博士(公共経営)学位論文
事業推進に向けての社会的活動
―近江日野商人中井源左衛門家・近江日野商人高井作右衛門家・野田醤油の事例―
Social Activities Towards Profits
Case of Omi-Hino Merchant Nakai-Genzaemon Family, Omi-Hino Merchant Takai-Sakuemon Family and Noda Shoyu
2012 年 2 月
早稲田大学大学院 公共経営研究科
朴 珎怜
Park, Jinyoung
目次
はじめに... 4
第1章 序論―企業の社会的活動... 7
第1節 社会的活動の定義とその動機... 7
1 社会的活動の定義... 7
2 個人の社会的活動の動機... 8
2.1 Sugdenの理論... 8
2.2 心理学の視点... 9
3 企業の社会的活動の動機... 10
4 動機の分類...11
第2節 近世・近代における商家の社会的活動... 13
1 商家の社会的活動に関する先行研究... 13
2 商家における社会的活動とその時代背景... 15
第2章 中井源左衛門家における社会的活動... 21
第1節 中井源左衛門家の沿革... 21
第2節 中井源左衛門家による社会的活動... 23
1 慈善動機による社会的活動... 23
2 事業推進動機による社会的活動... 34
2.1 収益向上のための取り組み... 34
2.2 危機管理対策としての社会的活動... 37
第3節 小括... 43
第3章 高井作右衛門家における社会的活動... 45
第1節 高井作右衛門家の沿革... 45
第2節 高井作右衛門家の社会的活動... 46
1 慈善動機による社会的活動... 46
2 事業推進動機による社会的活動―危機管理対策―... 47
2.1 米騒動への対応... 47
2.2 暴徒への対応... 50
2.3 火事への対応... 53
第3節 小括... 56
第4章 野田醤油における社会的活動... 58
第1節 野田醤油の沿革... 58
第2節 野田醤油における社会的活動... 60
1 慈善動機による社会的活動... 60
2 事業推進動機による社会的活動―収益向上のための取り組み―... 64
2.1 水道事業... 65
2.2 鉄道敷設... 66
2.3 病院設立... 68
第3節 小括... 71
結 語... 72
参考文献... 77
参考史料... 80
参考URL... 81
史料集... 82
はじめに
社会的便益を向上させる民間の社会的活動には、利他的動機によるものと、利己的動機 によるものの2つがある。利他的動機は、他者の厚生増加を望む感情に基づくものであり、
利己的動機は、自らの利益追求に基づくものである。
現代において救済事業や公共事業は、政府の役割であると考えられている。そして、政 府はそのような事業のための財源を確保している。しかし、日本の近世・近代においては、
政府の財政も逼迫しており、これらの事業を政府のみで十全に行える程の財源がなかった。
近世の江戸幕府は、既存の民間社会における相互扶助の慣行や仕組みに乗りかかるかたち で、富商に米銭を供出させ、そうした事業を行った。そのような事情から、近世・近代に おける民間の社会的活動は、現代におけるよりも重要な役割を担っていたのである。
民間企業による社会的活動に関しては、近年企業の社会的責任(Corporate Social
Responsibility: CSR)の名の下に関心を集めている1。日本ではその源流はすでに近江商人
の「三方良し」に見られるとされる。「三方」とは、「売り手」「買い手」と「世間」のこと で、商売を介して直接に結ばれる売り手・買い手のみならず、「世間」のことも考えたこと が注目されたのである。「世間良し」に向けて行われた社会的活動は、主として慈善動機に 基づく善行と捉えられているが、実際には、収益を求めた事業推進動機に基づく部分が多 いのである。このことを検証するために、本論文では、日本の近世・近代における商家の 社会的活動の 3 つの事例を取りあげ、一次資料を用いて、慈善動機と並んで、事業推進動 機に基づくものが多く行われたことを明らかにする。このように本論文では、商家の社会 的活動において事業推進動機が重要であることに焦点を当てる。
まず、民間企業の社会的活動の源流と見られる近江商人の中から、近江日野商人を代表 する商家として、中井源左衛門家と高井作右衛門家の 2 つを取りあげる。中井家と高井家 は、いずれも行商から事業を始め、出先の他国において店を構えるようになった近江商人 の特徴を持つ。このように他国へと事業を展開する彼らの業態においては、ことさら「世 間」を考慮する必要性があったものと考えられる。
3つ目の事例としては、近江商人とはタイプの異なる商家として、キッコーマンの前身で ある野田醤油を取りあげる。野田醤油は、商いの始まりが行商にある中井家・高井家とは 異なり、醤油醸造に携わりながら地元に根を下ろした。野田醤油も慈善動機と並んで事業 推進動機に基づいて社会的活動を行ったが、それに含まれる公共事業が事業推進動機に明 確に結びつけられている。そのため、本論文では、中井家と高井家の例を補完する適切な 例として野田醤油を取りあげる。
1 企業の社会的責任と事業推進の両立を唱道するKotler & Lee (2005) や、企業の社会的責 任について包括的な規準を与えようとするISO26000の試みにそのような関心が表れてい る。
本論文で取りあげる各商家の社会的活動を以下に簡単に紹介する。第 1 例は、近江日野 商人中井源左衛門家である。中井家は、近江出身でありながら、行商を始めたことをきっ かけに、後には仙台を中心に全国に15店舗を構え、商活動を行った。同家は、各地の特産 品を他地域に持ち運び販売する「産物廻し」の手法を行っていた。このような商品販売の 他、金融業を営んでおり、醸造業も行ったことがある。中井家は地元日野の長者番付に載 るほどの豪商となり、商活動の傍ら多くの社会的活動を行った。
同家は、慈善事業として、毎年困窮者支援のための施行を行っている。これは、恵まれ た者は御救を行うという豪商としての使命感から発するものと、困窮者による打ち壊しを 回避するための両側面をもって行われた。また、専ら商活動を推進するために行われた社 会的活動がある。同家は全国に支店を置き、産物廻しを行っていたため、迅速かつ安全に 物資を運搬する必要があった。このようなことから、道路の修復、橋の架け替え、常夜灯 の設置などに注力した。これらの施設は、地域住民も利用でき、インフラとしての役割を 果した2。
第 2 例は、近江日野商人高井作右衛門家である。高井家も近江商人の特徴である行商に 出かけたのを商活動のはじまりとする。その活動は群馬藤岡を中心に行われ、現在も群馬 県藤岡市において酒造業を営んでいる。高井家は、三重県津市においても店舗を構えたこ とがあり、醸造業、金融業、問屋などを営んでいた。
同家の社会的活動の特徴は、御上や地域住民の要請に的確な対応をしていた点である。
飢饉あるいは火事などの際に、町の役人や地域住民の要請により施行を行っていた。これ は、慈善意識に基づくものと見られるが、同時に住民の要請に対応することによる打ち壊 し回避など、危機管理対策としての側面を持ち、事業推進を目的として行われたと見るこ ともできる。
最後の事例は、醤油製造で知られるキッコーマン株式会社の前身に当たる野田醤油であ る。千葉県野田市において醤油・味噌醸造を行った高梨・茂木一族を中心とする各醸造家 が、事業拡大のために組合を結成し、事業推進過程において多くの社会的活動が行われた。
