N 出 産 2 時 間 後 本 日 9 時 頃 無 事 に 生 ま れ ま し た 陣痛から4時間の超安産です。
性 別 は メ ー ー ン ズ でした1
団子三兄弟の母としてがむばり まず=
霧
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#弱 46
える。それは「長期の記録」より「現在の観察」に焦点化 しており,文字から電子映像へというメディアの変化と 対応している。東係夫妻の日誌においても夫妻の間での 情報の共時的共有が読み取れるものの,携帯写真メール による実況性を持った映像と控えめなメールの説明文の セットによる現場の共有は,より広範囲の人々の間で起 こり強力である。それが発達観や発達の現場にもたらす 意味など,心理学的に今後検討すべき興味深い課題も多 い。
このように,時間および空間的にミクロからマクロま で可視化されないことがないほどの映像の増加は,映像 が あ っ て 当 た り 前 の 世 界 を 生 み 出 し て い る 。 こ の 流 れ に,明らかに発達研究は遅れをとっている。和洋学術雑 誌検索サイトで学問領域を超えて,「写真」と「子ども」
関連のキーワードをいくつか入れると,圧倒的な量で医 学論文がヒットする。子どもの身"体に関する医学的論文 が,ミクロからマクロまで身体の見えない内部や動きを 可視化した映像データや証拠映像で記述されていること を意味する。医学と心理学とでは利用価値のある映像メ ディアや内容に違いがあることは確かだが,他にも芸 術,スポーツ,保育,幼児教育,文化人類学などの分野 に比して心理学分野の研究の映像メディア化は乏しい。
しかし,発達心理学会の20年の歴史や,30年前から の 筆 者 自 ら の 研 究 ( 斉 藤 ・ 武 井 ・ 荻 野 ・ 大 浜 ・ 辰 野 , 1981)を振り返っても,映像への依存度は大変高い。と ころが,図版にしる写真にしるビデオにしろ,映 像メ ディアは表立って論文に掲載されたり発表に用いられる
ものとしてではなく,データ収集や分析のための道具と して役立てた後には葬り去るものであった。そして映像 の根源を断ち切り,最終的に作られる言語メディアによ る論文は,「新しい現実」の姿とみなされる。しかし制 約されたデータから組み立てなおした新たな現実をこと ばで語ることには違和感が伴う。その違和感は言語化に よる論理だけではなく,可視化による直接的な把握を求 め る 人 の 傾 向 に 基 づ い て お り , 実 際 に 現 場 で 得 た 洞 察 が,言語化の論理で欠如してしまったことに直感的に気 づかせてくれるからだと思われる。それでは,この直感 の導く「映像が,言語化による論理を超えてまで伝える ことができること」というのは何なのだろうか。
4.映像メディアによる発達研究の可能性
Figurelは,観察場面の「現実」の「映像化」とその後 の 処 理 に つ い て , 左 右 で 異 な る 道 筋 を 描 い た も の で あ る。右側の研究者の分析行為は,現実から論文にするま でに介在する様々な手続となり,現実と論文の読者(当 該の研究者自身も含む)との距離化を促進し間接化する 作業と見なせる。それに対して図の左側には,発達心理 学の方法として今後期待される映像メディアによる研究 の表現について比較のために書いたものである。それは 編集された映像メディアが中心となりそれに言語的説明 も併用したマルチメディアによる研究表現である。この 場合は,現実と視聴者の間には,映像化とその編集,解 説のための言語化があるだけであり,編集に掛ける時間 は か な り 必 要 で は あ る が 現 実 と 視 聴 者 の 距 離 は 短 く , よ
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発 達 心 理 学 研 究 第 2 0 巻 第 1 号
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視聴者・読者
Figurel映像メディアと街聴毒,論文と読者における,現実との距離の差
映 像 発 達 研 究 法 の 可 能 性 47
り直接的になりうる。
距離の長短は時間の長短ではない。現実と視聴者・読 者の距離は,現実の質の変容の数である。論文の場合は 映像化と,言語プロトコル化,統計分析,論文の言語メ ディア化の4つ,映像メディア中心のマルチメディアの 場合は映像化と編集の2つの変容が介在する。現実事象 は,ことばにしる映像にしる何らかのメデイアに変換さ れるとき,その変換によって変容することは避けられな い。変容が多いほど根源の現実やそこでの洞察から離れ ていく。この変容は撮影される側の観察対象者など,自 身の現実の体験が,研究者という他者によって映像化,
言 語 化 さ れ る 立 場 に お い て 際 立 っ て 感 じ ら れ る こ と だ が , 対 象 者 に 限 ら れ る こ と で は な い 。 映 像 化 , 言 語 化 す る作者としての研究者自身も,現実の中では観察現場の 当事者であるため,その場の経験の一部を撮影によって 1次的に標本化し,さらに編集作業で2次的に標本化し,
