ご
は︑この隣りにあるもので︑地輪の高さ三ニセソチ︑幅一七セソチ︑水輪の高さ九セソチ︑径一六・五セソチであ
⑥ 一石五輪塔
る︒火輪は高さ一ニセソチ︑軒幅一六・五セソチ︑軒の厚さ四セソ
チ である︒風輪は高さ六・五セソチ︑径=二・五セソチ︑空輪は高
さ一〇セソチ︑径=一・五セソチで︑一や二と比較して地輪が高
く︑しかも底が整形されていないため︑直接土中につき立たせたも
のと思われる︒造立は室町後期のものと思われる︒
4 万 年 寺 跡 の
一石
五輪
塔
甲山町大字川尻
三川ダムの小島に多数の中世の古石塔が集められている︵後述︑一六七頁︶
が︑これはその中の一基である︒全高九七セソチの花嵩岩製で︑地
輪の高さ四八セソチ︑幅二六セソチ︑水輪の高さ一五・五セソチ︑
図202万年寺跡の一石五輪塔
図203 同(地輪拓影)
幅 二六・五セソチ︑火輪の高さ一七セソチ︑幅二六セソチ︑風輪の
高さ六セソチ︑幅一八・五セソチ︑空輪の高さ一〇・五セソチ︑幅
一八・五セソチである︒各輪の四面に梵字が浅く陰刻され︑地輪に
刻銘がある︒
口固口口口口口禅定門
吸 因因団一丑六月四日
河
尻住人林弥二即厨口口
こ の 種 の 塔 が甲山町大字赤屋の久保に︑花・・岡岩製で全高七三.五 セ ソチ︑地輪の高さ三五センチ︑水輪の高さ一一セソチ︑火輪の高
さ九セソチ︑空風輪の高さ一八・七セソチのものがある︒この一石
五 輪
塔は︑三原市西町の大善寺の無縁墓の慶長十七年銘の一石五輪
塔︵﹃三原市の石造物﹄七一頁︶と形式が似ているので︑恐らく慶長前後の造立と推
定される︒
なお︑林氏は川尻の地を領して︑同地の松岡城及び赤城に在城し たと言われている︵﹃芸藩通志﹄﹃備後古城記﹄︶︒文明五年︵一四七三︶の﹁御頭文
第1章 太田荘の石造遺物
帳﹂に﹁長禄二年︵一四五八︶林肥前就昭建立﹂︵竃︶と記されて
おり︑川尻の聖神社旧蔵の棟札にも﹁当社︑慶長年間再造の棟札
に︑林肥前就長とあり⁝⁝﹂︵﹃芸藩通志巻百七﹄︶と記されており︑本塔は︑
当時勢力のあった林氏一族の墓塔と思われる︒なお︑この外に一石
五 輪 塔 が 残 欠を含めて一六基ばかりが︑他の塔と共に並んでいる︒
5
慈徳院墓地の一石五輪塔
世 羅 町 大 字 重 永
重
永 の 慈 徳院墓地の歴代僧侶の無縫塔にまじって本塔がある︒
現 高八一セソチで五輪塔の地輪の上に立ててある︒花山岡岩製で︑
正
面を火輪の軒の部分から地輪部にかけて平らにけずり︑水輪部辺
図204慈徳院墓地の一石五輪塔
りに地蔵菩薩坐像を刻出している︒
地
輪部は高さ四六セソチあり︑三行にわたり銘文の跡が見られる
が 定 か でない︒室町後期から末期にかけての造立と思われる︒
6 照 善 寺 境内の一石五輪塔
甲山町大字宇津戸
照 善寺の本堂裏にあり︑高さ一一=セソチの花山岡岩製である︒
地輪の高さ四三センチ︑幅は上端部二ニセソチ︑下端部二三セソ チ で
底部は不整形である︒水輪は高さ一三・五セソチ︑径一=・五
セ ソチ︑火輪は高さ一五・五セソチ︑軒幅二一センチ︑軒中央の厚
さ五センチ︑上端の幅一〇・五セソチである︒風輪は高さ六セソ
