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19世紀末の文学背景と情況

日本の近、現代文学の中で、「私小説」は避けて通れない文学的現象である。あるいは、

「私小説」は日本の近、現代文学史上で極めて重要な影響をもち、重要な位置を占めてい るといえる。それは歴史的に相当長い間、文学界の主流に位置したばかりでなく、一種の 小説文化の精神的伝統として、長い間に融合され、日本の現代、当代小説の血脈に流れ込 み、顕在的あるいは潜在的な文学の本質、特質になっている。多くの研究者は、真に日本 の近、現代文学を理解し、日本の近代文学ないし日本の現代文学の精髄と本質を体得する には、日本の「私小説」の基本的歴史と特徴を、広く深く理解し、研究することが必要だ と考えている。

20世紀の初頭以来、日本には多くの著名な「私小説」作家が出現し、「私小説」作品は 枚挙に遑がない。しかし、この文学現象の基本的特徴や様式の本質を明瞭にまとめようと しても、それは簡単なことではない。「私小説」の作品の量が厖大で、判定の基準がまちま ちで、確定が困難であるばかりでなく、作家および作品の存在形態も千差万別である。太 宰治などは、典型的な「私小説」作家だという人もいるし、まったく「私小説」作家では ないという人もいる。諸説入り乱れ、確定することは難しい。そういう理由で、日本国内 では、専門的で深く掘り下げた「私小説」の研究成果や理論的著作は、数えるほどしかな い。限りがあり分散した研究資料に基づき分析・整理を重ねることは、あまり楽しい仕事 ではない。このような矛盾を解決することは、確かに難しい。

このような状況ではあるが、可能な範囲において、日本の評論分野の過去、現在の主要 な観点および代表的な作家と作品をおおまかに紹介し、同時に西欧諸国の日本文学研究者 の「私小説」に関する論述を紹介する。このような基本的状況の歴史的分析・整理を通し て、及ばずながら日本の「私小説」の基本認識を形づくることができればとおもっている。

まず、日本の「私小説」の創作と関連の評論に詳しく踏み込む前に、それが生み出され る前の民族の文化土壌と当時の日本の社会的、政治的状況と文学界の状況を簡単に理解す る必要がある。

簡単にいうと、日本の文学史研究者の一般的認識では、日本の「私小説」は19世紀末、

20世紀初頭の日本自然主義文学から進展変化したということになっている。同時に、「私 小説」は日本民族の風土的文化心理的伝統と密接な関係があるということを認めねばなら ない。「私小説」とそれ以前の日本の伝統的な文学形式あるいは様式も、当然ながら不可分 の関連あるいは因果関係がある。そもそも、日本の自然主義文学も西欧の自然主義文学を 源泉としている。面白い現象であるが、西欧の自然主義文学が日本に入ってきた時、西欧 の自然主義文学は終末を迎えていたのである。どうして、このような衰退間近な文学様式 が、はるばると日本にやってきて、しかも堂々と主流の文学様式となり、日本特有の伝統 的意味をもつ小説様式「私小説」に変身したのだろうか? この状況自体が、すでに文化 土壌自体の重要性を物語っている。それでは、いわゆる民族の文化心理的伝統とはどのよ うなことなのだろうか?簡単にいえば、特定の社会、歴史、文化と地理人文環境を形づく

る特定民族の文化的共通性である。日本の文化的「共通性」はどのように形づくられたの であろうか? またどのようなところに具体的に現れているのだろうか?

まず、日本は島国で、四方を海に囲まれている。それで文化歴史において、長きにわた って外界と隔絶された特異な状況におかれた。そこに生まれ育った日本の国民は、長期に わたり日本以外の様々な様相・事象を理解することができず、序々にある種の特有な文化 的心理を形づくっていった。このような心理の基本的特徴は閉鎖的で、日本以外の社会の 情況に関心がない、あるいは「自我」を封じ込めること以外の公共の状況にあまり関心が ないといってもよい。

ここで言及しているのは総体としての文化心理的状態である。日本が最初に西欧に向け て門戸を開いたからといって、あるいは、日本の現代社会がアジアで最も西欧化している からといって、日本民族の伝統心理の強い「閉鎖」性を否定することはできない。まさに このような心理的「閉鎖」性が、「私小説」という文学様式の流行と伝統化を生み出した最 も重要な内在的原因であるといえる。

また一方では、多くの学者が、「私小説」は東洋と西洋の文学および文化形式が混ざり合 って生み出された産物だと考えている。周知の通り、日本の著名作家、文学評論家である 加藤周一が中性的意義の上で、いわゆる「雑種」性文化の様々な特徴を詳述したことがあ る。彼は日本文化の特性にいわゆる「雑種」という言葉をあてた。加藤周一の論述の中の いわゆる「雑種」は、早くから言語学的意味の単純な貶義語ではなくなり、ある種の生命 力に富んだ文化様式あるいは価値形態の明確化と肯定である。ときには、文化上の相対立 する傾向が、かえって美しく融合し一つになることがある。たとえば「閉鎖性」と「開放 性」は相和して日本文化の伝統の中に共存している。だから広義的にいえば、日本の「私 小説」に対してもまた同様な文化概念の中でゆるやかに認識、理解することもできる。開 放性という意義からいえば、日本の自然主義文学は西欧19世紀末のフランスの自然主義 文化思潮あるいは文学の影響を源としている。しかし文化心理の「閉鎖性」という意義か らいえば、日本の「私小説」は、西欧文学の影響を受けた日本の自然主義文学を源として いるが、日本特有の民族文化の土壌に根を張り、深化し、広がりをみせたのである。この ような関連も文化融合のある前提と必然を具現している。

