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第二章 『菩薩地』の空性理解

第五節 龍樹への共鳴

従来、瑜伽行派と龍樹の系統下にある中観派は、その主張の違いが強調され、ややもす ると接点のない対立的な学派として見られがちであった。確かに、前節で論じたとおり般 若経の解釈を巡り、何もかも否定し切ってしまう龍樹の系譜にある思想傾向と、言語化の 根拠としての事象の実在を確信する瑜伽行派の姿勢とでは、その見解の隔たりがあまりに も大きく、両者は相容れないと思われても不思議ではなかったのであろう。

しかしながら、上田義文は、このようなかつては常識的であった中観派と瑜伽行派との 対立という視点からの理解は、もはや過去のものであるといい、あくまで両学派の対立を 主張するT.シチェルバツキーを批判する。上田によると、シチェルバツキーの見解は、

瑜伽行派の主張する唯識論は、唯識という絶対精神を一切の非実在的な現象の根底に横た わる唯一の実在とする唯心的一元論であり、一方、中観派の説く空性理論は、一切の絶対 的実在を認めない相対論であって、両学派は基本的な立場を異にしており、双方の間で繰 り広げられた論争の意義をなおざりにするものであるという。

これに対し、上田は、最も根本的な識である阿頼耶識が転変して万象が展開するのであ るから、阿頼耶識は個人的すなわち相対的であって、絶対的ではなく、その意味において、

唯識論は相対的唯心論ということができようと述べる。さらに、無着や世親等の瑜伽行派 の人々が、龍樹の空性理論を取り込みながらも、これを唯識論として展開するに至った理 由を考察することがより重要であると指摘する。上田は、瑜伽行派の見解は龍樹の説く空 性思想を瑜伽行の視点から見直し発展させた結論であって、根底には龍樹の思想が脈々と 受け継がれているのではないかと論じる(55)

この上田の論を裏付けるように、言語に基づいて展開した世界は言葉の虚構(=戯論)

であり、法は言語化されたものに過ぎないのであるから、その実在性はないという『中論』

の世界観を『菩薩地』も継承し、戯論の滅した状態に理想の境地を見出そうとする。この ように、両者には必ずしも対立点ばかりではなく、戯論という撲滅すべき共通の課題が横 たわっており、龍樹の思想は中観派だけではなく、瑜伽行派へも連鎖したのである。果た して、般若経で提唱された言葉の虚妄性は、龍樹の説く戯論へと姿を変え、これを瑜伽行 派も引き継ぎ、容易には手放すことのできない言葉への対処の仕方が、般若経以降の大乗 仏教に課せられた一大テーマとなってゆく。

ところで、言葉には当然ながら世尊の言葉も含まれるが、これを世間で使われる日常の 言葉と峻別し、信用に値する根拠を与えることが大乗経典の制作者に求められていたこと を本稿第一章で述べた。『八千頌般若経』では、悟りを得た如来の言葉を「教えをもたらす 説明」として受け止め、特別の価値を与えることにより、その信用性を確保すると共に、

非仏説との批判を回避しようと努めた(56)

一方、『菩薩地』においては、世尊の言葉の背後に広がる法性の洞察に関心が向かい、『八 千頌般若経』のように、敢えて言葉を識別するという手段を講ずることもなく、如来の真 意を理解するには言葉が欠かせないと述べるに留まった(57)。こうして、如来の教えを限 定された言葉の中に見出そうという般若経の形式は途絶えたかのように見えるが、そこに は、龍樹の思想が大きく関与し、般若経より一層厳格に言葉を限定した形跡が窺えるので ある。そのことは、「真実義品」の次の一段に指摘できる。

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差別に関する概念設定の探究から得られたありのままの知とはどのようなものか。

それから、菩薩が差別に関する概念設定について、概念設定にすぎないことを追求し、

その色等の名称を伴う事象についての差別に関する概念設定を、無二の意味として見 る。

[ す な わ ち 、] そ の 事 象 は 有 で も な く 、 無 で も な い 。 言 葉 で 表 現 で き る 本 質

(abhilApyenAtman)として完成されたものではないので、有ではなく、さらに、言 葉で表現できない本質(nirabhilApyenAtman)として成立されたものなので、無でも ない。同様に、勝義諦(paramArthasatya)の点で形のあるものではなく、世俗諦

(saMvRtisatya)として、それ(事象)に色が設定されるという点で形のないもので もない。有と無、形のあるものと形のないもの、そのように有見と無見等、差別に関 する概念設定のすべての同義語は、この方法で以上のように知られるべきであると。

この差別に関する概念設定を以上のように無二の意味としてありのままに理解するこ と、これが差別に関する概念設定の探究から得られたありのままの知といわれる(58)

ここでは、差別に関する概念設定を無二として理解することが説かれ、色等の名称を伴 う事象は、言葉で表現できる本質としては未完成であることから有ではなく、言葉で表現 できない本質として成立していることから無でもないと説明される。併せて、勝義諦とし ては形のあるものではなく、世俗諦としては事象が名称を伴っていることから形のないも のでもないと説かれる。

