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ダフール人のアイデンティティに関する考察―とくにその多様性について

第 3 章 達斡爾民族

第 1 節 ダフール人のアイデンティティに関する考察―とくにその多様性について

暁敏は論文「近代におけるダフール人の政治活動―そのアイデンティティに関する一考 察―」において、「彼ら(ダフールの人々―筆者注)は近代において、とりわけ中国政府が 民族識別を実施する前の段階では、自らを『ダフール族』と定義することはなかった。ダ フール語では、自分たち、他民族あるいは人種を主に『Ku(人)』と呼ぶ一方、『Aiman(民 族、族)』という言葉は満州語からの借用語で、ほぼ最近の概念であり、実際にはほとんど 使われていない。言い換えれば、ダフール語にはもともと『民族』という概念がなかった ものと思われる」(暁敏 2008:3)と述べている。同じ情況はモンゴル民族m i n z uでも見られる。

129 2012年4月27日の第十一届全国人民代表大会常務委員会第二十六次会議を通過した

「第十二届全国人民代表大会少数民族代表名額分配方案」によると、達斡爾民族は内モン ゴル自治区から一名の代表を出すと規定されている(「授権発布:第十二届全国人民代表大 会少数民族代表名額分配方案」

http://news.xinhuanet.com/politics/2012-04/27/c_111857213.htm [2013/06/24])。第十二届 全国人民代表大会には達斡爾民族を代表して内モンゴル代表団の中にモリダワー達斡爾族 自治旗長の索曙輝が加わった(「索曙輝:情牽莫力達瓦達斡爾」

http://www.npc.gov.cn/npc/zgrdzz/2013-03/27/content_1790394.htm [2013/06/24])。

筆者の祖母も日常ではモンゴル人の集団をMonggol hun(モンゴル人-筆者注)というが、

Monggol undusuten(モンゴル民族m i n z u―筆者注)ということがなかった。しかし、この状況

は民族m i n z u識別活動の展開によって変わり、ダフール人は達斡爾民族m i n z u、モンゴル人はモンゴル

民族m i n z uのように、国家が定めた民族m i n z uとしての名称を自称するようになった。

では、民族m i n z u識別以前のダフール人の場合はどうか。すでに第1章第2節の1.の1)で明 らかにしたように民族識別以前に一部のダフール人幹部の中には、モンゴル族とは異なる 単一の民族としての「ダフール族」という意識が存在した。また、序論では、ダフール人 には「ダフール」以外に、「ダフール・ソロン」、「ダフール・モンゴル」という自称が一部 のダフール人エリートの著作に見えていることに言及した。これら三つの自称は彼らのア イデンティティにどのような影響を与えたか。このような問題意識も含めて、本章では、

まずダフール人のアイデンティティについて考察し、ついで、ダフール人のアイデンティ ティはただ一つに定義できるものではなく、実は多様であったことを明らかにしたい。

本節では、ダフール人のアイデンティティについて、以下のような問題を設定して論じ たいと思う。まず、第 2 章で簡単に論じたことだが、ダフール人や達斡爾民族の研究者た ちによる、自分たちの出自や族源を探求する活動は、清朝期後半から末期にかかる咸豊年 間を皮切りに始まり、現在もなお盛んに議論されている。ここではこのような出自や族源 の探求活動を、彼らには「われわれはもともと何者であるのか」ということを明らかにし たい欲求が早くからあったものとしての表れと捉え、彼らダフール人がどのような出自を 見いだしてきたのかを明らかにする。

暁敏は、「近代におけるダフール人のアイデンティティを理解するには、当時のダフール 人有力者の政治活動とその意義を理解する必要がある。その重要なポイントは、彼が自分 たちを単一民族と認識して行動していたのか、あるいはモンゴル人として活動していたの かということである」(暁敏2008:7)と論じている。彼によれば「近代におけるダフール 人の政治活動を見ると、必ずしも『ダフール族』という単独民族として行動したのではな く、むしろ『モンゴル』を前提として、モンゴル人として政治活動を行っている。しかし、

中華人民共和国成立後、共産党の民族政策の下で『脱モンゴル』という意識が高まり、民 族識別によってダフール人は単一民族として認定された」と述べ(暁敏2008:4)、さらに

「ダフール人にはモンゴル人意識が強く、モンゴル人として行動し、自ら『ダフール・モ ンゴル』と呼んでいた」(暁敏 2008:11)と論じている。つまり暁敏は、ダフール人がモ ンゴル人のアイデンティティを持っていたと主張している。しかし筆者は、ダフール人の アイデンティティを再検討をする必要があると考えている。なぜならば、暁敏がその主た る研究方法として採用した、政治エリートの活動のみによって、ダフール人はモンゴル人 のアイデンティティがあったと結論できるかという点に疑問がある。以下の部分で筆者は、

文献資料とインタビュー資料を結びつけて、ダフール人のアイデンティティについて考察 を行いたい。

1.文献資料に見るダフール人エリートのアイデンティティ

清朝後半からダフール人のエリートたちは自分の出自について観察を行っている。つま り、ダフール人エリートたちは「自分たちがもともと何者であるのか」を探求し確定しな ければならない何らかの必要性があったことを示している。

①華霊阿

序論でも触れたように、ダフール人は清朝の時には今のエヴェンキ民族m i n z uとオロチョン

民族m i n z uと一緒に「ソロン」と呼ばれた。このことと関係のある「ダフール・ソロン」という

自称があったことは、華霊阿の『達斡爾索倫源流考』(1833年)から知られる。

清朝の道光年間(1821~1851年)から咸豊年間(1851~1861年)に生きたダフール人 エリート華霊阿は、管見の限り、ダフール人の出自に興味を持って学術的探求を行った最 初期の人物である。尼爾基屯(今のモリダワー達斡爾族自治旗の尼爾基鎮)の人であり、