野田の醸造家は飢饉の際に、豪商としての使命感から施行を行った。これは、慈善意識 からなるものであると同時に、打ち壊しなどを避けるための危機管理対策としての性質を 帯びている。また、事業拡大を図る過程においては、醤油増産のための水道事業、物資の 運搬や東京市場進出のための鉄道敷設などを行っており、これらの施設は地域インフラと して地域住民も利用できた。野田醤油は、日本各地へ事業を展開していった近江商人とは タイプの異なる商家であるが、鉄道敷設などの地域インフラ整備に資する活動は、近江商 人の諸家が行った活動と共通する点も多い。このことは商家の業態にかかわらず、事業推 進の面において社会的活動が一定の意義を有することを示唆するものである。
以上3つの事例は、救済事業や公共事業を政府が十分に行うことができなかった時代に、
民間の活動がその不足を補完する役割を果たしていたことの証左となる。従来は、これら
2 この中井家の事例に限らず、同じ近江日野商人の山中兵右衛門家においても、進出先にお いて馬車鉄道を敷設するなど、結果としてその地域の便益向上に資する活動が見られる。
商人による社会的活動について、主に道徳的善行であるとされていたが、本論文では、善 行として説明できない社会的活動があることを実例に即して検証することで、従来の研究 に新たな視点を加えるものである。
本論文の構成は次の通りである。まず第1章では、「社会的活動」の定義を行い、その「動 機」について論ずる。第2 章から第4章では、近世・近代の商家における社会貢献活動の 事例を 3 つ取り上げる。そこでは、各商家の古文書、自治体史、社史、商家関連書籍など の史資料を用い、慈善動機に基づく活動と並んで、営利を求めた事業推進を動機とする活 動が多く行われたことを検証する。最後に、結語では以上の立論を総括し、今後の課題を 展望する。
第1章 序論―企業の社会的活動
第1節 社会的活動の定義とその動機
1 社会的活動の定義
現代では、インフラ整備や困窮者救済事業など、社会問題解決のための活動は、主とし て政府に付託されているが、民間によっても多くの活動がなされている。民間によるこの ような活動は通常「社会貢献」とされている。
丹下(2001)によれば、日本における「社会貢献」という語は、米国で企業が行うフィ ランソロピーの訳語として入ってきたという3。このようなフィランソロピーは、慈善活動 としてヨーロッパで育まれ、アメリカにおいて活発に行われるようになった4。イギリスで は、チャリティーとフィランソロピーが区別して使われており、前者は困窮者の救済のた めの物資支援を意味し、後者は社会問題の解決に取り組み、福利や生活の質を向上させる 活動を意味するという5。
企業が行う社会貢献活動をCSR(Corporate Social Responsibility:企業の社会的責任)
と呼ぶ6。Kotler & Lee(2005)は、CSRを「企業が自主的に、自らの事業活動を通して、ま たは自らの資源を提供することで、地域社会をよりよいものにするために深く関与してい くことである」7と定義する。
しかし、一部では、「社会貢献」を純然たる慈善によるものに限り、自己利益、例えば企 業収益を意識したものを排除する。足立・井上(2009)は、「CSR を企業価値の向上や競 争優位などの経済的手段におとしめてしまう危険がある」とし、社会貢献活動を企業収益 のために行うことを懸念する8。また、青木(2004)は「企業が自発的に直接の利益を目的 とせずに本業以外で、社会的課題の解決に取り組むこと」を企業の社会貢献と説明する9。 さらに、原田他(2010)は、「一般的に、営利企業における社会的目的は、利益目標に次ぐ 副次的目標、あるいは、利益目標のための二次的目標としての位置づけを超えることはで きないだろう。それゆえ、それらの営利企業による社会貢献を、社会目的(中略)を第一 義的な目標としている社会的企業と同列に捉えることには、そもそも問題がある」と指摘
する10。Hoffman(1991)は、自己利益へのリスクと犠牲があっても倫理的責任を負う必要が
3 丹下(2001),74-75頁。
4 丹下(2001),77頁。
5 Danbury(1992),p.874.
6 近年、企業の善行について、「企業の社会的責任」「企業市民」「企業貢献」「企業の地域社 会への貢献」「地域社会との関係構築」「地域社会活動」「地域開発」「企業責任」「グローバ ル市民」「ソーシャル・マーケティング」などの語で説明されており、Kotler & Leeはこれ らを「CSR」の語で説明する。Kotler & Lee(2005);恩藏訳(2007),3頁。
7 Kotler & Lee(2005);恩藏訳(2007),4頁。
8 足立・井上(2009),12頁,109頁。
9 青木(2004),54頁,63-64頁。
10 原田・藤井・松井(2010),139頁。
あるとし、企業が利益を根拠に倫理的責任を行うことを厳しく批判する11。
これらの主張は、「貢献」は利益追求といった見返りを想定する行為とは相容れないとい う見解である。ところが、企業収益を意識した「貢献」活動も、純然たる慈善に基づく活 動も、社会問題の解決に資する点において変わりはない。本論文では、社会貢献をこのよ うに広く捉えている。社会貢献の語を狭義に捉える見解との間で用語の混乱を避けるため に、本論文では「社会貢献」に替えて「社会的活動」12の語を用いる。
なお、本論文では、本業を通じた財やサービス提供による部分ではなく、これら事業を 推進する過程において行われる社会的活動に焦点を当て、その動機について検証する。
2 個人の社会的活動の動機
本論文では商家(企業)による社会的活動における動機が中心テーマになる。そのため の準備として、社会的活動の動機に関するいくつかの理論を概観しておく。
そのような理論は主として個人の動機を対象にしている。本論文の研究対象は企業によ る社会的活動であるが、ここで取りあげる企業は近世・近代のものであり、そこでは所有 者兼経営者の個人的裁量が働く余地が大きいので、まず個人の動機についての理論を整理 する。その上で企業における動機についての理論を概観する。
2.1 Sugdenの理論
人々は通常、困窮している人への支援や社会成員が共用するインフラ整備などを好まし いと思い、それが促進されることを望む気持は多くの人が共有するところである。しかし、
このことから人々が自らそのような社会的活動(例えば寄付やボランティア)を行うとは 限らない。なぜなら、そのような行動を起こすには金銭・時間・労力を要する、つまりコ ストがかかるからである。自分が行動を起こさなくても、他の人が行動を起こしてくれれ ば、その成果を(自分はコストを負担せずに)享受できる。この「タダ乗り問題」が存在 するため、自発的な社会的活動が過少になるというのである。これは「フィランソロピー の公共財理論」(public goods theory of philanthropy)と呼ばれる13。
R. Sugdenは、イギリスで多くの個人寄付が行われているという現実を説明できないとし
て、「フィランソロピーの公共財理論」に異を唱える。社会的活動に要するコストを負担し
11 Hoffman(1991), pp.169-184.
12 末永(2011)は、「社会的活動」の語を用い、近江商人が公共施設への寄付などに参加し たことについて説明する。末永(2011),60頁。本論文においては、「社会的活動」の定義 を末永の定義よりも、広く捉える。
13 この用語はSugden(1982),pp.341-350による。政府介入に対して極めて否定的なM.
