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図 国指定等文化財の分布

資料編【別表 1】参照

※大通寺の配置図の詳細は 56 頁に記載

96.(国)史跡 北近江城館跡群 下坂氏館跡・三田村氏館跡 90.(国)無形民俗 長浜曳山狂言

91.(国)無形民俗 長浜曳山祭の曳山行事

1. (国)国宝 都久夫須麻神社本殿 2. (国)国宝 宝厳寺唐門 6. (国)重要文化財 宝厳寺観音堂 10.(国)重要文化財 宝厳寺渡廊(低屋根)

11.(国)重要文化財 宝厳寺渡廊(高屋根)

12.(国)重要文化財 宝厳寺五重塔 92.(国)名勝・史跡 竹生島

93.(国)史跡 小谷城跡

7. (国)建造物 大通寺本堂 8. (国)建造物 大通寺広間 9. (国)建造物 大通寺含山軒及び蘭亭 97.(国)名勝 大通寺含山軒および蘭亭庭園

99.(国)名勝 慶雲館庭園 13.(国)建造物 辻家住宅

14.(国)建造物 田中家住宅

15.(国)建造物 西徳寺本堂

16.(国)建造物 五村別院本堂、表門 94.(国)史跡 玄蕃尾城(内中尾山城)跡

95.(国)史跡 古保利古墳群

98.(国)名勝 浄信寺庭園 100.(国)選定保存 邦楽器原糸製造

ア.建造物等

■国指定等文化財

長浜市には、現在、国指定文化財が 21 件、国登録有形文化財が 16 件所在する。

このうち、中心市街地の中央に位置する大通寺には、重要文化財として「大通寺本堂」「大 通寺広間」「大通寺含山軒及び蘭亭」の 3 件が所在している他、「大通寺含山軒および蘭亭庭 園」は国の名勝に指定され、真宗王国と言われる湖北地方の核として位置している。

また、琵琶湖に浮かぶ「竹生島」は国の名勝・史跡に指定されており、国宝として「都久 夫須麻神社本殿」「宝厳寺唐門」の 2 件、重要文化財として「宝厳寺観音堂」や「宝厳寺渡 廊」等の 4 件が所在し、神を斎く島として古くから人々の信仰を集めてきた。

●真宗大谷派長浜別院・大通寺

浄土真宗の中興の祖と仰がれた蓮如上人は、他力念仏の教えを広げるため全国各地を遊 化した。近江国はその布教活動の最大の拠点であったうえ、元来信仰心の篤い土地柄でもあ ったため、蓮如上人の教えはまたたく間に近江全域に広がった。中でも、坂田、浅井、伊香 の湖北三郡は、真宗王国とよばれるほどまで教線を広げた。

大通寺の基礎は、戦国時代にまでさかのぼる。本願寺の顕如・教如と織田信長が戦った石 山合戦に際しては、湖北の門徒たちは、湖北 10 ヵ寺を中心に本願寺に従い信長と戦った。

その際、長浜町の有力者である町年寄が、本願寺支援の相談を行うために集まる場所として

「総会所そ う が い じ ょ

」を設立したのが、大通寺の基になったといわれている。本願寺と信長の和平の後 も、教如は徹底抗戦を主張して諸国に檄を発するが、教如への帰依が深かった湖北の門徒は これに応じ、教如とともに戦った。教如は、関ヶ原合戦頃から急速に徳川家康に接近し、そ の信頼を得、慶長 7 年(1602)には本願寺を京都烏丸六条に分立し、大谷派本願寺(東本願 寺)を興した。当然、多くの湖北の僧侶・門徒がこの動きに従っている。

これにともない、総会所は、当時城主が不在であった長浜城内に移されていたが、このと きから「無礙 智山ち ざ ん大通寺」と号する寺院として新たに発足した。その後数度の移転を経て、

慶安 2 年(1649)に彦根藩主井伊直孝から、現在地に 80 間四方に及ぶ寺地の寄進を受け、

境内の整備が進められた。

大通寺発足当初は、本山より僧が派遣され、三郡の有力末寺が輪番に出仕勤行していたが、

湖北教団の重要性を重んじた東本願寺は、大通寺の住職に、本山である東本願寺門主の子、

すなわち次の門主の弟である連枝れ ん しが就くのが通常となる。また、彦根藩とのつながりも深く、

井伊家から住職に入ることもあり、井伊家から歴代住職の内室を迎えることも多かった。ま た、大通寺と長浜町民の関係も非常に深かったことが、町年寄の一人であった「吉川三左衛 門家文書」からうかがえる。大通寺伽藍の建築などの際には祝儀の上納や人足の参加などが

な障壁画が描かれ、岸が んをはじめ、狩野山楽、狩野山雪、狩野永岳、円山応挙の作とされて いる。また、大通寺と井伊家の深い関係を示すものとして、大通寺の養女に入った直弼の七 女・砂千代 の調度品(特に化粧具等)などが多数残されている。