チ︑径一三センチ︑空輪は高さ一三センチ︑径一ニセソチである︒
各輪の正面に種子の痕跡が見られ︑地輪部にも銘字の跡が見られ
⑥ 一石五輪塔
図206 照善寺境内の一石五輪 塔
るが︑石質が荒く風化も進んでいるので定かでない︒
照 善寺の前身は︑同寺裏山にある円寿山城主の菩提寺円寿寺で︑
本 塔 は開基竜谷︵天正頃の人と伝う︶の墓ではないかと思われる︒
7長尾の一石五輪塔
甲山町大字宇津戸
宇津戸の長尾︑橘高高登家前方の竹林中に他の五輪塔と共にあ
る︒高さ六四セソチの花山岡岩製で︑地輪の高さ現高二四セソチ︑幅
一六 セ ソチ︑水輪の高さ一〇・五セソチ︑最大径一五・五セソチ︑
火輪の高さ=ニセソチ︑軒幅一五・五セソチ︑風輪の高さ六セソ
チ︑径一二・五セソチ︑空輪の高さ九・五セソチ︑最大径=・五
セ ソ チ
である︒銘文は定かでないが形式から見て近世初頭のものと
思 わ
れる︒尚︑この石塔と同形式のものが宇津戸箱の旧延安家裏山
の 墓 地 に他の五輪塔と共に並立している︵次項参照︶︒
8 箱
の旧延安家墓地の一石五輪塔 甲山町大字宇津戸
宇津戸の箱︑旧延安家のあった裏山は︑中世の土豪の館であった
所と推定され︑その一画に五輪塔が十基ばかりと︑二基の一石五輪
塔 がある︒
こ
のうちの一基は︑江戸時代初期のものと思われるもので︑地輪
の 下 端を欠損しているが︑現高五六・五センチで元は二尺塔として
第1章太田荘の石造遺物
図208 箱の旧延安家裏山の五輪塔群
造 立されたものであろう︒地輪の高さ二ニセソチ︑幅一八・五セン
チ︑水輪の高さ一〇・五セソチ︑幅一七・五センチ︑火輪は高さ一
ニ セ ソチ︑軒幅一七・五セソチ︑軒中央の幅四・三セソチ︑風輪は 高さ六セソチ︑幅=二・五セソチ︑空輪は高さ九・五セソチ︑幅一 二
・
五 セ ソ チで︑石質はあまり良質ではない︒
他の一基は︑室町時代の五輪塔群より少し離れた位置にあって現
㈲ 一石五輪塔
高五六セソチ︑地輪は高さ三六・五セソチ︑幅一八・五セソチで底
部 の中央に径五・五セソチ︑高さニセソチの柄があり︑この下に基 礎 があったものと推定される︒水輪は高さ六・五セソチ︑幅一八セ
ソ チで︑ほとんど球形を失い︑線刻で水輪部を表わしているに過ぎ
ない︒火輪は高さ三・五セソチ︑幅一七センチで︑軒の厚みも殆ど
略されている︒風輪は高さ五セソチ︑幅=二・五セソチで︑空輪は
高さ四・五セソチ︑幅一二・五センチである︒地輪に縦二行の刻銘
の 跡 が
見られるが文字は判読できない︒形式から見て江戸中期に近
い 造 立と思われる︒
9
箱の行旨家墓地脇の一石五輪塔
甲山町大字宇津戸
宇津戸の箱地区︑行旨辰三家の墓地脇に︑図二=・二=一のよ
図211箱の行旨家墓地脇の 一石五輪塔
図213同所の五輪塔・石仏
うに一石五輪塔の一つの面の地輪から上を平らにして︑そこを像高
三
〇 セ ソチ︑肩幅一〇セソチの合掌した仏体を刻出したものがあ
る︒全高六〇セソチの花山岡岩製である︒
地輪の高さ一九センチ︑幅は上端一五センチ︑下端一六センチ︑
水輪は高さ一六セソチ︑径一五・五センチ︑火輪の端が風輪部まで
第1章 太田荘の石造遺物