Friedmanでさえ、このタダ乗り問題のゆえに、私的部門に任せておくと貧困救済が不十分
になるとして、その分野への政府介入を容認している(Friedman(1962),pp.190-191;訳書 346頁)。なお、Sugden自身は後述のように、この理論に批判的である。
てもなお行動を起こす誘因が働いているというのである。いくらかの人は、自らが社会的 活動を起こすこと自体に価値を見出す。その源泉は、社会貢献をしたという満足感、社会 的活動への世間の賞賛(あるいは逆にそのような活動をしなかったときの世間からの非難 回避)など多様なものがある。Sugdenはとりわけ、宗教の教えや一般社会道徳に従うとい う動機を重視している。自らが行動を起こさなければ、これらの動機は満たされないので、
ここには他人の社会的活動へのタダ乗り問題は生じない。単に他者の厚生の増加を望むと いう利他的感情のみでは僅かしか行われない社会的活動が、上記の種々の動機に基づく活 動によって補われているというのである。
2.2 心理学の視点
心理学や社会学の領域では、社会的活動(フィランソロピー)が行われる理由に関して、
他者を助ける(prosocial, help)行動が自己利益になることによる、つまり利己的動機に基 づくと見るのが主流であった14。しかし、利己的動機のみでは他者を助ける行動が十分に説 明できないことから、1970年代以降になって、利他的動機も働いているという見方が定着 した15。その際に使われている「利己的」、「利他的」の定義をまとめると以下の通りである。
利己的(egoism):自分の厚生を高めることを最終目的とする。
利他的(altruistic):他者の厚生を高めることを最終目的とする。
利他的動機によって他者を助けた結果、自分の厚生が高まることがあっても、それは単 なる副産物である。他方、利己的動機に基づく行動によって他者の厚生が高まったとして も、それは自己の厚生を高めるための手段とされたにすぎない16。
利己的動機には2つの類型がある。第1は、報酬を得ることと罰を避けること、第2は 不快な感情を低減させることである。その類型内容としては、まず、利己的動機の第 1 類 型には、金銭報酬・社会的評価・自尊心を得るためのもの、社会的非難・罪悪感から免れ るためのもの、社会規範・個人的規範に従うものがある。次に、利己的動機の第2類型は、
困難・懸念・不安を低減させるためのものが含まれる。
一方、利他的動機は、困難に面している他者の観点に立ち、その苦境がその人にどのよ うな影響を与えているかを共感(empathy)することにある17。利他的動機はその対象にな る人との関係性、特に愛着に依存する。親子のような近親者では強く、近親の程度が薄く なるほどに弱くなる。したがって、匿名多数の人に対して共感する可能性は小さい。表 1
14 Simmons(1991), p.1. Batson & Shaw(1991), p.107.
15 Batson & Shaw(1991)は、実験を通じて、利他的動機が作用することを検証している。
Batson & Shaw(1991),pp.114-119.
16 Batson & Shaw(1991),p.109.
17 A. Smithの時代にはsympathyが使われたが、現代ではempathyが広く使われている。
Batson & Shaw(1991),p.112.
-1は、これら利己的動機と利他的動機の性質を分類整理したものである。
動機の類型 動機の性質
利己的動機 第1類型
1.金銭報酬・社会的評価・自尊心を得る。
2.社会的非難・罪悪感から免れる。
3.社会規範・個人的規範に従う。
第2類型 4.困惑・懸念・不安を低減させる。
利他的動機 5.共感(empathy)
心理学において現在支持を得ている結論は、他者を助ける行動を個人が起こす動機には 利他的と利己的の両方があるというものである18。
本論文で取り扱っている社会的活動は、2.1で見たSugden の理論と同様に、近親者間 のものではなく、かなり広い範囲の人を対象とするものである。そのような対象に対して は、上述のように利他的動機が働きにくいので、社会的活動の動機として利己的動機が支 配的になっているはずである。Sugdenは、社会的活動の動機を利他的なものと利己的なも のに明確に分類していないが、彼の理論は、利他的動機に基づく社会的活動はそれほど期 待できず、利己的動機が働いてはじめて多くの社会的活動が確保されることを示唆してい る。
次に、企業における社会的活動の動機に関する理論を概観する。
3 企業の社会的活動の動機
本論文で取りあげる企業は、近世・近代のものであり、現代の企業とはその性質が異な るかもしれない。しかし、当時の企業の行動動機に関する実証研究は得られないので、現 代企業の行動動機に関する実証研究の成果を用いることとする。
企業による社会的活動は純粋に利己的、すなわち利潤を追求する動機に支配されている という見方が現在では広く受け入れられている19。長期的観点で行う社会的活動は利潤獲得 につながるとする見解はこれに当てはまるものであり、これは近年に支配的な考え方であ
18 Batson & Shaw(1991),p.119.
19 Piliavin & Charng(1990), p.57.
また、Anderson(1989)によれば、社会的活動は株主のためになされる企業の社会への投資
とみなされているという。Anderson(1989);百瀬監訳(1994),334頁。
表1-1 社会的活動の動機と性質
(出所)Batson & Shaw(1991), pp.109-112の内容に基づき作成。
る20。
企業は組織体として利潤を求めることを主たる目的とするため、この見解は極めて妥当 に見える。これに対して、Schwartz(1968)は、企業による社会的活動(フィランソロピー)
が必ずしも利潤をあげるための手段として使われてはいないという実証結果を提示してい る。社会的活動が通常の生産要素と同様なものと認識されているなら、法人税率に影響さ れないのであるが、実際には影響されていることから、Schwartzは社会的活動が利潤をあ げるため以外の目的にも使われていると見る。その部分が利潤目的ではない純粋な社会的 活動であるとされる21。
Fry, Keim & Meiners(1982)は、この純粋フィランソロピー部分について詳細に検討して いる。一つは、役員(所有者あるいは経営者)の個人的選好に基づいて社会的活動が行わ れる場合がある。さらに、役員に限らず株主の選好を含めて、企業の社会的貢献を求める 風潮に沿うために社会的活動が行われる場合もある22。後者は企業利潤をめざしたものと見 ることができるが、前者は個人の動機に関わるものであり、2.1で紹介したSugdenの主 張する個人における社会的活動の動機に照らして考えられるべきものである。役員の個人 的動機は共感(empathy)に基づく利他的な場合もあるし、何らかの個人的見返りを求め た利己的な場合もある。しかし、そのいずれの場合でも、企業の利潤を求める動機とは異 なるものである。現代企業、特に大企業においては、役員の個人的選好を企業の意思とし て通すことは難しいが、本論文で取りあげる商家においては、所有と経営が十分に分離さ れていない23ので、家長の意向が企業行動に強く反映される可能性がある。したがって、近 世・近代において個人動機の重要性は大きいのである。
4 動機の分類
第 2 章以下で、商家による社会的活動の内容を検証するにあたり、先行理論の検討に基 づいて、その動機を事業推進(利潤追求)とそれ以外のものに分類する。前者は企業がも つ最も顕著な動機である。ここでいう「事業推進」とは、文字通り事業を拡大・発展させ ることのみではなく、単に事業の推進を図ることも含める。後者の事業推進以外の動機に は、商家の個人としての動機が含まれ、それは共感(empathy)に基づく利他的動機、あ るいは見返りを求めた利己的動機に基づくものであるかもしれない。いずれにせよ、それ は利潤を求めた事業の維持推進動機に基づくものとは異なるものである。そこで、この個 人の動機を、言葉の若干の濫用を冒して「慈善動機」と呼ぶことにする。それが共感
