• 検索結果がありません。

第三章 『解深密経』の空性理解

第四節 世尊のスヴィシュッダマティ菩薩への説法

第一章では、聖智と聖見によって聖者は言葉では表現できない法性を洞察し、そこには、

行の生み出した言葉をもたらす原因が存在すると説かれる。この内、前段は第二章へと引 き継がれ、法性を洞察している聖者は、言葉を離れた(概念を外した)状態にあり、これ がすべての考察を超越している境地であると述べられる。

- 59 -

一方、後段は第三章と密接に繋がり、行の特質と勝義の特質との関係性について言及さ れることになる。行の特質は、三性説中の法の依他起という特質を表す鍵となるだけに、

第四章へと進む前にこれを確認しておく。第三章は、世尊のスヴィシュッダマティ(善清 淨慧)菩薩への説法から成る。スヴィシュッダマティ菩薩は、行の特質と勝義の特質とが 異なる、異ならない、と議論を繰り返す菩薩衆を批判し、次のように世尊に申し上げる。

諸々の善男子は、このように、勝義は諸行(saMskAra)と異なることと異ならいこ ととを超越していることを特質とする(bhedAbhedasamatikrAntalakXaNa)と知らな いので、愚かで、鈍く、無能で、悪く、正しくなく行じているのである、考えます (32)

スヴィシュッダマティ菩薩は、菩薩達の修行が正しく行われないのは、勝義が諸行と異 なることと異ならいこととを超越していることを特質とすると理解していないからである と述べる。世尊は、この見解に対し、次のように語る。

スヴィシュッダマティよ、そのとおりである。そのとおりである。諸々の善男子は、

このように、勝義が諸行と異なることと異ならいこととを超越していることを特質と すると知らないので、愚かで、鈍く、無能で、悪く、正しくなく行じているのである。

それは如何なる理由によるのか。スヴィシュッダマティよ、諸行において、そのよ うに、それぞれ個別に観察する(pratyavekX)ことは、勝義を知り、あるいは、勝義 を確証することではないからである。

それは如何なる理由によるのか。スヴィシュッダマティよ、もし、行の特質と勝義 の特質とが異ならないならば、そのことによって、すべての愚かな凡夫は事実を見る のであり、凡夫のまま成就し、この上なく安穏な涅槃(anuttarayogakXemanirvANa) を得るのでもあり、この上なく完全な悟り(anuttarA samyaksaMbodhi)を明らかに 得て、仏となるであろう。

もし、行の特質と勝義の特質とが異なるならば、そのことによって、事実を見る諸々

[の凡夫]もまた、行(認識を形成する力)の生み出した言葉をもたらす原因を離れ ないであろう。行の生み出した言葉をもたらす原因を離れないので、事実を見る[諸々 の凡夫]は、言葉をもたらす原因の束縛(nimittabandhana;相縛)から解脱するこ ともないであろう。言葉をもたらす原因の束縛から解脱することがなければ、邪悪の 束縛(dauXThulyabandhana;麁重縛)からもまた解脱することはないであろう。その 二つの束縛から解脱しなければ、事実を見ることによって解脱し、この上なく安穏な 涅槃を得ることもないであろう。この上なく完全な悟りを明らかに得て、仏となるこ ともないであろう(33)

世尊はスヴィシュッダマティ菩薩の考え方を称え、勝義は「諸行と異なることと異なら いこととを超越していることを特質とする」と定義付け、「行の特質」と「勝義の特質」と の関係を述べる。経中では、行の特質がどのようなものであるか具体的に述べられていな いが、行は認識を形成する力であるから、行の特質とは、「認識を形成する力の特質」、す

- 60 -

なわち、第一章で論じた「saMskAranimitta(認識を形成する力の生み出した言葉をもた らす原因)が存在すること」と理解できる。この言葉をもたらす原因の存在が、勝義の特 質、例えば、「言葉では表現できず無二であること」(第一章)または「すべての考察を超 越していること」(第二章)と異なるのではなく、異ならないのでもないと説かれる。異な ることと異ならないこととを超えることに熟達しなければ、勝義を洞察することはできな いのである。

もし、異ならない(同じ)ならば、認識を形成する力の生み出した言葉をもたらす原因 を五官で感じるだけで、誰もがこれを事実であると錯覚し、涅槃に達し、悟りを得て、仏 になってしまうことになる。一方、異なるならば、言葉をもたらす原因に固執し、事実で あると錯覚して、これの拘束から解放されることはなく、涅槃へ達することもないことに なる。このように、第一章で示された、認識を形成する力の生み出した言葉をもたらす原 因(saMskAranimitta)の存在が、勝義の特質と結び付けられるのである。

経は、両者の関係性について、それらが異なるのでもなく、異ならないのでもないこと をさらに続けて説明する。

スヴィシュッダマティよ、さらにまた、もし、行の特質と勝義の特質とが異ならな いならば、そのことによって、行の特質が雑染という特質(saMkleSalakXaNa)に属 するように、そのように、勝義の特質もまた雑染という特質に属するであろう。

