果たしている。1960年以後,アメリカの新移民法の公布によ

(13) 日本入国管理局の統計によると,21年の時点では,在日中国人の数は64,9人で あるという。http://www.e-stat.go.jp/SG/estat/List.do?lid=

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り,移民の多様化が見られるようになった。それはおおよそ次のような6つの グループに区分される。すなわち,

!

従来の移民(チャイナタウンを生活基盤 とするグループ,大半は広東の出身者),

"

!

の二世,三世,

#

70年代より

!

の家族や親族,

$

香港やマカオからの移民,

%

台湾からの移民,

&

中国各地 からの移民などのような構成である。それによって移民の多様性と共通性及び 多元的なアイデンティティの形成が見られる。彼らのチャイナタウンとの関わ りは下記のとおりである。

!

"

#

$

は,ルーツや言語などを共有し,利害や原初的感情などの面

においても共通性をもつため,チャイナタウンの建設と祭りに直接に関わるグ ループである。

!

の場合は故郷を祖国とする人たちであり,アメリカに定着し ながらも,伝統の中国文化に強い愛着をもつ。

"

は所謂

ABC

であるが,彼ら は中国人より「チャイニーズ・アメリカン」としてのアイデンティティを持つ。

彼らは中国伝統文化よりむしろアメリカ的な中国文化をつくりあげ,その過程 を通して,自分らのアイデンティティを模索し確認していく。彼らは積極的に 春節祭のボランティア活動に参加する。#は主に!と強い血縁や地縁関係を持 ちながら,中国人としてのアイデンティティを持つ。同じようにチャイナタウ ンを生活基盤とするため,チャイナタウンの祭に関わる。$の多くは!,",

#

と同じルーツを持つが,中国人より香港人やマカオ人としてのアイデンティ ティを持っている。広東語を母国語とする彼らは,経済などの関係でチャイナ タウンと密接な関係を持ち,チャイナタウンに大きな影響を与えた。

%

の台湾 の移民の場合では従来の移民と比べて歴史が浅い。1950年代以後より移住し,

最初の移民は主に留学生であって,後に技術者,医者などホワイトカラーにな るものが多い。彼らは広東語が分からないため,チャイナタウンとの関係が薄 い。彼らはチャイナタウンの行事にほとんど関係を持たない。彼らは台湾人と してのアイデンティティを持ち自分たちのコミュニティをもっている。

&

は80年代以後アメリカへより高い教育水準と技術を目指す留学生達と,

同時代特に90年代以後出稼ぎを目的とする新移民である。前者の多くはホワ イトカラー層にのぼり,後者は下層労働者を中心とする。彼らのほとんどは市

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