20 しかし、企業の社会的活動による採算性については、実証的な根拠がほとんどない。
Vogel(2005);小松・村上・田村訳(2007),26頁。
21 Schwartz(1968), p.481.
22 Fry, Keim & Meiners(1982)は、前者をThrough-the-Firm Giving、後者をCorporate Statesmanshipと呼んでいる。
23 近世では、血縁関係にある者同士によって、家産の所有と家業の管理(経営)が行われ ていた。安岡(1990),37-38頁。
(empathy)に基づく利他的動機でなく、見返りを求める利己的動機の場合、「慈善」とみ なすことには違和感があるかもしれない。しかし、個人的見返りを求める場合でも、社会 貢献をすることに喜びを覚える、あるいはそのような貢献をした自分に誇りを持つという 場合が含まれることを考慮すれば、この言葉の濫用も許されるであろう。
本論文は、古文書や社史等の一次資料の記録に基づき、商家が行う社会的活動の動機を 明らかにするものである。ところが、記録のみでは、それが利他的動機によるものか、利 己的動機によるものかを明確に区分することが極めて困難である。したがって、動機区分 の基準設定を、商家の事業内容や時代背景等と照らし合わせながら、一次資料から得られ る情報に依拠し、単純化して行う。すなわち、一次資料の内容に、社会的活動を求める要 請を受けた記載が有る場合を「事業推進動機」、要請を受けた記載が無い場合を「慈善動機」
と分類する。但し、事業維持・推進を目的として行ったと考えられるものに関しては、要 請の記載有無に関わらず、事業推進動機と分類する。この際、商家の事業内容や経営手法 等を考慮しながら、商家が行った社会的活動が事業推進のために行われたかどうかについ て判断する。
図 1-1 は、社会的活動の内容とその動機を図式化したものである。まず、図の左方は、
Batson & Shaw(1991)が提唱する個人動機の分類を基準に、その行動内容が利己的動機に 図1-1 社会的活動の動機とその内容
無 利己的動機
事業推 進動機
慈善 動機 1.金銭報酬・社会的
評価・自尊心を得る。
2.社会的非難・罪悪 感から免れる。
3.社会規範・個人的 規範に従う。
4.困惑・懸念・不安 を低減させる。
5.共感 (empathy)
救 済 事 業 公 共 事 業
慈善 動機 利他的動機
商家
個人
個人
動機の種類 動機の性質 主体・動機 要請の有無 活動内容
無
有・無
商家(企業)の動機 個人の動機
有
無
よるものか、利他的動機によるものかを区分したものである。そして、図の右方は、本論 文で取りあげる商家の社会的活動の動機を分類し、表したものである。ここでは社会的活 動を行う主体をまず、商家と個人に分け、商家の動機を事業推進動機、個人の動機を慈善 動機とする。第 2 章以下で紹介する商家が行う社会的活動の内容は、大きく分けて救済事 業と公共事業に分類できる。上記説明のように、これら社会的活動については、要請の有 無によってその動機を分類する。但し、物資の運搬や品質向上等、事業推進を図るために 行われた公共事業に関しては、事業推進要請の有無に関わらず、事業推進動機として分類 する。
なお、社会的活動の動機を「慈善動機」と「事業推進動機」に分類したが、それらは相 互に排他的なものではなく、特定の社会的活動に両方の動機が働いていることを否定する ものではない。以下の各章では、「慈善動機」「事業推進動機」に節を分けて叙述するが、
それはあくまでも主としていずれか一方の動機によって行われたものとの判断によるもの である。
第2節 近世・近代における商家の社会的活動
現代においては、救済事業や公共事業は、主として政府の役割であると考えられている。
そして、政府はそのような事業のための財源をある程度確保している。しかし、日本の近 世・近代においては、そうした事業を行うことが必ずしも政府の役割であるという認識は なかった。また、本章で論じるように政府の財政も逼迫しており、これらの事業を政府の みで行えるほどの財源がなかった。近世の江戸幕府は、既存の民間社会における相互扶助 の慣行や仕組みに乗りかかるかたちで、富商に米銭を供出させ、そうした事業を行った。
近世・近代の政府は、救済事業や公共事業の十分な担い手ではなかったのである。そのた め、近世・近代における民間の社会的活動は、現代におけるよりも重要な役割を担ってい たのである。そして、その役割を主として担ったのは商家(企業)であった。以下にこれ らの諸点を詳しく見ていく。
1 商家の社会的活動に関する先行研究
日本の近世における豪商は多くの社会的活動を行った。これらの活動に関しては、その 動機づけが慈善にあるとされてきた。土屋(2002)によれば、商人における道義性の理念 の根本は、近世においては、神・仏の信仰、儒教の孔孟の教えである「仁・義・礼・智・
信」によるものであるという24。このように商人による社会的活動は、宗教や教育により培 われた道徳観によるものであるとの研究が多い。
24 土屋(2002),565頁,567頁。
また、近世における商人は、道徳に合致した方法で商業を行うことが世の助けになり、
自らの富の蓄積にもつながると考えていたとされる。土屋(2002),602頁。
以下に、商人の社会的活動に関連する先行研究を概観する。ただし、野田醤油醸造家に 関する社会的活動の先行研究はない25ため、近江日野商人に関する先行研究のみを取り上げ る。
近江日野商人は、「陰徳善事」を通した商活動を行う中で、富を築き上げることができた とされている。彼らは宗教理念や石田梅岩の石門心学から影響を受けたという。
宮本(1977)は、近江商人の大きな特徴として勤勉と始末を挙げている。これらは宗教 理念の影響を受けているため、近江商人の意識には常に倫理的なものが含まれており、そ の経済活動は道徳的なものに律せられていた26。
近江商人の倫理観形成は、仏教の影響を受けたとの研究がある27。小倉(2004)は、近江 商人の家訓の内容は、「三方良し28」、「始末して気張る」、「陰徳を積む」などに関するもの であり、これを説明する際、世間、菩薩、業、自利利他、陰徳、慈悲心などの仏教用語を 用いているという29。窪田(2006)によれば、近江商人の中でも日野商人は、浄土真宗の影 響を受けており、真宗門徒の倫理に基づいて商人の価値観が形成されたとしている30。
芹川(1985,1997)は、近江日野商人中井家の「金持商人一枚起請文」には、禁欲・勤勉、
薄利多売、施与・喜捨の精神についての記載があることについて、仏教や石門心学の倫理 観と関わりがあるとしている31。また、芹川は、石門心学の根幹には仏教理念が流れている とする32。近江日野商人山中家の「慎」十か条も、生活・信心・商売・奉公人等にわたって、