「私小説」の縦方向の血縁をたどれば、紀元10世紀前後の「日記文学」(紀貫之の『土 佐日記』など)に行き着くということだが、ここでは触れないことにする。

一 明治前後の社会文化的背景

周知のように、日本の文化ないし経済、科学が今日の様相を呈するにあたっては、まず 1868年の「明治維新」を挙げねばならない。「明治維新」は不徹底なブルジョア階級革 命だとよくいわれるが、しかし、日本の歴史上最も重要な政治的革新運動として、日本近 代の新生ブルジョア階級政権が次第に確立されていったことを示している。これを機に、

一連の重大な政治的改革が次々と実施された。日本の当時の改革活動の頻度は、日本の政 治・文化史全体を通し、最多であるということだ。

明治初期、日本の国家政治改革の目標は立法権を抑制し、行政権を優先させ、行政権力 を中心とした官僚政府体制を作り上げることだった。当時の政治生活分野における急激な

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変化は、必然的に社会文化生活の多くの分野を直撃した。あるいは、社会文化生活分野の 変化はもっと早くから始まっていて、明治維新という突然の政治的変化に先んじていたと いえるのかもしれない。

たとえば、16、17世紀あるいはもう少し早くから、日本はすでに、医学、化学など の広範な領域を通して、西欧諸国の科学思想や文化形式との接触を開始していた。思想お よび文化分野の変革欲求は、明治維新政治改革の内在的起動力のひとつとなった。明治以 降、新政府は大号令をかけて産業を興し、資本主義経済を発展させた。同時に政府、民間 はいちがんとなって、西欧諸国を手本とし、大学、高校、中学、小学校の教育改革を懸命 に推進した。かれらは、教育体制、内容、形式について大いに西欧国家に学び、西欧各国 から多くの外国人教員を招聘し、また出費を惜しまず大量の公費留学生を欧米へ派遣した。

重要なことは、明治前後の日本国民は上下みな共通の認識をもち、西欧の文明は日本な いし東方の文明に勝っている、と考えていたことである。当時は西洋の文化、芸術、社会 風潮が崇拝された。よって、かれらが実行したのは、そっくりそのまま物真似の借用主義 または西欧化政策に近かった。ある人の統計では、1871年頃の日本の知識人の中で、

国学(日本学)の信奉者は漢学者のわずか十分の一で、漢学を信奉する日本人学者は洋学

(西洋学)学者の半分であったという。(歴史学者・坂本太郎氏いわく)

疑いのないことだが、当時の西洋の工業文明は東方各国の農、漁、牧畜文明に優先して いた。近代以降、東方各国はまさに西欧に学ぶ過程にあり、異なる形式の近代化のプロセ スを開始あるいは完了したのかもしれない。しかし,他の東方国家と比較すれば、日本の 情況はより特異である。日本は西欧文明の学習と模倣を最も積極的に、徹底的に推進した が、しかし唯一日本というこのアジアの一国家は植民地化という厄災を逃れ、長期間「単 独専行」でのスピード発展の道を邁進した。20世紀前半の日本は歴史上に不面目な痕跡 を残したが、文化融合と世界文化発展史の視点から見れば、日本は確実に西洋化の全過程 において多くを得たといえる。日本は西洋の伝統と現代文化の中の多種多様で豊かな滋養 をたくさん吸収したばかりでなく、同時に効率よく日本民族独自の文化遺産を留め、発展 させたのである。

文化の受容と影響についていうならば、文化的書籍の翻訳は日本の文化的歴史の中で、

一貫して重要な位置を占めていた。昔の日本でまず直面した翻訳課題は中国の古代漢文典 籍だった。当時の翻訳作業はまだ真の翻訳とはいえるには至らず、いわゆる模倣や解釈で あったのかもしれない。しかし、日本民族の外来文化を受容吸収する能力は驚くべきもの である。昔の漢文化の受容吸収は日本最初の文字と文学を生み出した。風俗、宗教ひいて は封建社会の政治制度など様々な分野で、漢文化は日本に極めて大きな影響を与えた。し かしながら明治前後には、日本の漢文化に対する認識は動揺をきたし、転じて西欧諸国の 各種多量の重要書籍を翻訳するようになった。このことは日本が猛スピードで近代化、西 欧式資本主義社会に突入するために、様々な分野での理論的根拠と指導を提供することに なった。記録によると、明治初期の訳著は「自由民権」学説の伝播あるいは国家政体建設 に関する学説が重視されていた。たとえばミルの『自由論』、スマイルスの『西国立志篇』

および『英国憲法』『フランス憲法』『共和政治』などで、日本近代化の過程でみな重要な 役割を果たした。そのほかに、当時の翻訳者自身が、社会変革進行過程での重要な文化啓 蒙思想家であった。かれらは、日本近代国家の建設と発展に全身全霊を捧げ、書を著し説

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