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ダフール人を達斡爾民族m i n z uとして識別する作業は1953年に開始され、民族m i n z uとして識別され たのは1956年だった。この識別工作に三年間もの長い時間を要したのはなぜだろうか。こ の節では、ダフール人が民族m i n z uとして識別されるべきであると認識し認識されるようになっ た状況、この工作のプロセス、識別の基準を明らかにし、達斡爾民族m i n z uが識別された過程の 全面的な把握を試みたい。そして、識別する側の国家と識別される側の人々が、一連の識 別過程にどのように関わっていたかを明らかにする。

1.達斡爾民族m i n z uの識別までの動向

ここではまず、達斡爾民族m i n z uの識別への動きはいつから始まったか、その際に中央政府側

の民族m i n z u政策による作業以外にダフール人側に何らかの動きがあったのか、という問いに沿

って、ダフール人が達斡爾民族m i n z uとして識別されるまでの動向について検討する。

1)単一民族m i n z uへの初期の動向

ダフール人は達斡爾民族m i n z uとして識別される以前は、「伝統的に自らをモンゴルの一部と認 識してきた」(暁敏 2008:3)とも、「ダウール人の中には自らをモンゴル人の一部として 捉え、そうした意識をもって、モンゴル人として生きて来た人々も少なくな」かった、と も言われる(ユ 2009:129)。言い換えれば、モンゴル人の分枝であったという論がある。

確かに、下に見るように、ダフール人知識人の阿拉坦噶塔のように、「達呼爾蒙古」という 表現を用いてダフール人をモンゴル人の一部あるいはサブ・グループに位置づけていた事 実がある。

ダフール人にはいつから単一民族m i n z uへの動きが起こったのか。新中国の中央政府による一

連の民族m i n z u政策の宣伝が原因となってダフール人が単一民族m i n z uになれると考えるようになった

のか。このことについてユ・ヒョヂョンは、「ダウール人として生きるか、それともモンゴ ル人として生きるかは、固定的なものではなく、できあがりつつあった新しい国家の理念 や政策次第で揺り動かされうる可能性をも含んでいた。そして、そうした(単一民族m i n z uにな れると考えるようになった―筆者注)微妙な変化はすでに建国前夜の段階で実際におこっ ていた」と判断して、国共内戦中に内モンゴル工作に中心的にかかわった漢族の共産党員 の一人である王鐸の以下のような回想を引用して分析している。

わたしが最初にダウール(ダフール―筆者注)問題にふれたのは、ウランホトで中共 内モンゴル工作委員会書記長として働いていた1948年であった。当時、わたしは数人 のダウール(ダフール―筆者注)族幹部を知っていたが、かれらのなかのある人々は 自らをモンゴル族と名乗っており、自分の幹部書類にもモンゴル族と書き込んでいた。

ただし、一部分の人はわたしに対してダウール(ダフール―筆者注)はモンゴル族以 外の独自の民族(「単一民族」)であると言っていた。言語、生活習慣などの特徴から ダウールはたしかにモンゴル族に似ていた上に、当時私たちの工作の中心は解放戦争 を支援し、内モンゴル自治を押し広めることであったので、ダウール(ダフール―筆 者注)問題について突っ込んだ調査研究を行うことはできず、ダウール(ダフール―

筆者注)族幹部に対しても一律モンゴル族に準じて扱っていた。全国解放後、若干の ダウール(ダフール―筆者注)族幹部、大衆、歴史研究に携わる学者たちが丁重にダ ウール(ダフール―筆者注)の族称問題を提出しはじめ、わたしたちもダウール(ダ フール―筆者注)族問題を重視するようになった。1952年8月、中央人民政府が『中 華人民共和国民族区域自治実施綱要』を頒布した以後、われわれはこの問題をより重 視するようになった(後略)。(ユ・ボルジギン2009:129)

そして、ユは、

ダウール(ダフール―筆者注)人のなかに自らをモンゴル人ではなく、個別の民族で あると主張する人々がいることに王が初めて触れたのは具体的に1948年の何月ころな のかは分からないが、いずれにしても、このいわば共産党による「ダウール(ダフー ル―筆者注)問題」の「発見」ともいうべき状況がこの1948年にあらわれたことは極 めて興味深い。(ユ・ボルジギン2009:129-130)