慎み、誠実、思いやりを旨とすべしと説いており33、中井家と思想面において通底している といえる。小倉(2003)は、近江商人の神社仏閣への多額の寄付は、商人らの神仏への祈 りであると説明する34。
以上みてきたように、これらの先行研究では、社会的・個人的規範に基づき、「陰徳善事」
を行うことで、富を築き上げることができたと説明する。これはその動機について、慈善 動機の要素が重きをなしていることを示すものである。そして、実利を第一とする商人で ありながら、道徳律や倫理観を重視する経営理念のもとに活動したその精神性が高く評価 されたのである。
このように近江商人研究は、その思想性に他の商人とは異なる独自性を見出し、その思
25 野田醤油の創業家である高梨・茂木家における人物を紹介し、彼らが行った社会的活動 を簡略に紹介する文献があるのみで、野田醤油の社会的活動に関する本格的な研究は、管 見の限り見当たらない。
26 宮本(1977),214-215頁。
27 小倉(2004),14頁。
28 「三方良し」とは、「売り手良し、買い手良し、世間良し」のことである。これは、商取 引において、売り手や買い手だけでなく、その社会全体の幸福にもつながらなければなら ないということである。
29 小倉(2004)。8-9頁。
30 窪田(2006),69-72頁。
31 芹川(1985),73-74頁。
32 芹川(1997),104頁。
33 松元(2010),10-11頁。
34 小倉(2003),74-78頁。
想と行動の関係を軸として進められてきた。そのため、彼らの行った社会的活動は、主と して「陰徳善事」理念で説明がつくものに限定されるかたちで議論されてきたのである。
しかし、商人による社会的活動が行われる動機として、経常利益の維持・向上といった強 い事業推進動機が存在していたことは第 1 章序論において既に見た通りである。そして、
この動機による社会的活動は、商人の事業推進過程において付随的に生成されたものでは あるが、その内容は公共性が高く、社会問題解決にも役立つものであった。
本論文では、商人が行う社会的活動の動機を、宗教理念や陰徳善事のような思想面にの み限定せず、事業推進による動機も含めて議論を進める。
2 商家における社会的活動とその時代背景
本論文は商家が社会的活動を行う動機として慈善動機と事業推進動機があるとし、これ らの動機に基づいて行われた社会的活動の事例を検証するものである。検証作業に入る前 に、本節において商家が社会的活動を行った時代的背景を概観しておく。
近世において商家が社会的活動に参加した背景には、幕府・藩の財政状況と公共事業や 救済事業に関して幕府・藩が帯びている使命の深さを挙げることができる。江戸中期以降、
幕府・藩財政は非常に逼迫していた。また、幕府・藩は公共事業や救済事業を行う使命を 必ずしも帯びていなかった。そのため、経済力を持つ豪商が必要に応じて社会的活動を行 う環境が生じていたのである。
まず、江戸幕府の財政について見ておこう。江戸幕府は徳川将軍が全国の土地を所有す る中央集権封建制を採っていた。幕府の歳入・歳出は、臨時支出のための臨時収入を図る こともあるものの、原則として収入に応じて支出するという量入為出制であった。そして、
幕府の財政と徳川家の家計は判然と区分されていなかった35。
幕府の財政的基盤の特質として、御領・天領である直轄領からの収入を得ていたことが 挙げられる36。収入内容は、年貢収入、鉱山収入、貨幣鋳造収益、交通運輸、商業特権掌握 によるものがある。また、江戸・京都・大坂・奈良・堺・長崎といった旧来の政治・商工 業の中心地や港湾都市を直轄することでも収入を得ていた。さらには、幕府は鎖国体制を とり、生糸を中心とする貿易を独占していた。そして、貨幣鋳造権を独占し、主要鉱山を 掌握していた。これらからの収入の他にも、原始林直轄・牧場支配からの収入、交通運輸 を支配することで得られる収入がある37。
幕府の財政状況38は、初期には金銀山の採掘が盛んで、貿易の伸長もあったことから潤沢 であったが39、中期に入ってから窮乏しはじめた40。その後、財政は幕末期に入ると崩壊寸 前にまで至った41。
35 本庄(1926),388-389頁。
36 大野(1996),406頁。
37 大野(1996),2頁。
38 初期を1600年(慶長5年)から、中期を享保の改革以降(1716年)から、幕末期を1844
幕府財政が窮乏した要因として、本庄(1926)は、天災などによる収入の減少、政費の 膨張や奢侈などによる支出の拡大がある他、根本的要因として貨幣経済の発達を挙げる42。 従来の農業社会はやがて商工業社会へ移行し、消費社会となった。このような中、貨幣経 済が発達し、商人らは経済力を持つようになった。幕府は財源を求めて繰り返し商人らか ら借入れをするうちに、利息が膨張し、それにより幕府財政が圧迫されることとなったの である。
次に、藩財政について見よう。藩財政の特徴は、年貢の他、鉱山や貿易等による収入を 得ていたことである43。
藩財政の窮乏要因について、土屋(1927)は、江戸での生活費と幕府から命じられた軍 役・普請などがあるという44。まず、参勤交代により、江戸での生活費や江戸までの旅費が 必要となったが、これは巨費を要するものであった。このような出費の増加が藩財政の窮 乏を促した。また、幕府から命じられた出兵や工事費等による出費が増加したことや天災 による年貢の減少も、藩財政が逼迫する要因となった。
このような中、藩は財政負担を高率年貢として農民に転嫁した45・46。そして、豪商に借 金することで財源を賄おうとしたが、これが返済できずに利息が膨張したことで、より財 政を悪化させることとなった。
例えば、江戸時代後期以降、仙台藩では有力商人を蔵元、為替組、融通組に任命し、御 用金の調達や両替所預かり手形を発行させた。天保の飢饉時には、領内で米の不足する仙 台藩において近江日野商人中井家が、現在の山形県酒田市にあたる酒田から米の買い入れ をしている。また、しばしば御用金の調達をしていた47。中井家は1856年(安政3年)に 仙台藩の蔵元となり、仙台藩財政の見積もりを作成していた。この見積もりの中には、仙 台藩の財源が金317,394両2分余、米67,700石0斗0升であり、支出が金369,854両2
分2朱、米67,700石0斗0升であり、財源から支出を差し引いた額は、金52,459両3分
2朱余の赤字と記されている48。また、仙台藩における財政赤字は、下に掲げた表1-2 の 通り、中井家が藩の蔵元となる安政期のはるか前の18世紀中半から始まっていたことがわ かる。
年(弘化期)頃からとしている。大野(1996),31-66頁。
39 大野(1996),31頁。
40 本庄(1926),372-373頁。