スヴィシュッダマティよ、もし、行の特質と勝義の特質とが異なるならば、また、

そのことによって、すべての行の特質において(saMskAralakXaNe)、勝義の特質が共 通の特質(sAmAnyalakXaNa)になるのではないであろう。

スヴィシュッダマティよ、勝義の特質が雑染という特質に属するのではなく、また、

すべての行の特質において、勝義の特質が共通の特質になるためには、行の特質と勝 義の特質とが異ならないということも適切ではなく、勝義の特質と異なるということ も適切ではない。その内、そのように、行の特質と勝義の特質とが異ならないという ことと、勝義の特質と異なるということとは、その道理によるならば、おまえはこの ように、正しくないことを行じているのであるが、正しく行じていないことを知るべ きである。

スヴィシュッダマティよ、さらにまた、もし、行の特質と勝義の特質とが異ならな いならば、そのことによって、勝義の特質がすべての行の特質に対して、異なること がないように、すべての行の特質もまた異なることがない。ヨーガ行者は、諸々の行 に関して、そのように見たり、聞いたり、理解したり、知ったりした以降、勝義を全 く求めることもないであろう。

もし、行の特質と勝義の特質とが異なるならば、そのことによって、諸々の行の無 我のみ(nairAtmyamAtra)と自性のないことのみ(niHsvabhAvatAmAtra)が、勝義 の 特 質 と な る こ と も な い で あ ろ う 。 雑 染 と い う 特 質 と 清 浄 と い う 特 質

(vyavadAnalakXaNa)もまた、同時に、特質が異なるものとして成立するであろう。

スヴィシュッダマティよ、諸々の行の特質は、異なるのであり、異ならないのでは ない。また、ヨーガ行者は、諸々の行に関して、そのように見たり、聞いたり、理解 したり、知ったりした以降、勝義を求めるのであり、勝義は諸々の行の無我のみと自

- 61 -

性のないことのみによって現れるのであり、雑染という特質と清浄という特質もまた、

同時に、特質が異なるものとして成立することはないであろう。それ故、行の特質と 勝義の特質とが異ならない、または、異なるということは適切ではない。その内、そ のように、行の特質と勝義の特質とが異ならない、または、異なるということは、そ の道理によるならば、おまえはこのように、正しくないことを行じているのであるが、

正しく行じていないことを知るべきである(34)

ここでは、先ず、行の特質を「雑染という特質」に置き換え、これは勝義の特質とは異 なると説かれる。次いで、勝義の特質と異なるならば、行の特質との共通性が見出せず、

矛盾が生じると述べる。つまり、雑染という特質は勝義の特質とは異なるのでもなく、異 ならないのでもない。何れも成立しないのである。ここで注意しなければならないのは、

すべての行の特質が「~において」と、処格(locative)で記述されていることから、構 造的には、この行の特質(=雑染という特質)の上に(または周りに)勝義の特質が共通 性を帯びて存在することを示唆している点である。

行の特質は、先に述べたとおり、認識を形成する力の生み出した言葉をもたらす原因が 存在することでもあることから、雑染という特質が勝義の特質と異ならない(同じ)こと は、ヨーガ行者が言葉をもたらす原因を誤って勝義であると把握することにより否定され る。

また、「諸々の行の無我のみと自性のないことのみ」を「認識を形成する力の生み出し た無我のみと自性のないことのみ」と理解すれば、言葉をもたらす原因として解釈するこ とができる。それ故、雑染という特質(=行の特質)が勝義の特質と異なることは、無我 のみと自性のないことのみが勝義の特質となることによって否定される。

ところで、行の特質は、「無自性相品」(第七章)において、法の依他起という特質と等 値される。「無自性相品」は、第六章で説かれた法の三つの特質(遍計所執という特質、依 他起という特質、円成実という特質)がそれぞれ無自性であることを、世尊がパラマール タサムドガタ(勝義生)菩薩に説き示すことを主題とする。パラマールタサムドガタ菩薩 は世尊の教えを整理し、次のように語る。

世尊よ、私は、世尊の言われたことの意味を次のように理解しました。分別の領域

( vikalpagocara ) と し て の 遍 計 所 執 と い う 特 質 の 拠 り ど こ ろ

(parikalpitalakXaNASraya)である行(認識を形成する力)の生み出した言葉をもた らす原因(saMskAranimitta)において、色蘊という自性の特質(svabhAvalakXaNa)

あるいは特殊性の特質(viSeXalakXaNa)に関して、名称や記号を設定されたものであ り、色蘊が生じることや滅すること、また、色蘊を放棄することやよく知ることとい う自性の特質あるいは特殊性の特質に関して、名称や記号を設定されたもの、それが 遍 計 所 執 と い う 特 質 で あ っ て 、 そ れ に 基 づ い て 、 世 尊 は 、 諸 法 の 相 無 自 性

(lakXaNaniHsvabhAvatA;相無自性性)を説かれたのであります。

分別の領域としての遍計所執という特質の拠りどころである行の生み出した言葉 をもたらす原因、それが依他起という特質であって、それに基づいて、世尊は、諸法