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1.想定した対地域社会活動諸形態の具体例

 先に述べた第1章3.において、対地域社会活動を捉える視点として四つの捉え方、すなわち第一 に自らの認知度を高める・賛同者を獲得する・地域社会のある側面を変革するという対地域社会活 動の成果、第二に活動の範囲、第三に活動の頻度、第四に活動の強度を捉えるという視点から、形 態Kより形態Pまでを想定した。これらの具体例を示そう。

形態K〔対地域社会活動主目的、全域ないし特定対象物向け〕対地域社会活動をその集団・組織の 主目的とし、帯広市内全域ないし十勝一円に向けて、頻繁かつ強力に取り組むものであつて、活動 分野が広いものと特定の活動に絞るものとがあり、特定の活動に絞られている場合、対象物ないし 舞台となる地域も自ずと特定されるとした。これに、確かに対地域社会活動が究極的な目的ではあ るが、対内活動も重要な位置を占めるものを加える。これらは別の形態とする方がよかった。

(1)RCO44「風土と建築を考える会」の諸活動

 帯広市内のみならず十勝全域を活動対象とし、その活動内容が複数の分野に及ぶ恒常的集団の例 である。略して「風建考」と称されるこの会の活動について、その数少ない会員の一人山田英和

(1947年帯広生まれ、山田建設工業社長)が「あしたの日本を創る協会」の機関誌『住民活動』No.62

(1989)に「十勝の大地に土着することを共有する一自らのライフステージを能動的に展開しつつ」

と題する一文を寄せている。この会がどのような人々によって、何を目指し、どのような活動を行

なっているのか、原文の意味を変えずに文章をやや圧縮して引用する〔同書10~13頁、()内引用

者注〕。

 戦後生まれの世代が地元の高校生活を終え、札幌あるいは東京などでの遊学生活を終えて、生 まれたまちに帰り、この地で生活をするようになると、現状に対する批判を持つようになってく る。昭和40年代後半の時代背景の中で仲間づくりが帯広市にも散見されるようになり、私達の前 身である「チーム・グローバル・アーバン」(昭和48年結成、RCO24)も結成された。私達の仲間 は建築士、土木技術士の集まりであったがために、私達の理想とするまちづくりを実現するには、

単に批判するだけでなく、行動を起こす中で初めて実現出来ることを、日常生活の中で実感して いた(10頁)。

 昭和60年(1985年)5月、前述「チーム…」、市内の若手建築家集団の「建築同好会」(NCIIO、

1970年設立)、青年のまちづくり勉強集団「北方都市問題研究会」、帯広市役所の計画関

係技術者の「研鐙会」のメンバー7人が集まって昭和60年5月 (1985年、山田らが20代後半の時、

そして筆者が相棒と帯広調査を再開した年であり、市役所のメンバーの一人と1978年調査以来年 賀状の遣り取りをしていたことで細い繋がりが保たれていた)この会を創った。このメンバーが

日常の業務を通して、人とのふれあいの中で声をかけてメンバーが少しつつ増え、活動が拡がっ てくると民間のシンク・タンクの研究員とか、地元紙の新聞記者、大学の助教授、弁護士、商工 会議所の職員などが入ってきて、(1989年)現在は約20名となった(11頁)。

 山田英和のこの一文には直接言及されていないが、もう一人のメンバーLU田哲(代表幹事、1947 年生まれ、山田英和と同じく日大理工学部卒、哲は建築学科卒、英和は土木学科卒、山田林業・現 やまりん社長)は、1990年11月北海道まちづくり功労者表彰にこの会が選ばれ、取材した東北海道 新聞の記者の質問に対し、この会が発足した経緯は「昭和60年に東京から音更〔町の鎮練(ちんね る)小学校跡〕へ移転した象設計集団〔沖縄県名護市の市庁舎を自然の風が通り抜けるようにした設 計等で著名〕の樋口裕康代表と出会ったのがきっかけ。(中略)彼らと交流を深める中で、建築物と は、その土地に生きる人たちの生活感覚を噛み締めたもの。いわゆる風土に根ざした設計でなくて はならないという理念を教えられた。そのために、建築の定義や専門知識、技能を持った製図、積 算班のほかに、魅力あるマチづくりを論議できる文書班を加え、スタッフ22人で結成。それぞれの 専門家が各セクションごとに責任と情熱を持って活性化対策に知恵を出し合っている」と答えた/

遠山筆、H90」L4、〔〕内引用者注。引き続き山田英和の一文を見よう。

 当初の具体的なテーマは、帯広市に景観条例をつくることを提起するため勉強会を重ねていく ことだった。また、市街地を分断している国鉄の連続立体交差事業が着手され始め、それに伴い 市の中心部においても大きな再開発事業が着手され始めた時だった。一時的なまちづくりの停滞

(帯広の森を百年掛けて再生しよう、北国の動物園を作ろうなど吉村博市長時代のまちづくりの 後の状態か)から、(田本憲吾市長の許で)一気に何か大きなことが起こりそうな雰囲気があった 時だった(筆者はそうした計画をその市職員冨岡浩二から聞いて夢物語としか思えなかった。が、

行政の絡む仕事は数年の準備期間が必要な模様で、今日それらの多くが実現している)。

 ところが、商店街の地盤沈下といった現象を一方にひきおこしていた。帯広商工会議所はその 現状に何らかの施策を講ずるべく、帯広魅力づくり会議を外部の約20名の有識者を招いて(風建 考の一部メンバーを加えて)昭和61年2月に設立した。その第一歩として、市内14商店街のうち の広小路商店街をモデルとした活性化プラン作成を諮問した。その会議は同年5月に報告書を提 出して任務を終えた。この経過の中で、会議に参加している私達のメンバーから、風建考で独自 の具体的なプランを提案する方が論議が進むという報告を受け、おせっかいであることを承知し ながら、昭和61年5月に「シ1・リバリ」(意味未詳)を提案した(それを容れて会議の報告書が作 成されたという、12頁)。