の び て い て 高さ一二・五セソチ︑軒幅一四セソチ︑軒中央部の厚さ 七 セ ン チ
である︒風輪の高さ六セソチ︑空輪の高さ=センチ︑径
=ニセソチである︒
本 塔
の脇には室町時代の石仏四体と二基の五輪塔がある︒また近
くの地つづきの山林内の墓地に二基の一石五輪塔や多数の五輪塔が
あり︑﹁堀﹂︑﹁小丸山﹂の地名も残り︑この付近に中世土豪の館の
あったことをうかがわせる︒
10 金 藤 家 脇 の
一石
五輪
塔
甲山町大字赤屋
赤 屋 の
丸山︑金藤一郎家裏手の台地上に︑図一=四のような二基
図214 赤屋の金藤家脇の一石五輪塔
の
一石
五 輪 塔
がある︒石質は荒い花嵩岩質で︑高さは右手の方が六
八 セ ソチ︑左手のが六〇セソチである︒
右手の塔は空輪が椎の実形で︑高さ一五セソチ︑幅一三・五セン チ で や や
大きく目立つ︒風輪は高さ四・五セソチで︑この下部に火
輪部の軒端が高く突き出ている︒水輪はたこ壼形で︑高さ二ニセソ チと長く︑地輪は一七セソチと低くなっている︒現在︑空輪部と火
輪部が折損して三つに分かれているが︑元は一石であったと思われ
る︒
左手の塔は︑空輪部が右手の塔より低く︑高さ一一セソチ︑水輪
部は右手のものより一七セソチと低い︒地輪部は高さ幅とも一七セ
ソ チで︑石質は両塔とも同質に近い︒
こういった形式の一石五輪塔は︑赤屋の新山︑国正利夫家の山林
中に一基︑西上原の仏法寺跡付近に五基︑世羅町東神崎の毛利繁夫
家前の道路脇に一基︵高さ六五・五セソチ︶︑茶垣内の墓地に一基
(高さ五二・五セソチ︶などがある︒本形式の一石五輪塔は︑室町
時 代 末 期 から江戸初期にかけての造立と推定される︒
尚︑今高野山福智院裏手の墓地には︑同じような形式の一石五輪
塔 の 一つ の 面に︑二体の石仏を刻出したものが一基︑また小世良の 農 免 道 路脇の一画には︑一体の石仏を刻出したものが他の石仏や一 石 五 輪 塔と共に立っている︒
㈲ 一石五輪塔
11 小 世良農免道路脇の一石五輪塔 甲山町大字小世良 高さ六〇センチの花山岡岩製で︑一つの面に合掌する仏像を刻出し て
いる︒地輪は高さ一ニセンチ︑幅二一セソチで低い︒水輪は方形
で 高さ一五センチ︑幅二一センチ︑火輪は中央部の高さ八セソチ︑
図215小世良農免道路脇の一 石五輪塔
図216同
隅部は三角にとがっている︒風輪は高さ一〇・五セソチ︑幅一九セ
ソチ︑空輪は三角形で高さ一ニセンチ︑幅一七セソチである︒
石 仏 は 風 輪 部 から水輪部にかけて像の周りを掘り下げて︑像が浮
き出るように刻出している︒像高一=セソチ︑合掌する坐像の姿か
ら地蔵菩薩と思われる︒像の下部に反花が刻出されている︒
本塔は底部が方形でなく︑脇の面の幅は一六セソチと短い︒時代
は 近 世初頭のものと推定される︒
12 今高野山墓地の一石五輪塔
甲山町大字甲山
今 高 野山の福智院墓地域にある亀山家墓地の脇にある︒高さ四六
・五セソチ︑下端の幅二〇・五セソチ︑風輪の幅=ハ・五セソチで
ある︒火輪の軒が風輪部まで突出した形をしており︑水輪も方形に
図217今高野山墓地の一石 五輪塔