41 大野(1996),63頁。
42 本庄(1926),389頁。
43 大野(1996),431頁。
44 土屋(1927),36-37頁。
45 大野(1996),431頁。
46 飢饉や天災の際に、農民等は仁政を求める一揆を起こした。これは、生活難から出たも のであり、贅沢な生活を送る藩役人への不満、あるいは藩の要職者と結託して米を買い占 め、米相場を操作していた商人への批判を含むものでもあった。大塩(2006),28頁。
47 仙台市(2004),465頁。
48 仙台市(2004),468頁。
最後に、旗本の財政についても確認しておこう。旗本は米収入に依存しており、そのた め物価変動に大きく影響を受けた49。野村(1941)によると、三代将軍家光時代50から、旗 本の経済生活が困窮したという。幕府は倹約などの呼びかけや、旗本救済策51を行ったが、
旗本財政は改善しなかった52。野村(1941)は、旗本財政が窮乏化した要因として、貨幣経 済の発達による物価の高騰53、人件費、宗教費、交際費による負担54を挙げる。また、不足 資金を調達するため、豪商などの町人に借金をするようになったが55、これを返済できず、
さらに苦しむこととなったという56。
旗本財政が窮乏していたため、実際に旗本領の財政運営を担っていたのは、豪農商であ った。例えば、幕末期において、三河地域にある旗本巨勢氏領の財政は、実際に豪農商鈴 木家に任されていたという研究がある57。吉永(1986)は、「幕末期になると、旗本の財政 運営の実権は、在地の有力豪農商に握られた」という58。
49 野村(1941),50-51頁。
50 1623年(元和9年)から1651年(慶安4年)に在任。
51 幕府の財政が窮迫した享保期において、旗本を支援している、これは十分ではなく、一 時的な救済にすぎなかった。野村(1941),64頁。
52 野村(1941),51-55頁。
53 野村(1941),57頁。
54 野村(1941),63頁。
55 野村(1941),71頁。
56 野村(1941),75頁。
57 吉永(1986),64頁。
58 吉永(1986),64頁。
1730~1732 年
(享保 15~享保 17 年)
1733~1742 年
(享保 18~寛保 2 年)
1736~1746 年
(元文元~延享 3 年)
1758~1760 年
(宝暦 8~宝暦 10 年)
収 入
繰り越し 17974 両 1 分 ― ― ―
年貢など 70929 両 2 分 106816 両 92599 両 2 分 80097 両 3 分 本入納 25273 両 2 分 36253 両 41006 両 3 分 34709 両 3 分 合 計 114177 両 1 分 143069 両 133606 両 1 分 114807 両 2 分
支 出
経常費 63608 両 0 分 88002 両 101272 両 2 分 87727 両 3 分 臨時費 3909 両 0 分 7455 両 14113 両 2 分 65848 両 1 分 外立 3682 両 1 分 5646 両 6680 両 2 分 41054 両 2 分 本入渡 15350 両 3 分 23282 両 28025 両 1 分 22549 両 2 分
その他 6443 両 2 分 ― ― ―
合 計 92993 両 2 分 124385 両 150091 両 3 分 217180 両 0 分 収 支 21183 両 3 分 18684 両 ▲16484 両 2 分 ▲102372 両 2 分
表1-2 仙台藩の財政状況
(出所)仙台市史編さん委員会(2004)20 頁より引用。
商家が社会的活動を積極的に行った社会的背景の一つとして、幕府・藩としては必ずし も救済事業を実行する手段を持っていなかったことが挙げられる。日本の近世においては、
中世から存在していた相互扶助が公共的な制度として発展するようになった59。このような 自主的な救け合いは、幕藩権力によって政治的慈恵の内部に組み込まれ、幕府の慈恵主義 的な救済行政の補完物とされた60。これは、従来から地域内で行われていた相互扶助を、幕 藩が制度化させたものであって、幕藩が全面的に救済事業を請け負った訳ではない。例え ば、「1783 年(天明 3 年)米沢藩における救済行政の際、藩は救米五千俵中半分を富裕な 農商の拠出にもとめた」61ように、幕藩権力は指令を出し、制度化の道筋をつけるが、財政 的な負担は各地域の豪農商に依存していたのであり、事業の実施もまた、各地域社会に負 っていたのである。
これら救済事業について、社会福祉の観点から説明する研究がある。「朱子学の政治の理 想は孔子以来の伝統である『仁政』であり、それはいうまでもなく治者の被治者にたいす る博愛『慈愛(恵)』であった。孔子の弟子が農民に苛酷な徴税を課した際に、きびしくこ れを諫めた姿にその『仁政』の一端があらわれている。儒教の『仁政』こそ社会福祉の原 点であり、政治の理念的目標であった。わが国の福祉はしたがってその職分として君主に もとめられることにあり、具体的には国主や大名の道徳的義務とされた」62。また実際に農 民も、年貢を負担する代わりに自らの経営を成り立たせるような具体的な「御救」を求め た。このように近世においては、救済事業を行うことが政府の「倫理的義務」になってい たが、それはあくまでも治者の被治者に対する慈しみに基づく行為であったといえよう63。
上述のように近世においては、為政者である幕府・藩・旗本の財政が逼迫しており、ま た困窮者支援を十全に行い得る体制も整っていなかった。そのため、飢饉時に御救を行う こともあったが、その対応は不十分なものであった。例えば、仙台藩では1784年(天明4 年)の飢饉の際に困窮者らに対する施行が行われたが、一人当たり、一日玄米三合ずつを 家内の二人まで支給され、それ以上の人数には支給されなかった64。
また、仙台藩では飢饉による食糧不足が続く中、4~5歳ほどの捨て子が増えた。そのた め、藩は捨て子を町内において養育するよう命じたが、放置され死に至った子供は少なく なかった65。藩は救済事業を支配地の町内に命じることはあっても、自ら十分な救済事業を 行うことはなかったのである。
59 池田(1986),114頁。
60 池田(1986),128頁。
61 池田(1986),128頁。
62 古川(2003),25頁。
63 領主と百姓の間には、領主に対する年貢と役の負担に対し、領主は「御救」でもって答 えるという理念的双務関係が領主と百姓の間に成り立っていた。深谷(1986)。
百姓の一揆は、領主への御救と仁政を求めるものであった。深谷(1993)。
64 仙台市(2004),106-107頁。
65 仙台市(2004),105頁。