他 の 文 脈 で そ れ を 視 聴 す る 時 に は , 現 場 で の 体 験 と メ ディア化された標本の差異に樗然とするはずである。そ の差異は現場での撮影,現場を離れての編集,その後の 視聴場面への参加という全ての過程で生じ,そのつど変 化するような違和感である。映像メディアですらこの状 態では,言語による論文が元の現実を忘却させるほどで あ る こ と も 当 然 で あ る 。 自 身 の 言 動 が 雑 誌 , 新 聞 な ど の 記事になった場合や,他者のことばで間接引用表現され るなど間テクスト化された時に,そういった違和感を経 験した人も多いのではないだろうか。それは,過去の事 実とメデイアに媒介された記述が,記述制作者の意図の 有無によらず異なっているというだけの単線的なことで はなく,過去の現場と現在の現場自体の変化や,自分自 身の変化も反映しているという複線的な要因の絡み合っ た結果である。時間経過と意識の変化がある限り,当事 者 に と っ て 現 実 と 標 本 の 間 に 埋 め よ う の な い 距 離 が 生 ま れ,同一性が損なわれる感覚が伴うのは避けられないこ とである。それは,この違和感が発生する背景に現実と メディアによる標本とを同一化し,現実がメディア化さ れても温存されるという素朴で陥りやすい先入観がある
こと,それ自体もなかなか自覚しがたいからである。
こ の よ う に 観 察 研 究 で は 現 実 事 象 と , 映 像 化 , 言 語 化 に よ っ て 記 述 さ れ た こ と に は 複 数 の 経 路 で の 距 離 が あ り,棚酪が生まれうる。観察研究という媒介行為が,単 に現実の再現を目指すのではなく,何らかの研究目的を 意 図 的 に 追 究 す る も の で あ る こ と が , 結 果 と し て の 言 語 記述や映像メディアに反映されているという意味では,
この棚酷は必然である。しかし,研究者自体や対象者が そのことに気づかず,メディア化した現実を,現実その ものの断片とする素朴なメディア観を持つ場合には,映 像化,言語化された標本と現実の棚鋸から学ぶことがで きず,混乱に陥ることは必至である。
こ う い っ た 事 態 の 解 決 に は , 映 像 化 , 言 語 化 と い っ た メディアによる現実の変換の意味をよく理解すること,
すなわちメディアの読み書き能力,メディアリテラシー が必要である。ことばに関しては,現実をそのままこと ばで表現できないこと,表現によって伝える意味が変化 することなどで気づかれることが多いが,特に現実と同 一視されがちな映像メディアに関してはリテラシーの意 識的な学習が必要だと思われる。この学習には映像の視 聴 だ け で は な く 制 作 体 験 も 大 き く 寄 与 す る 可 能 性 が あ る。(斉藤,2007,2008a,2008b,2009)
4‑1.映像メディアによる研究発表がなかったことに よる弊害
今まで,映像メディアによる研究表現がなかったこと に よ る 弊 害 が あ る 。 研 究 者 が 撮 影 者 と し て 現 場 で 得 た 洞 察 の か な り が , 論 文 化 の 過 程 で 捨 象 さ れ 忘 却 さ れ る 。 言 語メディアから伝わることと,映像メディアから伝わる それは違い,メディアによる異なる効果がある。映像か ら導いた結果を言語メディアのみで公表した場合,その 研究のもたらす情報はあくまで言語的な「新たな現実」
であるため,もとの映像データの持っていた特性の一面 を言語的に要約したものとなり,映像メディアの持つ情 報への接近の道が絶たれている場合は「現場の現実」に も戻れず,論文の読み手がイメージ化できない限りは,
言語'情報の確認を映像で行うことは不可能である。もし その関連を探究しようとすれば,読み手は独自に同じよ う な 現 実 を 観 察 し , 映 像 デ ー タ と す る こ と が 必 要 に な る。
そ れ は 研 究 の 繰 り 返 し で あ る 。 全 て の 繰 り 返 し で は な く部分的にでも,過去の研究内容が作り出した「新たな 現実」から「現場の現実」が良く伝わらないという理由 で , 仮 説 検 証 上 の 正 当 な 理 由 か ら で は な く , 繰 り 返 さ れ る可能性があるということだ。これは研究の発展にとっ ても,さらに新旧どちらの研究にとっても不幸なことで ある。特に,文化人類学的な希少フィールドでの映像で はなく,身近な子どもの映像化であれば,アクセスは容 易であるため,言語的情報あるいは統計情報の結果しか もたない論文から苦労してイメージ化するよりも,現実 の子どもで検証する方が生産的とも考えられる。
こ の よ う に 書 く と , 先 行 す る 研 究 で 映 像 を 公 表 し な か っ た た め に , 後 続 す る 研 究 が 無 駄 な 繰 り 返 し を し て い るようだが,決してそうではない。技術の進歩は新規な 研究方法を可能にするが,それは単にデータ収集法や分 析法だけではなく,研究発表とその後の参照行為までも 含むと考えることが妥当である。したがって時代の制約 で映像メディアを結果として公表しない,出来ない時代 があり,その制約が解除された次世代が,映像メディア によって現場の洞察を含めて十分に発表されなかった過 去の研究課題を,新しい映像メディアという方法で新た