つまり、言葉による表現の可否が勝義諦と世俗諦との分かれ目であると理解できる。『菩 薩地』は、この「勝義諦」と「世俗諦」の示す意味内容を省略しているが、これは龍樹が 提唱した二諦の考え方に基づいていると思われる。よって、次に、龍樹の説く二諦を考察 する。『中論』第二十四章では、次のように述べられる。

二つの現実(dve satya;二諦)に基づいて、諸仏の教えの説示がある。世間の約束 としての現実(lokasaMvRtisatya;世俗諦)と、究極の目的としての現実(satyaM paramArthatas;勝義諦)とである(59)

仏の説法は二つの現実に基づくという。一つは、世間の約束としての現実(世俗諦)で ある。世俗(saMvRti)とは、般若経から導かれるとおり、言語習慣(vyavahAra)を表す

(60)。日常我々は共通の基準に基づき、言葉を使用している。例えば、原稿が印刷された ものを「紙」といい、夏の暑い日に身体に吹き出る水滴を「汗」と表現するが、日本語を 理解する者であれば誰でも常識的にこれを理解する。こうした一定のルールに従って、意 思疎通を図ることが言語習慣であり、世間の約束なのである。外国語には外国語における 世間の約束があることは言うまでもない。このように、世間で承認された言語習慣の下、

誰もが理解できる言葉を用いて、仏は説法するのである。

二つの現実のもう一つは、究極の目的としての現実(勝義諦)である。究極の目的を意

味するparamArthaは、『八千頌般若経』や『菩薩地』にも示された術語であり、菩薩が目

指す言葉を離れた状態を表している。龍樹は、この状態を一つの現実として捉えたのであ

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るが、これは世尊のみが体験した事実、つまり、菩提樹下での成道という世尊が身を以て 経験した事実そのものを指しているのではないかと考えられる。この世尊の体験的事実、

これこそが勝義諦であり、説法の根本を成すのである。

世尊は、勝義諦と世俗諦という二つの現実に足場を確保し、教えを説く。龍樹は、勝義 諦という世間の約束から隔絶された格別の場を設定し、これを世尊にのみ与えることで、

その発する言葉は成道に基づく威厳と権威を備えたものであり、拝聴するに足るだけの信 頼性を有していると根拠付けた。般若経が世俗諦にある言葉の中から「教えをもたらす説 明」として、世尊の言葉を抽出したのに対し、『中論』では、勝義諦に基づく言葉であるか らこそ世尊の言葉である、と言葉の源泉にまで踏み込み、特殊化を一歩進めたといえる。

龍樹は、勝義諦の導入によって、世尊の言葉を特別のものとして仕立て上げる論理的根拠 を与えたといえよう。

龍樹はまた、世間の約束を冷静に分析し、言葉の在り様を十分に理解した上で、世尊の 言葉に耳を傾けるよう次のように示唆する。

言語習慣(vyabahAra)に基づかずに、究極の目的[としての現実]は説示されな い。究極の目的に到達しなくては、涅槃に到達できない(61)

空であると語られるべきではない。空ではない、両者である、または両者ではない、

ということになる。しかし、[これらは]概念設定(prajJapti)のために説かれるべ きである(62)

言葉なくして、勝義諦を説くことはできず、また、理解することもできない、延いては 涅槃に至ることもないと説かれることから、世尊の説法とこれの拝聴が修行の出発点であ ると解釈できる。

また、空である、空でない等と語るのは、衆生への説明のため、言葉により仮に概念を 設定しているに過ぎず、教えの真意はこの概念設定を外した状態への移行にあると説き示 している。ここで用いられる言語習慣や概念設定という語句は、般若経の言語観を特徴付 ける術語であり、それらの趣旨は余すところなく『中論』に受け継がれているといえる。

さて、龍樹の提唱した「二つの現実に基づいて、諸仏の教えの説示がある」。という二 諦の理論は、それ程目立つことなく『菩薩地』へ導入され、その文脈からは世尊の言葉を 世間の約束としての言葉から引き離し、際立たせようという意向を明確に読み取ることは できないが、世尊唯一人が体験した「勝義諦」と日常の「世俗諦」とが併記されている以 上、そこには、世尊の言葉を特殊化し、格別のものとして取り扱うという制作者の意図が 消極的ではあるが暗に示されていると考えられる。それ故、『八千頌般若経』のように、世 尊の言葉を「教えをもたらす説明」と言い換えることなく、『菩薩地』ではこれを「勝義諦」

と「世俗諦」の二語で比喩的に言い表したと解釈できる。

このように、瑜伽行派は戯論や二諦の考え方を龍樹から受け継ぎ、自らの論を展開して ゆくのである。大乗仏教の二大潮流といわれ、対立の構図として見られがちな瑜伽行派と 中観派ではあるが、上述のように共通する点が見出されることは、両派が同じ目的、つま