『群馬県史』では、近世においては幕府・藩が災害に備えての河川改修・橋梁の修理・
水防の訓練などにほとんど手が回らなかったため、災害が発生したとき、応急対策の対症 療法的手段しか行えず、また、根本的な改修をするだけの財政的余裕もなかったと指摘す る66。役所の対応が遅く、十分ではなかったため、天明・天保の飢饉時に行われた救助活動 は、主として相互扶助に基づく民間によるものであった67。
近世の町々においては、有力町人らが町年寄となり、直接町政を担っていた。町年寄は、
居住民としての利益と自分自身の利益である商人資本を一体化させ、安定した町政を実現 させた68。町人らは、商工業を営むために仕事と生活の場である町の日常的維持を自ら果す 必要があった69。例えば、飢饉発生の際には困窮者が豪商に施米を頼り、豪商は救済事業を 行った70。また、公共事業においては、幕府が普請・修繕の責任を持つ公儀橋の他、町・村 橋は町がその費用を負担していた。川浚えについては町人の自発的冥加金によって賄われ ていた71。
近代国家成立後は、政府による救済事業が法律で定められた72。それにも関わらず、政府 は財政的な余裕がなかったことから、すぐさまこれを実行・維持することが難しかった。
大正期には米騒動が発生した。第一世界大戦による影響で日本国内にはインフレーション が生じ、米価が上昇した。1918年(大正7年)7月に、米商人が米の買い占めと投機した ため、米価がさらに高騰し、米騒動が発生した73。同年8月に、千葉県では農商務省の訓令 により、県内10石以上の内地米所有者を調査し、時価の消費米以外の残米を市場に提供さ せるように強制的な措置を採ったことで、事態は収まった74。
本論文第 4 章で扱う千葉県野田においても、財源不足により政府が公共事業を充分に行 うことができず、公共事業を民間が行ったことがある。大正期において千葉県は歳出削減 のため、県営鉄道の赤字路線を個人に払い下げる政策を行った75。また、明治期に入ると都
66 群馬県史編さん委員会(1992),818-819頁。
67 群馬県史編さん委員会(1992),826-827頁。
68 原田(2001),207頁。
69 原田(2001),207頁。
70 松本(1980),260-263頁。
71 大阪商工会議所(1966),34-38頁。
72 1874年(明治7年)に恤救規則が制定された。その後、1929年(昭和4年)には救護 法が制定されたのが、初めて救護を国の義務とする法律であった。
1946年(昭和21年)生活保護法によって最低限の生活を公的扶助によって保障する制度 が法制化された。1947年(昭和22年)には児童福祉法が、1949年(昭和24年)には身 体障害者福祉法が制定され、戦後の福祉政策が具体化した。1963年(昭和38年)には老 人福祉法が制定された。千葉県史料研究財団(2007),52頁。
1951年(昭和26年)には社会福祉事業法が成立し、救済事業に関連する規定となった。
73 千葉県(2006),50頁。
74 千葉県(2006),53頁。
75 千葉県は、1921年(大正10年)に赤字である大原―大多喜人車軌道を個人に払下げた ことをきっかけに、鉄道を必ずしも県が経営する必要がない方針を立てた。千葉県史料研 究財団(2006),132-133頁。
市化が進み、水質が悪化し、伝染病が拡散する危険性があり、「政府は1890年(明治23年)
に市町村の公費による水道敷設を定めた水道条例を公布した」76。しかし、千葉県において
は、1927~31年(昭和2年~昭和6年)に伝染病による死者が年平均349人にのぼるなど
し、至急水道を敷設する必要があったが、財政上の理由から実施されなかった77。
上述のように、公共事業や救済事業などを行うことを必ずしもその役割とせず、また財 政面において窮乏していた近世・近代政府は、そのような事業のための資金の多くを民間 とりわけ商家に頼る状況になっていたのである。これらの事例を以下の第2章、第3章、
第4章において取りあげる。
76 千葉県史料研究財団(2001),64頁。
77 千葉県史料研究財団(2001),65頁。
第2章 中井源左衛門家における社会的活動
第1節 中井源左衛門家の沿革
中井源左衛門家は、近江の日野出身で、日野商人の中では豪商として最もよく知られて いる。中井家は、東北から九州まで日本全国に店舗を構えており78、江戸中期から幕末期ま で商業活動を行った。中井家については『近江商人中井家の研究』79に詳しく、『近江日野 町志』80、『近江蒲生郡志』81、『仙台市史』82などにおいても紹介されている。
中井家における商いの歴史は、1716年(享保元年)生まれの源左衛門光武が創業したの を始まりとする。光武は、1734年(享保19年)頃から関東を中心に行商に出かけていた。
光武が行商を始めた当初は、近江から上総方面まで日野合薬を持って行き販売しており、
その後も15年間にわたり行商を続けた。その進出先は、安房・武蔵・下野から常隆・甲斐・
信濃にまでも及んでおり、売薬のみならず、太物や持ち下り商をも行うようになった。持 ち下り商品として、京都の古着などを仙台で売ることで収益を上げていた83。光武は行商で 蓄積した資金を元手に全国に出店を構えるようになり、これが中井家の商業の基盤となっ た。
その後も中井家は出店の数を増やしていき、その店舗数は東北から九州に至るまで出店 や枝店を合わせると20店以上も設置されるようになった84。その主な業態は売薬、産物廻 し、醸造業であったが、その他にもいずれの店でも金貸し、質屋を営んでいた85。各店舗は、
本家から派遣された支配人が統括していた。基本的には日野本家では商品を取り扱ってお らず、各地域に設けられている出店において商品の販売を行っていた。
中井家の出店の資本構成は、単独資本の場合と同業者と共同出資により出店する「組合 商内」による場合がある。中井家では、遠隔地に至るまで事業展開しており、交通が不便 な中、大量の荷物を運ぶ際に基地となる場所を設ける必要があったため、支店がこれらの 機能を果たしていた。支店を構える際には、巨額な資金が必要であった。そのため、他家 の同業者との共同出資をするようになったのである。各支店の出資者には重複はあるもの
78 末永(2000),39頁。
79 江頭(1965)。
80 滋賀県日野町教育会(1930)。
81 滋賀県蒲生郡役所(1922)。
82 仙台市史編さん委員会(1996)。
83 京都のものは、古着であっても仙台においては贅沢品扱いされていた。
84 宮本・粕谷(2009),62-63頁。
85 菅野(1929)によれば、近江商人が金融業を始めるようになったのには、江戸時代中期 に生産資金・消費資金の需要が増えたためであるという。生産に必要な資金、また消費に 必要な資金をも商人が調達したのである。貨幣経済が発達する中、土地経済に基盤をおく 江戸幕府、大名、武士、農民らが打撃を受けるようになり、金融業者の顧客となった。菅 野(1929),71頁。