市街地のほぼ中心部に位置し、大規模な伽藍を有する大通寺とその門前町は、湖北地方の 真宗信仰の中心であるばかりでなく、長浜の歴史文化をもっともよく象徴する代表的な地 域文化財である。

●神を斎く島・竹生島

琵琶湖八景の一つ「深緑竹生島の沈影」として名高い竹生島は、琵琶湖沖に浮かぶ姿を湖 岸の広い範囲から望むことができ、古くから神を斎く島として人々の篤い信仰を集めてき た。この竹生島は国の名勝・史跡であり、国宝として「都久夫須麻神社 本殿」「宝厳寺ほ う ご ん じ唐門」

の 2 件と重要文化財「宝厳寺観音堂」「宝厳寺渡廊(低屋根)」「宝厳寺渡廊(高屋根)」「宝 厳寺五重塔」の 4 件が所在し、歴史的な建造物が多く残されている。

宝厳寺は竹生島にある唯一の寺である。承平元年(931)の「竹生島縁起」によると、聖 武天皇の勅命を受けた行基が、天平 10 年(738)、小堂に弁財天像を安置したのがはじまり と伝えられている。本尊の弁才天は、船着き場から続く急な石段を登った所にある弁才天本 堂に安置されている。西国三十三所観音霊場の第三十番札所でもあり、多くの信者が訪れる。

唐門や観音堂などは、秀吉との関わりが色濃く感じられる。豊臣秀頼が京都の豊国廟から 移築させたと伝わるもので、桃山文化の豪華絢爛な様子がしのばれる。唐門では、桧皮葺の 屋根や牡丹の彫刻などが目を引く。また、観音堂と都久夫須麻神社をつなぐ渡廊は、秀吉が 朝鮮出兵の折りに使った御座船「日本丸」の廃材を利用して建てられたところから、舟廊下 とよばれている。

観音堂より舞台造で架けられた舟廊下を抜けて辿り着く先には、湖水を支配する浅井姫 命を祭神とする都久夫須麻神社がある。琵琶湖を見渡すように建つ本殿は、桃山文化の頂点 といえる傑作を秀吉の子である豊臣秀頼が移築したもので、狩野永徳・光信が描いたとされ る襖絵や天井絵などが残り、華やかな装飾が施されている。

【大通寺の伽藍群(右から山門、本堂、広間、庫裡)】

【宝厳寺唐門(手前)と観音堂(奥)】 【宝厳寺渡廊】 【都久夫須麻神社本殿】

●慶雲館とその庭園

慶雲館は明治 20 年(1887)、明治天皇・皇后の京 都行幸啓の際、行在所として浅見又蔵によって建て られた木造 2 階建ての近代和風建築である。浅見又 蔵は浜縮緬の製造販売で成功し、滋賀県第一小学校、

第二十一国立銀行の創設、長浜港修築や太湖汽船の 設立に関与した実業家で、後に長浜町長も務めた。

当時、現在地の西隣に長浜港、北隣に長浜駅があ り、太湖汽船から鉄道への乗り換えの際の休憩所と

して好位置であったことから、浅見が建設を計画、約 3 ヵ月の工事で完成させた。玉座が設 けられた 2 階からは、琵琶湖と伊吹山が一望でき、当時の新聞には「美麗壮観同地に冠たる ものなり」とある。行幸の後は浅見又蔵の別邸として使われ、政府高官や皇族などを迎える こともあった。昭和 11 年(1936)に長浜町に寄贈されて町の会議場になり、昭和 18 年(1943)

に長浜市となって初めての市議会もここで開かれ、昭和 34 年(1959)からは市営の結婚式 場としても使われた。本館は昭和 60 年(1985)に大改修が行なわれている。

国の名勝に指定されている庭園は、行幸から 25 年後の明治 45 年(1912)、二代目浅見又 蔵のときに再整備されたものとみられ、灯籠など多くの石造物が配されている。門から本館 に至る前庭は露地風の平庭で、本館南の主庭は池と築山からなる。池は今は涸れているが、

庭各所に巨石が用いられている。現在、庭園は一般に公開され、本館は盆梅展の会場として 使われている。

●小谷城跡

小谷城は標高 495mの小谷山に築かれた山城で、

大永 3~4 年(1523~1524)頃、戦国大名である浅井 亮政が築城したと考えられている。

小谷山の前面には虎御前山・山脇山・丁野山が位 置し、西に高時川が流れ、背後に伊吹山系が控える など、小谷城は自然の要害に囲まれた山城であり、

また城下には北陸と東海を結ぶ北国脇往還、南東約 17km に中山道が走るなど交通の要衝でもあった。

小谷城跡は、小谷山に深く切り込んだ清水谷とその両側の尾根、及び小谷山々頂大嶽にあ り、その構造は、本丸を中心とする主郭と居館のあった清水谷、それらを守るように配置さ れた出丸・金吾丸・大嶽城・月所丸・焼尾丸・福寿丸・山崎丸の独立した砦からなる連郭式 の山城となっている。

【小谷山全景】

【慶雲館とその庭園】

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