 その後帯広市と商工会議所は昭和62年度に商店街の活性化計画を実施することになり、基本計 画を「風建考」へ委託することとなった。(そこで早くも)昭和61年10月に広小路商店街の活性化 事業計画検討報告書を提案した。このプロジェクトを契機として電信通商店街、平原通商店街、

東銀座通商店街の活性化計画を依頼された(12頁)。

 自家用自動車の普及が一層進み、バスや列車の運行がやせ細り、広い駐車場を持つ郊外大型店の 進出が著しく、従来の商店街が顧客減にさらされる状況に対して、既存商店街の活性化は死活問題 となっていて、この時期帯広市のみならず各地で取り組まれていた事柄である。別表1のNF分野と 別表2の各年に生じた事項に見るごとく、1975年(昭和50年)市内中心部近くにイトーヨーカドー帯 広店開店、1979年帯広駅から少し南の住宅地にニチイ帯広店開店、1982年西2条南8丁目に建設さ れていた二八再開発ビルに老舗の藤丸百貨店新規開店、その後西帯広ニュータウンの出現に伴い 1980年代半ばからその白樺通りに郊外型店が続々誕生、1990年帯広駅南に長崎屋帯広店開店、他方 1987年には国鉄広尾線と士幌線が相次いで廃止されるという状況であった。

 帯広・十勝各地の商店街活性化ないし近代化計画には札幌に本拠を置く「E計画研究所」もコン サルタントとして受託し計画書を出していた。この点で風建考は会社組織ではなくまちづくりを標 榜する任意集団だったが、上に記された商店街以外からも注文を受けて計画書を出していた。図面 を引くことに長けた人々や関連法規に詳しい人などいわば異業種の人々が地元の危機感を背景に夢 を語り合いながら、ただし勤務時間外に、おそらく熱気を孕んで計画作成に取り組んだものと思わ れる。無論、そうした計画が実現するかどうかは、当の商店街組合の人々の判断と取り組みが不可 欠であって、計画はずいぶん修正され、事業完成までの間にさらに多くの努力が投じられていた。

 今日、平原通り商店街、広小路商店街、栄通り商店街など中心部商店街のほかに電信通り商店街 や緑ヶ丘商店街など住宅地内商店街もこの時期の再編作業の跡が見られ、そして郊外大型店はさら

に音更町木野地区、幕別町札内地区、そして帯広市内南郊にも次々と誕生しており、駐車場不足が 問題だった中心部商店街は閉鎖された店舗跡地が駐車場化して、その中心性をどう維持するかとい

う課題を抱えている。この問題に対して、すでに中年世代となって本業多忙な風建考に代わり、よ り若手の青年会議所OBらによる「十勝環境ラボラトリー」(RCO31)のメンバーらが「北の屋台」

計画を進め、国の補助を受け、2001年にその姿を現わそうとしている。帯広のような冬季寒冷地に おいて屋台という形態が可能である方策をすでに開発しており、さらに各地の屋台が現存一代限り

とされる中で、法的に存立出来る道も見い出している。

 ただし風建考は商店街にだけ注目したのではない。先の山田英和の一文をふたたび文意を損なわ ずに短縮して引用する。

 この地を初めて訪れて、これはヨーロッパの風景に非常に似ていると云う人が圧倒的に多い。

しかしながらそこに生活する人の空間は、この地域景観に対する配慮と、生産拠点としての住宅 機能を全く考慮しないといっても良いと思われる位、都市住宅の形態をそのまま農村に持ち込ん でいる。私達は、農村景観がそのまま生産資源となることは当然のことながら、人間として生き るための本源的な資源(体験農業や農家宿泊などグリーンツーリズムが想定されている)として

も十分に機能しうるものととらえ、新しい農村景観としての住宅づくりをと考え、この一連のプ ロジェクトを去年(昭和63年一原注)より開始した。これは農村のライフスタイルまで踏み込ん だ研究テーマであるため、新しいメンバー(主に農業者一原注)を加えて効果のある成果を得た いと思っている(12~13頁)。

 この成果は1991年十勝農業共済組合の機関誌「NOSAI」の6月号からi2回にわたり「嫁さん

喜ぶ農家住宅」という主題の下で連載されて行く/K91.5.15。また1993年には士幌町が始めた快適 環境づくり事業に任意で参加し、8戸の農家の「イメージ画」を作成して提出した/K94.3.26。

 このように、風建考はまさに十勝全域を視野に入れた対外活動を主目的とし、そのための地道な 対内活動がなされて来たのだった(この会の事務局がどこに置かれ、論議し図面を描く場所がどこ なのか、筆者にはまったく分からず、いわば謎の部分である)。そして短期間のうちに目に見える成 果を次々と打ち出した点では、年に1~数度集まって親睦を重ねる同年会、同郷会、同窓会の活動

とは趣がずいぶん異なるものだった。

 それは象設計集団との接触から始めて、市役所や商工会議所、いくつもの商店街組合、またいく つかの農家と直接接触しながら進められた。ただし、この会自体の会員数が「あかねぐもの会」の

ように劇的に増大することはなく、1994年3月時点で25人に留まっている。

 先の一文の中で山田英和は自らの組織「風建考」について、「私達は組織にこだわる運動はしたく ない」。「原則さえ共有できるならばアメーバ的に変化し、各々の部分がまた増殖していけばよい」。

「各々の日常的に生業としている部分において、その専門的な意識のどこかに常に風建考が課題とし

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