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運命的なもの――哀悼遊戯におけるエンテレケイア

35 本性とはまったく異なっている100。

第 5 節 運命的なもの――哀悼遊戯におけるエンテレケイア

いずれにせよ、その「記憶に値する事々」が集成されれば、それが被造物たちの知によっても意志によ っても対処しきれるものでないのはいうまでもない。それは取り返しようなく過ぎ去った物事たちの、そ の死後に残された者たちへの、継承されなければならない、けれどもだれにもまともに継承されえないだ ろう、そしてあるいはかつて一度も思い出されたことがないかもしれない途方もない記憶なのだ。

記憶に値する事々はだが、自然もしくは身体に万遍なく同化することはないとしても、宮廷‐機械のな

111 というのも結局この現世をしか被造物は知らないからだ。

112 Walter Benjamin, GSⅠ-1, S. 271.

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かに深く喰い入ってくる。言い換えれば、「剥き出しの一部分」として現世に、内在的に具象化する。この 彼岸の過剰が最も世俗化して現われたものが、ベンヤミンが論述する小道具類だ。一方で、ベンヤミンは

「運命とは罪の場における出来事のエンテレケイアなのだ113」と書いている。「罪の場」については本稿で は措くが、死後の生として課された運命、自然史がエンテレケイア、充実した現実態に至り、生起するに は、つまり出来事となるには、なにかしらの小道具類が必要なのだ。それ故ベンヤミンはこう付け加えて いる。「運命劇の練りあげられた形式にとって小道具を度外視することはありえない114」、と。君主役を担 う被造物には不相応だがそうであるからこそ、「不均衡に」、「ふさわしかるべきもの以上」である王冠や王 笏等々の小道具類が不可欠であることについては既に述べた。

また、文字どおり「小道具」という節において、このような運命的なものとしての小道具について述べ ながら、そこで、

人間の生を超え、それがひとたび剥き出しの被造物的な生の群れのなかに沈めば、見掛け上死せる事物 の生もが力Machtを獲得する〔…〕。人間における被造物的な生の激情的な運動――ひと言でいえば、

激情そのもの――が、運命的‐命懸けとなるfatale小道具を活動状態のなかに据えるのだ115

ともベンヤミンは書いている。

つまり、「被造物的な生の〔…〕情熱そのもの」、すなわち先述した被造物にすぎない君主‐殉教者の、

「無条件的なもの」を享けて抱懐した、如何ともし難い情動ないし衝動が、死後の生であらざるを得ない 運命もしくは自然史という舞台において、小道具に運命的‐命懸けとなる「力」を与える。つまり、小道 具類は、『嫉妬』の短剣に際立って認められるように、君主‐殉教者を運命に巻き込むのだが、その運命は 君主‐殉教者に禍をもたらし、その身体を殊更に死後の生へと追い遣って、君主‐殉教者に試練を課す。

むろん、被造物が諸事物に「力」を与えるのだとはいえ、その「力」はむしろ被造物を翻弄させるもので あり、たかだか人間、あるいは生者に統御可能なものでは決してない。

かくして運命的なものとなったこの小道具類が、哀悼遊戯に、死後の生が生きる自然史のなかで吹きす さぶ過剰な意義‐仮象を持ち込んでくる。そのうち哀悼劇が最も頻繁に現出させるのが先にも触れた、君 主が君主たることを示す小道具、王冠であり王笏だった。繰り返すが、これらは幕があがる前にもう君主 が途方もない前史を、無条件的なものを享けているしるし、たとえ君主が忘却していようとも、それによ りこの劇‐自然史においておびた使命がその君主に憑いて離れないしるしとなって現われる。

そしてそれは、これも先述のとおり、その被造物の私人としてどのような人物かを一切問わない。この 自然が決して身体化しきれない、言い換えればその機械が己に内部化しえない、ましてや個々の被造物に 所有など為しえない小道具は、身体に二度とその双方が合致することのない罅を入れずして、自然に入り 込むことはないだろう。

哀悼遊戯に現世化する彼岸、「無条件的なもの」のかたちにはまた夢がある、――「君主及び殉教者の共

113 Walter Benjamin, GSⅠ-1, S. 308.

114 Walter Benjamin, GSⅠ-1, S. 312.

115 Walter Benjamin, GSⅠ-1, S. 311.

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有財産として預言的な夢は哀悼遊戯に馴染みのものだ116」とベンヤミンが書いているように。やはり夢も、