の、必ずしも一致していない86。これらの共同出資によるいずれの支店においても中井家が 最高経営者として統率をしていた。
また、中井家の支店管理は、本家から支店・出店・枝店の現地支配人に経営権限の委譲 が行われていた。中でも、仙台元方の決算は、出店・質店・枝店の決算を含めたものであ り、これらは年度末決算によって本家で管理されていた87。
行商から始まった中井家の商いは、経営形態を店経営へと移行させた。江頭(1965)の 研究に基づき、以下に中井家の沿革について述べる。中井家が最初に店を設けたのは、1745 年(延享2年)下野国、越堀町においてである。その後、1749年(寛延2年)には、越堀 町の店を吸収する形で同国の大田原に店舗を設ける。当初は売薬を行っていたのであるが、
大田原店を構えるようになってからは太物をも販売するようになった。また、この時期に は質屋を営むようにもなっていた。1757年(宝暦7年)には、上野国小泉村に酒造場を設 けており、大田原店の枝店としており、共同企業の形態であった88。さらに、1765 年(明 和 2 年)には、磐城国白河や本宮においても大田原の枝店が設けられ、質屋・酒屋を兼営 していた。1769 年(明和6年)には仙台店89を開店し、この時期に中井源左衛門は長者番 付に名前が掲載されるほど、莫大な資産を蓄積するようになっていた。仙台店開業後は、
行商形態を完全に取りやめており、出店を全国各地へ構えるようになった。仙台店が開店 した同時期に、伏見・後野にも出店を構えた。1782年(天明2年)には相馬店90、1789年 頃(寛政元年頃)には今市店、1793年(寛政3年)には江戸店が開設された。
1788年(天明8年)には、伏見店の閉鎖と同時に伏見店の業務を担う形で京都店が開設 され、光武の三男である正治右衛門が経営を行った。京都店では、生糸、そして漆や紅花、
薬種、銀箔仲買の株をも取り扱っていた。また、同年には、武蔵の申立に醤油醸造場を興 しており、1790年(寛政2年)にも備後の尾道にも酒造業を始めた。
1806年(文化3年)には、2代源左衛門光昌により大阪店が開店した。ここでは、質屋
86 江頭(1965)によれば、仙台店開店に当たっては、「一時に数カ所もの支店を設け、大規 模の取引を開始しようとすれば、巨額の資本を要することはいうまでもない。そこで彼は、
知人数人に資本の参加を求めることとした。すなわち、仙台店については、同郷日野の商 人矢野新右衛門・井田助右衛門・脇村宗(惣)兵衛の三人と、京都の一文字屋杉井久右衛 門から出資を仰ぎ、結局五人組合の合資企業体とすることにした。」という。また、「伏見 店と丹後後野店の開設については、はじめ京都の商人二家(一文字屋九右衛門・大黒屋善 兵衛)と日野の商人三家(脇村惣兵衛・木村与左衛門・竹岡徳右衛門)の参加を得て始め た(・・・中略・・・)金立てと銀立てとの間に利害関係の衝突を生じ、日野商人三人の脱退を みるに至ったので、この機会に組織を改め、中井源左衛門・杉井九右衛門・寺田善兵衛・
矢野新右衛門の共同企業として、新発足することとなった。」という。江頭(1965),39-40 頁。
87 宮本・粕谷(2009),75頁。
88 江頭(1965),31頁。
89 仙台には中井新三郎という名義で出店しているが、これは名義だけで、当時の実際上の 主人は本家当主の源左衛門(光基)であり、店の運営には奉公人の筆頭があたる制度にな っている。当時は麻原長兵衛がその任にあった。仙台市史編さん委員会(2004),465頁。
90 磐城国相馬郡中村。
と金貸しを本業としていた。そして、古手・繰綿など大阪店で買い入れたものを東北地方 へ送り、東北産の生糸・紅花・青苧などを京都やその他の需要地へ送る業務を担当した。
仙台・伏見・後野・大阪の店舗において、関西と奥州との間で互いの地域の産物をやりと りしていたのである。また、羽前の天童店では、1806年頃(文化3年頃)から中井家が質 屋と油屋を兼営するようになった。陸前の石巻にも1806年頃(文化3年頃)に店を構える ようになった。仙台へ入る門戸に支店を開設する必要があったことから、後には石巻店の 対岸沿いに枝店となる港店を設けた。豊後国の北部に杵築店1806年(文化3年)を設立し、
質屋、油屋、酒造業を営んでいた。1813 年(文化 10 年)名古屋にも店を構え、呉服、太 物、綛糸、古手などを商い、桟留縞の販売をした。また、天保年間には、伊勢国津の南郊 矢野村香良洲に酒造場を設け、香良洲店を開店した。中井家は、明治初期に全店廃業する まで産物廻し、質屋、醸造業、金貸しを行っており、最後まで営業を続けていたのは京都 店である。
中井家が閉店に至る理由としては、封建制度の下、藩からの要請を拒むことはできず、
仙台藩の蔵元役に就任するようになり、仙台藩への貸金の破棄によって大打撃を受けたこ とが挙げられる91。上述したように中井家は仙台に進出して以来、長者番付に掲載されるほ どの豪商となった。中井家では金融業を営んでおり、農民および武士など、様々な階級に 貸し付けを行った。とりわけ大名貸92を行っており、薩摩藩・仙台藩・相馬藩・紀州藩や京 都の銀座などへ融資をした93。例えば、中井家の出身地である近江日野大窪町は、水口藩加 藤家の領地にあったが、中井家は藩の江戸邸と水口邸に費用を仕送り、優遇を受けていた。
また、進出先である仙台藩にも中井家が資金提供をしており、天保年間の凶年の際に、仙 台藩へ融資した記録がある。そして、1856年(安政3年)11月には仙台藩の財政が逼迫し ている中94、仙台藩の財政再建のために中井家が蔵元に就任するようになった95。しかし、
藩札引替事務の不手際により世間から不評を買い、藩から廻米売支配を拒否され、経営状 況が厳しくなったという。この事件を受け、中井家は幕末に仙台店を閉店96、それに前後し て全店閉店した。
第2節 中井源左衛門家による社会的活動
1 慈善動機による社会的活動中井家では凶作や火事の際に困窮者救済のために施行を行っていたが、これらは中井家
91 江頭(1965),107頁。
92 江頭(1965)は中井家が行った大名貸の特徴には2つがあるとし、名目金の形式であっ たこと、村方連印の借用形式をとっていたことを挙げている。江頭(1965),130-131頁。
93 京都御用所において、中井正治右衛門が仙台藩に金貸しをしていた。菅野(1954)。
94 土屋(1927),622-623頁。
95 蔵元に就任することにより、仙台藩の買米や塩専売の一部を引き受けるようになった。
また、荒地新田開発の事業までをも担当した。江頭(1965),88頁。
96 江頭(1965),89-90頁。