第4章 野田醤油における社会的活動
第2節 野田醤油における社会的活動
前節でみたように野田醤油は高梨・茂木一族を中心に結成される。これら醸造家が行っ た慈善事業の例を以下にいくつか取りあげる。茂木家において醤油醸造に最初に取り掛か ったのは、茂木七郎右衛門家である。2 代茂木七郎右衛門は商売の永続的な繁盛を願って、
讃岐の金刀比羅宮に参り、祈願を行った。参籠の際は、腕の肉を裂いて香を詰め、これに 火をつけて苦しみに耐えながら、高梨・茂木一族の商売繁盛と野田町民とが共に繁栄でき るように祈った。これから分祀を行い、1789年(寛政元年)には琴平神社が同家内に勧請 された192。このような共栄、共存意識は、高梨・茂木家の家憲にも表れている。高梨家の 家憲には「今日勤めねばならぬ大事、家業を出精して不実なく私のことに金銀をつかふ事 なければ不貧して危からず、人を愛して憐み深ければ色に溺れず、人を不捨人を救ひあな どらねば怒ることなく人に捨てられず」とあり、他人への思いやりを説く。また茂木家の 家憲には「徳義は本なり、財は末なり、本末を忘るゝ勿れ」とあり、財産を積むことより も徳義を積むことが大切であると記されている193。
高梨家の 23 代兵左衛門は、「吾の稼穡に意を用うるは単に自家の栄えを思うに非ず、窮 民を賑恤し凶歉には資を散じて生民を塗炭より救済せんが為なり。子孫たるもの須く吾が 意を体すべし」と戒めていた。「金儲けに意を用い財を蓄えるのは単に自家の繁栄のためで はない、困窮民を救うためなのだ」という。24代・25代高梨兵左衛門は、奉仕精神の強か った23代のこの遺訓を引き継ぎ、積極的に社会的活動を行った。その代表的な例が天明・
天保の大飢饉の際の救援事業である。1782年(天明2年)から5年間にわたって、関東、
東北地方においては悪天候や岩木山・浅間山の噴火により稲作・畑作が大打撃を受け、天
会人として茂木廣、中野長兵衛、内田久次郎が参加した。さらに、11月20日に堀切紋次郎 の醤油部も無条件で合同に参加した。
192 キッコーマン醤油株式会社(1968),450-451頁。
193 野田醤油株式会社(1940),122-124頁。
明の大飢饉が起きた。また、1833年(天保4年)から4年間には、全国的な天候不順から 農産物が大減収したことによる天保の飢饉が起こった。これらの大飢饉により、各地の醸 造家は原料の調達に苦しみ、原料価格の高騰により生産コストは上昇し続けた。このよう な状況にもかかわらず、関東有力の資産家であった高梨家は飢えに苦しむ人々のための救 援活動を行ったのである194。24 代兵左衛門はこの遺訓を守り、1786 年(天明 6年)大飢 饉には1000人余りに施しを行った。25代兵左衛門は、1833年(天保4年)・1836年(天 保7年)の大飢饉の際に8000人余りに救恤を行った195。
年度 野田醤油(高梨家)の取り組み内容 性質
1786 年(天明 6 年) 24 代高梨兵左衛門 1000 人余に施行。
事件
(飢饉、米 値高騰)、
大規模、
臨時的 1833 年(天保 4 年)
高梨家 小屋を建て、病人診療。
麦を 1 軒当たり 1 斗、1 人当たり 3 升、計 72 軒、283 人に施行。
→計 3000 人余に。
1833 年(天保 4 年)、
1836 年(天保 7 年) 25 代高梨兵左衛門 8000 人余に救恤。
高梨家の施行に関しては、山崎家文書196に記されている。1833年(天保4年)から続い た凶作により米不足となり、米穀価格が高騰した。そのため、米の購入が難しくなった困 窮者等は町の富豪達に施行を求め、これを受けて、野田の富豪達は施しを行った。その内 容の一部を同文書から次に引用する197。
天保四巳年夏のなかばより何となく冷気になり(中略)穀物相場よろしく追々高く相な り何となく世間の噂も気味わろき、(中略)七月下旬より米雑穀ともに大高値となり八九月 よりは段々引上ケ、凡米値段金壱両に付弐斗位、白米は百文に三合、然る故に日頃農業無 情の者あるひは極困窮之もの共当日をしのぎ兼、当村にても平生無情のわる者共頭取いた し、困窮人共をあつめ、長太郎前の原抔江集り色々の事を企らみ、剰へ平生出情いたしか成 の暮しの所へ押込て食をゆすり、若不承知ならば打こわし可申抔、頭取のわるもの騒がし 候よし、尤其節は宿場村々所々に打こわし有之、別而幸手宿の打こわし抔は大そふの事な る他評判最中也、
194 キッコーマン株式会社(2000),26-27頁。
195 野田醤油株式会社社史編纂室(1955),97-98頁。
196 野田醤油株式会社調査課(1955),96-102頁。
197 野田醤油株式会社調査課(1955),96-97頁。
表4-1 野田醤油(高梨家)による施行内容
また、同文書には高梨家の施行内容についても詳しく記載されている。高梨家は天保の 飢饉において、小屋を建てて困窮者を集め、施しを行った。また、病人には医師の診療を 受けられる措置を取っていた。これら高梨家が行った施行の恩恵に預かった窮民は、町内 のみならず、近隣の地域住民らをも含め、その数は3000 人を超えた。施行内容としては、
