ら み、
の
発 生
を み よ
@ と し 泊, Ⅰ
研 究
v ブ ヒ
ャま
稿 拙
「 宇
佐 八
幡 一
義 人
現
に関
・ す
る
考
察釜 」)
102
続紀を初見とする︒即ち ︑友香椎宮 ‑ ︑奉レ幣以 吉二新羅 元 礼文 状 ‑ に 八幡宮が地方的 信 日の条には大将軍 東 戸叶戸を賜っている
し ︑ 乱 平定の翌十三年三月七四日の条には 10 三九 八幡信仰の二元的世 格 てみたい︒
㈹原田敏明先生苦﹁日本宗教史 繭 ﹂ ㈹ 謡界 五七 ノ六 ㈹西日本史学三号 ㈹宗教研究一四二号 ㈹宇佐史談二九号 ㈹同上 ㈹ 旋と 伝説 一 0 ノ三 ㈹宗教研究一玉 セ号 ㈹同上 ㈱宇佐地方史研究全編﹁宇佐 史 研究﹂一二五号
先学が指摘しつく
いう点について ふれ
とになるが︑その場
経典であることは 特
ない神宮に対して 経
幡 神の本来の性質に
立 以前に神宮寺に類
られる︒︵ 2 ︶さて然ら
あって︑弥勒禅院 即
されたのは神亀二年正月十 セ 日であり︑
林巴
︑﹁日足 林 ﹂で﹁ 日 ﹂
と 仏教がどのよ う
孝二八幡神宮 養二宿構 ‑ 也︑者 十八人︑封戸
‑ 四 O馬 五匹 ‑ ︑ 又令レ造き 一重播一区 ハ
104
問題として新しく起つて来るのである︒
佐川の傍である 席
ていることを知るの
を 省みる必要がある︒ ︵ 4j ︶ ﹁ 韓 ﹂の借字で実
後になっているし︑
の 地名は多く半島的
色彩をもっている︒
居住地と覚しぎ 地 名の多くが残っている︒ ほ ついても既に岡為道庚や ︵京都郡︶
︵ 8 ノ い る所である︒
左に ついては︑ 既 ︵ 騰 ︶ ︵ 9 ︶ ここでは省略する︒
︵Ⅱ︶ している︒
四一 八幡信仰の二元的性格
工 O5
任 豊後年 ︵下略︶
サま
︵Ⅱ︶ ぅと 思われる︒
の ︵㏄︶ 図に
てい
郡
領し
氏も
大 倉 初期の作であろ
主命に出ていて︑
る ︒
済 的にみれば︑ 後
て ︑所領の切替を
神 よ り宇佐に入ったよ う に口碑には伝えられ︑ 速見郡大神村には 大神朝臣
良 臣
従 五 位 T
大野
郡 官
大 名
領 職
庶幾・ 従 六位下・ 惟基
弘仁二手 卯 年三月五日誕生︵中略 ︵中略︶大神朝臣従四位下︵中略︶ ︶ 承 天安年セ 二神
被年
神民と豊前大神
氏族ではないか
それは大野直
行天皇を祀った
これ等の事実
神 雄大野系図に 氏は別個の家系 と思われる︒ 大 郡の総社であ
神社で奈良時代
は 大神民が既に
あらわれる︒ であるといわれているが︑ る 深山・ 上津 ・浅草八幡︵
に八幡神が相殿に奉 済 され
旧 氏族制時代 よ りの豪族で あり景行天皇九州征服説話
大野︶ 城原 八幡︵直入︶の ている︒︵ 3 ︶Ⅰ
豊後大神氏は大野直入郡 地 ㏄ 四二@ の 土嚢として︑活動していた
何れも縁起に よ ると︑もとは景
のあることを物語る ︑ 従って 大
これ等は関連する宇佐地方の古
田︵ 町 ︶等に非常に多くの 禰生 式能
糞 垂の征服説話は三世紀から 六
補任は宇佐地方の大和政権の勢力
八幡信仰の二元的性格 代 住居と に古墳時 世紀に 亘
圏 に入 っ ︶・下毛郡池永・日東邦 高 ︵ トれ ︶ 代の遺蹟が存する︒ 出る宇佐達彦の宇佐国造の
河野省三氏は下毛宇佐郡を
四三 騰 7
光 政 最 力 た
て れ 敗 姻 ︵㎎︶ いては 珍氏 との 婚 そ
っ な な
の その
@
より
たとは考えられない︒
がで きないが︑宇佐系図や詫 宜集 地方寺院の縁 な づける点であるが︑宇佐の場合において 神社の所在について書紀一書の記事を除い 建築学者は本殿左の北辰社を以てもとの神 ましの社であるなどと伝えている事など 老 は ︑宮司の﹁国造﹂
ては全然現われて来
社であろうという 事
えると︑神社がなか
起などによって想像 博士は﹁地方的豪族
ら︑ 此の制度は畢 寛
の 祭主に国造の称を
いつている︒
五三四年︶仏教が セ 世紀初め︵六四五年︶大化改新が行われる︒ この間の事情は不明史料にもあらわれる︒
な ﹂︵ い 2 4 ︶ といつてい
想定しておられ
この宇佐 国 の
で宇佐の場合も
なるのではある まいか︒ ︵ 2 ︶ るが︑更に 族長は或 蒔
その女 茜が
㏄
られる︒
一は
浅薄による 虚 聖威 であり︵ 青 3 2︒︑ ︶ 一は
華厳によ る
法鏡青 である︒ 隆 寺の様式が入って山の山岳仏教を開い