と論じた。ユは、共産党による「ダウール(ダフール―筆者注)問題」の「発生」は1948 年にあらわれたことは興味深いと述べているが、筆者は、ダフール(ダウール)人が自ら を単一民族m i n z uであると強調することが、ダフール人幹部の中から発生したことに興味深く注 目している。上掲の引用資料から見れば、1952年8月に「中華人民共和国民族区域自治実 施綱要」を頒布した後に、共産党がこの問題をより重視するようになったということは、

国家が重視し始めたということであり、それは1952年のことだということになる。ところ が、これより早い1948年の時点で一部のダフール人幹部は自らを「モンゴル族以外の独自 の民族である」と言っていたのである。この王の回想は、新中国の民族m i n z u政策の宣伝が行わ れる以前から、ダフール人の内部に「モンゴル族以外の独自の民族である」という考えが 存在していたことを証明している点で、非常に重要である。

また、孟志東らは、当時のダフール人の中に自らの出自をめぐる討論があったことを以 下のように述べている。「1951年ウランホト26に勤務していたダフール幹部が、内蒙古東部

26 今の内モンゴル自治区の東部の町。ウランホトとはモンゴル語で「赤い町」という意味 である。

区党委の夏輔仁27の指示で、ダフール人の民族m i n z uの出自について討論する座談会を行った。そ こで、書面の資料を作り中央と内モンゴル機関の行政機関に提出した」(孟志東、恩和巴図、

呉団英1987:4)。この提出した資料の内容は現在では知ることはできないが、ダフール人

の民族m i n z uの出自について討論する座談会が開かれたことを伝える書面資料が提出されたこと

は間違いない。また、モリダワー旗で老年座談会も行ったとも述べている(孟志東、恩和 巴図、呉団英 1987:4)。このことは、1951 年当時、ダフール人の中に、単一民族m i n z uである かどうかという疑問があったことを言い表している。つまり、ダフール人が単独の達斡爾

民族m i n z uとなる過程の初期段階には、単一の民族m i n z uか否かという議論や、そもそも自分たちがい

かなる出自を持つ者なのかをめぐる議論がダフール人側の中にもあり、そこにさらに党・

政府の関与もあったことがわかる。

つまり、ダフール人が単独の達斡爾民族m i n z uとなる過程の初期段階とは、新中国建国以前か ら一部分のダフール幹部の中に確認された「モンゴル族以外の独自の民族である」との考 えがまずあり、新中国建国後、それに党・政府が注意を払い具体的な活動に結びつけたと いう流れであったのである。ここでは、この流れは1953年に始まる民族m i n z u識別工作以前に存 在していたこと始まっていたことなのである。

2)黒龍江省地方のダフール人の動向

新中国成立後の民族m i n z u工作の展開に伴って、上に引用した王鐸の回想に見えていたような ダフール人幹部の中にあった単一民族m i n z uになるという願望は、1953年の民族m i n z u識別工作開始以 前にかかる1952年8月に黒龍江省にチチハル市に「オニト28・ダフール族自治区」が成立 したことに、その具体的反映を見ることができる。

新中国初期に存在した龍江県のチチハル市に位置するオニト区は、ダフール人が集中し て居住するところであった。1952年8月3日、当時の黒龍江省人民政府主席であった于毅 夫(漢族)は黒龍江省と龍江県とオニト区の調査団を率いて、「オニト・ダフール族自治区」

を成立させるための調査を行った(杜興毅 1999:40)。その後、「民族区域自治実施綱要」

(1952年8月)に依拠して、黒龍江省共産党委員会と省政府の決定によって、チチハル市 のオニトで龍江県オニト達斡爾族自治区29が1952年8月18日に成立した(杜興毅1999:

76)。これは、ダフール人の歴史上初めての人民政権であり(馬・劉 1989:287)、言い換 えれば、ダフール人の初めての行政機関であった。この人民政権について、1950年代の資 料では「1952年8月、黒龍江省人民政府は、ダフール人の要求で「龍江縣ダフール族自治 区」を成立させた」というように、ダフール人側の要求で「龍江縣ダフール族自治区」が 成立したことをはっきり記録している。しかし、1956年に達斡爾民族m i n z uが正式に識別され、

27 解放後、最も早く達呼爾地区で働いた人の一人。漢民族m i n z u。かつて中共納文慕仁盟の書記、

内蒙古東部区党委宣伝部長などの職にあった(孟志東、恩和巴図、呉団英1987:13)。

28 漢字で「卧牛吐」。「小さな谷のある」という意味のダウール語。

29 杜興毅は「卧牛吐達斡爾族自治区」(下線筆者)と書いている。

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