たとえ深く喰い込むことがあっても遂に現実と同化を果たすことはない。

博識Gelehrsamkeitの機能とはその註釈の乱雑さでもって夢魔を示唆することであり、そのような夢魔

として知‐事実は筋‐行為の上に圧し掛かっている117

先にも引用したこの叙述から、改めて、この廷臣‐陰謀家の観点から捉えられた夢魔、自然における身 体の上に圧し掛かってくる、だれにも振り払えない夢魔が、小道具の類いよりも始末の終えないあり様を 露わにした前史のエンテレケイアであることが読みとれる。

だがこれまでの論述を踏まえれば、先にはまだ指摘できなかったことが夢魔、つまりは夢と結びつけて 捉えられる。Naturgeschichte が博物誌と一般に翻訳される意味の語であることは既に触れた。しかしこ の場合も、いわゆる近代主義的に整備された博物学をここにあてはめれば、まず間違うこととなるだろう。

ここで運命的なものとして現出する夢魔を註釈において叙述する博識とは、小道具類、さらにひろくいっ て諸事物、「死せる事物」とも密接にかかわる、つまり博物誌的なものに関する博識だとひとまずはいえる。

けれどもより踏み込めば、自然史との関係にあるかぎり、博物誌的なものがただ表の上で安んじて分類可 能な対象ではなかったように、この博識もまた、自然科学的な領域で処理されるものに限られない。例え ばカルデロンの『嫉妬』において重要な小道具として現われる短剣は、クレオパトラの死が廷臣によって 語られる際に蛇と結びつけられており、それによってのちにマリアンネに迫る短剣が、マリアンネ自身に 蛇と見紛われ、のみならず以降もクレオパトラの命を奪った蛇のごとくマリアンネを脅かすこととなる。

「死せる事物」が孕む「力」は、それに関する博識を通じた註釈においてただ示唆されるだけでなく、時 折それが切り開いた運命をいっそう掻き立てるべく、昂揚させられもするものだ。だとすれば、そのとき その「力」は博識‐知として、言葉において現出する。すなわち、「死せる事物」を名指す言葉に凝縮され た「記憶」が、その言葉をめぐる「記憶に値する事々のパノラマのような集成」の切片が、補綴されてく る。

やはりベンヤミンが叙述する自然史と内実が一致するものではないが、例えばルネサンス期に掘り起こ されたプリニウス『博物誌』は膨大に狩猟された文献にもとづいており、その諸々の「博物」が無数に掻 き集められた言葉のなかで起ちあがるものであったことは、注意されていい。ただし、誤解されてはなら ないが、それらは恐らくルネサンス期にはそのように歓迎されたような、物事の豊かな自然‐本性 Natur として扱うことが可能なものではない。哀悼遊戯における自然とは被造物もその行為も諸事物も、自発的 な意味を欠き、慰めなくただ剥き出しに時々刻々と移り変わっていく、舞台に課された条件なのだ。その 自然‐内在において、「無条件的なもの」たる「記憶に値する事々のパノラマのような集成」が、前史とし て生起して、そのたびに逗留‐途中停止をきざみ、ひとつの自然‐史を始める。その想起不能の「記憶」

は、後史が繰り広げられる現世において、補綴、「再度の迎え入れ」が後史で起こるべく「潜在状態から歩 み出てくる」。例えば『嫉妬』においては、ヘロデとマリアンネに対して夢の役割は預言が果たしていると

116 Walter Benjamin, GSⅠ-1, S. 330.

117 Walter Benjamin, GSⅠ-1, S. 312.

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いえる。そして、先に触れたアントニウスとクレオパトラなる前史がその預言に続いて、しかしその預言 とは無関係に語られることとなる。夢――この場合預言がそれにあたるが――を註釈する博識はその「再 度の迎え入れ」に際して、剥き出しの被造物たちがそれに堪え、また歓待するひとつの態度の現われであ り、そのようにして翻訳され綴られた言葉なのだ。

小道具類であれ、夢であれ、それが運命的なものである以上、運命的なものの「力」を駆り立てる言葉 の註釈が、博識や預言等々のかたちをとって、どこかで伴われることとなる。そして、故に、その註釈の 言葉が、しばしばその運命のなかで、あるいはむしろ哀悼遊戯のなかで、過剰な「力」をおび、極端であ るが故の紋切型に、すなわち「紋切型と極端さ」に汲々とすることがあったとしても不思議ではない。そ の註釈は筋‐行為を円滑に推移させていくどころか、つねにそれを一時停止させながら逸脱もさせていく 過剰な質及び量の言葉となって、夢魔を、言い換えれば「力」を舞台に現出させる。