代 ではないかと思われる︒
八月朔日 法 蓮は宇佐 公 姓を 賜っている︒
現 社地に造営した事になるのである︒
教
交渉史論所収一一三頁 ?一一四頁︶
新
三|六︶
㈲辻善之助博士甘木仏教史の研究六八頁八幡信仰の二元的 桂糟 政府に認められた 事
による仏教と八幡 信 仰 とが別個の存在であった事を暗示している︒
四五
109
堆
の
孫石槌 m
たと伝え
人物と
は発亙 施僧浅薄豊前回 野 四十 町 ︑褒 聚術也
︑
︵ お ︶ いる︒ 野の子佐野は った ︒廿 五日の条に
110
㈲小野玄妙 氏 前記 窟丈 ㈲石清水丈吉志二八三頁 所牧 の 大分県文化財 と 一致する ょ ぅ である︒
ハ 0 頁 ︶ 一一一︶
㈲同上
㈹西日本史学三号所収 ㈹大分県史料 セ巻 小山田文 蕃 ﹁解題﹂参照 ㈹神領宇佐大曲宮 として信仰 さ ものが奈良 時
生後国司一党 表 ﹂
︵大分市 史 ︶
㈹宇佐八幡宮小山田家系図 ㈹別府市原図大野彰一氏 蔵 系図
⑰ 其 好和利 氏 ﹁謡曲 と秦氏 ﹂ ㈹大治四年三月十六日 御 装束 所 検校 珍 友成解状
大治五年四月十四 且 宇佐官公文所問注 申詞記
保延二年十二月五目 御 装束 所 検校 珍 友成田畠売券
クク
十二月十五日本同素因 門解ク 三年二刀十八日宇佐官公文所問注中的 記 口 + ハ
三八幡神と比
洋神の 政治的制度をみ
任じている︒改新の詔勅には郡司に関して︑
口七 八幡信仰の二元的性格 % 安二年二万十日行装束 所 検校大神貞女解決
保元元年十月二十七目 ク
大エ奉安利中伏 文治二年九月十八目 ク ﹂︵別府大学紀要四・五集︶ ぬ要 口号︶ ㈱焚刑光夫 氏 前記論文
の 河野有三尺﹁宇佐田﹂︵富山房国史辞典︶
囲 牟田康夫氏﹁貴行天皇 と免抹 の年華﹂前掲 ㈱津田博士 著 ﹁上代甘木の社会及び思想﹂ 四 0 八 頁 ㈲石清水丈吉 禰 助手 緩 起及び託宣 集
㈲畑生氏系図及び宇佐郡横山村夫 譚 手紬 起
㈱榎田
克 義兵﹁宇佐郡十二名勝詩巻﹂色所収︶ ︑ 堀 博士﹁前掲﹂五八頁参照 いる︒
⑭託宣
集霊巻的 大神小山田系図
技工書算︑ 為 主政 主帖
あるが︑宇佐郡においては宇佐 氏 ではなし
たのではないかと想像される︒
扱われているが︑ 続記 天平勝宝元年十二
うない︒宇佐 氏 が大化の改新後山地へ入り
に 於ける山岳仏教の発生とその事情の一致
目しなければならないことである︒
に 平嶋 勝 氏を代表とする帰化人の宗教︑ そ ︵ 6 ︶ 土豪であり棄民と婚 籍 関係にある大神民 が
仰 ︵それは秦の神信仰かも分らない︶を 生
して︑豊前宇佐小椋山上に宇佐官の造立と
し ︑輔助手別当に宇佐 氏 の浅薄を︑八幡宮
氏を以てしたのである︒
神と 此洋 神と二つの性格を持ち︑ 北 洋 神
として奉祀されたのは正史にはみえないが 心とする宗教であったかも れは豊前田河郡の新羅明神 守る博康にい う ︵源平盛衰
み 出し︑この八幡神と宇佐 ︵ 47 ︶ なる︒地方史料に よ ると 神
の 主神に大神︑禰宜豊干 嶋
は 主体的には 現 わされず︑
︑託宣 集 によると天平三年
四八
︵ⅠⅠ︶ に平嶋 氏 であったらしく︑
して︑政治的に抑圧してい
月甘 七日の条に始めてみら
︑山林仏教と結びっいた 事 ︵ 3 ︶ するものがある︒しかるに ︵ くリ ︶ の 現世利益を施した事は注
112
つ わ 族 ぅ 八
ると
( り
来てをにの た八株
連 祭の る 旧 日
。 と し
描
く 保
の 事 持
被 き
の と
113
と 社会に対する 慰援 に外ならない︒
¥佳良との融合から 始 つたとい
新しい宗教としての る 強圧も加わっていたことが想像される︒ ︵ 舟 Ⅰ︶
敬は八幡神そのも て 競望が行われて ぃ
口仁曲善硅
新の政策にの つ
何 と八幡信仰の融和
菩薩としてこれ等 二 幡 信仰が独自の立場
つ たのであろうか︒
ね ︑ 翌 二年には 大
置 をもつていたとい
正月 廿セ 目安倍忠広
ながち根拠のない事ではあるまい︒
と 五 O 14
斑文化﹂では
飛鳥 期 にとっておられる︒
㈲ 繍 粗大宝三年九万二十五甘の条に よ る︒
﹂第二章
中行事注文案し
である︒
三号︶
㎝拙稿﹁八幡社の伝播﹂︵宗教研究 一 三七号︶
愚 重説︶ 中 の 端津 姫神 4 玉依姫︵ 詫宜集 ︑申 せ の 社記 ︶ 説 ︶
115
に 地 平