麦を1軒に当たり1斗、1人に当たり3升を配っており、全72軒、283人に施した198。そ れに関する記事を「山崎家文書」から引用する。
上花輪村名主高梨兵左衛門方にては近村々江穀物を施し飢人を救ひしことおびたゞし、尚 又二月中旬頃より門前江小屋を建、米麦小豆をまぜめし或ひは粥に煮立て、飢人江施し候処、
近村々は不及申、遠き村里又は国をへだて聞伝へ、飢人日増に集り、三四月頃は日日三四 千人づつにも及び候よし、尤乞食もおびただし、併皆飢につかれ病気附、無論医者を抱ひ 置、よわり候は薬手当遣し候へ共、数多の人数ゆへ死失のもの数しれず、日日如斯なれ共、
乞食之分は番人江申付、無縁地へ埋め塔婆を建遣し、念頃に取計ひ遣はし候也、その節当村 よりも毎日凡七八十人づつも参り、右の施しを請候よし也、
右高梨の救ひ小屋へ往来のもの往還筋引もきらず、かゝる時節ゆへ、病つかれ途中往来の 端へ行倒、餓死いたし候もの少なからず、
此砌御支配代官羽倉外記様御用序救い小屋御身分有之高梨御旅宿に付御用伺として久馬罷 出候節、救ひ小屋の様子見請候所、高梨の門前江大きなる小屋を建て、其内へ大釜弐つ並べ 水をはりかけ、米又は搗へ代り絶ず振舞方は小屋の内ぐるりと腰掛けを仕立置、それ江腰を 掛竹ひさく江盛りて喰す飢人共入替り立替り引も切らず、乞食は小屋の内へは入れず其世話 方人数大勢相掛り広大なる事也、
高梨にては小屋にて救ひを施し候上、尚又穀物等を村々江俵の儘助情差出し候間、当村にて 下村五衛門□立世話いたし候外、役人も代りがわり同道相願ひ、則当村中へから麦にて五 斗入にて三十五俵助情貰受、二月二十八日久馬方へ引取、村役人立合、飢人江壱軒平均壱斗 人別壱人三升の割合に致、家数七拾弐軒人別弐百八拾三人江不残割渡遣し候、
(後略)
これらの善行は、幕閣に伝わり、その褒賞として幕府から苗字と永世帯刀を許された199。
同文書の上記引用内容から分かるように、飢饉の際に野田町付近において、窮地に陥っ た困窮者等が施行を求め、これに応じないと打ち壊しをするとの内容が記されている。こ の文書の中からは、高梨家が打ち壊しの標的にされていたかどうかに関しての記録はない。
しかし、この事件をきっかけに高梨家も施しを行うことになり、その施行は野田のみなら
198 野田醤油株式会社調査課(1955),99頁。
199 「高梨兵左衛門は去る天保四巳年凶作の節村内并近村々江籾其外助情遣し尚又此度の慈 悲施業莫大の義御聴に達し御代官様へ召出され御褒美として三代苗字御免被仰付候也、尚 又其後召出され帯刀御免を被仰付候」。野田醤油株式会社調査課(1955),99頁。
ず近隣の住民にまで及ぶ大規模なものであったことは読み取れる。これは、おそらく打ち 壊しを恐れて行う危機管理の領域を越えて、豪商としての使命感に起因する慈善意識に基 づくものでもあるといえよう。
天保の飢饉時、茂木家においても単独もしくは高梨家との協力のもと、施しを行ってい た。特に茂木房五郎家の初代房五郎は、1836年(天保7年)から1837年(天保8年)の 飢饉の際に困窮者救済事業に専念しており、1837年(天保8年)に男子に米を3升と麦を 3升ずつ、そして女子と子供には米を3升、麦を2升ずつの施しを行った。
年度 野田醤油(茂木家)の取り組み内容 性質
1837 年(天 保 8 年)
茂木房五郎 男子に米 3 升と麦 3 升ずつ、
女子・子供に米 3 升、麦 2 升ずつ施行。
事件(飢饉、
米値高騰)、
大規模、
臨時的
また、房五郎は、町内の富豪である茂木七左衛門、茂木七郎右衛門、茂木佐平治、高梨 兵左衛門から救済資金を集め、飢餓による病人のため、間口20間奥行3間半救助小屋3棟 を建てて食事と医薬を給与した。同年1月から4月にかけて茂木家と高梨家が1日に1度 ずつ、計2度の炊き出しを行った。この噂を聞きつけて集まった困窮者は約1700人、乞食 等が約2000人であった。そして、飢饉による餓死者が続出する中、房五郎はこれら困窮者 を助けるべく、田畑山林や衣装、家財道具までをも売却し、困窮者の家に金品を送る等の 救恤活動を行った200。
年度 野田醤油(高梨家・茂木家)の取り組み内容 性質
1837 年(天 保 8 年)
飢饉時
1 月~4 月。高梨・茂木家が 1 日 1 度ずつ、計 2 度 の炊き出し。
困窮者約 1700 人、乞食など約 2000 人に。 事件
(飢饉、米値 高騰)、
大規模、
臨時的 高梨・茂木家 小屋を建て、病人診察。
高梨・茂木家など 金 5000 両寄付。
1902 年(明 治 35 年)
茂木啓三郎家 凶作による米値高騰の際に、お助け 普請。
野田初井戸工事、学校建設、道路改築・修繕など。
200 市山(1980),221-223頁。
表4-2 野田醤油(茂木家)による施行内容
表4-3 野田醤油(高梨家・茂木家)による施行内容