道光初年に布特哈八旗130の官吏を務めた人物であった(中国達斡爾族人物録編委会:421;

満都爾図:669)。その著『達斡爾索倫源流考』は満洲語で書かれたものである。この著作 で彼は、「ダフール・ソロン」と自称し、「私たちダフール・ソロンの源を記録した文献は 見つけられなかったが、本当に、源がないということはない」(華霊阿1977:1)と論じて、

ダフール・ソロンの出自を唐代の黒水国131であると論じた(華霊阿 1977:29)。この著作 は、ダフール・ソロンの出自を明らかにしようと試みたものであるが、上引の下線部に見 えるように、華霊阿が「私たちダフール・ソロン」と自称したことは明らかである。道光・

咸豊年間、ダフール・ソロンと呼ばれた華霊阿には「ダフール・ソロン」というアイデン ティティがあったといえる。

②郭克興

郭克興(1892~?)は、黒龍江省訥河県満那屯の人で、民国政府の交通部、陸軍部で役 人を務めた。彼の『黒龍江郷土録』(1926年)所収「達呼爾記略」では、

ダフールとは今の黒龍江省の部族の名称である。旧名は大賀、系は華夏に出で、中国 の神明の裔、五帝以降、国を最も長く伝えた。(中略)黒龍江省の民族をいうと、索倫 がこれであると考え、また、それは満洲や蒙古であると考える人もいる。ダフール人 は索倫の強力な軍団を通じその名は海内を震わせ、満・蒙が中原を支配したことを経 て、索倫・満洲・蒙古として自ら誇ったが、自己のことを忘れた。悲しいことだ。数々 の典故は祖を忘れ、左氏の譏る所である。年代が遠いほど考証が難しく、記述がない。

だからダフール部族はますます聞くことがない。そこでここで墨をすり筆をふるって

『達呼爾記略』を書いて、ほかの書籍を論じて正し、国の人と索倫・満洲・蒙古とし

130 1731年、バトハン(布特哈)地域のエヴェンキ、ダフールとオロチョンは「布特哈八

旗」として、清朝の政治組織に組み込まれた。

131 唐の時期に黒龍江地方に存在した一つの国。

て自称しているダフール人に伝える。(『達斡爾資料集 第一集』編集委員会、全国少 数民族古籍整理研究室 1996:337)

という。この記述からは彼が、“索倫・満洲・蒙古として自称しているダフール人”がいる ことを認めた上で、下線部から読み取れるような強いダフール人のアイデンティティを持 って「ダフール人は遼代の契丹から来た」(『達斡爾資料集 第一集』編集委員会、全国少 数民族古籍整理研究室 1996:338)と論じている。

③阿勒坦噶塔『達斡爾蒙古考』と徳古来

阿勒坦噶塔(1900~1948年)は、東布特哈(今のモリダワー達斡爾族自治旗)の人であ る。1933年にモンゴル人民共和国の中央党校で働いた(孟志東2008:385)。1931年に『達 斡爾蒙古考』を著した。この書物において阿勒坦噶塔は、自分がどのような集団に所属す る者であるかを明確には述べていないが、わずかに、

数部の典拠では祖先を忘れて、左氏の譏る所である。従って、蒙古人の中の民族の源 を深く葉を茂らそうと思うならば、水を飲んでその源を思い、民族の起源に深い認識 と基礎の観念を立て、心の力を集めて、独立して阿らないという神祖の指導の旗の下 で共同して奮闘し、一切の混合別裔の諸説を打倒し、分離の危機から離れる。そうす れば、私たち蒙古の六百年前の黄禍神鞭の綽名は、二十世紀で復活するのは難しくな い」(阿勒坦噶塔 1933:37-38)

という部分に見えている「私たち蒙古」という表現からは、彼は自らをモンゴル人である と考えていたのであり、モンゴル人というアイデンティティを持っていたと考えることが できる。一方、阿勒坦噶塔は、モンゴル人の分枝の一つとして「ダフール」を位置づけ(阿 勒坦噶塔 1933:1)、「ダフール・モンゴル人」が、かつてモンゴルの一部であったことが史 書に明記されている「白韃靼」の後裔であることを論証している(阿勒坦噶塔 1933:76)。 これらを総合すると、阿勒坦噶塔にはモンゴル人のアイデンティティがあったと考えてよ い。

また、本書『達斡爾蒙古考』に序言を寄せているダフール人の徳古来は132、自ら「私た ち蒙古」(阿勒坦噶塔 1933「徳古来序言」:1)と記していることから、彼がモンゴル人のア イデンティティを持っていたことが明らかである。さらに彼が、ダフール人はモンゴルの 一部であるとの認識を持っていたことは、

132 徳古来(1909~?)。黒龍江省徳都県温察爾屯徳都勒哈拉の人。ダフール語を創造する ことを計画し、民族の教育事業を発展させた。1931年、モリダワーの軍閥に反対する活動 の計画に参加した。1932年、満洲国の興安東省の政権を組織する活動に参加し、興安東省 の総務課の課長になったことがある。1935年、満洲国蒙政部総務司の監察官を務めた。1936 年、徳王の誘いを受けて、蒙古軍政府で財政署の署長を務めた。1937年、張家口の蒙疆聯 合自治政府で財政部長と税務管理局局長、参議、清察権運総署の署長、経済部長、興蒙委 員会第一副委員長、蒙古生活計画会合作部の部長等を務めた。1948年、台湾に渡り、蒙蔵 委員会の副主任、立法院の委員を務めた。(満都爾図2007:665)

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